『法華玄義』巻第一下には、次のようにあります。
次解四悉檀爲十重 一釋名 二辨相 三釋成 四對諦 五起教觀
六説默 七用不用 八權實 九開顯 十通經 釋名者。悉檀天竺語。
次に、四悉檀を解するに、十重と為す。一に釋名、二に辨相、三に釈成、四に対諦、五に起教觀、六に説默、七に用不用、八に権実、九に開顕、十に通教なり。
これは智顗が四悉檀を十重(十の項目)を立てて説明するということです。この十項目の中の第五項「起観教」と第十項の「通教」の内容をまずご紹介します。
まず第五項「起観教」からご紹介します。
復次一一教中。各各有十二部經。亦用悉檀起之。
若十因縁法所成衆生。樂聞正因縁世界事。
如來則爲直説陰界入等假實之法。是名脩多羅。
復た次に、一一の教の中に、各各十二部経有り。亦た悉檀を用て之を起こす。
若し十因縁の法もて成ずる所の衆生、正因縁の世界の事を聞くを楽(ねが)わば、
如来は則ち為めに直ちに陰・界・入等の仮実の法を説く。是れ修多羅と名づく。
陰・界・入とは、五陰(五蘊)と十二入(六根と六境)と十八界(六根・六境・六識)のことです。
『法華玄義』ではここで、修多羅・祇夜・和伽羅・伽陀・優陀那・伊帝曰多伽・闍多・毘仏略・阿浮陀達磨・尼陀那・阿婆陀那・優婆提舎の十二からなる十二部経の項目が紹介されますが、十二部経とは、阿含・ニカーヤの分類以前に仏陀所説の教法を文学形式や内容によって分類したものです。
或四五六七八九言偈重頌世界陰入等事是名祇夜。
或直記衆生未來事。乃至記鴿雀成佛等。是名和伽羅那。
或孤起偈説世界陰入等事。是名伽陀。
或無人問自説世界事。是名優陀那。
或約世界不善事而結禁戒。是名尼陀那。
或以譬喩説世界事。是名阿波陀那。
或説本昔世界事。是名伊帝目多伽。
或説本昔受生事。是名闍陀伽。
或説世界廣大事。是名毘佛略。
或説世界未曾有事。是名阿浮陀達磨。
或問難世界事是名優波提舍。
十二部経についてはウィキペディアなどでご確認頂くとして次に進みます。
或問難世界事是名優波提舍。此是世界悉檀。爲悦衆生故。
起十二部經。或作十二種説生衆生善或作十二種説破衆生惡。
或作十二種説令衆生悟。是名四悉檀起三藏十二部經。
之れは是れ世界悉檀にして、衆生を喜ばしめんが為めの故に、十二部経を起こす。或いは十二種の説を作して衆生の善を生じ、或いは十二種の説を作して衆生の悪を破し、或いは十二種の説を作して衆生を悟らしむ。是れ四悉檀もて三蔵の十二部経を起こすと名づく。
まず、四悉檀の世界悉檀によって三蔵の十二部経を起こすと智顗は論じております。
蔵教(三蔵教)では、人の心や感情を五蘊や十二処、十八界に細分化することで、モノの有り様や、心や感情(心の働き)のあり方を正しく知る術が『俱舎論』などで詳しく解き明かされております。ここでの内容は「衆生を喜ばしめんが為めの故に」と智顗が書いておりますように実体思想の強い凡夫の為に、実体に即した形で法が示されております。いわゆる世間一般に通ずる真理の法です。
科学や物理における〝法則〟や数学の〝方程式〟、また医学における〝術式〟など「客観性」をベースにして論じられる学識と同じような世間一般理論の次元での真理ということで、これを世界悉檀といいます。仏門に入ってもなお、実体思想から抜けきらないでいる声聞という境涯に向けて説かれた教えです。
『法華玄義』では更に次のように進みます。
若十因縁法所成衆生樂聞空者。直爲説五陰十二入十八界無不即空。
或四五六七八九言偈重頌陰界入即空。或説能達陰入界即空者便與授記。
或孤然説陰界入即空。或無問自説陰界入即空。或説知陰界入即空名爲禁戒。
或擧如幻如化等。喩陰界入即空。或説本昔世間國土即空。
或説本生陰界入即空。或説即空廣大或説陰入界即空希有或難問陰界入即空。
是爲隨樂欲世界悉檀。起通教十二部經。或作十二種説即空生善。
