仮に錯覚だったとしても、知性がないことには直結しなくね?
傲慢な態度だったとしても、それだけの理由で知性がないと判断するのは強引すぎないか?
もちろん「それだけの理由」ではない。
>> 27の
「分かりにくい」とか「文章が長すぎ」とか「余計な説明しすぎ」みたいな指摘はマジで知性低いな~と思う
>> 112の
自分の天井は相変わらず5のままなのに、5までしか知らない分際で傲慢にも「この文章は核心を突いてる!真理だ!10まで理解できた!」と上から目線で世迷いごとを並べるわけだからな。
・・・この辺もぜひ踏まえてくれ。
錯覚がキッカケになって新たな解釈やより良い解釈に到達するってのは当然ある。
そこ別に否定してないから落ち着いてくれ。よく読んでくれ。
俺が「知性がない」と批判している対象は
- もともと5まで知っており、名言を読んだ後も知ってる範囲は相変わらず5のままなのに6以上の領域に足を踏み入れた錯覚に陥ってるヤツ
- もともと5まで知っており、名言に触れたことをキッカケに7まで見識が広がったけど、8以上の領域に足を踏み入れた錯覚に陥ってるヤツ
この2つだよ。
>> 119の図解を文章で解説するとこんな感じだ。
「錯覚」の中にも「新発想」はあるんだが?
仮にそれが書き手の意図とは違った誤った認識(錯覚)だとしても「その発想はなかった」とか未開拓の文脈を発掘するような知性を感じさせる解釈はあるっしょ?ってことよ。
俺が言ってるのは「そもそも新発想に至ってないのに至ったと錯覚してるヤツ」だ。
ソクラテスの名言を例にするなら
もし仮に「この言葉・・・つまり働かなくても生きていけるなら働かなくてもいいって意味の言葉か!」みたいに書き手の意図と異なる解釈をしたとしても、その発想がもともと本人の手元になかったもの(新発想)なのであれば別にそいつの知性を疑ったりはしないよ(品性はともかくとして)
ただ、「働くために生きるのではなく人生を充実させる手段として働くほうが理想的だ」ということを既に知っている状態なのに、名言のインパクトやポエミーな感じに惑わされて「働くために生きるのって良くないよな!新発想だ!」ってなっちゃうやつ知性ないよな・・・ってことを俺は言ってるんだ。
で、そのギミックってのが>> 110で扱った内容だな。
読み手が自由に解釈できる小説と同じで、名言ってのも簡略化された結果として絶妙に言葉足らずだったりするしな。
逆も言えちゃうのでは?
140文字という制限を設けたからこそ逆説的に生まれた質の良い文章、あるいはその体系。
あ~うんもちろん逆も言えるね。
これについては>> 108を参照してくれ。
「限られた文字数に凝縮する技量」については、tweet審美眼みたいな感じでそれなりに体系化できそうだなとは思ってるよ。省いてもいい贅言と残すべき核の取捨選択とかな。