やっぱ雲行き怪しいな。
対立の構図を作るためにわざと斜め視点を持ち出してるのか、それとも単に伝わってないだけなんだろうか?
えぇ~っと・・・5まで知ってる人がいたとして
その人が「内容的には5以下の領域しか含まれていない文章」を読んだとして
理解度は依然として5のまま(実は昇華してない)にもかかわらず「すごい文章だ!6まで悟らされたぜ・・・!」とか上から目線で言ってるやつは傲慢なアホだし
もともと5だった理解度が6までしか昇華してないにもかかわらず「7まで悟らされたぜ・・・!」とか言ってるやつも上から目線で傲慢なアホだよな?
で、その究極形が「10まで悟らされた!たった140文字で真理を突いてる!名言だ!」とか言っちゃうやつなわけよ。
パンチライン的な意味では「いい文章」「いいフレーズ」だと言えるんじゃないか。
結果論でいいならそう導けるよ。
ただ、前回も言ったけど「良い文章とは?」を模索する際の標本としては適してないと思う。
あるいは、特別な予備知識を必要としないギミックが搭載されているなら、偶然バズったにせよ良い標本になるだろうね。特別な予備知識が必要ないってのはつまり再現性があるってことだからな。
逆に専門的で高度な内容を小難しく厳正に書いたものの、誰にも理解されず評価されないような文章は
事実として反響がないという結果だけ見れば「悪い文章」と言えちゃうのではないか。
それが「本当に厳正に書かれている」のであれば、悪い文章だと評するのは理解できない自分を棚に上げる傲慢さの境地だと思うんだが・・・
これについては、>> 110の第二次世界大戦の例でも触れてる。
知性なき読み手は、上辺だけの説明で「何となく理解できたつもり」になっているだけだろう。
「自分が理解できる文章=良い文章」
「自分が理解できない文章=悪い文章」
断言するけど、こんな判断を下しちゃうやつは知性ないよ。
ただ、1つだけ例外がある。
「特定の個人に向けて書かれた文章」がそれだ。
誰が読むのか事前に確定しているならば、その人が理解できる内容の文章であるべきだからな。
「知性なき読み手に合わせた文章を書くことが時代の流れとして画一的になっていくと、どんどん読み手の知性なくなっていくんじゃないか」みたいな話よ。
喧嘩界も今後そういう影響を受けていくとこまでいっちゃうと読み手のレベルに合わせて無難な表現をする量産型喧嘩師が増えるのかな〜なんて考えちゃったわけだ。
どうだろうなぁ。
作家が何らかの情勢に迎合した結果、それが代を重ねるにつれて今の文学観が形成されたんだとは思うけど、明治や大正まで遡って物書きクオリティの変遷に言及するなら、合理主義や資本主義の浸透とかも影響してそうだ。
当時は作家業でメシ食うなんて現代の何倍も険しい道だっただろうし、あえてその道選ぶのってロマンと熱意も相当だったんだろうな、とは思う。
読み手の知性が落ちたから物書きたちがそれに迎合したのか
それとも、作家が合理・資本主義に迎合し安易な作品を量産しはじめたことにより読み手の知性が落ちたのか
どっちなのか俺には見当もつかない
そもそも読書嫌いだし
最近は文学作品と呼ぶことさえおこがましい作品(端的に言うと異世界転生モノとか)がやたら量産されてるけど、それも偏差値40の読者に迎合した結果なんじゃないっすかね。ルーツを辿れば不思議の国のアリスやナルニア国物語に行きつくわけだけど、まぁ天と地の差だわな。
とはいえ、百人一首に収録されている大半が恋愛をテーマにした超ミーハーな和歌ばかりなのを考えると何とも言えない気持ちにもなる。