仏教のあれこれ

はじめに / 2

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鹿野苑 2023/09/05 (火) 13:31:49

しかしながら、論じると云ってもそれは先にいう善巧方便と云うことであり、決してこれが絶対的に正しいという立場を示すものではありません。

 >師は答えた、「マーガンディヤよ、見解によっても、学問によっても、知識によっても、戒律や道徳によっても清らかになることができる、とわたくしが説くのではない。
 >無見解・無学・無知識によっても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができる、とも説かない。
 >それらを捨て去って、固執することなく、こだわることなく、平安であって、変化的生存を願ってはならぬ(これが内心の平安である)」。
 >(スッタニパータ 839)

 >わたくしはこのことを説く、ということがわたくしにはない。
 >もろもろの事物に対する執著を執著であると確かに知って、もろもろの見解における(過誤を)見て固執することなく、省察しつつ内心の安らぎをわたくしは見た。
 >(スッタニパータ 837)

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