第十項 通経(つうぎょう)
四悉檀を解釈するにあたっての十種の項目の第十は、「通経」である。
問う:四悉檀を用いて『法華経』を解釈すると言うが、『法華経』のどこに四悉檀について記されているのか。
答える:『法華経』の多くのところにこの意味が記されている。一つ一つをあげることは不可能なので、今、略して迹門と本門を代表する文を引用する。
迹門の「方便品(ほうべんぽん)」に「仏は、衆生のあらゆる行ない、心の深い所にある念、過去行なってきた業、欲性精進力(よくしょうしょうじんりき)、および各人の能力の利鈍(りどん)を知り、さまざまな因縁、譬喩、または言葉をもって、まさにしたがって方便を説くのだ」とある。これはまさに四悉檀の言葉ではないか。「欲性精進力」の「欲」とは、真理を求める欲であり、世界悉檀である。「性」とは、智慧の本性であり、各各為人悉檀である。「精進力」は悪を破ることで、対治悉檀である。そして「利鈍」とは、すなわち能力の高い者と低い者は悟りを得ることが同じではない。これは第一義悉檀である。
また本門の「如来寿量品(にょらいじゅりょうほん)」に「如来はすべてを明らかに見て誤りがない。あらゆる衆生には、それぞれの本性、それぞれの真理を求める願い、それぞれの修行、それぞれの思慮分別があるために、それぞれ正しい修行へ進ませようとして、いくらかの因縁、譬喩、言葉をもって、さまざまに説法する。それらの仏のわざは、昔から今まで、少しも後退したことはない」とある。「それぞれの本性」とは各各為人悉檀である。「それぞれの真理を求める願い」とは世界悉檀である。「それぞれの修行」とは対治悉檀である。「それぞれの思慮分別」とは、真理を見上げて、今までの邪悪な思慮を転じて第一義を見ることができるということなのである。
このように、二か所の文に四悉檀が含まれている。そしてこれらはすべて衆生のために説かれたものである。まさにこれが、四悉檀をもって教えを説く証拠とならないわけがあろうか。
ここで言う〝平等〟とは『唯識』で説く大円鏡智・平等性智・妙観察智・成所作智の「四智」の中の平等性智を言います。
智顗は「妙法蓮華経」の経題を『法華経』如来神力品第21の結要付嘱の文を依文として『五重玄義』を立てております。それを日蓮大聖人が『十八円満抄』の中で更に詳しく解説し、次のように示されております。
<仏意の五重玄> 妙=仏眼:第九識は法界体性智 法=法眼:第八識は大円鏡智 蓮=慧眼:第七識は平等性智 華=天眼:第六識は妙観察智 経=肉眼:前の五識は成所作智
なぜこれが「空一切空」のことを言っているのかと問われれば、それはこの文に続く次の文に依るところとなります。
平等とはまえに望めて平等と称す、前の観は、仮の病を破して仮の法を用いず、ただ真の法のみを用う、一を破して一をを破せざればいまだ平等となさず、のちの観は、空の病を破してかえって仮の法を用う、破用すでに均しく異時あい望む、故に平等というなり。
ここで智顗は三種三観の九品(別相三観)を三三九諦の相で開くことで通相三観とし、それを仮一切仮・空一切空・中一切中で展開する「三種の不思議解脱(円融三観)」の実慧の解脱(空一切空)を説いております。 . . <別相三観と通相三観>
. . こちらで智顗のこれらの説明文の意味するところをわたくし法介が詳しく解説しておりますので、宜しかったらご覧ください。
13.破用平等(因果俱時) https://sinnyo.blog.jp/archives/19793202.html
と、その前に「五時」について『ウィキペディア』で次のようにも書かれております。
「今日の仏教学では五時説は歴史的事実とは認められないが、日蓮宗の宗学的には仏教学の成果をどのように受容するかという新たな課題を生んでいる。」
しかし、五時説は歴史的事実にもとづいた説ではありません。
歴史的事実と言いますのは文献学的な見解でして、経典がいつ書かれたかといった事実関係をいいます。お釈迦さまの説法は全て釈迦滅後に「結集」によって経典化されておりますので、文献学的史実に基づいて経典が説かれた順を定める事はまずもって不可能です。
五時説はそのような文献学的史実からの順序だてではなく、「経典に説かれている内容」から分析区分した教判となります。こちらの「崔 箕杓 論文」では次のような主張に基づいて五時の検証がなされております。
天台五時教判の根拠と意味 崔 箕杓 https://www.min.ac.jp/img/pdf/labo-sh17_27L.pdf
おびただしい数の経典を読解して比較するという作業自体が恐ろしく膨大なものであり、歴史を記録しないインドの風土においてはそもそも歴史的な証拠というものは十分には残っていないので、非常に困難な作業となるであろう。それよりも説法の内容のなかに年齢や年月など具体的な時期を明らかにするセンテンス(文)が存在することが知られているから、それらを根拠とするほうが、量的には多くはないとはいえ客観性が高いと言うことができよう。(プリント下部 No.28)
論文の検証内容に関しましてはこちらで要点を拾い上げて紹介しておりますので宜しかったらご覧ください。
サマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想 https://zawazawa.jp/bison/topic/17
天台宗の僧侶でもあった関口博士は、天台の五時や四教義を否定される訳ではありません。佐藤・浅田・関口による三者対論の中から関口博士の発言を紹介します。
関口: 私がずっと主張してきたのは、天台大師の撰述には〝五時八教という成語〟が一ヵ所も見当らない。また〝五時八教の名〟に相応する組織や構成もないといつているのであつて、〝四教とか五時とかの言葉が無い〟というているのではない。むしろ私が強調してきたのは、天台大師の教相論が甚だしく誤解されて、天台教学の綱要を大いに傷つけているので、その謬まりを正そうというのが五時八教廃棄論のねらいであります。
四教や五時が間違いなどといった主張ではない事がお解り頂けますでしょうか。天台教学は近現代の仏教学者が今もって研究の対象とする仏教学における重要な教学の一つです。
五時については智顗は至るところで触れておりますし、四教については『四教義』を顕しております。
ここでは「五時八教」の中で今一解りずらい、頓教・漸教・不定教・秘密教からなる「化義の四教」について少しお話させて頂きます。
