モノの存在は人の認識があって始めてその存在が認められます。
例えば誰も居ない宇宙空間を漂う石があったとします。しかし誰からもその存在を認識されないその石の存在は人の世界においては存在しません。
しかし実際のところは、その石は実在しております。
人の世界とは人間の認識における世界観です。仏教(天台教学)ではこの人間の世界観を仮観と言います。人間の認識の世界観では存在しない石ですが、その石は人間の認識とは全く関係ない世界で実在しております。
何が言いたいのかと言いますと、人間の認識だけが世界の全てでは無いという事です。
世界はあらゆるモノで形成されております。我々人間もそのモノの中の一部です。
まず大前提としてこの「世界はモノから出来ている」があります。その次に「人間が認識する世界」があります。その関係を構図として顕すと次のようになります。
①客体(見られる側)=モノのあり様
②主体(見る側) =認識のあり様(主観と客観)
人が認識している世界は②の「主観と客観」からなる世界観です。それに対し宇宙を漂う石は①のモノの世界の方に実在しております。①の方は実在の世界です。この実在の世界を客体として②の人間が主体となった世界が立ち上がります。
その人間の世界は、主観と客観といった二つの観が一つの世界となって「人間の世界観」が形成されます。では、その人間の主観と客観とで①の実在の世界の全てを観じ取れているかと言えば、決してそうではありません。
人間はコウモリ程に音を繊細に聞き取れませんし、犬のような優れた嗅覚も持ち合わせません。視力にしても人間よりももっと優れた視力を持つ動物は幾らでもいます。例えば宇宙空間までも見えるといったあり得ない視力を持った生き物が居たとしたら、その生物の世界観では宇宙を漂う石の存在も認識されることでしょう。