ご隠居:いいかい熊や、世の中には同じような人たちは少なからずいるんです、そうしたことが仇で肝心要をしくじったらなりませんよ
熊:いや、ご隠居あっしも随分と考えやしたが、おみつと十分相談して、おっかさんのことを思って、もう少しと、先に延ばしては、これっぱかりはなかなか切り出せなかったんでやんす、本当に申し訳ありやせんでした
ご隠居:なに、おみつも知ってのことなのかい
熊:って、ご隠居こうしたことは当人のおみつが一番わかることですから
ご隠居:さすがに、あの聡明なおみつだ、きっと確りとお医者に掛かって分かったんだね
熊:へい、そりゃーもう子供のころから掛かっている隣町の馴染みの医者に隅々まで調べていただきやして、「やっぱり・きっぱり」といったことになったんでやす、でっ、この医者っていのがこれが驚いたのなんのって、どうもどこかで見た顔だなって思っていたんですが、これがちょくちょく遊水境で見かける旦那衆の一人でやした、世の中には偶然ていことはあるんですねーご隠居
ご隠居:そうですか、子供のころから掛かっている、遊水境に出入りしている医者にですか
熊:男のあっしには、産婦人科の医者が主治医ってぇのは、なにか宗派が違う感じがいたしやすが、おみつが言うには、産婦人科の医者っていのは、内科全般を診ることができる上に婦人科も診れるっていことで、御婦人方には産婦人科の医者を主治医にしている人は大層多いっていことでやんした
ご隠居:そうかい、主治医が産婦人科医ってことですか
熊:でね、実はおみつのおっかさんも二代でこの先生にお世話になっているらしくって、なんでも、おみつの子供のころの大病も手当てが早くって助かったし、おっかさんも若い頃は婦人科が弱かったらしくって随分とお世話になったってぃことで、「あの先生なら」って二人が口を揃えて言ってやした
ご隠居:っていと、この件はおっかさんも知っ
熊:いや、それがどうしても今の内はもう少しばかり話せねぇんで、それというのもその主治医の先生のお話では、おみつのおっかさんは若いころに一度お腹を流しているんだそうです、随分と苦労の上でこしらえたお腹を流してしまって、夫婦でそりゃー塗炭の悲しみってい奴で、いや尚更でやしょうご隠居、ままっそうはいってもいつかは話さなきゃならねい時が来やすんで、その時はおっかさんとご隠居には一番にと思っていやしたんですが、ご隠居には見透かされていたとは流石です
熊:といった塩梅で、ご隠居には今少しばかりはご辛抱願いていんでやす
ご隠居:腹に仕舞えということですね
熊:へい、あと少しで話せる時期、潮時ってぃやつが来やすんで、なんとかおねげーしゃす
ご隠居:熊よ、相分かったお前の苦労は私の苦労だ、私も一切を承知で飲み込んで腹に納めましょう
熊:ご隠居、あ、ありがとうございます、で、ご隠居はあっしとおみつ以外にしか知らないこのことを、い、いっていどうしてこのことが分かったんでやすか
勿論のこと、三太四之介のご注進であるところの遊水境の一件を話すわけには、まいりません。
ご隠居:熊よ、おいらはお前のなんだ、親父じゃねーか
熊:そうですか、親父には全てお見通しってことですかい、いや勝てませんねー
熊が玄関を出て背を小さくするのを見送ったご隠居でしたが、腹に納めたそのことの重さがこの後の暮らし向きに浅からずの影を落とします。
どんな近所の内緒ごとでも、連れ合いにまで隠さねばならぬことはこれまでにはなかったことです。つい手拍子でといったことも、また話の流れでぽんと、などといったこともありますので、用心に用心を重ねまして「沈黙は金」とばかりにどうにも口が重くなってしまうのでありました。
嫁:お前さん、さっきからへーへーって生返事ばかりで、ちょっと聞いてるのー
ご隠居:へーへー
