本考察の論拠はリンバスカンパニー,リヴァイアサン及びロボトミーコーポレーションに由来します。
まず、ねじれとE.G.Oの本質について、カルメン(推定)が述べた内容を振り返ります。
ねじれは「欲求不満等によって爆発的な精神負荷がかかった人間が、願い,欲望,感情に合わせて自らの体を変形し自分の色を表現する」というものであり、要は人の姿を捨ててでも自分の欲望を全面に打ち出した姿です。
その性質上ねじれた人間は欲望に忠実であり、ヴェルギリウスは「一寸先だけしか見つめられなくなる」「自分以外の人間には背を向けることになる」と考えています。
つまるところ、自分だけを見つめるのがねじれ化のキーです。
一方E.G.Oは、ねじれ同様に精神負荷のかかった人間から願い,欲望,感情に合わせて生み出されるものですが「衣服と道具を通じて、人間らしい姿で戦っていかなければならない」というアイン(推定)の考えが影響している…という違いがあります。
端的な説明が難しいですが、ただ欲を発散するねじれと異なり
簡単に言うと、自分以外(あるいは自分にとって痛いところ)も見つめるのがE.G.O発現のキーです。
説明が長くなりましたが、ここからエイハブの精神について考察します。
エイハブは「白鯨を自らが討つ」というのが最大の欲求であり、この状態だと自らの欲望のみを見つめるねじれが妥当であるように見えます。
しかしエイハブは船員達を自らの鯨狩りに利用していることについて、「奴らは弱かったから私に利用されることを選んだ」…とハッキリとした理由と共に開き直りを見せました。
エイハブは他人について見つめ、その上で堂々と他人を自らの欲望に巻き込むことを選んだのです。
この点は「自分だけを見つめる」というねじれの特徴からかけ離れています。
自分の殻に籠り他人を利用することを選んだのではなく、ハッキリと世界を見つめた上で他人を利用することを選んだためにE.G.Oを発現したと私は考えます。
*本考察は、プロジェクトムーン作品群について独自に解釈を行った非公式のものであり、本考察によって発生した如何なる物理的,精神的損害に対して私は責任を持ちません。
*私が責任を持たなかったことで発生した如何なる物理的,精神的損害に対して私は責任を持ちません。