仏教のお話

無量義経:徳行品第一 / 2

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ダルマ太郎 2024/05/27 (月) 22:24:04

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用語の意味
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通序
仏教経典に共通する序文のこと。その経典が、いつ、どこで、説かれたのかを最初に明かしている。そこには、五事・六成就が書かれている。
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五事
信・聞・時・主・処の経の五事のこと。
①信=如是・・法成就。釈尊の説法を正確に記述しているということ。
②聞=我聞・・人成就。この我とは、ほとんどの経典において、釈尊の侍者として説法を聞いた阿難のことをいう。
③時=一時・・時成就。釈尊がこの説法をしたのが、いつであるかの記述。
④主=仏・・主成就。この教えを説かれたのは釈尊に間違いないという記述。
⑤処=住王舎城・・処成就。釈尊がどこで説法をしたのかの記述。

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六成就
五事に衆成就(聴聞相手)を加えて、六成就という。
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王舎城(おうしゃじょう)
ラージャグリハ Rājagṛha
中インドのマガダ国の首都。釈尊の生まれた紀元前五世紀頃、インドでは村から街へとコミュニティ形態が変化していた。王族の権力が大きくなり始め、バラモンを頂点とするカースト制に反発もあり、そのことから仏教に帰依する王族も多かったようである。マガダ国のビンビサーラ王も、その息子のアジャータシャトル王も仏教に帰依していた。マガダ国とは、当時のインドでは大きな国であり、この国ではカースト制度が緩かったという。

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(じょう)
日本の城のイメージではなく、街のことをいう。インドの街は、自衛のために四方を壁でぐるりと囲んでいた。

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耆闍崛山(ぎしゃくせん)
グリドラクータ Gṛdhrakūṭa
グリドラクータを音写して耆闍崛山という。霊鷲山(りょうじゅせん)のこと。王舎城の東北にあり、釈尊説法の場所として有名。鷲が多いこと、霊山だったことからも分かるように、この山の頂上では、鳥葬が行われていたという。死体が転がっている近くで、釈尊は生活をしていたようである。

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声聞(しょうもん)
シュラーヴァカ śrāvaka
教えを聴聞する者のこと。弟子のこと。初期仏教では、弟子たちは釈尊の教えを聞いて学んでいたので、出家・在家・男女の差はなく、全員を声聞と呼んでいた。部派仏教の時代になって、出家者の学問主義の弟子のことを声聞と言った。

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比丘(びく)
ビクシュ bhikṣu
ビクシュを音写して比丘という。出家して具足戒を受けた男性修行者のこと。

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菩薩(ぼさつ) 
ボーディ・サットヴァ bodhi-sattva
覚りを求める者のこと。菩提薩埵(ぼだいさった)を略して菩薩という。仏果を求め、菩提心を起こして仏道に入り、六波羅蜜の行を修する修行者。上求菩提・下化衆生。

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摩訶薩(まかさつ)
マハー・サットヴァ mahā-sattva
偉大なる者のこと。大乗の修行者。菩薩摩訶薩というように、菩薩と合わせて使われる。菩薩摩訶薩とは、大乗の菩薩のこと。

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    ダルマ太郎 2024/05/28 (火) 03:10:08 >> 2

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    菩薩とは
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    菩薩とは、ボーディ・サットヴァ bodhi-sattva の音写です。「覚り+人」という合成語です。初期仏教では、覚りを得る前の釈尊のことをいいました。「覚ることが決まっている人」という意味です。他には、釈尊の次に成仏するといわれる弥勒も菩薩と呼ばれました。大乗仏教になると、「覚りを求める人」という意味で使われるようになりました。大乗は、みんなで成仏を目指すので、大乗仏教徒たちは自らを菩薩と呼びました。大乗の菩薩なので、菩薩摩訶薩ともいいます。摩訶薩とは、マハー・サットヴァ mahā-sattva の音写です。意味は、「大いなる人」です。

    般若経典は、菩薩摩訶薩たちによって編纂されました。その中で、空の実践者としての菩薩摩訶薩が強調されています。しかし、声聞や縁覚は成仏できないといって差別したために、法華経の編纂者からは、三乗の菩薩だといわれています。一切衆生の成仏を願う一乗の菩薩とは区別されています。法華経では、菩薩とは、「一切衆生の覚りを求める人」であり、「自他を覚りに導く人」です。

    大乗仏教は、紀元前後に起こりましたので、釈尊の時代にはありません。よって、無量義経や法華経の会に菩薩が参加することはありません。実在の人物だとされる弥勒菩薩が参加しているかも知れませんが、八万人もの菩薩が集うことはありません。それらの菩薩とは、法身の菩薩だといわれます。法身菩薩とは、真理・教えを体とする菩薩のことです。真理を覚った菩薩のことですから、仏に近い存在です。しかし、実在しているわけではなく、教義の象徴として登場します。たとえば、慈悲の象徴としての弥勒菩薩、智慧の象徴としての文殊菩薩、実践の象徴としての普賢菩薩というような感じです。経典で弥勒菩薩が登場したら慈悲についての教えが説かれ、文殊菩薩が登場したら智慧についての教えが説かれ、普賢菩薩が登場したら実践について説かれます。

    無量義経・法華経は、菩薩への教えです。経典の中でも教菩薩法という言葉が頻繁に出てきます。無量義経では、大荘厳菩薩への説法という形式ですので、菩薩への教えだと分かりやすいのですが、法華経の前半は、声聞たちを対象にしています。会に参加している声聞たちを教化し、菩提心(覚りを求める心)を起して、未来に成仏することを予言し、全員を菩薩にしています。法師品第十以前は声聞への教えのように思えます。法師品からは、薬王菩薩・大楽説菩薩・文殊菩薩・弥勒菩薩などが説法の対象になっていますので、菩薩への教えだというのは明らかですが、法師品以前を菩薩への教えだと言えるのでしょうか?

    法華経は、菩薩を対象にした実践指導です。声聞をどのようにして教化し、菩提心を起させ、菩薩としての自覚を持たせ、広宣流布を誓願させるかを、釈尊が実際に行い、菩薩たちに見せて、指導をしているわけです。このことから、教菩薩法といいます。釈尊は、声聞と菩薩を同時に教化しているのです。
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    菩薩とは
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