S Sekiguchi 著 · 1972「五時八教」という成語は、天台大師にはない。
天台大師みずからの教相判釈を説いた法華玄義の第五の教相玄義のなかにそれが見出だせないだけでなく、法華玄義全十巻のどこにもついに一度としてこれを見ることができない。法華玄義だけでなく、法華文句全十巻、摩詞止観全十巻をあわせての天台三大部のどこを漁つてみてもこれを発見することができない。三大部だけでなく、数多い天台大師の撰述のいずれにおいても、 「五時八教」はついぞこれを見出だすことができない。つまり天台大師には 「五時八教 」という用語はまつたく存しなかったのである。従来の通途の観念からすればむしろ奇怪なこととも感ぜられるであろうが、しかし事実は事実として動かすことはできない。したがつて、天台大師のいかなる撰述においても 「五時八教 」を見出だすことができないという事実に基づいて、「天台大師、五時八教をもつて東流一代の聖教を判釈たしもう」とする従来の通途の観念が、まず疑われなければならない。
この文章を投稿された方は『法華玄義』を本当に読まれてこの文章を書かれたのでしょうか。
昭和40年代に天台宗の仏教学者で関口真大文学博士(1907-1986)が、
五時八教は天台教判に非ず https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/21/1/21_1_6/_pdf/-char/ja
頓漸五味論 関口真大 https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/26/1/26_1_61/_pdf/-char/ja
天台大師教学の綱要 関口真大 https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/25/1/25_1_47/_pdf/-char/ja
といった天台宗の教相判別である「五時八教」が智顗説ではないという学説論文を学会で発表されております。
『ウィキペディア』の文章は「S Sekiguchi 著 · 1972」からの引用となっておりますが1972年(昭和47年)に書かれた著書です。関口論文の内容がどういったものだったのか、論文を読みもせずに「天台の五時八教は間違っている」と思い込んでいる人達が沢山おられるようです。
関口氏の学説に対しては、以下のような反論がなされております。
天台五時八教論について 関口博士の疑義二十五力条に対する回答 https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/24/1/24_1_260/_pdf
開口博士の五時八教廃棄論への疑義 佐藤・浅田・関口による対論 https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/23/2/23_2_810/_pdf/-char/ja
「経典成立史の立場と天台の教判」(佐藤泰舜著)をめぐる諸問題 山内舜雄 http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/18582/KJ00005114024.pdf
と、その前にこちらのお話を先にさせて頂きます。
尚、十重の第四項の「対諦」では四悉檀と四諦の関係を次のように智顗は説明されております。
廣對四種四諦者。四種四諦一一以四悉檀對之。復總對者。生滅四諦對世界。 無生四諦對爲人。無量四諦對對治。無作四諦對第一義。
広く四種の四諦に対するとは、四種の四諦、一一に四悉檀を以て之に対す。復た、総じて対すれば、生滅の四諦は世界に対し、無生の四諦は為人に対し、無量の四諦は対治に対し、無作の四諦は第第一義に対す。
四種の四諦それぞれに四悉檀が生じると智顗は申しております。
『魔訶止観』の中の「四門の料簡」でその内容は詳しく解き明かされております。
14,観無量寿経(その⑤) https://butudou.livedoor.blog/archives/17944347.html
「四門の料簡」として次にお話して参ります。
大智度論和訳(一) https://zenken.agu.ac.jp/research/14/10.pdf
論文プリント下部 No.154-165
仏は真如の実相(第一義諦)を説き明かす為に『般若経典』で空の理を説き、その空の理解において異なる四つの境涯の差異から四段階の「空」の理解の相違が生じると龍樹は説明されております。
大蔵経テキストデータベース
『大智度論』 (龍樹作 鳩摩羅什訳) 復次佛欲説第一義悉檀相故。説是般若波羅蜜經。有四種悉檀。一者世界悉檀。 二者各各爲人悉檀。三者對治悉檀。四者第一義悉檀。四悉檀中一切十二部經。 八萬四千法藏。皆是實無相違背。佛法中有。以世界悉檀故實有。 以各各爲人悉檀故實有。以對治悉檀故實有。以第一義悉檀故實有。
更に「寿量品」の言葉も根拠とされておられます。
又壽量品云。如來明見無有錯謬。以諸衆生有種種性種種欲種種行種種憶想分別故。 欲令生諸善根。以若干因縁譬喩言辭種種説法。所作佛事未曾暫廢。種種性者即是爲人。 種種欲者即是世界。種種行者即是對治。種種憶想分別。即是推理轉邪憶想得見第一義。 兩處明文四義具足。而皆言爲衆生説法。豈非四悉檀設教之明證也
又た、寿量品に云わく、「如来は明らかに見て、錯謬有ること無し。諸もろの衆生に種種の性、種種の欲、種種の行、種種の憶想分別有るを以ての故に、諸もろの善根を生ぜしめんと欲して、若干の因縁、譬喩、言辞を以て、種種に説法す。作す所の仏事は、未だ曾て暫くも廃せず。」と。「種種の性」とは、即ち是れ為人なり。「種種の欲」とは、即ち是れ世界なり。「種種の行」とは、即ち是れ対治なり。「種種の憶想分別」は、即ち是れ理を推して、邪な憶想を転じて、第一義を見ることを得。両処の明文に、四義具足す。而して皆な「衆生の為めに説法す」と言う。豈に四悉檀もて教を設くるの明証に非ざたんや。 . . 因縁説周は蔵教の声聞に対し、譬喩説周は蔵教の縁覚に対し、法説周は蔵教の菩薩に対してお釈迦さまは三周の説法を『法華経』の中で展開します。そして三乗に開いて説いた教えを一つに集約して第一義悉檀の虚空絵の説法が「寿量品」で説かれます。
