嫁:そうかい、それは良かったねー、熊さんおみっちゃんおっかさんも、本当におめでとうございます、それにつけてもおまいさん、よくもあたしをだましておくれだね、知っていたのに内緒だなんてさふん
熊:いやいや、おかみさんあっしがご隠居にくれぐれもとお口留めをお願いしたんでさぁ、ですからご隠居はさっきからこれまでずーーーっと真に迫った腹芸を貫きなさって
嫁:それにしてもさー、長年連れ添ったあたしにぐらいはそれとなくでもねぇー
熊:それがあっしの親父、ご隠居の男っぷりってやつでやしょう
熊:兎にも角にも、ご隠居には今後とも親父としてお世話になりやすが、この度は本当にお世話になりました
嫁:お前さんー、もうそろそろ、いくら何でも、その開いた口を閉じてくださいよ、もうあなたのお腹芸は十分いただきましたから
ご隠居:あっ、おっと、そっそうか
熊:じゃご隠居あっしらはこのあと三太と四之介のところに行ってきやす、あいつらにゃやっぱり報告しておかねいてっと、あっしもここのところは奴らとはろくすっぽ口もきいていねぇんで、なにしろ何かにつけてあっしの口元が緩くなっちまうんでだんまりばかりでしたんで、ちょいとへい
ご隠居の家を後にする熊一家、両の隣が挾みし中を、手を添え気遣いながら歩く様は、まるで通ったあとを季節代わりさせるような温もりに包まれて、ゆっくりと歩を進めます、見送る二人にはそんな風に映ったのでありました。
見送る老夫婦の肩口に桜の花びらが一片、それをそのままに家内に入って二人が見つめあって、「良かったね」は思わず知らず湧くように互いの唇を割ったのでした。
三太:熊兄貴、姉ぇさんにおかみさんまで、どうしたんですか
熊:三太、四之介、実はなおみつに子ができたんだよ
三太・四之介:んっ、っとあの
熊:まあ驚くのも無理はねぇー、おみつに子ってーいことは、この俺が親父になるってぃことだ、いやな、ここの所お前たちには随分とそっけなくしていたんで気に病んでいたんだ、それもな、実は3週間ほど前には、子供ができたことはわかっていたんだが、勿論お前たちにも真っ先に言わなきゃなんねいことだけどな、医者から「安定するまでは周りには内緒に」とくぎを刺されていたんでな、この通り、これまで隠していたことは謝るよ
三太:ち、ち、ちよっと兄貴頭を上げてくださいよ
おみつ:三太さん四之介さん、本当にごめんなさいね、この度はおめでたっていうことで勘弁願います
三太:ち、ち、ちよっと姉さんまで、こっちこそ勘弁してくださいな
熊:おいらも本当のところは何度も喉っ首まで出かかったんだけどな、おみつの体質があるんで、もしおじゃんなんていことになったなら、お前たちにもそのあと余計に気をまわさせるとおもってのことなんだよ、いや本当に謝るよ
三太:兄貴もうわかりましたんで、どうか顔を上げてください
三太:改めて、兄貴姉さんそしておかみさん、この度はおめでとうございます
三太:四之介!、っておまいは何でこの期においてボヤっとしてやんだよ
四之介:だって三太兄貴、だっ
三太:だってもあさってもねいこんちくしょう、熊兄貴こいつはあんまり驚いたんでぼーっとしてやすが、いま明後日にお使いに行ってる『喜び』ってい奴が、ハイもう間もなく戻ってめいりやすんで、四之介お前も手をついて兄貴と姉いさんにおめでとうの一つも
熊:いやいや、そんなに驚かせるっていとはな、四之介おめいには随分とそっけなくして悪かったな、この通りだ
四之介:あっ兄貴ぃ
熊:いやな、この度はお前には時々なんか腹に持ってるような目で、おれを見ていやがるような気がしててな、いやいや今となってはそれもおいらの余計な勘ぐりてぃことは、今のお前の様子、その驚きようを見りゃあ一目瞭然だ、この度はおいらが勝手にお前に見透かされているように感じてたんで三太よりも余計にそっぽにして悪かったよ、この通りだ
三太:四之介!、この野郎は、熊兄貴に何度も頭を下げさせるんじゃねい、こんちくしょう、だからおまいは、頭をこう
熊:おうおう三太よしねい
三太:だってこの野郎ときたら、っと
四之介:く、く、熊兄貴、姉さん、おかみさんこの度はおめでとうございます
三太:熊兄貴、さ、姉さんもおかみさんもこの通りですから、兎に角頭を上げてくださいまし
熊:そうか、許してくれるか
三太:許すも、許さないも、おめでたじゃあありませんか、あっしらは確かに、端はちっとは驚きやしたが、そうですかおみつ姉さんのお腹に、本当におめでたいことでやんすね
熊:そうか、これでおいらも胸のつっかえが胃の腑へ下りたよ、こうなったら今までぐっとこらえて飲み込んでた小言も、明日っからはこれまで通り遠慮なしにさせて貰うぜ
三太:へい、熊兄貴よろしくおねげえいたしやす、し、四之介、こっこのや
四之介:い、痛っわかったよ、お、おねがえ
熊:明日っからは、ばりばりといくぜー
おみつ母:じゃ熊さん、あたしたちはおみつの体のこともあるし、ここいらで
熊:おっかさん、そうですね、じゃあっしも
