僕は寂しさを感じたことはありません。
しかし、twitterで行ったアンケートによれば、過半数のスキゾイドは寂しさを感じるようで驚きました。
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寂しさを感じるスキゾイドの方は、どれくらいの頻度で、どんな状況で寂しさを感じるのか教えてください。
寂しさが全くない方も、昔は寂しかったのか、昔も寂しくなかったのか、寂しさは感じなくても、それに近い感情(人付き合いがないことに関する不安、危機感など)はあるのかお聞かせください
※このトピックの「寂しさ」は、人間関係に限定した、人恋しさ、孤独の心細さを意味してます
こちらのトピックの内容も参考にしてください
僕は寂しさを感じません。子供の頃は友達と一緒にいたい、遊びたいという感情がありましたが、それは寂しさを感じるからではなく、人付き合いが純粋に楽しいからでした。
周りが友達と旅行に行ったり、彼女を作ったりすると、僕も人付き合いをしなきゃなとは思いますが、寂しさというより危機感に近いですね。
「寂しさ」というと埋めるもの、満たすものというイメージがあります。マイナスからゼロにする感じです。僕は人付き合いを、精神的に足りない何かを埋めるものというより、ゼロの状態にプラスするものだと捉えています。
僕は現時点では、「自己肯定感を他人に認められることで満たしたい欲求」が「寂しさ」だと思っています。
スキゾイドは「根拠のない万能感」によって自己肯定感が満たされているので、寂しさを感じないのではないでしょうか。
精神的に疲れると自己肯定感がなくなって寂しさを感じるのかもしれません。
自分に理解のない人が周りにうようよいるときにさみしさを感じます.
なるほど、自分の存在が認められないことから来る寂しさでしょうか?
ちなみに、頻度はどれくらいですか?
Twitterでたまにあると回答しました
私の場合は、「数ヶ月友人と会っていない」「自分の中の不安や不満が溜まっていて、精神的に疲れている状態」という、二つの条件が重なったときに寂しさを感じます
そのため頻度としては、「一年に一度、あるかないか」といった程度になります
ほんとに極たまになんですね。若葉さんのように一年に一度レベルの人が多ければ、アンケートの結果も納得です。
ちなみに、寂しさを感じた時は友達に会いに行きますか? それとも一人で疲れを回復しますか?
私は普段、自分から友人に連絡することはほとんどありませんが、寂しさを感じたときは自分から連絡します
実際に会うかどうかは場合によりますが、「自分から連絡する」ことが、寂しさを満たす手段になっています
返信ありがとうごさいます。
寂しさを感じたらちゃんと(?)人と交流するんですね。
「自分の連絡に友達が反応してくれる」ことで安心できるんでしょうね
正直に言って寂しいという感情が本当に分からないですね。
もしふーとさんの言うように「自己肯定感を他人に認められることで満たしたい欲求」が「寂しさ」だとするならば。
私は自分で自分の能力をしっかりと把握できているので、他人からの評価がどうだろうが自分の中での絶対評価は変わらないという事実のもとに寂しさを感じていないのかもしれません。
分かります。僕も自分の中に絶対評価があって、他人がどう評価しようが基本ブレません。
もし、自分の絶対評価を揺るがす何かがあったり、精神が限界になったら、他人の評価が欲しくなるかもしれません。
普段寂しいという感情を抱くことはないに等しいのですが、先日ある状態で寂しいという感情を感じたので書き込みます。
それは『夢の中』です。
具体的な夢の内容は覚えていないのですが、夢の中で強い寂しさや不安を感じたのです。
これは日常過ごしている時に感じることのない感情でした。
なので確実にこれが寂しいなのかはわかりませんが、私の中では『寂しい』に近い感情だったと思います。
スキゾイドは普段感情を奥にしまいこんでいるので、夢の中では無意識下の感情を感じることができるのかもしれないと思いました。
実は自分は寂しいのか?と起きて思いましたが、生活する中では人間関係に起因する寂しさはないんですよね。
将来などの漠然とした不安とかはなんとなくあるんですが…。