四悉檀は、智顗以前に龍樹が『大智度論』の中で説き明かした法論です。智顗は以上のような根拠を以って龍樹の四悉檀が仏説に基づいて説かれた教説であると述べておられます。
この「四悉檀の十重」の、第十項の「通教」では四悉檀が仏典のどこに記されているかについて、智顗は次のよに説明されております。
方便品云。知衆生諸行深心之所念。過去所習業欲性精進力。及諸根利鈍。 以種種因縁譬喩亦言辭。隨應方便説。此豈非是四悉檀之語耶。欲者即是樂欲。 世界悉檀也。性者是智慧性。爲人悉檀也。精進力即是破惡。對治悉檀也。 諸根利鈍即是兩人得悟不同。即是第一義悉檀也。
方便品に云わく、「衆生の諸行、深心の念ずる所、過去に習う所の業、欲、性、精進の力、及び諸根の利鈍を知り、種種の因縁、譬喩、亦た言辞を以て、髄応して方便もて説く」と。此れは豈に是れ四悉檀の語に非ざらんや。「欲」とは、即ち是れ楽欲、世界悉檀なり。「性」とは、是れ智慧の生、為人悉檀なり。「精進の力」は、即ち是れ破悪、対治悉檀なり。「諸根の利鈍」は、即ち是れ両人悟りを得ること同じからず、即ち是れ第一義悉檀なり。
蔵・通・別・円の四教の教えが四悉檀によって起こると智顗は説明されておりますが、この第五項では四種四諦の項で紹介しました次の文章が最初にあります。
四種四諦 https://zawazawa.jp/gengi/topic/2/3
この内容から、
>> 1 で四悉檀の世界悉檀(析空)によって三蔵の十二部経が起こり、
>> 2 で四悉檀の(体空)によって通教の十二部経が起こり、
>> 3 で四悉檀の(法空)によって別教の十二部経が起こり、
>> 4 で四悉檀の(非空)によって円教の十二部経が起こるということになるかと思います。
析空・体空・法空・非空についてはこちらで詳しく説明しておりますので、宜しかったらご覧下さい。難解な「空」の理論を解りやすくお話しております。
法介の『ゆゆしき世界』 「空」の理論 https://zawazawa.jp/yuyusiki/topic/5?page=2
若十因縁所成衆生。樂聞不可説國土。不可説陰界入。皆是眞如實相。 即直説一切國土依正即是常寂光。一切陰入即是菩提離是無菩提。 一色一香無非中道。離是無別中道。眼耳鼻舌皆是寂靜門。離此無別寂靜門。 或作偈重頌。或作孤起偈。或作無問自説。或知者與記。或知者具戒。 或作譬説。或指昔世界。或指本生。或説廣大。或説希有。或作論議。 是爲赴樂欲世界悉檀起圓教十二部經。或作十二種説生妙善。 或作十二種説頓破惡。或作十二種説頓會理。是爲四悉檀起圓教十二部經。
若し十因縁もて成ずる所の衆生の、不可説の国土、不可説の陰・界・入は皆な是れ真如実相なるを聞くを楽わば、即ち直ちに一切の国土依正は即ち是れ常寂光、一切の陰・入は即ち是れ菩提にして、是れを離れて菩提無く、一色一香も中道に非ざること無く、是を離れて別の中道無く、眼・耳・鼻・舌は皆な是れ寂静門、此れを離れて別の寂静門無しと説く。或いは偈を作して重ねて頌す。或いは狐起偈を作し、無問自説を作し、或いは知れば与めに記し、或いは知れば戒を具し、或いは譬説を作し、或いは昔の世界を指し、或いは本生を指し、或いは広大を説き、或いは稀有を説き、或いは論議を作す。是れ楽欲に赴く世界悉檀もて円教の十二部経を起こすと為す。或いは十二種の説を作して妙善を生じ、或いは十二種の説を作して頓に悪を破し、或いは十二種の説を作して頓を理にに会せしむ。是れ四悉檀もて円教の十二部経を起こすこと為す。
>> 1で四種四諦を中智(声聞と縁覚の智慧)と上智(菩薩と仏の智慧)とに二分しておりますが、その事について補足説明しておきます。
これは四種四諦を空理で展開した解釈で、生滅の四諦と無生の四諦の二種が「人空」なので声聞と縁覚の智慧となり、無量の四諦と無作の四諦の二種が「法空・非空」となって菩薩と仏の智慧となります。
生滅の四諦=世界悉檀 ---(人空) 無生の四諦=為人悉檀 ---(人空) 無量の四諦=対治悉檀 ---(法空) 無作の四諦=第一義悉檀 ---(非空)
人空と法空の境は凡夫・二乗の第六意識か仏・菩薩の第七意識(末那識)かということです。
智顗の『法華玄義』巻第一下に次のようにあります。
法若十因縁所成衆生。有下品樂欲。能生界内事善拙度。 破惑析法入空。具此因縁者。如來則轉生滅四諦法輪。起三藏教也。
若十因縁法所成衆生。有中品樂欲。能生界内理善巧度。破惑體法入空。 具此因縁者。如來則轉無生四諦法輪。起通教也。
若十因縁所成衆生。有上品樂欲。能生界外事善歴別破惑次第入中。具此因縁者。 如來則轉無量四諦法輪。起別教也。 若十因縁所成衆生。有上上品樂欲。能生界外理善。一破惑一切破惑圓頓入中。 具此因縁者。如來則轉無作四諦法輪。起圓教也。
https://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?mode=detail&useid=1716_,33,0686c06&key=若十因縁所成衆生&ktn=&mode2=2
若し十因縁もて成ずる所の衆生に下品の遊楽有らば、能く界内の事善を生じ、拙度もて惑を破し、折法もて空に入る。此の因縁を具すれば、如来は則ち生滅の四諦の法輪を転じて、三蔵教を起こすなり。
若し十因縁の法もて成ずる所の衆生に中品の楽欲有らば、能く界内の理善を生じ、巧度もて惑を破し、体法もて空に入る。此の因縁を見れば、如来は則ち無生の四諦の法輪を転じて、通教を起こすなり。
若し十因縁もて成ずる所の衆生に上品の楽欲有らば、能く界外の事善を生じ、歴別に惑を破し、次第に中に入る。此の因縁を具すれば、如来は則ち無量の四諦の法輪を転じ、別教を起こすなり。
若し十因縁もて成ずる所の衆生に上上品の楽欲有らば、能く界外の理善を生じ、一の惑は一切の破惑にして、円頓に入る。此の因縁を具すれば、如来は則ち無作の四諦の法輪を転じて、円教を起こすなり。 . . ここで言う「十因縁」とは、『法華経』方便品で略開三顕一で示された十如是のことです。この十如是を広く解りやすいように三周の説法として広開三顕一で説かれた内容をこちらで詳しくご紹介しております。宜しかったらご覧ください。
三周の説法 法介のほ~『法華経』その⑥ https://zawazawa.jp/yuyusiki/topic/20
『法華玄義』巻第一下で智顗は、四悉檀と四種四諦の関係を次のように申しております。
