そうしたことで始まった初釣り場での釣りでしたが、この日は遊水境の馴染みも流れてきており大盛況でありました。
となれば「混雑に大釣りなし」の格言通りで、悶絶の喰い渋りで皆一様に苦戦を強いられておりました。
かてて加えてお昼前からは青空から雪が舞います、北海道の青空下の雪は見栄えは温かく見えてもたがため嫌味なほどの底冷えが付いて回ります。
気づけばお昼前には釣り人は釣り座を退散して並びどころか池中見渡しても熊以外はだあれもいない状況でありました。
勿論のことご隠居はとうにあきらめて、釣り仲間と茶を手挟んで談笑と決め込んでいますが、熊は止めません。
ご隠居:熊の奴ああなったらあいつはてこでも止めねえぞ
友達:ご隠居、流石に止めさせないと風邪をひいちまいますよ、ここのところ悪い流行り風邪で、筋向いの石屋の二代目も先週ねぇ三日ほど寝込んで、医者にかかったと思ったらコロリですからくわばらですよ
ご隠居:熊の野郎はどうしたって風邪ぐらいのことじゃ止めやしねーよ、よしんば普段ならおれが行って「もうよしねい」となればさすがに竿はたたむけど、ああなったら奴はてこでも一枚拝むまでは止めやしねい、「閉店でござい」とならない限りはどうにもしょうがねえんだよ
と、御隠居の言葉のまま生来の負けず嫌いと意地っ張りをして、これがこれまでは丁と出ていましたので腕を上げることになりましたが、この度は半と出たもんですからもういけません、下手に「いい加減にしねい」なんてい言葉が耳に入った日にゃあ余計に意地が勝って、どうにもいけませんとなるのであります。
友達:おいおい、よせばいいのに誰か行ったよ
友達:ありやー、おみっちゃんじゃないか
友達:ああそうだ、おみっちゃんだ
看板娘のおみつ、年の頃なら20と少し、連日の外仕事ですから、色白でとはならないうえ、前掛け長靴です、お世辞にも振袖まとった年頃の娘衆から見れば一見は確かに見劣りはしますが、一つに束ねた黒髪はカラスの濡れ羽色、目元に涼やかさを湛えた深い淵のような瞳は、この釣り場を隅々まで差配する聡明さと相まって内からにじみ出る美が振袖として纏われています。
まあ器量良しを判で押したるごときのお年頃の若い娘であります。
先代が大病の末亡くなり、残された母親を支えて15の歳からここまで、実質的にこの釣り場を守ってきたのでありました。おみつを目当てに沢山の釣り人が通いますが、母親の眼鏡に合う釣り人はなかなか現れず、かてて加えておみつは人一倍の母親想いですから、男にうつつを抜かせることなどありません。
この釣り場を、母親を守るため懸命に今日まで生き抜いてきたのでありました。
おみつ:お客さん随分寒くなってきたし大概になさってはいかがですか
熊:うるせい、閉店時間じゃあるめーに、おれあ止めねーぜ
おみつ:そうですか、ではごゆっくり
熊:なんだよ、いやにあっさりとしてやがんな
と、にらみ倒していた浮子をそっぽに振り向いた熊の手がぴたりと止まります。
やせ我慢も度が過ぎれば、心では身体を縛り付けられません、もうとうに寒さでガクブルの状態だった熊の手元でしたが、おみつを見たとたんに別口のブルガクが始まって、ガクとブルが打ち消しあったのか、竿を持つ熊の手がピタリと止まります。一方のおみつもこれまた行って来い、さっきまで襟元から入る北風に身をすくめながら歩いていたのが、ピタリと止まります。
熊:判りやした、すぐに止めやす
友達:おいおい、あの熊公が手仕舞いし始めたよ
ご隠居:まさか、雨が地べたから降ってもそんなわけがあるかい、竿でも替えるつもりさね
友達:ご隠居いやいや、竿掛けも仕舞ったし万力もかたしてますぜ
ご隠居:あら本当だどうしちまったんだろ
カラスカーで翌日の夕刻
ご隠居:熊の野郎熱出したって?
嫁:そうなんですよ、昨日の釣りから帰ってすぐに床に入ったきり、悪い風邪が流行ってるっていうしアタシャー心配で心配で
ご隠居:石屋の二代目があんなことになったていぐらい、今年のは随分と性悪の風邪らしいぜえ
嫁:三太に好物の唐茄子を軟らかく煮たのを持たせたんだけど、一切手を付けないんですって、それどころか、「お前が食いねー」と全部くれたとさぁ、三太さんも「彼岸にたったひと切れつまみ食いしてゲンコツをしこたまくらったのに気味が悪い」って、本当あの唐茄子好きが随分と悪い風邪なんだねーあたしゃ本当に心配で
ご隠居:そうさなー、あとで見舞いがてら気合をぶっこみに行ってくるか
一方で、床に入った熊でしたが、その様子は明日をも知れぬ様でありました。
ご隠居:おう熊、どうでい塩梅は
熊:ご隠居、もうあっしは駄目でやす、この度ばかりは永のお暇になると思います
ご隠居:おうよせやい、たかが風邪じゃねーか、唐茄子が重いなら卵酒でもかっ食らってぐっすりで、明日の朝にはあたぼうでい、うちの奴に作らせて後で三太に持たせるからな、そうだお土産もんだけど筋向いの小間物屋から貰ったはちみつもあるからちょっと垂らしてな隠し味てーやつさね
熊:み、みつうーん
ご隠居:おいおい、急に顔が赤くなっちゃったよ、こら相当の熱だな
三太:ご隠居、兄貴ときたらうわごとではちみつがどうしたやらずっとのべつまくなしでして
ご隠居:おおそうかガッテンだ、はちみつをたっぷりと
熊:みつ、うーん
ご隠居:しょうがねーな―、気を失っちめーやがる
嫁:で、どうでした熊さんの様子は
ご隠居:いやー、脅かすわけじゃねーがあれは今夜が峠かもしれねーなー
嫁:そんなに悪いんですか
ご隠居:兎に角、一目見たら熊公の野郎の顔が真っ赤でな、あれだけ真っ黒の顔がああも赤くなるもんかねー、それだけじゃねーんだ好物の唐茄子が重いんだったら玉子酒でもこしらえて三太に持たせるから、それにほらこないだお土産でもらったはちみつをちょっとばかり垂らせば明日の朝にはあたぼうよなんて言ったんだけど
嫁:そしたらなんて?