夢の中ですか、面白いですね。
他の方も言っているように、普段は心の奥にしまい込まれていると考えるべきかもしれません。
Twitterやこちらの掲示板で皆さんの意見を聞くまでは
「寂しい」というのは何をして良いのか、何をしたらダメなのかわからない時に抱く不安な気持ちのことだと思っていました。
例えるなら全く知らない言語圏の国に身一つで放り出されたみたい時のような気持ちです。
ただただ1人でいて人恋しいような気持ちを抱いたことは今までにないので私も寂しいと思ったことは無い部類の人間なのかなと思います。
ああ、海外にいるときのなんとなく不安な感じ、分かります。
さすがに自分の評価に自信がなくなって、日本人がいるとホッとした経験があります。
あれは寂しさの疑似体験だったのかもしれません。
日本にいれば意思疎通はできるし、家に帰れないという不安もないので、寂しさを感じるラインまで到達しないのかなと思いました。
フィクションや現実で寂しい人に共感して寂しいに襲われることはあります。自分が一人でいるときはまったく感じません。
「寂しい」は人に対する喪失感で、親しい人がいなくなった跡ではないかと考えています。もともとそういう人がいなければ「寂しい」も発生しないのではないでしょうか。
なるほど、親しい人と居て寂しさを満たされる経験がなければ、寂しさは感じませんね
酒を飲んだことがなければアル中にはならない、みたいな感じですか(例えがあれですけど)
私が寂しさを感じる時は2種類あります。
1つ目は、周りに1人も理解者がいない時。知らない土地に就職し、一人暮らしを始めた時に強烈な寂しさを感じました。この場合、「寂しさ=心細さ」という感じです。
2つ目は、集団の中で孤立してしまった時。他の人はうまく人間関係を築けているのに、自分だけ学校や職場で孤立してしまっている、というような時は寂しいです。(この場合の寂しさはたぶん劣等感から来ているので、本当の意味での「寂しさ」とは少し違うかもしれませんが)
誰にも理解されない状態が寂しいんですね。
僕は知ってる人が誰もいないと逆にワクワクします。中途半端に理解されるくらいなら、完全に理解されてない方が楽だからかもしれません。または、どこに行こうと理解者なんていないと諦めているか…
よくいつも1人で寂しくないのと聞かれますがそういったものは感じないですね
世間の寂しいというものはどうやら一人でいて人恋しさを感じるときのように思います
が、煩わしく思うものに接しないほど自由なことはないと考えているのでそういったところが私自身と世間とがズレているのだと思います
スキゾイドに対しての理解者がいないことは寂しいというよりは諦めですかね しょうがないなという気持ちです
どうしても人間関係の煩わしさが勝ってしまいますね
理解者がいないことの諦めはよく分かります。僕も、理解されないことが当たり前すぎて諦めてる実感が無かったくらいです
初めまして。自己診断ですがスキゾイドだと感じている者です。
私も普通はほとんど寂しいと感じることはありませんが、「自分のスキゾイド気質を知って(認めて)くれ、なおかつ私の思考や表現に好意と共感を寄せてくれる人間」が自分から離れてしまいそうな時はとても寂しいと感じたことがあります。
そもそも他人から理解や賞賛を示されることはごく少ないので、そのような人間はめったにいません。それを失いそうになったときの焦りや喪失感といった感情を覚えました。離れていこうとする人間を繋ぎ止めるなど今まで一度もしたことがありませんでしたが、自発的にその人に声をかけ関係を修復させる行動を取ってしまうほどにはその感情は強いものでした。
本心を見せたことのない大抵の人間に対して感情が動くことは有り得ませんが、稀に本心に近い部分を許した相手に対してであれば感情的になることもあるということでしょうかね。
スキゾイド気質を認めてくれる人に出会えれば寂しさを感じるんですね。興味深いお話です。
スキゾイドも安心して本心をさらけ出せる環境があれば、人間的な感情を自覚できるかもしれませんね(本心を晒すのがいいのか悪いのかは難しいところですが)
twitterのアンケートで「よくある」と回答しました。