四種四諦一一以四悉檀對之。復總對者。生滅四諦對世界。 無生四諦對爲人。無量四諦對對治。無作四諦對第一義。 四種の四諦、一一に四悉檀を以て之れに対す。復た、総じて対すれば、生滅の四諦は世界(悉檀)に対し、無生の四諦は為人(悉檀)に対し、無量の四諦は対治(悉檀)に対し、無作の四諦は第一義(悉檀)に対す。
生滅の四諦=世界悉檀 無生の四諦=為人悉檀 無量の四諦=対治悉檀 無作の四諦=第一義悉檀
智顗は曇無讖(どんむせん)訳の『大般涅槃経』の次の言葉を根拠として四種四諦を説かれております。
https://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?mode=detail&useid=0374_,12,0442b09&key=陰有無量相悉是諸苦非諸聲聞縁覺所知&ktn=&mode2=2
迦葉菩薩復作是言。如是等法若在四諦。如來何故唱言不説。 佛言善男子。雖復入中猶不名説。何以故。善男子。知四聖諦有二種智。 一者中二者上。中者聲聞縁覺智。上者諸佛菩薩智。 善男子。知諸陰苦名爲中智。分別諸陰有無量相悉是諸苦。 非諸聲聞縁覺所知。是名上智。善男子。如是等義我於彼經竟不説之。
迦葉菩薩は再び仏に申し上げた。これらの法がもし四諦の中にあるのならば、如来はなにゆえに「説かず」と言われたのでしょう。(それに対して)仏が言われました。善男子よ、(四諦の)中に入っているのだけれども、それでもなお説くとは名づけないのである。なぜかというと、善男子よ、四聖諦を知る智に二種がある。一は中智、二は上智である。中智は声聞縁覚の智であり、上智は諸仏菩薩の智である。善男子よ、諸陰は苦であると知るを中智と名づけ、諸陰を分析してみると無量の相(すがた・ありよう)があってそれらすべてが苦であると(了解)すえうのは諸仏菩薩の上智であって、声聞縁覚の知るところではない。善男子よ、このような(四聖諦を知ることに関する二種の智の、特に諸仏菩薩の)義は、彼の経にはついぞ説かれなかったのである。
声聞と縁覚の智慧を中智と言い、菩薩と仏の智慧を上智と言うとお釈迦さまは仰せです。
若有十因縁法所成衆生。樂聞一切世界一切陰界入。及不可説世界。 不可説陰界入等事者。如來即直説一切正世界及陰入等。一切翻覆世界及陰入等。 一切仰世界及陰入等。一切倒住世界及陰入等。一切穢國一切淨國。 一切凡國一切聖國。如是等種種世界。不可説世界。種種陰入界。不可説陰入界 云云。 或作四言乃至九言偈重頌。或孤起偈。或能知國土陰入界者。即與記成佛。 或能知者即具禁戒或譬喩説。或説昔國土事。或説昔受生事。或説廣大事。 或説希有事。或説論議事。如是等十二種説悦其樂欲。或生其善或破其惡。 或令悟入。是名四悉檀起別教十二部經。
若し十因縁の法をもて成ずる所の衆生有りて、一切の世界、一切の陰・界・入、及び不可説の世界、不可説の陰・界・入等の事を聞くを楽わば、如来は則ち直ちに一切の正世界、及び陰・入等、一切の翻覆の世界、及び陰・入等、一切の仰世界、及び陰・入等、一切の倒住世界、及び陰・入等、一切の穢国、一切の浄国、一切の凡国、一切の聖国、是の如き等の種種の世界、不可説の世界、種種の陰・入・界、不可説の陰・入・界を説く、云云。或いは四言、乃至、九言の偈を作して重ねて頌す。或いは狐起偈なり。或いは能く国土の陰・入・界を知れば、即ち与めに成仏するを記す。或いは能く知れば、即ち禁戒を具す。或いは譬喩もて説く。或いは昔の国土の事を説く。或いは昔の受生の事を説く。或いは稀有の事を説く。或いは論議の事を説く。是の如き等の十二種の説は、其の楽喜ばしめ、或いは其の善を生じ、或いは其の悪を破し、或いは悟入せしむ。是れ四悉檀もて別教の十二部経を起こすと名づく。
『法華玄義』では更に次のように進みます。
若十因縁法所成衆生樂聞空者。直爲説五陰十二入十八界無不即空。 或四五六七八九言偈重頌陰界入即空。或説能達陰入界即空者便與授記。 或孤然説陰界入即空。或無問自説陰界入即空。或説知陰界入即空名爲禁戒。 或擧如幻如化等。喩陰界入即空。或説本昔世間國土即空。 或説本生陰界入即空。或説即空廣大或説陰入界即空希有或難問陰界入即空。 是爲隨樂欲世界悉檀。起通教十二部經。或作十二種説即空生善。 或作十二種説即空破惡。或作十二種説即空令悟理。是爲四悉檀起通教十二部經也。
若し十因縁の法をもて成ずる所の衆生、空を聞くを楽(ねが)わば、直ちに為に五陰・十二入・十八界は即空ならざらんこと無しと説く。或いは四、五、六、七、八、九言の偈もて重ねて陰・界・入の即空なるを頌す。或いは能く陰・入・界は即空なりと達すれば、便(すな)ち与(ため)に授記すと説く。或いは孤然として陰・界・入は即空なりと説く。或いは問い無くして、自ら陰・界・入は即空なりと説く。或いは陰・界・入は即空なりと知るを、名づけて禁戒と為すと説く。或いは如幻如化等を挙げて、陰・界・入の即空なるを喩う。或いは本音の世間国土は即空なりと説く。或いは本生の陰・界・入は即空なりと説く。或いは即空は広大なりと説く。或いは陰・入・界の即空は稀有なりと説く。或いは陰・界・入の即空なるを難問す。是れ随楽欲の世界悉檀もて通教の十二部経を起こすと為す。或いは十二種を作して即空を説き善を生じ、或いは十二種を作して即空を説き悪を破し、或いは十二種を作して即空を説き理を悟らしむ。是れ四悉檀もて通教の十二部経を起こすと為すなり。
蔵教(三蔵教)では、人の心や感情を五蘊や十二処、十八界に細分化することで、モノの有り様や、心や感情(心の働き)のあり方を正しく知る術が『俱舎論』などで詳しく解き明かされております。ここでの内容は「衆生を喜ばしめんが為めの故に」と智顗が書いておりますように実体思想の強い凡夫の為に、実体に即した形で法が示されております。いわゆる世間一般に通ずる真理の法です。
科学や物理における〝法則〟や数学の〝方程式〟、また医学における〝術式〟など「客観性」をベースにして論じられる学識と同じような世間一般理論の次元での真理ということで、これを世界悉檀といいます。仏門に入ってもなお、実体思想から抜けきらないでいる声聞という境涯に向けて説かれた教えです。
第十項 通経(つうぎょう)
四悉檀を解釈するにあたっての十種の項目の第十は、「通経」である。
問う:四悉檀を用いて『法華経』を解釈すると言うが、『法華経』のどこに四悉檀について記されているのか。