或作十二種説即空破惡。或作十二種説即空令悟理。是爲四悉檀起通教十二部經也。
若し十因縁の法をもて成ずる所の衆生、空を聞くを楽(ねが)わば、直ちに為に五陰・十二入・十八界は即空ならざらんこと無しと説く。或いは四、五、六、七、八、九言の偈もて重ねて陰・界・入の即空なるを頌す。或いは能く陰・入・界は即空なりと達すれば、便(すな)ち与(ため)に授記すと説く。或いは孤然として陰・界・入は即空なりと説く。或いは問い無くして、自ら陰・界・入は即空なりと説く。或いは陰・界・入は即空なりと知るを、名づけて禁戒と為すと説く。或いは如幻如化等を挙げて、陰・界・入の即空なるを喩う。或いは本音の世間国土は即空なりと説く。或いは本生の陰・界・入は即空なりと説く。或いは即空は広大なりと説く。或いは陰・入・界の即空は稀有なりと説く。或いは陰・界・入の即空なるを難問す。是れ随楽欲の世界悉檀もて通教の十二部経を起こすと為す。或いは十二種を作して即空を説き善を生じ、或いは十二種を作して即空を説き悪を破し、或いは十二種を作して即空を説き理を悟らしむ。是れ四悉檀もて通教の十二部経を起こすと為すなり。
若有十因縁法所成衆生。樂聞一切世界一切陰界入。及不可説世界。
不可説陰界入等事者。如來即直説一切正世界及陰入等。一切翻覆世界及陰入等。
一切仰世界及陰入等。一切倒住世界及陰入等。一切穢國一切淨國。
一切凡國一切聖國。如是等種種世界。不可説世界。種種陰入界。不可説陰入界 云云。
或作四言乃至九言偈重頌。或孤起偈。或能知國土陰入界者。即與記成佛。
或能知者即具禁戒或譬喩説。或説昔國土事。或説昔受生事。或説廣大事。
或説希有事。或説論議事。如是等十二種説悦其樂欲。或生其善或破其惡。
或令悟入。是名四悉檀起別教十二部經。
若し十因縁の法をもて成ずる所の衆生有りて、一切の世界、一切の陰・界・入、及び不可説の世界、不可説の陰・界・入等の事を聞くを楽わば、如来は則ち直ちに一切の正世界、及び陰・入等、一切の翻覆の世界、及び陰・入等、一切の仰世界、及び陰・入等、一切の倒住世界、及び陰・入等、一切の穢国、一切の浄国、一切の凡国、一切の聖国、是の如き等の種種の世界、不可説の世界、種種の陰・入・界、不可説の陰・入・界を説く、云云。或いは四言、乃至、九言の偈を作して重ねて頌す。或いは狐起偈なり。或いは能く国土の陰・入・界を知れば、即ち与めに成仏するを記す。或いは能く知れば、即ち禁戒を具す。或いは譬喩もて説く。或いは昔の国土の事を説く。或いは昔の受生の事を説く。或いは稀有の事を説く。或いは論議の事を説く。是の如き等の十二種の説は、其の楽喜ばしめ、或いは其の善を生じ、或いは其の悪を破し、或いは悟入せしむ。是れ四悉檀もて別教の十二部経を起こすと名づく。
若十因縁所成衆生。樂聞不可説國土。不可説陰界入。皆是眞如實相。
即直説一切國土依正即是常寂光。一切陰入即是菩提離是無菩提。
一色一香無非中道。離是無別中道。眼耳鼻舌皆是寂靜門。離此無別寂靜門。
或作偈重頌。或作孤起偈。或作無問自説。或知者與記。或知者具戒。
或作譬説。或指昔世界。或指本生。或説廣大。或説希有。或作論議。
是爲赴樂欲世界悉檀起圓教十二部經。或作十二種説生妙善。
或作十二種説頓破惡。或作十二種説頓會理。是爲四悉檀起圓教十二部經。
若し十因縁もて成ずる所の衆生の、不可説の国土、不可説の陰・界・入は皆な是れ真如実相なるを聞くを楽わば、即ち直ちに一切の国土依正は即ち是れ常寂光、一切の陰・入は即ち是れ菩提にして、是れを離れて菩提無く、一色一香も中道に非ざること無く、是を離れて別の中道無く、眼・耳・鼻・舌は皆な是れ寂静門、此れを離れて別の寂静門無しと説く。或いは偈を作して重ねて頌す。或いは狐起偈を作し、無問自説を作し、或いは知れば与めに記し、或いは知れば戒を具し、或いは譬説を作し、或いは昔の世界を指し、或いは本生を指し、或いは広大を説き、或いは稀有を説き、或いは論議を作す。是れ楽欲に赴く世界悉檀もて円教の十二部経を起こすと為す。或いは十二種の説を作して妙善を生じ、或いは十二種の説を作して頓に悪を破し、或いは十二種の説を作して頓を理にに会せしむ。是れ四悉檀もて円教の十二部経を起こすこと為す。
