2021年 1月14日(木)13時27分23秒
「空手の『型』の精度や練度を競う」とする競技が、東京オリンピックの日本のメダル獲得有力候補種目の一つであるようです。
本来は、空手は武道であり、徒手空拳で己や大事な家族を守るために、平素の鍛錬をしていくものでしようから、『型』はあくまでも脇役と見る向きもありましょう。
実際に海外など日本以外では素手で大男をなぎ倒したりする実戦の方が受けは良い傾向が強いのではと思います。
しかして、『型』とはその実戦の実践を想定し、拳の一突きの確度などを「より力の伝達を生む効果的なそれ」に研ぎ澄ませていくための鍛錬の方法なのだと思うのです。
スポーツ全般には、そうした実戦を想定した練習をただひたすら反復していく先にしか得られない到達点や領域もあると思います。
さても、いざ有力種目はあれど、それ自体の開催の行方については、昨今の諸般の事情もあり大変に悩ましいところはあります。
ただ、この際は兎に角「できる」といったことは、今よりも諸般の事情がそれを許す方向に向かっているといったことで、管理人的には特段の前に出る動きはしないものの、それの足を引っ張るようなことは慎み、また『応援』も惜しまずとしておきます。
閑話休題、自身の釣りを、ユーチューブで確認する機会(チャン松さんその節はありがとうございました)があり、20枚ほどの取り込みを見返しましたが、判で押したように同じ動きでした。
正直、もう少し変化があると思っていたのですが、これが我ながら見事に毎回のリピートでした。
で、前述と合わせて、「へら鮒釣りにも『型』があるのでは」との思いを持ったのです。
特に管理人は意識はしていないのですが、録画を見ると『型』を大事にしているようにも見えます、『一定の動作』と表現するところか、合わせを入れ対象を浮かせ、針のかかり具合などを確認し、手を洗って、タモを握り、竿をさばいてタモに収め、錘付近を掴んで竿を置きながら魚体を確認し、針を外して、餌を付け振り込んで道糸を沈め、手を洗って、タモを返す。
へら鮒釣りに限らず、釣りは相手があります、釣り人が意図してできることと、相手次第の部分もあるのですが・・・。
タモを握る前に手を洗う→これは釣り人に委ねられており、管理人は特に意識したことはなくクセになっていると思われます、これはしようがしまいが釣果には影響しないのですが、少なくともタモの柄は餌がつかないのできれいであり、これを意識して身についたと思われます。
合わせを入れ対象を浮かせる→これはスレや魚の大小や種類(ナマズやコイは大変)で変化しますが、ここを一定にできるかどうかは、竿裁きのいかんにも大きくかかわってくるので、これを一定にできることは釣果ににも少なからず寄与するのではと思われます。
言い換えると、こうした相手次第の要素を出来得る限り制御し、例えば「へらを同じような位置(沖目)で水面を割らせる」とか、合わせをできるだけ小さくして「毎回事のへらの動きを極端なそれにさせない」とすれば、判で押したような『型』が出来上がり、それは無用なトラブルを防いだり、ひいては何よりへら鮒釣りにとって大事な「成功体験の再現性」を無限ループできる、所謂イレパク状態を生みだしやすくなるのではと思います。
同じ無限ループでも、合わせを入れる、折角ウキが動き出したところなのに、スレなのかタナでバラす・・・。
これは再現性としては最も避けたいのですが、管理人的には餌がグルテン系であり、際どいアタリも手を出すタイプのへら師なので残念ながら結構良くやってしまいます。
月例会で、終日こんな釣りをしてしまったことも、「未だに」を含めて少なくありません。
で、何が言いたいのかというと、そうした『型』を、へら鮒釣り人は本人の意識とは別にして、繰り返すことですべからく身に付けるのですが、またその『型』の最適化はより高い到達点を目指すとき以外に重要なテーマになるのではと思うのです。
そうした意味においては、自身の釣りを客観的に見る機会を与えてくれる録画は、貴重な資料になりますね。
振り込みから合わせ・・・、縷々を経て再度振り込みまでの一連の動作に、幾ばくかの無駄や改善点を検証する時、やはり録画の持つ意義は大変に重要になるのではないかと、思った今日この頃であります。
それがない時代に釣りをはじめ、30年以上の年月をかけて気付けば『型』を身に付けていた?、他方では、ユーチューブに代表される動画の百花繚乱のこの時世・・・、巷に氾濫する動画の見る視点を変える時、他者が気づけない『気付き』に気付けるのか?
自分自身のそれがない場合でも、マルキューのインストラクターなど名手たる他者のそれを写し鏡にして、自身の『型』に果たして無駄は無いのか、冬眠久しい今、検証の時間はたっぷりとある、そんなことを思った今日この頃のココロダー。