質問です。
何故エイハブはE.G.O.に目覚めることが出来たのでしょうか?
今までの作品群からの自己解釈として
鯨の心臓が先に潰されたというわけでもないですし、乗組員の事を想っていたわけでもない。イシュメールに敗北したことで心が折れたわけでもない (そもそもイシュメールについてさほど関心があるとも思えない)。
体内でピーウォド船員達があんな姿でも生存していた描写から、元からねじれており、何らかの能力を周囲に与えていたのかもしれませんが……
長文失礼しました、どなたかお考えをお聞かせいただけると幸いです。よろしくお願いします。
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自分の解釈ではEGO発現のきっかけは常に「自分がもっと強ければ状況を打開して目標を達成できるのに...」っていう激情で、これは大体自分か味方チームが一旦敗色濃厚になった後に訪れる。 でもエイハブはそもそも自分が負けそうだとも思ってないし、味方が死のうと関係ないから常に鯨への激情に燃えてる中で「とっとと白鯨の心臓貫きたいンゴねぇ... なんか強そうな武器落ちてるし使ったろ」的な感じで発現したと思ってる。(だからエイハブにとってはそもそもねじれる理由も必要もない)
ちなみに船員たちが鯨の中で生きてた理由は鯨の体内の黄金の枝の効果だからねじれではないと思う。(むしろ怪物のほうが近い)
いや、普通に追い詰められてると思いますよ
あの状況ってエイハブがスタバにクィークェグという現状の最強戦力を持ってしても囚人たちに敗北し、このままだと蒼白な鯨の心臓を目前に敗北が確定した状況な訳ですから。
本考察の論拠はリンバスカンパニー,リヴァイアサン及びロボトミーコーポレーションに由来します。
まず、ねじれとE.G.Oの本質について、カルメン(推定)が述べた内容を振り返ります。
ねじれは「欲求不満等によって爆発的な精神負荷がかかった人間が、願い,欲望,感情に合わせて自らの体を変形し自分の色を表現する」というものであり、要は人の姿を捨ててでも自分の欲望を全面に打ち出した姿です。
その性質上ねじれた人間は欲望に忠実であり、ヴェルギリウスは「一寸先だけしか見つめられなくなる」「自分以外の人間には背を向けることになる」と考えています。
つまるところ、自分だけを見つめるのがねじれ化のキーです。
一方E.G.Oは、ねじれ同様に精神負荷のかかった人間から願い,欲望,感情に合わせて生み出されるものですが「衣服と道具を通じて、人間らしい姿で戦っていかなければならない」というアイン(推定)の考えが影響している…という違いがあります。苦難を乗り越えていく覚悟 であったり過去に対する未練の断ち切り といった、ある種の痛みを抱えて願いに向かう姿勢が特徴といえます。
端的な説明が難しいですが、ただ欲を発散するねじれと異なり
簡単に言うと、自分以外(あるいは自分にとって痛いところ)も見つめるのがE.G.O発現のキーです。
説明が長くなりましたが、ここからエイハブの精神について考察します。
エイハブは「白鯨を自らが討つ」というのが最大の欲求であり、この状態だと自らの欲望のみを見つめるねじれが妥当であるように見えます。
しかしエイハブは船員達を自らの鯨狩りに利用していることについて、「奴らは弱かったから私に利用されることを選んだ」…とハッキリとした理由と共に開き直りを見せました。
エイハブは他人について見つめ、その上で堂々と他人を自らの欲望に巻き込むことを選んだのです。
この点は「自分だけを見つめる」というねじれの特徴からかけ離れています。
自分の殻に籠り他人を利用することを選んだのではなく、ハッキリと世界を見つめた上で他人を利用することを選んだためにE.G.Oを発現したと私は考えます。
*本考察は、プロジェクトムーン作品群について独自に解釈を行った非公式のものであり、本考察によって発生した如何なる物理的,精神的損害に対して私は責任を持ちません。
*私が責任を持たなかったことで発生した如何なる物理的,精神的損害に対して私は責任を持ちません。
E.G.Oを字面通りにエゴ(自我)として考えると、何となくだけど、ねじれ化よりもE.G.O発現の方が「確固たる個我の成立」を果たしているように思えるのよね
>> 109氏の
「自分だけを見つめるのがねじれ化のキー」
「自分以外(あるいは自分にとって痛いところ)も見つめるのがE.G.O発現のキー」
という表現を踏まえると、
「他者を認識するからこその自己の確立(自他の境界線を明確にする事)」がE.G.O発現には大事で、
対してねじれ化は「他者を認識せず(自他の境界を定めず)、際限無く自己を肥大化させんとする状態」なんじゃないかなあ
それで言えばエイハブは確かに、自他の境界がこの上なくハッキリしているっぽい人間なんで、そりゃねじれすっ飛ばしてE.G.O出るよね、というか…