まだ伝わってないっぽいから部分指定してダイレクトに説明するぞ
- 「内容的には5以下の領域しか含まれていない文章」から
6~10を連想することって、内容にもよるが昇華できているケースも存在するんじゃないのか?- 「もともと5だった」ということへの理解の有無でアホかどうか判断してるんだろ?
結論から言うと、俺が批判してる内容と違うよ
「もともと5まで知ってた人」が
「1~2しか書かれていない文章」を読んだとき
「そこには書かれていなかった3~5の内容を」自分の想像力で補った結果
「6まで到達できたような錯覚」に陥って、上から目線で文章の良さを評価する
このギミックを仕掛ける側はともかくとして、陥る側は傲慢なアホだよなってのが俺の意見だよ。
図解するとこんな感じだ。
『自分の想像力で歩を進めた』って体験が「元々は知らなかった部分に足を踏み入れた(悟った)」という嘘偽りの錯覚を後押ししてる・・・ってのがギミックの1つとしてあると思うわけよ。
書かれていない部分を自分の想像力で補ったこと自体は紛れもない事実なんだけど、その『前に進んだ感覚』を都合よく「5より先の領域に進んだ感覚」に置き換えてしまってるのは非常に滑稽だと思うわけ。
以前出したyahoo知恵袋の実例なんかはまさに顕著なモデルだ。
「本当に厳正に書かれている文章」は、その正しさを理由にもっと評価されるべきなのか?
というかそれ以外の文章が「良い文章」と判断されることって、そんなにおかしいのか?
念のため確認しておくけど、これってある程度の予備知識が必要となる内容を扱う文章の話だよな?
そのつもりで話を進めるけど「もっと評価されるべき」とまでは言わない。
本当に厳正に書かれている文章があったとして、その良し悪しをレビューするのは十分な予備知識を備えている人の役目だと思ってる。
で、予備知識が不足している人に対しては「分かりやすく簡略化した文章」が必要になってくるわけだけど、簡略化の文字が示す通り、その過程で厳正さは少なからず損なわれ、厳正ではない内容の文章になってしまうわけだ。
そして簡略化に簡略化を重ねて辿り着くのが『生きるために食べよ、食べるために生きるな』みたいな、俗に名言と呼ばれてるフレーズだと思うんだよな。
求められる予備知識のハードルを低下(簡略化)させた文章のことを良い文章だと高評価すること自体は別に構わないんだけど、その場合の「良さ」の対象になるのは「良い感じの簡略化」つまり「元々あった厳正さの損傷率の低さ」であるべきだよな。
それに加えて
簡略化された文章を「分かりやすい!良い文章!」と判断するかたわらで
厳正な文章を「分かりにくい、良くない文章だ」と批評する知性なき読み手はかなり多いぞ。
そうなってくると、同じ内容の文章であっても読み手の予備知識の多寡によって良し悪しが変わってくる・・・なんてことになっちゃうけど、つまりそれって「ぼくにとって分かりやすい文章は良い文章なんだ!」って言ってるのと同じじゃないっすかね?
簡単に言ってしまえば、「漫画のほうが読んでておもしれーじゃん」だろ。
もっと言えば、「本当に厳正に書かれている文章」よりも
「再現性」や「ユーモア」といったギミックを搭載している文章のほうが
「価値がある」と判断しているということにならないか?
価値と需要はワンセットだから確かにその通りだな。
俺のニーズを満たすアイテムは俺にとって価値がある。
難解な哲学書を読む予備知識を持っていない
読むべき理由や読まなければならない必要性も持ち合わせていない
読みたいという興味もそれほど持っていない
・・・ので、難解な哲学書は俺にとってニーズの低いアイテムってことだ。
ただ、俺はこの場合、哲学書の内容や著者について「良いものではない」なんて批評はしないぞ。
仮に批評するのであれば、自分の予備知識のなさや興味の低さだ。
ここから派生テーマ出していいっすか?
嘘は嘘であると見抜ける人でないと難しい・・・ってのもあたりまえ体操風な名言の1つではあるけど
「嘘を嘘と見抜く奴は増えたが、嘘を嘘と楽しむ奴はほぼ消えた」ってのも名言だよな。
喧嘩界隈に限らず、時代の流れってのは広範囲を巻き込んでうねりながら移ろうものなんだな~としみじみ感じる今日この頃。
データベース消費って単語は初見だけど
本来のメイド服とは家事使用人が着る仕事服であり、また基本的に家事使用人は社会的な階級があまり高くない人たちの職業であった。階級の違いを明確にする意味も込めて、本来のメイド服はなるべく女性らしさが出ないようにデザインされていた。無地の濃紺、丈が長く露出の少ない形状。
それが今や性の象徴になるなんて複雑な心境ですな。
マンガの構成やらなんやらは、何ていうかもうパクリというより様式美と化してるよな。
敵をぶん殴るときいちいち技名を叫ぶのなんて普通に考えりゃどうかしてるわけだが、それも様式美だ。
で、データベース消費的な目線で次に来る波は「アニメ化」だと俺は思ってる。
ジャンプを筆頭に何でもかんでもアニメ化する流れが出てきてるし、KANAMEが好きな進撃の巨人や鬼滅の刃にしても「マンガ版は絵が汚いからアニメのほうがいいw」とか言ってる消費者けっこういるぞ。
マンガを描く段階でアニメ化しやすいプロットを意識しなきゃいけない時代がそのうち来るんだろうな。
昨今では音楽チャートの上位にアイドルグループの楽曲が食い込んだりして
握手券すげぇなって感じだけど、もはやそれも様式美となりつつあるよな。
話が逸れたので目線を喧嘩オタクに戻すけど
パクリやパターン化が蔓延しても、俺はあんまり気にしないかな?
ベートーヴェンやバッハの楽曲に対して「時代遅れ」なんて言うやつ、そう居ないだろ
ツイッターのレスバとか言われてもよく分からんけど、古参はクラシック演奏してればそれで良くね?
後続文化のジャズとは当初ずいぶん仲が悪かったみたいだけど、時代が転化しすぎて今となっては肩組みながら「最近の音楽つまんなくね?」って言ってるよ。そんなもんなんじゃね?
マンガや二次創作の消費市場を切り開いた先人の努力と機転を舐めたらいかんよ。
喧嘩という世界観に未消費な部分が残ってるとしたら、単純にそれは努力不足か機が熟していないか
あるいは、マンガ界隈にも実はまだまだ未消費な領域が残ってるけどそれに気付いてない(喧嘩界隈と同じ状況)だけか、このいずれかだと思う。
クラシックが似合うカフェを経営したいのに参加者がファンモンばっかり歌って場末のバーみたいになっちゃうのが(管理人の目線で)嫌だ・・・って話なら、単に間口広げすぎかと。