答える:『法華経』の多くのところにこの意味が記されている。一つ一つをあげることは不可能なので、今、略して迹門と本門を代表する文を引用する。
迹門の「方便品(ほうべんぽん)」に「仏は、衆生のあらゆる行ない、心の深い所にある念、過去行なってきた業、欲性精進力(よくしょうしょうじんりき)、および各人の能力の利鈍(りどん)を知り、さまざまな因縁、譬喩、または言葉をもって、まさにしたがって方便を説くのだ」とある。これはまさに四悉檀の言葉ではないか。「欲性精進力」の「欲」とは、真理を求める欲であり、世界悉檀である。「性」とは、智慧の本性であり、各各為人悉檀である。「精進力」は悪を破ることで、対治悉檀である。そして「利鈍」とは、すなわち能力の高い者と低い者は悟りを得ることが同じではない。これは第一義悉檀である。
また本門の「如来寿量品(にょらいじゅりょうほん)」に「如来はすべてを明らかに見て誤りがない。あらゆる衆生には、それぞれの本性、それぞれの真理を求める願い、それぞれの修行、それぞれの思慮分別があるために、それぞれ正しい修行へ進ませようとして、いくらかの因縁、譬喩、言葉をもって、さまざまに説法する。それらの仏のわざは、昔から今まで、少しも後退したことはない」とある。「それぞれの本性」とは各各為人悉檀である。「それぞれの真理を求める願い」とは世界悉檀である。「それぞれの修行」とは対治悉檀である。「それぞれの思慮分別」とは、真理を見上げて、今までの邪悪な思慮を転じて第一義を見ることができるということなのである。
このように、二か所の文に四悉檀が含まれている。そしてこれらはすべて衆生のために説かれたものである。まさにこれが、四悉檀をもって教えを説く証拠とならないわけがあろうか。
ここで言う〝平等〟とは『唯識』で説く大円鏡智・平等性智・妙観察智・成所作智の「四智」の中の平等性智を言います。
智顗は「妙法蓮華経」の経題を『法華経』如来神力品第21の結要付嘱の文を依文として『五重玄義』を立てております。それを日蓮大聖人が『十八円満抄』の中で更に詳しく解説し、次のように示されております。
<仏意の五重玄>
妙=仏眼:第九識は法界体性智
法=法眼:第八識は大円鏡智
蓮=慧眼:第七識は平等性智
華=天眼:第六識は妙観察智
経=肉眼:前の五識は成所作智
なぜこれが「空一切空」のことを言っているのかと問われれば、それはこの文に続く次の文に依るところとなります。
平等とはまえに望めて平等と称す、前の観は、仮の病を破して仮の法を用いず、ただ真の法のみを用う、一を破して一をを破せざればいまだ平等となさず、のちの観は、空の病を破してかえって仮の法を用う、破用すでに均しく異時あい望む、故に平等というなり。
ここで智顗は三種三観の九品(別相三観)を三三九諦の相で開くことで通相三観とし、それを仮一切仮・空一切空・中一切中で展開する「三種の不思議解脱(円融三観)」の実慧の解脱(空一切空)を説いております。
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<別相三観と通相三観>
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こちらで智顗のこれらの説明文の意味するところをわたくし法介が詳しく解説しておりますので、宜しかったらご覧ください。
13.破用平等(因果俱時)
https://sinnyo.blog.jp/archives/19793202.html
と、その前に「五時」について『ウィキペディア』で次のようにも書かれております。
「今日の仏教学では五時説は歴史的事実とは認められないが、日蓮宗の宗学的には仏教学の成果をどのように受容するかという新たな課題を生んでいる。」
しかし、五時説は歴史的事実にもとづいた説ではありません。
歴史的事実と言いますのは文献学的な見解でして、経典がいつ書かれたかといった事実関係をいいます。お釈迦さまの説法は全て釈迦滅後に「結集」によって経典化されておりますので、文献学的史実に基づいて経典が説かれた順を定める事はまずもって不可能です。
五時説はそのような文献学的史実からの順序だてではなく、「経典に説かれている内容」から分析区分した教判となります。こちらの「崔 箕杓 論文」では次のような主張に基づいて五時の検証がなされております。
天台五時教判の根拠と意味 崔 箕杓
https://www.min.ac.jp/img/pdf/labo-sh17_27L.pdf
おびただしい数の経典を読解して比較するという作業自体が恐ろしく膨大なものであり、歴史を記録しないインドの風土においてはそもそも歴史的な証拠というものは十分には残っていないので、非常に困難な作業となるであろう。それよりも説法の内容のなかに年齢や年月など具体的な時期を明らかにするセンテンス(文)が存在することが知られているから、それらを根拠とするほうが、量的には多くはないとはいえ客観性が高いと言うことができよう。(プリント下部 No.28)
論文の検証内容に関しましてはこちらで要点を拾い上げて紹介しておりますので宜しかったらご覧ください。
サマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想
https://zawazawa.jp/bison/topic/17
天台宗の僧侶でもあった関口博士は、天台の五時や四教義を否定される訳ではありません。佐藤・浅田・関口による三者対論の中から関口博士の発言を紹介します。
関口:
私がずっと主張してきたのは、天台大師の撰述には〝五時八教という成語〟が一ヵ所も見当らない。また〝五時八教の名〟に相応する組織や構成もないといつているのであつて、〝四教とか五時とかの言葉が無い〟というているのではない。むしろ私が強調してきたのは、天台大師の教相論が甚だしく誤解されて、天台教学の綱要を大いに傷つけているので、その謬まりを正そうというのが五時八教廃棄論のねらいであります。
四教や五時が間違いなどといった主張ではない事がお解り頂けますでしょうか。天台教学は近現代の仏教学者が今もって研究の対象とする仏教学における重要な教学の一つです。
五時については智顗は至るところで触れておりますし、四教については『四教義』を顕しております。
ここでは「五時八教」の中で今一解りずらい、頓教・漸教・不定教・秘密教からなる「化義の四教」について少しお話させて頂きます。
