仏教のお話

無量義経:徳行品第一

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無量義経徳行品第一の解釈をします。

徳行品では、はじめに菩薩の徳と行が讃えられ、次に声聞が讃えられ、最後に大荘厳菩薩が仏陀の徳と行を讃嘆します。他者を供養・恭敬・尊重・讃歎することは、人間関係において重要なことです。

ダルマ太郎
作成: 2024/05/27 (月) 20:36:02
最終更新: 2024/06/02 (日) 17:11:05
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ダルマ太郎 2024/05/27 (月) 20:56:04 修正

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第一通序-1
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1.法・人・時・主・処の経の五事
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経:是の如きを我聞きき。一時、仏、王舎城(おうしゃじょう)耆闍崛山(ぎしゃくせん)の中に住したまい、
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訳:このように私は聞きました。ある時、仏は、マガダ王国の都ラージャグリハの霊鷲山に住み、
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2.聴聞衆を明かす
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(1)標
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経:比丘(びく)衆万二千人と倶なりき。菩薩摩訶薩(ぼさつまかさつ)八万人あり。(てん)(りゅう)夜叉(やしゃ)乾闥婆(けんだつば)阿修羅(あしゅら)迦楼羅(かるら)緊那羅(きんなら)摩睺羅伽(まごらが)あり。諸の比丘(びく)比丘尼(びくに)及び優婆塞(うばそく)優婆夷(うばい)も倶なり。大転輪王・小転輪王・金輪・銀輪・諸輪の王・国王・王子・国臣・国民・国士・国女・国大長者、各眷属(けんぞく)百千万数にして自ら圍遶(いにょう)せると、仏所に来詣(らいけい)して頭面に足を礼し、(めぐ)ること百千(そう)して、香を焼き華を散じ、種々に供養すること已って、退いて一面に坐す。
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訳:一万二千人の出家修行者と共にいました。大菩薩たちが、八万人いました。天上界の神々、ナーガ、ヤクシャ、ガンバルヴァ、アスラ、ガルダ、キンナラ、マホーラガたちが同席していました。多くの男女の出家修行者や在家修行者も同席していました。大転輪王、小転輪王、金輪・銀輪・諸輪の王、国王、王子、優れた家来たち、優れた人々、大長者たちが、それぞれ多くの眷属と共に集まっていました。人々は、次々と仏のもとへと進み、仏のみ足に額をつけて礼拝し、仏のまわりを右回りに巡りました。香をたき、花を散じ、様々に供養しおわって、退いて席へと戻りました。
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第一通序-1
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2
ダルマ太郎 2024/05/27 (月) 22:24:04

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用語の意味
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通序
仏教経典に共通する序文のこと。その経典が、いつ、どこで、説かれたのかを最初に明かしている。そこには、五事・六成就が書かれている。
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五事
信・聞・時・主・処の経の五事のこと。
①信=如是・・法成就。釈尊の説法を正確に記述しているということ。
②聞=我聞・・人成就。この我とは、ほとんどの経典において、釈尊の侍者として説法を聞いた阿難のことをいう。
③時=一時・・時成就。釈尊がこの説法をしたのが、いつであるかの記述。
④主=仏・・主成就。この教えを説かれたのは釈尊に間違いないという記述。
⑤処=住王舎城・・処成就。釈尊がどこで説法をしたのかの記述。

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六成就
五事に衆成就(聴聞相手)を加えて、六成就という。
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王舎城(おうしゃじょう)
ラージャグリハ Rājagṛha
中インドのマガダ国の首都。釈尊の生まれた紀元前五世紀頃、インドでは村から街へとコミュニティ形態が変化していた。王族の権力が大きくなり始め、バラモンを頂点とするカースト制に反発もあり、そのことから仏教に帰依する王族も多かったようである。マガダ国のビンビサーラ王も、その息子のアジャータシャトル王も仏教に帰依していた。マガダ国とは、当時のインドでは大きな国であり、この国ではカースト制度が緩かったという。

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(じょう)
日本の城のイメージではなく、街のことをいう。インドの街は、自衛のために四方を壁でぐるりと囲んでいた。

