昨今、ネットを使って仏教を学ばれておられる方は多いかと思います。そういった方々がまずクリックして開くのが『ウィキペディア』でしょう。しかし、ウィキペディアに書かれている内容がどれ程の信憑性があるかと言えば、ウィキペディアの「ウィキペディアの信頼性」という項の中で次のように書かれてあります。
ウィキペディアは「検証可能性」「独自研究は載せない」「中立的な観点」という三原則を大前提とするならば[1]、専門家でなくとも編集ができ、また基本的に査読も行われない。
また、次のようにもあります。
このようにウィキペディアは信用に足る百科事典とは言い難く、ウィキペディアからの引用を学術関連のレポートに載せることは、そのレポートの信憑性そのものに疑問を持たせることでもある。また問題のある投稿が他の利用者によって修正・除去がなされるまでは一時的であっても適切でない記述が公開され、問題が長期間見逃されたり、編集合戦により編集できない場合に問題のある記事が長らく修正・除去できないという問題もある。
その『ウィキペディア』の「教相判釈」の項に天台の「五時八教」について次のように書かれてあります。
S Sekiguchi 著 · 1972「五時八教」という成語は、天台大師にはない。
天台大師みずからの教相判釈を説いた法華玄義の第五の教相玄義のなかにそれが見出だせないだけでなく、法華玄義全十巻のどこにもついに一度としてこれを見ることができない。法華玄義だけでなく、法華文句全十巻、摩詞止観全十巻をあわせての天台三大部のどこを漁つてみてもこれを発見することができない。三大部だけでなく、数多い天台大師の撰述のいずれにおいても、 「五時八教」はついぞこれを見出だすことができない。つまり天台大師には 「五時八教 」という用語はまつたく存しなかったのである。従来の通途の観念からすればむしろ奇怪なこととも感ぜられるであろうが、しかし事実は事実として動かすことはできない。したがつて、天台大師のいかなる撰述においても 「五時八教 」を見出だすことができないという事実に基づいて、「天台大師、五時八教をもつて東流一代の聖教を判釈たしもう」とする従来の通途の観念が、まず疑われなければならない。
この文章を投稿された方は『法華玄義』を本当に読まれてこの文章を書かれたのでしょうか。
昭和40年代に天台宗の仏教学者で関口真大文学博士(1907-1986)が、
五時八教は天台教判に非ず
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/21/1/21_1_6/_pdf/-char/ja
頓漸五味論 関口真大
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/26/1/26_1_61/_pdf/-char/ja
天台大師教学の綱要 関口真大
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/25/1/25_1_47/_pdf/-char/ja
といった天台宗の教相判別である「五時八教」が智顗説ではないという学説論文を学会で発表されております。
『ウィキペディア』の文章は「S Sekiguchi 著 · 1972」からの引用となっておりますが1972年(昭和47年)に書かれた著書です。関口論文の内容がどういったものだったのか、論文を読みもせずに「天台の五時八教は間違っている」と思い込んでいる人達が沢山おられるようです。
関口氏の学説に対しては、以下のような反論がなされております。
天台五時八教論について 関口博士の疑義二十五力条に対する回答
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/24/1/24_1_260/_pdf
開口博士の五時八教廃棄論への疑義 佐藤・浅田・関口による対論
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/23/2/23_2_810/_pdf/-char/ja
「経典成立史の立場と天台の教判」(佐藤泰舜著)をめぐる諸問題 山内舜雄
http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/18582/KJ00005114024.pdf
天台宗の僧侶でもあった関口博士は、天台の五時や四教義を否定される訳ではありません。佐藤・浅田・関口による三者対論の中から関口博士の発言を紹介します。
関口:
私がずっと主張してきたのは、天台大師の撰述には〝五時八教という成語〟が一ヵ所も見当らない。また〝五時八教の名〟に相応する組織や構成もないといつているのであつて、〝四教とか五時とかの言葉が無い〟というているのではない。むしろ私が強調してきたのは、天台大師の教相論が甚だしく誤解されて、天台教学の綱要を大いに傷つけているので、その謬まりを正そうというのが五時八教廃棄論のねらいであります。
四教や五時が間違いなどといった主張ではない事がお解り頂けますでしょうか。天台教学は近現代の仏教学者が今もって研究の対象とする仏教学における重要な教学の一つです。
五時については智顗は至るところで触れておりますし、四教については『四教義』を顕しております。
ここでは「五時八教」の中で今一解りずらい、頓教・漸教・不定教・秘密教からなる「化義の四教」について少しお話させて頂きます。
と、その前に「五時」について『ウィキペディア』で次のようにも書かれております。
「今日の仏教学では五時説は歴史的事実とは認められないが、日蓮宗の宗学的には仏教学の成果をどのように受容するかという新たな課題を生んでいる。」
しかし、五時説は歴史的事実にもとづいた説ではありません。
歴史的事実と言いますのは文献学的な見解でして、経典がいつ書かれたかといった事実関係をいいます。お釈迦さまの説法は全て釈迦滅後に「結集」によって経典化されておりますので、文献学的史実に基づいて経典が説かれた順を定める事はまずもって不可能です。
五時説はそのような文献学的史実からの順序だてではなく、「経典に説かれている内容」から分析区分した教判となります。こちらの「崔 箕杓 論文」では次のような主張に基づいて五時の検証がなされております。
天台五時教判の根拠と意味 崔 箕杓
https://www.min.ac.jp/img/pdf/labo-sh17_27L.pdf
おびただしい数の経典を読解して比較するという作業自体が恐ろしく膨大なものであり、歴史を記録しないインドの風土においてはそもそも歴史的な証拠というものは十分には残っていないので、非常に困難な作業となるであろう。それよりも説法の内容のなかに年齢や年月など具体的な時期を明らかにするセンテンス(文)が存在することが知られているから、それらを根拠とするほうが、量的には多くはないとはいえ客観性が高いと言うことができよう。(プリント下部 No.28)
論文の検証内容に関しましてはこちらで要点を拾い上げて紹介しておりますので宜しかったらご覧ください。
サマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想
https://zawazawa.jp/bison/topic/17