蔵・通・別・円の四教の教えが四悉檀によって起こると智顗は説明されておりますが、この第五項では四種四諦の項で紹介しました次の文章が最初にあります。
四種四諦
https://zawazawa.jp/gengi/topic/2/3
この内容から、
>> 1 で四悉檀の世界悉檀(析空)によって三蔵の十二部経が起こり、
>> 2 で四悉檀の(体空)によって通教の十二部経が起こり、
>> 3 で四悉檀の(法空)によって別教の十二部経が起こり、
>> 4 で四悉檀の(非空)によって円教の十二部経が起こるということになるかと思います。
析空・体空・法空・非空についてはこちらで詳しく説明しておりますので、宜しかったらご覧下さい。難解な「空」の理論を解りやすくお話しております。
法介の『ゆゆしき世界』 「空」の理論
https://zawazawa.jp/yuyusiki/topic/5?page=2
この「四悉檀の十重」の、第十項の「通教」では四悉檀が仏典のどこに記されているかについて、智顗は次のよに説明されております。
方便品云。知衆生諸行深心之所念。過去所習業欲性精進力。及諸根利鈍。
以種種因縁譬喩亦言辭。隨應方便説。此豈非是四悉檀之語耶。欲者即是樂欲。
世界悉檀也。性者是智慧性。爲人悉檀也。精進力即是破惡。對治悉檀也。
諸根利鈍即是兩人得悟不同。即是第一義悉檀也。
方便品に云わく、「衆生の諸行、深心の念ずる所、過去に習う所の業、欲、性、精進の力、及び諸根の利鈍を知り、種種の因縁、譬喩、亦た言辞を以て、髄応して方便もて説く」と。此れは豈に是れ四悉檀の語に非ざらんや。「欲」とは、即ち是れ楽欲、世界悉檀なり。「性」とは、是れ智慧の生、為人悉檀なり。「精進の力」は、即ち是れ破悪、対治悉檀なり。「諸根の利鈍」は、即ち是れ両人悟りを得ること同じからず、即ち是れ第一義悉檀なり。
更に「寿量品」の言葉も根拠とされておられます。
又壽量品云。如來明見無有錯謬。以諸衆生有種種性種種欲種種行種種憶想分別故。
欲令生諸善根。以若干因縁譬喩言辭種種説法。所作佛事未曾暫廢。種種性者即是爲人。
種種欲者即是世界。種種行者即是對治。種種憶想分別。即是推理轉邪憶想得見第一義。
兩處明文四義具足。而皆言爲衆生説法。豈非四悉檀設教之明證也
又た、寿量品に云わく、「如来は明らかに見て、錯謬有ること無し。諸もろの衆生に種種の性、種種の欲、種種の行、種種の憶想分別有るを以ての故に、諸もろの善根を生ぜしめんと欲して、若干の因縁、譬喩、言辞を以て、種種に説法す。作す所の仏事は、未だ曾て暫くも廃せず。」と。「種種の性」とは、即ち是れ為人なり。「種種の欲」とは、即ち是れ世界なり。「種種の行」とは、即ち是れ対治なり。「種種の憶想分別」は、即ち是れ理を推して、邪な憶想を転じて、第一義を見ることを得。両処の明文に、四義具足す。而して皆な「衆生の為めに説法す」と言う。豈に四悉檀もて教を設くるの明証に非ざたんや。
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因縁説周は蔵教の声聞に対し、譬喩説周は蔵教の縁覚に対し、法説周は蔵教の菩薩に対してお釈迦さまは三周の説法を『法華経』の中で展開します。そして三乗に開いて説いた教えを一つに集約して第一義悉檀の虚空絵の説法が「寿量品」で説かれます。
四悉檀は、智顗以前に龍樹が『大智度論』の中で説き明かした法論です。智顗は以上のような根拠を以って龍樹の四悉檀が仏説に基づいて説かれた教説であると述べておられます。
大智度論和訳(一)