嫁:昨日から一体どうしたのかねー
ご隠居:へーへー
それから2週間ほどが経ちましたある夕刻、ご隠居宅の表の木戸が叩かれます。
どんどんドン、「ご隠居ごめんください熊でやす」
木戸を開けると熊おみつそしておっかさんと3人が揃って、「この度は夜分に恐れいります」と殊勝な挨拶となりました。
遂に事を打ち明けたのか、三人の顔はつきものが落ちたように晴れ晴れとしているように見えますが、その様は「蝦夷地の青空からの雪」のようにご隠居の目には移りました、さぞや痛々しと、
ご隠居:ささっ、そこではなんですからお上がんなさい、熊、うちの奴もいますがいいんですね
そっと耳打ちするご隠居でしたが
熊:勿論ですよ、おかみさんにも是非とも報告したいんですから
ご隠居:声が大きいよ
熊:そうですかい、地声なんでさぁ
熊:ご隠居、おかみさん、いやさ親父おっかさん、こんなあっしに子供が出来やした
ご隠居:そうか、これまでさぞや苦しかったでしょう、熊も良く打ち明けてくれましたね、世の中にはそうした人もいますから、それはそれで
へっ、く、熊、で、できたって
熊:ご隠居さすがのお腹芸でこれまで本当にありがとうございました。ですがもういいんでやす、へい、あれは一月ほど前の釣りの前日ですから金曜日でした、こいつが具合が悪いからというんで、朝一番で主治医の先生の所へ雁首並べて一緒に伺ったんでやす、そうするっていと2ケ月ってことであっしらもこれで待ち望んでいたおっかさんにって、喜んだんですが
熊:何せおみつのおっかさんも古くから掛かっているお医者様ですから、その医者の言うには、なんでもおみつのおっかさんは婦人科に難儀を抱えていたから、随分とおみつができるまでに悲しい思いをしたらしくって、一度きは出来たと喜んだのも束の間で流しちまったこともあるっていことでした、おみつもおっかさんの子供、体質は譲り受けているっていことで、報告は「今しばらく安定してからの方が」といわれやした
熊:そうしたことであっしはこんな職人ですから、さっきのご隠居のような真に迫った腹芸なんて出来やしねい、のべつ一緒の三太や四之介にも気取られないようにと仕事も釣りも普段通りにっていことを心がけるんですが、油断をするっていと、口の端がこう緩くなって笑いがこぼれそうになるんでね、こおうってな感じで奥歯をかみ締めるんですが、仕舞にはかみ合わなくなってきやがんですよ、だから安定期に入るってぃ月替わりまではってことで、そりゃーこめかみが時々癪を起こすぐらい気を張ってこうっ
熊:そんなことで、おみつのおっかさんにも二人で必死に隠し通してきたんですが、この度の医者の診立てで「上等いいでしょう」とのお墨付きをいただき、さっき夕食時におっかさんに打ち明けましたところ、おっかさんが言うには実はとうにていことで、「おまいたちにはこの母をおもんばかってひた隠してくれた」と、ご隠居同様にさすがは親だお見通しでやんした
おみつ母:ご隠居、この度は本当にこの熊とおみつに格別のご厚情をたまわりましたこと、二人に成り代わりまして心から御礼をお申し上げます、ありがとうございました、いえね私は若いころにおとっつあんとの間になかなか子供ができなかったうえに、やっとできた子を流してしまったことがありまして、お姑さんにもできた傍から報告してしまったがために、そりゃー辛い思いをしたことがあるんです、ならばこそで、主治医の先生もそうした思いやりをおみつにかけてくれたとのことで
おみつ:本当ならば、父親代わりの御隠居にはお話すべきでしたが、もしの万が一にも流してしまえばと、申し上げることができませんでした、本当にお許しください、ですがおかげさまで、本日の診療時に上々とのお医者様の診立てで、こうしてご報告をさせていただけることになりましたので、一番に伺いました