三太:それが、端は兄貴がそんなんですから、あっしも気まずくって四之介に話しかけたんですがヤツも生返事を二つ三つで、そのあとは気づけば三人でお通夜のようになってしまいやがったんでさー
ご隠居:お通夜ねー
熊の様子がおかしいとのことは、ご隠居の嫁の耳にまで入るようになったんであります。
嫁:ちょいとー、お前さん熊さんの噂を聞きましたー
ご隠居:何か聞こえてきたかい
嫁:何がって私なんかよりもお前さんの耳にはたんと入ってるはずさね
ご隠居:熊に元気がないって件ですか
嫁:ほうらわかってるんじゃぁないか、そうなんですよーあたしゃー心配で
ご隠居:まあ、奴も嫁を貰って一家名乗りを上げた男だ、世の中を渡っていくのにはどうしたって越えなきゃならない瀬もあります、ましてや一家を背負っているんですから自分で何とかするでしょう、熊が頼ってきたわけじゃないのにおいそれと手を差し伸べるのは一人前の男に向かってすることじゃありません、ばあさんも余計なところで口をはさんではいけませんよ
嫁:んもぅー、余計なことって言ったってあの子はあたしの腹こそ痛めてはいないけど子供だよ、どうにかしてやりたいのは人情ってもんじゃないか、昨日の夕方に通りの筋向いで三太と四之介を見かけたんだけど、熊のことを聞こうと思ったら、二人ともすーっと目をそらして
嫁:三太はそれでも「おかみさんお世話になっておりますー」ってそっぼながらも挨拶したんだけどね、四之介は熊のくで走り出してねー本当にどうしたんだろうねー
何かがあっただろうことは、熊の親代わりの御隠居にはとうにお見通しでしたが、それがなにをして熊を苦しめているのかはさすがの御隠居といえども、とんとといったことが、数日続きました、ある日の夕刻
三太・四之介:ご隠居、お邪魔いたしやす
ご隠居:おや、二人雁首を並べて、まあ上がりなさい、ばあさんは隣町の長唄のお師匠さんのところに習い事に言っててな、お茶など構いはできませんがささっ
三太:それを承知で伺いました
ご隠居:っていことは、ばあさんには聞かせたくない話ってことだね
三太:さすがご隠居お察しの通りでやんす
三太:先日熊の兄貴の様子がとの件でお話を少しさせていただきやしたが
ご隠居:さてそんなことがありましたか
四之介:その件で三太兄さんと相談して伺いました、私にも全て三太兄貴の「最前の話」は通ってやす
ご隠居:腹芸不要ってことですか
三太:ご隠居、実は熊兄貴の気の病みを四之介が打ち明けてくれたんでさー
三太:さ、四之介熊兄貴の父親代わりのご隠居だ、弟弟子のおれたちの親父でもある、さ、おめえが知っていることを洗いざらい申し上げるんだ
四之介:ご隠居、熊兄貴のためと思って腹に深くしまい込んではいましたが、もうこうなったらあっしの腹には納まりきれねぇい、実はおみつ姉さんのことなんでやす
ご隠居:おみつがどうかしたんですか、まさかできましたか?
四之介:できるわけなんてねー
ご隠居:おっと、「できるわけが」とはずいぶんですが、夫婦のことは他人様にはわかりません、おまいはそれだけのことを言うんだから、確たるなんのなにがしかは覚えがあるってぃことなんだね、話してごらんなさい
四之介:この間遊水境でお昼を・・・
ご隠居:それはこの三太から聞きました、土瓶のお茶を桟橋に返したご老人の件だね
四之介:そん時は熊の兄貴も「四之介みねい三太がご老人のお世話をして差し上げてる、列の終いに並ぼうとしているのを旦那衆が先にと、奴のざまが旦那衆には自然体で粋に映っている証拠さね、男はああならなくっちゃなんねいぞ、あとであちらの旦那衆にはご挨拶してこなくっちゃーなんねいな」なんてあっしに言うもんですから、あっしやーねー、「三太兄憎いよこんちくしょう―」なんて心の中で思ったんでさー
四之介:そんで、兄貴が丁度ヤカンから土瓶に茶を移し替えているときに、隣から「おみつにゃ子はできねー」って
ご隠居:なに!
四之介:おいらが言ったんじゃねーんですよ
四之介:隣に座っていた二人組の一人が言ったんでさー
四之介:もともとあの日は熊の兄貴が一番上手で、次いで三太兄、であっしが並んでいたんで、熊兄貴の耳にはさすがに届いちゃいねいと思いやすが、本当のところはわかんねぇんで
ご隠居:そうですか、これはまた
四之介:ご隠居、話の先はまだあるんでやす、でその二人のうちの一人が「おみつは子供の時分に大病したときに、ついでにと子ができないようにした」と言ってたんでやす
ご隠居:子供のころの大病とな、他には何か言ってましたか
四之介:「この件を知っているのは手術した私だけ」「おっかさんさえも知らないことです」といってやした
四之介:「おみつ自身も知るわけはないことです」とも言っていやした
ご隠居:他には何か言ってなかったかい
四之介:「近頃は年の頃になったから今となっては少しかわいそうなことをした」とも言ってやした
四之介:ご隠居、あっしやーあの時ほど兄貴の耳が遠くありますようにって、思ったことはありやせん、何せ兄貴ときたら地獄耳でやんすから
ご隠居:そうですかーそんなことがあったんですねぇ、判りましたよ、ただねおまえたちは、いいかい、このことは決して脇に回って話してはいけませんよ、これから先はこのことの一切合切は私が引きとるから、お前たちはすべて忘れて私に任せなさい、決して悪いようにはしないから安心なさい
熊の様子が随分と沈んでいるように映ったのも、合点がいった御隠居でしたが、事はせんなきこと、できないものは背負うがありませんから、できないことを恨んでもことはそっぽに進むばかり、「さて、熊をどう慰めようか」と思案をしておりました。
熊:で、ご隠居なんか話があるっていことで伺がったんですが、どういたしやした
ご隠居:熊よ、最近のへら鮒釣りはどんな塩梅だい
熊:へいおかげさんで楽しく遊ばせていただいてやす、最近では三太と四之介の野郎どももいくらか格好がついてきて、特に三太は仕事と一緒で四之介よりも勘がいい奴ですから、そこそこに仕上がってきておりやす、四之介のやろうはもとから手元が少しっばかり硬いところがありやすんで、時間はかかるでしょうが、あの手は一度っきりじゃ上がりませんが、二辺三辺を本人が惜しまなけりゃ―潮が満ちれば、浜野なにがしで溢れるように上手となりやすんで、あっしも長い目で見守ってやろうと思ってやす
ご隠居:浜野矩随だね、そうかい、近々私も手合わせをしてみたいもんですね
熊:月明けに皆楽園で日研主催の春季大会がありやすんで、御隠居もあっしら同様で申し込んでおきやす
ご隠居:そうだね、大層盛会になるらしいね、うん面白そうだ
熊:で、お話っていのは
ご隠居:そうさね、話しにゃ枕ってことだけど、この際だからあたしゃーはっきりというよ
熊:へい、どうぞご隠居は親父と思ってやすから、なんなりとおっしゃってくださいまし
ご隠居:おみつの子の件です
熊:へっつつつっと、おっとこりゃどうも
えーっと、こりゃまた暗がりからバッサリでやすか、御見それいたしやした、流石血は繋がっていなくっとも親父だ、おっかさんでも知らないのにお見通しっていことですね、ええっあっしも、歯を食いしばって何とかここまで隠し通してきましたが、そうですか