RoundTable

LINE民のパルスです / 70

104 コメント
views
51 フォロー
70
毒正義 2019/11/16 (土) 08:21:54 修正

>> 51>> 52>> 53

所詮パルスはLINE民

はいどうも、多忙なので長文のやり取りに胃がもたれてきた毒正義です。リアルに支障をきたしています。でも喧嘩やめられないんだけど!でも喧嘩やめられないんだけど!もう何かの病気かなと自分を疑っちゃいます。でも仕方ないですよね、「あれ、こいつ僕の文章の解釈ミスってね?」って思ったら正しちゃいますよね。それに、僕の文意を勝手に馬鹿な第三者に勘違いして欲しくないですし。さて、御託はここまでにして、そろそろ返事をしましょうか。まずはパルスさんの発言をまとめましょう。今回もラベリングをさせていただきます。
「次のレスはB→Cとなっている為、論理的発展が起きている」…①
「推量とは確実性を排除したものであるため、確実性がある場合に推量表現を使用するのは誤りである。」…②
「文法上の間違いを仮定してその可能性を考慮すべきという言説は、詭弁でありロジックにもならない」…③
「論破されたらイメージが掴めないと言い出すのはスルーでありゾンビである」…④
「毒正義の"客観的に推量した"という表現は誤りである」…⑤
「形而上学的なものだということや、より独特なものだということをイメージと呼ぶ。よって毒正義は自己破綻をしている」…⑥
うん、改めて見ますと、ツッコミどころ満載の主張ですね。よくそんなんで偉そうな態度を取って人を煽れたものです…(笑)それでは①から返していきましょう。


どの部分がパルスさんの指しているB→Cになっているのかが不明です。パルスさんの使用している「次のレス」がどの部分を指しているのかも分かりませんし、本当に不親切な方ですね。あくまで文章の仕組みを論理式によって僕は表しているからこそ、A→Bがどこに当たるのかを

「推量ならば推量結果が偽である可能性を考慮している」というA→Bという構造の発言

といったように僕は明記しています。それなのにパルスさんはただB→Cという論理展開をしている!としか言っていませんね。文章を人に読まそうという気概が全く感じられません。そんな状態で喧嘩して、いざパルスさんの相手が理解できなかったら「お前がアホなだけ!」とか言わないでくださいね。アホなのはパルスさんですから(笑)よってB→Cという論理式が成立しているということを、パルスさんは懇切丁寧に説明するべきです。


はい、これめちゃくちゃパルスさんアホですよね。だって「100パーセント命題が真であると分かっていないと確実性というものが存在しない」という前提がない限り、パルスさんの主張している内容はまかり通りませんもん。恐らく「可能性を排斥する」の部分を、可能性の「全て」を排斥するという文意だと捉えているのでしょう。つまり僕の使用した排斥という単語のニュアンスを掴めていない可能性があります。もしそうであるならば、ニュアンスのすり合わせをしようとした人を馬鹿にしていた人のやることなのか疑っちゃいますね。アホだと思っちゃいます。レベルが低いのはどっちなのかと笑っちゃいますね。
さて、本題に入りましょうか。本題というのは、命題が真であると確信している状態で、推量内容を推量の形で明文化したものは、文法的な間違いになっているのかどうか、という話です。
まず「確実性がある」という状態を「命題が真だと100パーセント分かる状態」というニュアンスでパルスさんは使っているようですね(そうでなければパルスさんの理論がまかり通らない為、好意的な推量をします)。しかし命題が真である可能性が100パーセントではない場合だって、確実性があると人によっては思う場合もあるでしょう?例えば、顔を真っ赤にして暴れ回っている人を見て、論理的には怒っていない可能性があると認識しても、推量によって怒っているという可能性が高いと認識し、怒っていない可能性を「信じない(可能性を排斥する)」場合があるでしょう。よって、推量をするにあたって「確率的には命題が偽である確率も否定は出来ないが、命題が真である確率が圧倒的に高い。よって命題が偽であることを信じない」といった状況は現実にあります。何故ならば、推量というのは「推し量ること」ですから。つまり数ある命題の選択肢の内、一つを選び、その一つの可能性が高いと考えることですから。その一つの選択肢が事実である可能性が高ければ高いほど、確実性があると人は認識するのですから。
また、そのように「自分が選択した命題が偽である可能性を信じない状態(偽である可能性を排斥している状態)」だとしても、文章上では推量形にするという行動は整合性が取れます。何故ならば、先述した通り、可能性があると認識するかしないかと、その認識した可能性を信じるかどうかは、全くものが違うからです。何が言いたいかというと、可能性があると認識することと、その認識した可能性を信じないことは両立するということです。その場合、パルスさんのイメージしている推量の条件である、命題が真か偽かを100パーセントは分からない、という条件を満たしつつ、可能性を排斥することが出来ます。よって可能性を信じなくても、可能性を認識したということを根拠に、推量の形にするという行動の整合性は取れます。
よって「命題が偽である可能性を認識しているから、文章では推量の形式にするが、しかし自身の選択(解釈)した命題に確実性があると認識するため、脳みそでは選択した命題が偽であることを信じない(これを可能性を排斥すると呼ぶ)」というケースは現実にはありますし、この状態で推量内容を文章を推量の形にするのはなんらおかしい部分はございません。つまり、僕の論の健全性をパルスさんの反論は何ら崩せてません。藁人形論法です。アホ?アホ?アホ?アホ?アホ?やる気あります〜?