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耆闍崛山(ぎしゃくせん)
グリドラクータ Gṛdhrakūṭa
グリドラクータを音写して耆闍崛山という。霊鷲山(りょうじゅせん)のこと。王舎城の東北にあり、釈尊説法の場所として有名。鷲が多いこと、霊山だったことからも分かるように、この山の頂上では、鳥葬が行われていたという。死体が転がっている近くで、釈尊は生活をしていたようである。

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声聞(しょうもん)
シュラーヴァカ śrāvaka
教えを聴聞する者のこと。弟子のこと。初期仏教では、弟子たちは釈尊の教えを聞いて学んでいたので、出家・在家・男女の差はなく、全員を声聞と呼んでいた。部派仏教の時代になって、出家者の学問主義の弟子のことを声聞と言った。

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比丘(びく)
ビクシュ bhikṣu
ビクシュを音写して比丘という。出家して具足戒を受けた男性修行者のこと。

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菩薩(ぼさつ) 
ボーディ・サットヴァ bodhi-sattva
覚りを求める者のこと。菩提薩埵(ぼだいさった)を略して菩薩という。仏果を求め、菩提心を起こして仏道に入り、六波羅蜜の行を修する修行者。上求菩提・下化衆生。

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摩訶薩(まかさつ)
マハー・サットヴァ mahā-sattva
偉大なる者のこと。大乗の修行者。菩薩摩訶薩というように、菩薩と合わせて使われる。菩薩摩訶薩とは、大乗の菩薩のこと。

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10
ダルマ太郎 2024/05/28 (火) 03:10:08 >> 2

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菩薩とは
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菩薩とは、ボーディ・サットヴァ bodhi-sattva の音写です。「覚り+人」という合成語です。初期仏教では、覚りを得る前の釈尊のことをいいました。「覚ることが決まっている人」という意味です。他には、釈尊の次に成仏するといわれる弥勒も菩薩と呼ばれました。大乗仏教になると、「覚りを求める人」という意味で使われるようになりました。大乗は、みんなで成仏を目指すので、大乗仏教徒たちは自らを菩薩と呼びました。大乗の菩薩なので、菩薩摩訶薩ともいいます。摩訶薩とは、マハー・サットヴァ mahā-sattva の音写です。意味は、「大いなる人」です。

般若経典は、菩薩摩訶薩たちによって編纂されました。その中で、空の実践者としての菩薩摩訶薩が強調されています。しかし、声聞や縁覚は成仏できないといって差別したために、法華経の編纂者からは、三乗の菩薩だといわれています。一切衆生の成仏を願う一乗の菩薩とは区別されています。法華経では、菩薩とは、「一切衆生の覚りを求める人」であり、「自他を覚りに導く人」です。

大乗仏教は、紀元前後に起こりましたので、釈尊の時代にはありません。よって、無量義経や法華経の会に菩薩が参加することはありません。実在の人物だとされる弥勒菩薩が参加しているかも知れませんが、八万人もの菩薩が集うことはありません。それらの菩薩とは、法身の菩薩だといわれます。法身菩薩とは、真理・教えを体とする菩薩のことです。真理を覚った菩薩のことですから、仏に近い存在です。しかし、実在しているわけではなく、教義の象徴として登場します。たとえば、慈悲の象徴としての弥勒菩薩、智慧の象徴としての文殊菩薩、実践の象徴としての普賢菩薩というような感じです。経典で弥勒菩薩が登場したら慈悲についての教えが説かれ、文殊菩薩が登場したら智慧についての教えが説かれ、普賢菩薩が登場したら実践について説かれます。

無量義経・法華経は、菩薩への教えです。経典の中でも教菩薩法という言葉が頻繁に出てきます。無量義経では、大荘厳菩薩への説法という形式ですので、菩薩への教えだと分かりやすいのですが、法華経の前半は、声聞たちを対象にしています。会に参加している声聞たちを教化し、菩提心(覚りを求める心)を起して、未来に成仏することを予言し、全員を菩薩にしています。法師品第十以前は声聞への教えのように思えます。法師品からは、薬王菩薩・大楽説菩薩・文殊菩薩・弥勒菩薩などが説法の対象になっていますので、菩薩への教えだというのは明らかですが、法師品以前を菩薩への教えだと言えるのでしょうか?

