対立の構図を作ろうと意識してるわけじゃないが。
それが真意なら単に伝わってないだけだな。
「空虚な文章を書くこと」って喧嘩ヲタクの観点からすると本質的ではないという意味でネガティブに捉えられないか?
「内容的には5以下の領域しか含まれていない文章」から
6~10を連想することって、内容にもよるが昇華できているケースも存在するんじゃないのか?
一概に「知性がない読み手」と判断することは違和感を覚えるし、少し強引なんじゃないかと思うけど。
たとえ「上から目線」でも「傲慢」でも、その態度と内容はまた別の話なのでは?
「もともと5だった」ということへの理解の有無でアホかどうか判断してるんだろ?
「何となく理解できたつもり」だったとしても自分の中で「昇華」できるなら
「その文章の良さを引き出せない」奴のほうが感性の乏しいアホに見えちゃうんだが?
再現性がある
なら「良い文章」の一例として、「再現性のある文章」と定義してもよくないか?
そこには「偶然」ではなく、ある種の「必然性」が見出せると思うんだけど。
つまり俺がこの話で言いたかったのは
「本当に厳正に書かれている文章」よりも「再現性のある文章」のほうが
「たくさんの人にわかってもらいやすくていい文章」と言えちゃうのではないか?
こと喧嘩サイトにおいてはそういう人たちが過去に高評価を与えられてきたのではないか?
詠み人知らず自身も例外ではないはずだ。
そして、読書嫌いの詠み人知らずが
おそらく「難解な哲学書」なんかよりも「カイジ」を選択していること。
この「価値観」は何に基づいている?
簡単に言ってしまえば、「漫画のほうが読んでておもしれーじゃん」だろ。
もっと言えば、「本当に厳正に書かれている文章」よりも
「再現性」や「ユーモア」といったギミックを搭載している文章のほうが
「価値がある」と判断しているということにならないか?
それは「良い文章」とは言えないのか?
漫画は「特定の個人に向けて書かれた文章」ではないが?
「本当に厳正に書かれている」のであれば、悪い文章だと評するのは理解できない自分を棚に上げる傲慢さの境地だと思うんだが・・・
お~出てきた出てきた。
中島義道と同じようなこと言ってるぜw
大衆は、知的に徹底的に怠惰であるから、何ごとにおいても、「わかりやすいこと」を求める。「わかりやすい」とは、何の努力もしないでわかるということ、書物なら寝っ転がって読んでもわかるということである。彼らにとっては、わかりにくい書物は全面的に著者が悪いのだ。『「人間嫌い」のルール』
— 中島義道 bot (@yoshimichi_bot) March 18, 2016
俺もこういう意見には同感だよ。
ただし、ここで問題提起したいのは
「本当に厳正に書かれている文章」は、その正しさを理由にもっと評価されるべきなのか?
というかそれ以外の文章が「良い文章」と判断されることって、そんなにおかしいのか?
ってことです。
作家が何らかの情勢に迎合した結果、それが代を重ねるにつれて今の文学観が形成されたんだとは思うけど、明治や大正まで遡って物書きクオリティの変遷に言及するなら、合理主義や資本主義の浸透とかも影響してそうだ。
当時は作家業でメシ食うなんて現代の何倍も険しい道だっただろうし、あえてその道選ぶのってロマンと熱意も相当だったんだろうな、とは思う。読み手の知性が落ちたから物書きたちがそれに迎合したのか
それとも、作家が合理・資本主義に迎合し安易な作品を量産しはじめたことにより読み手の知性が落ちたのか
どっちなのか俺には見当もつかない最近は文学作品と呼ぶことさえおこがましい作品(端的に言うと異世界転生モノとか)がやたら量産されてるけど、それも偏差値40の読者に迎合した結果なんじゃないっすかね。ルーツを辿れば不思議の国のアリスやナルニア国物語に行きつくわけだけど、まぁ天と地の差だわな。
とはいえ、百人一首に収録されている大半が恋愛をテーマにした超ミーハーな和歌ばかりなのを考えると何とも言えない気持ちにもなる。
これについては大体同意見。
残念ながら俺もこれ以上のことを語る知識を持ち合わせていない。
キャパオーバーじゃ。
ただ一点だけ腑に落ちないことがある。
「ミーハーな作品」を昇華させることってそんなに批判されるべきことなの?
あの中島義道ですら、わかりやすさを求める大衆の傾向に嫌悪感を示しながらも
そういった読者のおかげで自分がおまんま食えてるって自己矛盾を受け入れて
俺も人間やし生きていかなアカンねん、しゃーないやんけ!みたいなこと言ってたけどなw
無難な表現をする量産型喧嘩師が増えるのかな〜なんて考えちゃったわけだ。
俺は前のレスでこう言ったけれども
それはある種、「再現性の高い文章」みたいな万人ウケしやすいものに
引っ張られるのかと思ったんだ。
たとえば喧嘩で難解かつ高度なボケをかましていたとしても
「知性なき読み手」によって「それがわからない」ってことになってくると
最悪ただの荒らしと認識されるリスクもあったりするからね。
でも、わからないなりに読み解こうとしたり
ツッコミを入れることによって昇華させようとしたり
そういう目まぐるしい姿を俺は積極的でええやんけって思うけどな。
ここから派生テーマ出していいっすか?
題して、「喧嘩における物語の消費」。
これも喧嘩ヲタク的な視線で語ってみたい。
文章力と理解力のバトルに限らず
俺たちは内容に関して今までさんざん「似たようなやりとり」を目にしてきたと思う。
かつては、そのたびにオリジナリティを追求した「喧嘩」をしようとした者がたくさんいた。
お前の言う「異世界転生モノ」を見てもわかるように
あれらは言ってしまえば「不思議の国のアリス」や「ナルニア国物語」などのパクリだ。
そのWikiにも書いてあるが、たとえば
「猫耳」「メイド服」「尻尾」といった視覚的な記号(萌え要素)も
先駆者の世界観を代用しているにすぎない。
少年週刊ジャンプにありがちなバトルものですら
その土台は「ドラゴンボール」のようなインフレ的テーマから抜け出せていない。
それでも、おもしろいものはおもしろい。
パクリながらも、それ以外の部分で作品のオリジナリティを与えているからだと思う。
これを「喧嘩」に置き換えると、バカの一つ覚えのように
屁理屈の捏ね合いで揚げ足を取るのに猪突猛進、みたいな人が多すぎる気がするんだ。
これは喧嘩サイトだけの話ではない。
Twitterでレスバトルしている人たちにもよく見られる傾向だと思う。
もちろんそういうのもありだと思うが、「そういうのばかり」だとクソつまらなくないか?
俺は2015年くらいで一度完全に喧嘩サイトが廃れた理由のひとつとして
代り映えしないこの構造に「飽き」がきてしまったからだと思ってるんだけど。
これを何年かの周期で繰り返し続けているとすら思う。
「喧嘩」という世界観は、「文学作品」や「アニメ作品」、その他「二次創作」に比べて
まだまだ消費されていない余地が残っているはずなのに
そこに目が向けられないってのは、こりゃどういうわけだ?
なぜ「つまらない話」を率先して行おうとするのか。
それしか頭にないのかどうかはわからんが…
仮に「喧嘩」という世界観が俺の想定している通り
客観的に見てもありとあらゆるカテゴリで有意義に行われ
消費された場合、少なくともパクリ以上の喧嘩が生産されるのではないか
なんて思ってるんだけど、どうでしょう。