おみつ母:熊さん何を言ってるんですか、昔っから仲直りはお酒でしやんしゃん手を打つてもんですよ
おみつ母:三太さん、熊さん宛てに荷が届いていますね
三太:昼前に熊兄貴宛てに届いてやしたが、こいつですかい
おみつ母:そうそう熊さん差し出がましいとは思ったんですが、三人でややに祝杯を頂戴できればとお神酒を用意させていただきました、肴はさかなってことでへら鮒釣り好きには聊かと思いましたので、こちらに熊さんの好きな唐茄子の煮たものと、蝦夷鹿の肉を軟らかく成るまで炊いたものを用意してありますから、遠慮なく上がってくださいな、あとはお神酒の下のところに二升の切手を挟んでありますから、この度によらずそちらは、お二人でゆっくりと上がってくださいましな
三太:おかみさん
熊:おみつ帰りはでえじょうぶか
おみつ:はいはい、もとより病人じゃないんですからあたしは大丈夫ですから、三太さんたちとごゆっくりとなさってください
熊:そうか、おっかさんと示し合わせかい、おっかさん帰りの道中はくれぐれもよろしくお願いしやすよ
三太:兄貴、さ、さ、さ、先ずはご一献
熊:おうよ、すまねぇ
熊:お前たちも、行けよっと、こう
三太・四之介:ゴチになりやす
熊:なんだなぁ、この度はおれが親父だ、こないだまで嫁の来手がなかったうえにさんざっぱらあっちこっちと無駄にぶつかってはケンカだ揉め事だっていのがあたぼうだったのがなぁ
三太:兄貴が、おやじですかい
四之介:あにっ
三太:四之介お前はまだ明後日かこの野郎、だまって
熊:三太、よしねい折角の祝い酒だ、肴もうんんっと、きょうっぱかりは無礼講で行こうぜ
三太:へい、ささ兄貴どうぞ
熊:いやいや、ここからは手酌で行こうぜ、どうれ
三太:いやそれにしても兄貴この度は良かったですね
熊:ありがとうよ、さんざっぱら邪険にして悪かったけど、まあお前らも子ができたらわかるが、なんともいい心持ちだぜぇー、仕事の最中でも時々心持にこう出てきやがってなー、これが抱っこするところを思い浮かべてみねい、玄翁を振り下ろす手が自然と優しくなっちまってな、こないだは5年ぶりに抑えている手をやっちまって血豆をこさえてしまったんでぃ、だけどなこれがその血豆さえ可愛くなってきてな
三太:抱っこする前からこんなんじゃ、熊兄貴来年の今頃にゃー
熊:おうよ、この間も現場の隣の家から赤ん坊の泣き声がしてな
三太:山田さんところの東屋の現場でやすね
熊:おうよ、でなっ、いまのいままでだったならおいらは「どこぞの空の下」ていことなんだが、気が付いたら膝がなっ、とこうなって自然に自分であやしているんだよ、そうしたら四之介と目が合っちまってな、「兄貴小便でやすか」ってな、おうよ、ちょっといってくらーって、便器を前にして丁度また泣き声が聞こえて来たんで膝がこうで、すこしっぱかり股引にこぼしちまってよー
三太:兄貴汚ったねー話だなー
熊:ままっ、おまえらだっていずれはそうなるよ、さ、さ、四之介も進まねいようだがやってくれよ
四之介:へいい、いただきやす、三太兄貴こうなりゃあっしもやらせていただきます、ああやりますとも
熊:おっ、いいねーどうも、やっと様子がよくなってきたよ
熊:それにしても四之介さっきの驚きようはなぁ、おれのお惚けもまんざらじゃなかったてぇぃことだよな、ところがだ、実はなここに来る前にお前たちには後先で悪いとは思ったんだが身一つなんでな勘弁してくれいな、ご隠居のところへ先にご挨拶に伺ったんだけどよ、更に『実は』を重ねるとよ、遡ること2週間前にご隠居に呼ばれて伺ったんだよ、そしたらよおみつの子供の件でといきなりバッサリと袈裟懸けを食らったんだよ、さすがに親父代わりのご隠居だ委細はお見通しってことで、そこでおいらは「何とか内緒に」とお願いしたんだが、「あいや分かったこの腹に深く納めよう」ってい大岡裁きをいただいてな、今日の報告でも最後の最後までその腹を貫き通していただいて、「正直な話、御隠居とおかみさんは長い連れ添いだ、「話が抜けても背負うがあるめい」とは思っていたんだけどな、とこれが、さすがご隠居だ、おかみさんにさえ水も漏らさない内緒を貫いていただけたのがよおおくっ見えて、おいらは痺れたよ、流石は俺の親父ご隠居だ、あの人はそんじょの腹じゃねーぶっといお人だー感服したよ、そいでよ、四之介よ、ご隠居の話をしたら以前にご隠居と話をしたことを思い出したんだけど滅多は無いけど今日はいいかい、おまいは仕事もへら鮒釣りも後一手のところまで来ているよ、いいかい仕事もへら鮒も必ず壁っていもんがあるんだ、行き詰まりってやつさ、たいていの奴はそこで往生したりあきらめたりして、末はしくじるもんだ、だがなそこでしつこく前に進もうとし続ければだ、まあこれはご隠居の受け売りだこんちくしょう
三太:熊兄貴、ささもう一杯
熊:おうよ、いやいい酒だねーちょっくら効いてきたねー、三太おまいもやれいっと、四之介っとおまいはいつも言っているが手が硬ぇんだからひと様より事の進みの時間