S Sekiguchi 著 · 1972「五時八教」という成語は、天台大師にはない。
天台大師みずからの教相判釈を説いた法華玄義の第五の教相玄義のなかにそれが見出だせないだけでなく、法華玄義全十巻のどこにもついに一度としてこれを見ることができない。法華玄義だけでなく、法華文句全十巻、摩詞止観全十巻をあわせての天台三大部のどこを漁つてみてもこれを発見することができない。三大部だけでなく、数多い天台大師の撰述のいずれにおいても、 「五時八教」はついぞこれを見出だすことができない。つまり天台大師には 「五時八教 」という用語はまつたく存しなかったのである。従来の通途の観念からすればむしろ奇怪なこととも感ぜられるであろうが、しかし事実は事実として動かすことはできない。したがつて、天台大師のいかなる撰述においても 「五時八教 」を見出だすことができないという事実に基づいて、「天台大師、五時八教をもつて東流一代の聖教を判釈たしもう」とする従来の通途の観念が、まず疑われなければならない。
この文章を投稿された方は『法華玄義』を本当に読まれてこの文章を書かれたのでしょうか。
昭和40年代に天台宗の仏教学者で関口真大文学博士(1907-1986)が、
五時八教は天台教判に非ず
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/21/1/21_1_6/_pdf/-char/ja
頓漸五味論 関口真大
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/26/1/26_1_61/_pdf/-char/ja
天台大師教学の綱要 関口真大
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/25/1/25_1_47/_pdf/-char/ja
といった天台宗の教相判別である「五時八教」が智顗説ではないという学説論文を学会で発表されております。
『ウィキペディア』の文章は「S Sekiguchi 著 · 1972」からの引用となっておりますが1972年(昭和47年)に書かれた著書です。関口論文の内容がどういったものだったのか、論文を読みもせずに「天台の五時八教は間違っている」と思い込んでいる人達が沢山おられるようです。
関口氏の学説に対しては、以下のような反論がなされております。
天台五時八教論について 関口博士の疑義二十五力条に対する回答
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/24/1/24_1_260/_pdf
開口博士の五時八教廃棄論への疑義 佐藤・浅田・関口による対論
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/23/2/23_2_810/_pdf/-char/ja
「経典成立史の立場と天台の教判」(佐藤泰舜著)をめぐる諸問題 山内舜雄
http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/18582/KJ00005114024.pdf
と、その前にこちらのお話を先にさせて頂きます。
サマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想
https://zawazawa.jp/bison/topic/17
尚、十重の第四項の「対諦」では四悉檀と四諦の関係を次のように智顗は説明されております。
廣對四種四諦者。四種四諦一一以四悉檀對之。復總對者。生滅四諦對世界。
無生四諦對爲人。無量四諦對對治。無作四諦對第一義。
広く四種の四諦に対するとは、四種の四諦、一一に四悉檀を以て之に対す。復た、総じて対すれば、生滅の四諦は世界に対し、無生の四諦は為人に対し、無量の四諦は対治に対し、無作の四諦は第第一義に対す。
四種の四諦それぞれに四悉檀が生じると智顗は申しております。
『魔訶止観』の中の「四門の料簡」でその内容は詳しく解き明かされております。
14,観無量寿経(その⑤)
https://butudou.livedoor.blog/archives/17944347.html
「四門の料簡」として次にお話して参ります。
大智度論和訳(一)
https://zenken.agu.ac.jp/research/14/10.pdf
論文プリント下部 No.154-165
仏は真如の実相(第一義諦)を説き明かす為に『般若経典』で空の理を説き、その空の理解において異なる四つの境涯の差異から四段階の「空」の理解の相違が生じると龍樹は説明されております。
大蔵経テキストデータベース
『大智度論』 (龍樹作 鳩摩羅什訳)
復次佛欲説第一義悉檀相故。説是般若波羅蜜經。有四種悉檀。一者世界悉檀。
二者各各爲人悉檀。三者對治悉檀。四者第一義悉檀。四悉檀中一切十二部經。
八萬四千法藏。皆是實無相違背。佛法中有。以世界悉檀故實有。
以各各爲人悉檀故實有。以對治悉檀故實有。以第一義悉檀故實有。
更に「寿量品」の言葉も根拠とされておられます。
又壽量品云。如來明見無有錯謬。以諸衆生有種種性種種欲種種行種種憶想分別故。
欲令生諸善根。以若干因縁譬喩言辭種種説法。所作佛事未曾暫廢。種種性者即是爲人。
種種欲者即是世界。種種行者即是對治。種種憶想分別。即是推理轉邪憶想得見第一義。
兩處明文四義具足。而皆言爲衆生説法。豈非四悉檀設教之明證也
又た、寿量品に云わく、「如来は明らかに見て、錯謬有ること無し。諸もろの衆生に種種の性、種種の欲、種種の行、種種の憶想分別有るを以ての故に、諸もろの善根を生ぜしめんと欲して、若干の因縁、譬喩、言辞を以て、種種に説法す。作す所の仏事は、未だ曾て暫くも廃せず。」と。「種種の性」とは、即ち是れ為人なり。「種種の欲」とは、即ち是れ世界なり。「種種の行」とは、即ち是れ対治なり。「種種の憶想分別」は、即ち是れ理を推して、邪な憶想を転じて、第一義を見ることを得。両処の明文に、四義具足す。而して皆な「衆生の為めに説法す」と言う。豈に四悉檀もて教を設くるの明証に非ざたんや。
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因縁説周は蔵教の声聞に対し、譬喩説周は蔵教の縁覚に対し、法説周は蔵教の菩薩に対してお釈迦さまは三周の説法を『法華経』の中で展開します。そして三乗に開いて説いた教えを一つに集約して第一義悉檀の虚空絵の説法が「寿量品」で説かれます。