法華経は、菩薩を対象にした実践指導です。声聞をどのようにして教化し、菩提心を起させ、菩薩としての自覚を持たせ、広宣流布を誓願させるかを、釈尊が実際に行い、菩薩たちに見せて、指導をしているわけです。このことから、教菩薩法といいます。釈尊は、声聞と菩薩を同時に教化しているのです。
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菩薩とは
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3
ダルマ太郎 2024/05/27 (月) 22:33:48

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用語の意味-2
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八部衆(はちぶしゅう)
仏教を守護する天・龍・夜叉・乾闥婆・阿修羅・迦楼羅・緊那羅・摩侯羅伽のこと。

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(てん)
デーヴァ deva
天上界に住む神々のこと。もともとはヴェーダの神。仏教では、八部衆の一群として仏法を護っている。梵天、帝釈天など。

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(りゅう)
ナーガ naga
インド神話の龍は、上半身は人間で頭に五頭の蛇がおり、下半身は大蛇の姿で表わされる。このように古代インドでは、半身半蛇の姿であったが、中国で、中国伝承の龍のイメージに変わって日本に伝わったため、日本の龍も中国的な大蛇風の姿で表わされる。天候を操る力があり、怒れば雨を降らさずに干ばつにし、怒りがおさまったら雨を降らせるという。釈尊の成道の時、ずっと守護したという伝説もある。

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夜叉(やしゃ)
男:ヤクシャ yakṣa 女:ヤクシニー yakṣinī
古代インド神話に登場する鬼神。毘沙門天の眷属だといわれる。

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乾闥婆(けんだつば)
ガンダルヴァ gandharva
インド神話では、帝釈天に仕える半神半獣の楽団に属し、神々が集まる宮殿において、美しい音楽を奏でる役割を担っている。神々の飲む霊薬「ソーマ」を守る役も果たしている。香を食事とし、身体からも芳しい香りを放つ。乾闥婆の妻は、天女のアプサラスである。

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阿修羅(あしゅら)
アスラ asura
意訳は非天。阿修羅は、元は天上界の神だったが、帝釈天との戦いに敗れて、海中に落とされ神の位も剥奪された。争いを好む。

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迦楼羅(かるら)
(巴)ガルダ garuda
インド神話ではヴィシュヌ神の乗り物とされ、蛇や龍を食べて退治する。鳥頭人身有翼である。インドネシアの国営航空会社のシンボルであり、日本のカラス天狗のモデルだともいわれる。

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緊那羅(きんなら)
キンナラ kimnara
歌の上手な音楽の神。男性の緊那羅は半人半馬で、女性の緊那羅はキンナリーと呼ばれ、美しい天女の姿をしている。半人半馬のため人非人ともいう。

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摩侯羅伽(まごらが)
マゴラガ mahoraga
「大きな蛇」の意味。音楽神。身体が人間で、首から上がニシキヘビのような姿をしている。

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用語の意味-2
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4
ダルマ太郎 2024/05/27 (月) 22:46:23

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用語の意味-3
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比丘(びく)
ビクシュ bhikṣu
出家して具足戒を受けた男性修行者のこと。

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比丘尼(びくに)
ビクシュニー bhikṣuṇī
出家して具足戒を受けた女性修行者のこと。

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優婆塞(うばそく)
ウパーサカ upāsaka
三帰五戒を受けた在家の男性修行者のこと。清信士、居士と訳す。

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優婆夷(うばい)
ウパーシカー upāsikā
三帰五戒を受けた在家の女性修行者のこと。清信女と訳す。

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転輪王
チャクラヴァルティ・ラージャン cakravarti-rājan
古代インドの伝説上の理想の王。身に三十二相を具え、即位の時に天より輪宝を感得し、これを転じて四方を征服するので転輪王という。輪宝に金・銀・銅・鉄の四種があり、その輪宝の種類によって治める範囲が異なる。

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国士・国女
中堅階級の男女のこと。

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国大長者
地主や長者のこと。

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囲遶(いにょう)
法会のとき、多くの人々が釈尊の周囲を右に回って礼拝すること。