https://zenken.agu.ac.jp/research/14/10.pdf
論文プリント下部 No.154-165
仏は真如の実相(第一義諦)を説き明かす為に『般若経典』で空の理を説き、その空の理解において異なる四つの境涯の差異から四段階の「空」の理解の相違が生じると龍樹は説明されております。
大蔵経テキストデータベース
『大智度論』 (龍樹作 鳩摩羅什訳)
復次佛欲説第一義悉檀相故。説是般若波羅蜜經。有四種悉檀。一者世界悉檀。
二者各各爲人悉檀。三者對治悉檀。四者第一義悉檀。四悉檀中一切十二部經。
八萬四千法藏。皆是實無相違背。佛法中有。以世界悉檀故實有。
以各各爲人悉檀故實有。以對治悉檀故實有。以第一義悉檀故實有。
尚、十重の第四項の「対諦」では四悉檀と四諦の関係を次のように智顗は説明されております。
廣對四種四諦者。四種四諦一一以四悉檀對之。復總對者。生滅四諦對世界。
無生四諦對爲人。無量四諦對對治。無作四諦對第一義。
広く四種の四諦に対するとは、四種の四諦、一一に四悉檀を以て之に対す。復た、総じて対すれば、生滅の四諦は世界に対し、無生の四諦は為人に対し、無量の四諦は対治に対し、無作の四諦は第第一義に対す。
四種の四諦それぞれに四悉檀が生じると智顗は申しております。
『魔訶止観』の中の「四門の料簡」でその内容は詳しく解き明かされております。
14,観無量寿経(その⑤)
https://butudou.livedoor.blog/archives/17944347.html
「四門の料簡」として次にお話して参ります。
と、その前にこちらのお話を先にさせて頂きます。
サマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想
https://zawazawa.jp/bison/topic/17
第十項 通経(つうぎょう)
四悉檀を解釈するにあたっての十種の項目の第十は、「通経」である。
問う:四悉檀を用いて『法華経』を解釈すると言うが、『法華経』のどこに四悉檀について記されているのか。
答える:『法華経』の多くのところにこの意味が記されている。一つ一つをあげることは不可能なので、今、略して迹門と本門を代表する文を引用する。
迹門の「方便品(ほうべんぽん)」に「仏は、衆生のあらゆる行ない、心の深い所にある念、過去行なってきた業、欲性精進力(よくしょうしょうじんりき)、および各人の能力の利鈍(りどん)を知り、さまざまな因縁、譬喩、または言葉をもって、まさにしたがって方便を説くのだ」とある。これはまさに四悉檀の言葉ではないか。「欲性精進力」の「欲」とは、真理を求める欲であり、世界悉檀である。「性」とは、智慧の本性であり、各各為人悉檀である。「精進力」は悪を破ることで、対治悉檀である。そして「利鈍」とは、すなわち能力の高い者と低い者は悟りを得ることが同じではない。これは第一義悉檀である。
また本門の「如来寿量品(にょらいじゅりょうほん)」に「如来はすべてを明らかに見て誤りがない。あらゆる衆生には、それぞれの本性、それぞれの真理を求める願い、それぞれの修行、それぞれの思慮分別があるために、それぞれ正しい修行へ進ませようとして、いくらかの因縁、譬喩、言葉をもって、さまざまに説法する。それらの仏のわざは、昔から今まで、少しも後退したことはない」とある。「それぞれの本性」とは各各為人悉檀である。「それぞれの真理を求める願い」とは世界悉檀である。「それぞれの修行」とは対治悉檀である。「それぞれの思慮分別」とは、真理を見上げて、今までの邪悪な思慮を転じて第一義を見ることができるということなのである。
このように、二か所の文に四悉檀が含まれている。そしてこれらはすべて衆生のために説かれたものである。まさにこれが、四悉檀をもって教えを説く証拠とならないわけがあろうか。