四悉檀は、智顗以前に龍樹が『大智度論』の中で説き明かした法論です。智顗は以上のような根拠を以って龍樹の四悉檀が仏説に基づいて説かれた教説であると述べておられます。
この「四悉檀の十重」の、第十項の「通教」では四悉檀が仏典のどこに記されているかについて、智顗は次のよに説明されております。
方便品云。知衆生諸行深心之所念。過去所習業欲性精進力。及諸根利鈍。
以種種因縁譬喩亦言辭。隨應方便説。此豈非是四悉檀之語耶。欲者即是樂欲。
世界悉檀也。性者是智慧性。爲人悉檀也。精進力即是破惡。對治悉檀也。
諸根利鈍即是兩人得悟不同。即是第一義悉檀也。
方便品に云わく、「衆生の諸行、深心の念ずる所、過去に習う所の業、欲、性、精進の力、及び諸根の利鈍を知り、種種の因縁、譬喩、亦た言辞を以て、髄応して方便もて説く」と。此れは豈に是れ四悉檀の語に非ざらんや。「欲」とは、即ち是れ楽欲、世界悉檀なり。「性」とは、是れ智慧の生、為人悉檀なり。「精進の力」は、即ち是れ破悪、対治悉檀なり。「諸根の利鈍」は、即ち是れ両人悟りを得ること同じからず、即ち是れ第一義悉檀なり。
蔵・通・別・円の四教の教えが四悉檀によって起こると智顗は説明されておりますが、この第五項では四種四諦の項で紹介しました次の文章が最初にあります。
四種四諦
https://zawazawa.jp/gengi/topic/2/3
この内容から、
>> 1 で四悉檀の世界悉檀(析空)によって三蔵の十二部経が起こり、
>> 2 で四悉檀の(体空)によって通教の十二部経が起こり、
>> 3 で四悉檀の(法空)によって別教の十二部経が起こり、
>> 4 で四悉檀の(非空)によって円教の十二部経が起こるということになるかと思います。
析空・体空・法空・非空についてはこちらで詳しく説明しておりますので、宜しかったらご覧下さい。難解な「空」の理論を解りやすくお話しております。
法介の『ゆゆしき世界』 「空」の理論
https://zawazawa.jp/yuyusiki/topic/5?page=2
若十因縁所成衆生。樂聞不可説國土。不可説陰界入。皆是眞如實相。
即直説一切國土依正即是常寂光。一切陰入即是菩提離是無菩提。
一色一香無非中道。離是無別中道。眼耳鼻舌皆是寂靜門。離此無別寂靜門。
或作偈重頌。或作孤起偈。或作無問自説。或知者與記。或知者具戒。
或作譬説。或指昔世界。或指本生。或説廣大。或説希有。或作論議。
是爲赴樂欲世界悉檀起圓教十二部經。或作十二種説生妙善。
或作十二種説頓破惡。或作十二種説頓會理。是爲四悉檀起圓教十二部經。
若し十因縁もて成ずる所の衆生の、不可説の国土、不可説の陰・界・入は皆な是れ真如実相なるを聞くを楽わば、即ち直ちに一切の国土依正は即ち是れ常寂光、一切の陰・入は即ち是れ菩提にして、是れを離れて菩提無く、一色一香も中道に非ざること無く、是を離れて別の中道無く、眼・耳・鼻・舌は皆な是れ寂静門、此れを離れて別の寂静門無しと説く。或いは偈を作して重ねて頌す。或いは狐起偈を作し、無問自説を作し、或いは知れば与めに記し、或いは知れば戒を具し、或いは譬説を作し、或いは昔の世界を指し、或いは本生を指し、或いは広大を説き、或いは稀有を説き、或いは論議を作す。是れ楽欲に赴く世界悉檀もて円教の十二部経を起こすと為す。或いは十二種の説を作して妙善を生じ、或いは十二種の説を作して頓に悪を破し、或いは十二種の説を作して頓を理にに会せしむ。是れ四悉檀もて円教の十二部経を起こすこと為す。
>> 1で四種四諦を中智(声聞と縁覚の智慧)と上智(菩薩と仏の智慧)とに二分しておりますが、その事について補足説明しておきます。
これは四種四諦を空理で展開した解釈で、生滅の四諦と無生の四諦の二種が「人空」なので声聞と縁覚の智慧となり、無量の四諦と無作の四諦の二種が「法空・非空」となって菩薩と仏の智慧となります。
生滅の四諦=世界悉檀 ---(人空)
無生の四諦=為人悉檀 ---(人空)
無量の四諦=対治悉檀 ---(法空)
無作の四諦=第一義悉檀 ---(非空)
人空と法空の境は凡夫・二乗の第六意識か仏・菩薩の第七意識(末那識)かということです。
智顗の『法華玄義』巻第一下に次のようにあります。
法若十因縁所成衆生。有下品樂欲。能生界内事善拙度。
破惑析法入空。具此因縁者。如來則轉生滅四諦法輪。起三藏教也。
若十因縁法所成衆生。有中品樂欲。能生界内理善巧度。破惑體法入空。
具此因縁者。如來則轉無生四諦法輪。起通教也。
若十因縁所成衆生。有上品樂欲。能生界外事善歴別破惑次第入中。具此因縁者。
如來則轉無量四諦法輪。起別教也。
若十因縁所成衆生。有上上品樂欲。能生界外理善。一破惑一切破惑圓頓入中。
具此因縁者。如來則轉無作四諦法輪。起圓教也。
https://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?mode=detail&useid=1716_,33,0686c06&key=若十因縁所成衆生&ktn=&mode2=2
若し十因縁もて成ずる所の衆生に下品の遊楽有らば、能く界内の事善を生じ、拙度もて惑を破し、折法もて空に入る。此の因縁を具すれば、如来は則ち生滅の四諦の法輪を転じて、三蔵教を起こすなり。
若し十因縁の法もて成ずる所の衆生に中品の楽欲有らば、能く界内の理善を生じ、巧度もて惑を破し、体法もて空に入る。此の因縁を見れば、如来は則ち無生の四諦の法輪を転じて、通教を起こすなり。
若し十因縁もて成ずる所の衆生に上品の楽欲有らば、能く界外の事善を生じ、歴別に惑を破し、次第に中に入る。此の因縁を具すれば、如来は則ち無量の四諦の法輪を転じ、別教を起こすなり。
若し十因縁もて成ずる所の衆生に上上品の楽欲有らば、能く界外の理善を生じ、一の惑は一切の破惑にして、円頓に入る。此の因縁を具すれば、如来は則ち無作の四諦の法輪を転じて、円教を起こすなり。
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ここで言う「十因縁」とは、『法華経』方便品で略開三顕一で示された十如是のことです。この十如是を広く解りやすいように三周の説法として広開三顕一で説かれた内容をこちらで詳しくご紹介しております。宜しかったらご覧ください。