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(そう)
聖者のまわりを右回りに何回も回って、敬意と帰依を表わす。基本的には三匝する。

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供養(くよう)
プージャナー pūjanā
仏・菩薩・諸天などに、香・華・燈明・飲食などの供物を真心から捧げること。日本では、死者や祖先に対する追善供養のことも供養ということが多い。供養には、「利供養」「敬供養」「行供養」がある。

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利供養(りくよう)・・衣服臥具などの物品を捧げて供養すること。
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敬供養(きょうくよう)・・讃嘆・恭敬する供養。
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行供養(ぎょうくよう)・・仏法を実践する供養。
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用語の意味-3
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ダルマ太郎 2024/05/27 (月) 22:53:53 修正

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1)菩薩衆-1
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a.名を列ね数を唱える
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:其の菩薩の名を、文殊師利法王子(もんじゅしりほうおうじ)大威徳蔵法王子(だいいとくぞうほうおうじ)無憂蔵法王子(むうぞうほうおうじ)大弁蔵法王子(だいべんぞうほうおうじ)弥勒菩薩(みろくぼさつ)導首菩薩(どうしゅぼさつ)薬王菩薩(やくおうぼさつ)薬上菩薩(やくじょうぼさつ)華幢菩薩(けどうぼさつ)華光幢菩薩(けこうどうぼさつ)陀羅尼自在王菩薩(だらにじざいおうぼさつ)観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)大勢至菩薩(だいせいぼさつ)常精進菩薩(じょうしょうじんぼさつ)宝印首菩薩(ほういんしゅぼさつ)宝積菩薩(ほうしゃくぼさつ)宝杖菩薩(ほうじょうぼさつ)越三界菩薩(おつさんがいぼさつ)毘摩跋羅菩薩(びまばつらぼさつ)香象菩薩(こうぞうぼさつ)大香象菩薩(だいこうぞうぼさつ)師子吼王菩薩(ししくおうぼさつ)師子遊戯世菩薩(ししゆけせぼさつ)師子奮迅菩薩(ししふんじんぼさつ)師子精進菩薩(しししょうじんぼさつ)勇鋭力菩薩(ゆえいりきぼさつ)師子威猛伏菩薩(ししいみょうぶくぼさつ)荘厳菩薩(しょうごんぼさつ)大荘厳菩薩(だいしょうごんぼさつ)という。是の如き等の菩薩摩訶薩八万人と倶なり。
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b. 菩薩衆の徳を歎ずる
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(a)自利
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①法身
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:是の諸の菩薩、皆是れ法身の大士ならざることなし。(かい)(じょう)()解脱(げだつ)解脱知見(げだつちけん)成就(じょうじゅ)せる所なり。
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訳:この菩薩たちは、皆、真理と一体となった高位の者たちです。戒律を守り、禅定をし、智慧が深く、迷いから離れ、迷いから離れていることを自覚していました。
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②止徳
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経:その心禅寂にして、常に三昧に在って、恬安憺怕(てんなんたんぱく)に無為無欲なり。顛倒乱想(てんどうらんそう)、また入ることを得ず。静寂清澄(じょうじゃくしょうちょう)志玄虚漠(しげんこまく)なり。これを守って動ぜざること億百千劫、無量の法門悉く現在前せり。
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訳:その菩薩たちの心は落ち着いていて動じることがなく、常に一心に集中しており、現象に振り回されることなく常に安らかであり、ものごとにこだわることがありません。自己中心的ではなく、必要以上の欲もありません。真理を無視するような自分勝手な考えはなく、想いが乱れることもありません。心が澄んで静かに落ち着いており、志しは高く、広くて限りがありません。このことを守って長い間、動揺することなく、多くの教えを理解してきました。
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③観徳
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経:大智慧を得て諸法を通達し、性相の真実を暁了(ぎょうりょう)し分別するに、有無長短、明現顕白なり。
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訳:大きな智慧を得ていますので、世界の事物・現象を深く観ることができ、物事の特徴と本質を見通し、見分けるとき、そのものの特徴の有無、度合いをはっきりと見極めていました。
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1)菩薩衆-1
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