しかし、友人と遊びたいとか卒業での別れなど一般的な寂しさというものはあまり無く、「自分を理解してくれる人間」だけを求める気持ちが強いです。
初めまして。スキゾイドちゃんをリツイートで見かけて、自分もこれだ!と納得してしまった者です。
私はたまに寂しさを感じます。
大抵飲み会等の後で、「接客モード」になっていた後の反動みたいなものかな、とも感じています。
自分の性質については「別に迷惑かけるもんじゃないしいいでしょ」という自己肯定感はあるものの、
人と違うという事については強烈なコンプレックスがある為、人は○○なのに自分は……となってしまうのです。
でも、そのうち気分が変わると忘れてしまいます。
30代半ばですが、僕も寂しさは感じたことはないですね。明日も10年後もそうでしょう。
ただ、自分はン年後も変わらないと思うと、もう人生でやることはないなという論理的帰結に至っています。これを覆す要素は今のところありません。
はじめまして。
自己判断のスキゾイドです。
寝子さんと似ていますが、私も夢から覚めて、寂しさ、というのか、この気持ちはなんだ?と思ったことがあります。
夢の中では、私は知らない男の子に手を引かれていて、色々な所を歩き回ったり景色を見たりしていました。会話もなく、顔も全く見えなかったのですが、朝、夢から覚めると、なんとなく、欠けた感じといいますか、何かが足りない、という気持ちになりました。
それまでもこれまでも、人と接していてもそんな気持ちにはならないのに、とても不思議だったのを覚えています。
でも、その時に感じたのは、「虚しさ」だったと思っています。「寂しい」にしては、周りの人のように、誰かに会いたいとも話したいとも思わない。
普段、自分の中にある感情、人格の一部がその男の子として現れ、夢から覚めた時に今は一人だと実感したのだとすると、「寂しい」になるのかもしれないな、とみなさんの話を見ながら思いました。
自分も、寂しさは感じないけど空虚さは感じます。
自分の価値観的には、パートナーが欲しいわけはないのだけれど、「ペア」という形に純粋に綺麗だなという、憧れ?があります。
手に入らないからこそ、価値が輝いて見えるのかな。
グレタガルボが、連れ添った老夫婦の姿に価値を見ていたらしいその気持ちが少しわかります。
憧れ、私もあります。
周りの恋人や大人数でいつもいる友人は、その度に笑っていたりにこにこしていたり、そんなに楽しいものなら私も体験してみたいなあ、という気持ちです。
ただ、あくまで「憧れ」で、一般の方から聞く恋人や家族を求める感覚とは違うのかもしれないと感じています。
こんにちは、初めてコメントさせていただきます。
私は心理士さんにあなたはスキゾイドだね、と言われました。
少し違っているかもしれませんが…私は「みんなといるのにひとりぼっち」と感じることがあります。それは友人や家族などと一緒に過ごしている瞬間に感じます。物理的にはひとりではなく、全く楽しくないという訳ではないですが、心の面で輪には入れなくて、その場をやり過ごす為の楽しんでいる自分を演じています。そのような演じている自分を何処か遠くから見ているのが私です。遠くから見ている自分の存在に気付いた時に、これって「寂しいことだなぁ」という様に感じます。私が寂しい、というよりは「こんなことをしている私は寂しい人間だ」という様に感じます。長文失礼しました。
みなさん、抑うつ的になりますか?
自己肯定感、全能感によりシゾ傾向の人はあまりならないとも言います。自分もふだんはそうです。
ただ、自分のカレンダーの次の予定は「死」以外ないという感覚が昔からあり(友人や異性との約束、仕事上のカレンダーとは全く別の、人生のカレンダーっていう感じです)、次の予定がそれ以外もうないなら、それは明日でもいいのにな、とふとしたときに思うのです。
そして、少しだけ心が重くなります。
普通の人に言っても理解されませんが、希死念慮とはまったく別です。痛いのは嫌いだし、死でもってアピールしたいことなんてないですし。とりあえずスイッチを切りたい、という表現が的を射ています。
自分は根拠のない自己肯定感で生活できてますが、普通の人がこれになると、セルフネグレクトってやつになるのかな。