三周の説法 法介のほ~『法華経』その⑥
https://zawazawa.jp/yuyusiki/topic/20
『法華玄義』巻第一下で智顗は、四悉檀と四種四諦の関係を次のように申しております。
四種四諦一一以四悉檀對之。復總對者。生滅四諦對世界。
無生四諦對爲人。無量四諦對對治。無作四諦對第一義。
四種の四諦、一一に四悉檀を以て之れに対す。復た、総じて対すれば、生滅の四諦は世界(悉檀)に対し、無生の四諦は為人(悉檀)に対し、無量の四諦は対治(悉檀)に対し、無作の四諦は第一義(悉檀)に対す。
生滅の四諦=世界悉檀
無生の四諦=為人悉檀
無量の四諦=対治悉檀
無作の四諦=第一義悉檀
智顗は曇無讖(どんむせん)訳の『大般涅槃経』の次の言葉を根拠として四種四諦を説かれております。
https://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?mode=detail&useid=0374_,12,0442b09&key=陰有無量相悉是諸苦非諸聲聞縁覺所知&ktn=&mode2=2
迦葉菩薩復作是言。如是等法若在四諦。如來何故唱言不説。
佛言善男子。雖復入中猶不名説。何以故。善男子。知四聖諦有二種智。
一者中二者上。中者聲聞縁覺智。上者諸佛菩薩智。
善男子。知諸陰苦名爲中智。分別諸陰有無量相悉是諸苦。
非諸聲聞縁覺所知。是名上智。善男子。如是等義我於彼經竟不説之。
迦葉菩薩は再び仏に申し上げた。これらの法がもし四諦の中にあるのならば、如来はなにゆえに「説かず」と言われたのでしょう。(それに対して)仏が言われました。善男子よ、(四諦の)中に入っているのだけれども、それでもなお説くとは名づけないのである。なぜかというと、善男子よ、四聖諦を知る智に二種がある。一は中智、二は上智である。中智は声聞縁覚の智であり、上智は諸仏菩薩の智である。善男子よ、諸陰は苦であると知るを中智と名づけ、諸陰を分析してみると無量の相(すがた・ありよう)があってそれらすべてが苦であると(了解)すえうのは諸仏菩薩の上智であって、声聞縁覚の知るところではない。善男子よ、このような(四聖諦を知ることに関する二種の智の、特に諸仏菩薩の)義は、彼の経にはついぞ説かれなかったのである。
声聞と縁覚の智慧を中智と言い、菩薩と仏の智慧を上智と言うとお釈迦さまは仰せです。
若有十因縁法所成衆生。樂聞一切世界一切陰界入。及不可説世界。
不可説陰界入等事者。如來即直説一切正世界及陰入等。一切翻覆世界及陰入等。
一切仰世界及陰入等。一切倒住世界及陰入等。一切穢國一切淨國。
一切凡國一切聖國。如是等種種世界。不可説世界。種種陰入界。不可説陰入界 云云。
或作四言乃至九言偈重頌。或孤起偈。或能知國土陰入界者。即與記成佛。
或能知者即具禁戒或譬喩説。或説昔國土事。或説昔受生事。或説廣大事。
或説希有事。或説論議事。如是等十二種説悦其樂欲。或生其善或破其惡。
或令悟入。是名四悉檀起別教十二部經。
若し十因縁の法をもて成ずる所の衆生有りて、一切の世界、一切の陰・界・入、及び不可説の世界、不可説の陰・界・入等の事を聞くを楽わば、如来は則ち直ちに一切の正世界、及び陰・入等、一切の翻覆の世界、及び陰・入等、一切の仰世界、及び陰・入等、一切の倒住世界、及び陰・入等、一切の穢国、一切の浄国、一切の凡国、一切の聖国、是の如き等の種種の世界、不可説の世界、種種の陰・入・界、不可説の陰・入・界を説く、云云。或いは四言、乃至、九言の偈を作して重ねて頌す。或いは狐起偈なり。或いは能く国土の陰・入・界を知れば、即ち与めに成仏するを記す。或いは能く知れば、即ち禁戒を具す。或いは譬喩もて説く。或いは昔の国土の事を説く。或いは昔の受生の事を説く。或いは稀有の事を説く。或いは論議の事を説く。是の如き等の十二種の説は、其の楽喜ばしめ、或いは其の善を生じ、或いは其の悪を破し、或いは悟入せしむ。是れ四悉檀もて別教の十二部経を起こすと名づく。
『法華玄義』では更に次のように進みます。
若十因縁法所成衆生樂聞空者。直爲説五陰十二入十八界無不即空。
或四五六七八九言偈重頌陰界入即空。或説能達陰入界即空者便與授記。
或孤然説陰界入即空。或無問自説陰界入即空。或説知陰界入即空名爲禁戒。
或擧如幻如化等。喩陰界入即空。或説本昔世間國土即空。
或説本生陰界入即空。或説即空廣大或説陰入界即空希有或難問陰界入即空。
是爲隨樂欲世界悉檀。起通教十二部經。或作十二種説即空生善。
或作十二種説即空破惡。或作十二種説即空令悟理。是爲四悉檀起通教十二部經也。
若し十因縁の法をもて成ずる所の衆生、空を聞くを楽(ねが)わば、直ちに為に五陰・十二入・十八界は即空ならざらんこと無しと説く。或いは四、五、六、七、八、九言の偈もて重ねて陰・界・入の即空なるを頌す。或いは能く陰・入・界は即空なりと達すれば、便(すな)ち与(ため)に授記すと説く。或いは孤然として陰・界・入は即空なりと説く。或いは問い無くして、自ら陰・界・入は即空なりと説く。或いは陰・界・入は即空なりと知るを、名づけて禁戒と為すと説く。或いは如幻如化等を挙げて、陰・界・入の即空なるを喩う。或いは本音の世間国土は即空なりと説く。或いは本生の陰・界・入は即空なりと説く。或いは即空は広大なりと説く。或いは陰・入・界の即空は稀有なりと説く。或いは陰・界・入の即空なるを難問す。是れ随楽欲の世界悉檀もて通教の十二部経を起こすと為す。或いは十二種を作して即空を説き善を生じ、或いは十二種を作して即空を説き悪を破し、或いは十二種を作して即空を説き理を悟らしむ。是れ四悉檀もて通教の十二部経を起こすと為すなり。
蔵教(三蔵教)では、人の心や感情を五蘊や十二処、十八界に細分化することで、モノの有り様や、心や感情(心の働き)のあり方を正しく知る術が『俱舎論』などで詳しく解き明かされております。ここでの内容は「衆生を喜ばしめんが為めの故に」と智顗が書いておりますように実体思想の強い凡夫の為に、実体に即した形で法が示されております。いわゆる世間一般に通ずる真理の法です。
科学や物理における〝法則〟や数学の〝方程式〟、また医学における〝術式〟など「客観性」をベースにして論じられる学識と同じような世間一般理論の次元での真理ということで、これを世界悉檀といいます。仏門に入ってもなお、実体思想から抜けきらないでいる声聞という境涯に向けて説かれた教えです。