ご隠居:み、みつ」なんてうわごと行ってもっと顔を真っ赤にして気を失いやがった
嫁:あら、はちみつは熊さんの大好物よ、プーなんて聞いたことなぁい?
ご隠居:てやんでぇ、けっお前はそんなことを言ってる場合じゃねーんだよ、とっとと玉子酒を作って三太に持たせろい
天涯孤独の熊さんには、ご隠居が親父替わりならおかみさんは母親代わり、卵酒を小脇に抱えて熊さんの枕もとを訪れました。
嫁:熊さん、あら本当に顔が真っ赤だわ、玉子酒作ってきたからお上がんなさい、好物のはちみつも・・・
熊:み、みつウーン
嫁:あらやだ、本当に気を失ったわ
とまあご推察の通りに恋の病につける薬はありません。
あの熊が寝込んだなんて今年の風邪は余程具合が悪いらしいと横丁でもちきりになっておりました。
医者:ご隠居、実は熊さんの容態なんだが親代わりとのことでこれは大事なことなのでご隠居の耳に入れといた方がとお邪魔しました
ご隠居:せ、先生そうですか、いやどんなに治療費が掛かろうとも、もしいい薬があるのならおっしゃってくださいまし金に糸目はつけません
医者:いやいや、熊のかかった病にはつける薬は有りません
ご隠居:っていと石屋の二代目ってい
医者:ご隠居、確かにあれはもう少し手当てが早くできておれば命を取り留めることができたが、熊の病は心の病いうなれば恋患いじゃ
ご隠居:そうですかあっしと熊はへら鮒釣りをいたしやす、鯉はへら釣りにはつきものですから、どこかで釣り上げた鯉からもらった患いなんでやしょうか
医者:いやいや、ご隠居お年頃の男と女の間でナニガナニシてのあれですよ、御隠居の好きな落語の崇徳院
ご隠居:瀬をはやみーっていうと先生、熊は若旦那の恋の病ってやつですかい、ってーと合わんとぞ思うのは、相手は何処のだれ
医者:昨夜だったな、風邪で寝込んだとのことで皆楽園のおみつを診に行ったんですが、これが全く熊と同じ症状で
ご隠居:へっ、っていとあの皆楽園のおみつが相手てってことですかい
医者:どうにもそのようですよ
ご隠居:そうかーあの時熊の野郎が妙にあっさりと竿をたたんだと思ったら,野郎びびっときてやがったんだな
嫁:あなた嫁が見つかりましたね
ご隠居:そうときたら、早速俺は皆楽園に行ってくらー
嫁:あなた今回ばかりはそちらの二つの担ぎ物はいらないんじゃありませんか
ご隠居:おっといけねい、つい癖になっちまってる
と、いったことで親代わりのご隠居がおっとり刀で走り回って、おみつの気持ちを確かめて、先方のお母さんの了解を得ることも見事叶いまして、この後は二人が見事華燭の宴・高砂やとなりました。
熊がおみつのところへ婿に入る形で所帯を持って、へら鮒釣りをする大工ですから桟橋が痛んだやらどこそこに棚を増やしたいだのを、客の側に立ってそりゃー至れり尽くせりをしましたので、この釣り場が繁盛しないはずもなく、また天涯孤独で母親もいなかった熊には「おみつのおっかさんは俺の母」と大層大事にしましたので三人はたいへんに幸せになりました。
おみつの差配で弁当売りの若い娘を数人使うと、次々とへらばかりか恋が釣りあがり、嫁を貰いたいならと、若い男の間では随分とへら鮒釣りが流行ってきております。
へら鮒が結ぶ縁を求めて、「あの熊にあんな良い嫁がもらえるなら」と、近頃では若い衆が「何言ってやんでぃ、食えもしない魚だから粋なんだよ」と、引きも切らない様子の良さであります。
ご隠居:熊よやっぱり趣味は大事だったな、へら鮒釣りをしたら嫁ができたろう
熊:ご隠居、おかげさんでありがとうございました。天涯孤独の俺におっかあまで一時にできちまって、リャンコ釣りになりやした
ご隠居:熊よそれはリャンコじゃなくって一家(荷)釣りだ
おあとがよろしいようで~。
注釈:唐茄子→かぼちゃ
崇徳院→若旦那が参詣の折、偶然出会った若き美女に一目ぼれし、彼女も若旦那に百人一首の崇徳院の歌「瀬をはやみ岩にせかるる滝川の割れても末に合わんとぞ思う」の上の句を記した紙を渡し、相手が誰とも分からぬまま双方が重篤な恋の病に陥り騒動となる落語。