本日でアメリカで発生した同時多発テロ事件から20年が経過しました。
あの日から世界はどのように変わったのでしょうか?
最近ではアフガニスタン政権の動向が気がかりではありますが、
痛ましい事件が再び発生しない事を願うばかりであります。
本日は1860年(万延元年7月26日)にイギリス大使の
ラザフォード・オールコック氏が外国人で初めて
富士山にて登山を行われた日であります。
サー・ラザフォード・オールコック氏はイギリスの医師および外交官で、
清国駐在領事、初代駐日総領事および公使を務められました。
1809年にロンドン西郊のイーリングにて、医師トーマス・オールコック氏の
ご子息としてお生まれになりましたが母親が早くに亡くなられたため、
イングランド北部の親戚の家に預けられ、15歳の時に父親の元に戻られて
医学の勉強を始められました。病院での教育期間の後に
1828年までパリに留学されて勉学と共にイタリア語やフランス語などの
語学力も身につけられる傍ら、彫刻家のアトリエに通われました。
ロンドンに戻られた後は研修医として2年間過ごしされ、
1830年に王立外科学校から外科の開業医としての免許を取得されました。
1832年からの4年間はイギリス軍の軍医として戦乱のイベリア半島に赴任され、
ロンドンに戻られた後は内務省解剖検査官などに就任されました。その後、
外務省の要請により外交問題処理のため再びイベリア半島に赴任されましたが、
そこでの過労が原因でリウマチに罹られ、外科医としての将来を断念されました。
その後、外務省に入られて外交官に転身され、アヘン戦争を含めた極東情勢に
興味を持たれました。1844年に福州領事に任命されてアモイで過ごされた後は
複雑な業務で成果を挙げられ、後に上海領事や広州領事に転じられるなど、
15年の長きにわたって中国に在勤されました。一方、オールコック氏は
市場開拓のため清との再戦論を唱えられ、上海領事の在任時期である
1856年に発生したアロー戦争を引き起こした人物の一人でもあります。
その後、極東在勤のベテランとしての手腕を買われ、
1859年3月1日付けで初代駐日総領事に任命されました。
その後、江戸城での日英修好通商条約の批准書の交換等が行われ、
同年12月23日(安政6年11月30日)に特命全権公使に昇格されました。
1860年9月11日(万延元年7月27日)には大宮・村山口登山道を用いられて
富士山への登山を行われました。この登頂は記録に残っている中では
外国人として初めての事でありました。
1861年1月14日(万延元年12月4日)、米国駐日公使タウンゼント・ハリス氏の
通訳を務めてられていたヘンリー・ヒュースケン氏が
攘夷派に襲われて翌日に亡くなられた事件以降、「マイケル・モース事件」や
攘夷派浪士によるイギリス公使館襲撃事件等から幕府の権力低下の実態を知られ、
後に幕府による新潟/兵庫/江戸/大坂の開港開市延期の要請に応じられました。
これが1862年6月6日に調印された「ロンドン覚書」へと繋がる事となります。
それに先立つ1862年1月21日にオールコック氏は日本を離れて
約2年の休暇を取られましたが、1864年春に日本に帰任された頃には
日本国内の様相が一変しており、攘夷的傾向がより鮮明となっておりました。
この状況を打破すべく「四国艦隊下関砲撃事件」においてオールコック氏は
主導的役割を果たされるも、ジョン・ラッセル外相から帰国を命じられ、
駐日公使はハリー・パークス氏に引き継がれました。
後に日本での外交政策が認められたため、オールコック氏は
日本への帰任を要請されるも拒否されてしまいましたが、
1865年には清国駐在公使に就任されて1869年まで北京に在任されました。
同年に外交官を引退され、後に王立地理学会や政府委員会委員などを歴任。
1897年11月2日にロンドンにて88年の生涯を閉じられました。
けものフレンズにおいて登山で思い浮かぶ場面といえば、
アニメ一期の第十一話かもしれません。
アフリカオオコノハズク様とワシミミズク様から
「神聖な場所」として立ち入りを禁止されていた山でありますが、
黒いセルリアンの出現やサンドスター・ロウの噴出などもあって、
みんみ様達はラッキービースト様を付いていかれる形で山に入られました。
登山は大自然を満喫できるアクティビティでありますが、
同時に大自然ならではの危険と隣り合わせでもあります。
しっかりとした準備と的確な判断をもって行いたいものであります。
本日もお祈りいたします、みんみー。