②で、確信している状態で文章を推量の形にするのは文法的におかしくないことを証明したため、③のくだりの前提(文法の間違いを仮定するという前提)が崩れ、僕の文章の健全性を崩す言説にはなり得ないことが証明出来ますね。あくまでパルスさんが選んだ命題が事実であると確信をしている(命題が真だと分かっている訳では無い)可能性を見越して、僕は忠告をしたまでです。そしてその忠告はパルスさんが早とちりをしている、という前提がないため、パルスさんの反論は何一つ有効打になり得ません。よって、僕の文章もとい忠告は健全性が保たれていますね。どこまでいっても文のニュアンスを正確に解釈できないパルスさん、お疲れ様です。


あれ?どこでパルスくんの主張が帰納的なものであると僕は主張しましたか?確かに「帰納的に見える」と僕は言いましたが、実際にパルスくんの主張は演繹的なものでは無い、だなんて話もしていませんし、だからこそ敢えて「見える」と表現し、実際はどんなふうなのかを質問していただけですが?それでパルスさんが演繹的であると証明できたところで、僕の発言を論破したことにはなりませんよね?よって僕は論破されていないと思います。
それとイメージが掴めないと言う発言はスルースキルである、と述べていますが、本当にこれはスルーをしていることになりますか?イメージを掴むことによって、よりパルスくんの主張を理解しようとしており、寧ろ掘り下げようとしている状況だと思うんですけど。よってスルーしていることにはならないと思います。


どうして笑うんだい?俺の言説は上手じゃないか。客観的に見て、「こうやって推し量るべきだな」というものは存在するし、実際に客観的な推量は出来ると思うんですけど、どうして客観的な推量という表現がおかしいんですか?例えば、顔を真っ赤にして暴れ回って怒鳴り散らしている人は、客観的に「怒っている」と推量するべきですよね。何故ならば、怒っていると推量した根拠が、客観的にみて「怒っているという推量への影響力のある要素の1つ」ですから。よって客観的な推量というのは出来ると思いますし、なんら表現はおかしくないと思います。


あらあら…また「ニュアンスを掘り下げようとすることを馬鹿にするくせに、パルスくん自身は相手の発言のニュアンスを汲み取れない」という病気が炸裂していますね。あの、確かに形而上学的である、というのは「話全体」という範囲においての、大まかなイメージですよね。ですが、イメージが掴めないという僕の発言においてのイメージの範囲というものは、話の細部においてのイメージでなんですよ。その細部のイメージは、例え話全体のイメージが掴めたとしても、分からないですよね?よって、毒正義は自己破綻をしていませんし、形而上学的である、等のイメージは、僕が最初から求めている範囲のイメージではないです。

通報 ...
  • 71
    毒正義 2019/11/16 (土) 08:22:32 修正 >> 70

    >> 54>> 55>> 56>> 59
    さて、またパルスさんの発言にラベリングしていきますね。
    「既にパルスのイメージそのものが明文化されている為、パルスの文章を毒正義が理解出来なかったのか、理解した上でイメージを毒正義が要求して論理破綻しているかの二択である」…①
    「他人が理解しなくても独立してイメージがあるため、毒正義の要求をパルスなりの提示方法でパルスは満たしている」…②
    「演繹法に対する帰納法云々は反論になっていない」…③
    「万物の中の一つを示すことが出来ない場合があるのは当然である」…④
    「万物の内の一つを具体例として提示しても"万物はある論理に基づいている"という言説の具体例にはならない毒正義が求めているものは万物の具体例だ」…⑤
    「イメージを求めつつ縷説を求めているのは自己矛盾である」…⑥
    「単語の定義を明晰にすることは出来ない為、要求がナンセンスである。もし出来るなら背理法で毒正義の質問を明晰にするべきである」…⑦
    「パルスの文章は演繹的な論理である」…⑧
    はい、まとめ終わりました。無駄にレスの数が多いですねこの野郎。それではパルスもとい障害者に返事をしたいと思います。


    何回でも言わせてもらいますが、この件もパルスさんの話の「全体像」がある程度掴めただけであり、パルスさんのイメージの細部まで理解した訳では無いです。それに、例えイメージを明文化しようとしているとしても、実際に明文化された内容を必ずしも細部まで理解出来る訳では無いでしょう。例えば空の色を伝える為に「薄い青」という単語を使った場合、確かにその単語は伝える側のイメージを明記したものですが、その細部までは、読み手は理解出来ないでしょう。よって、パルスさんの文章は抽象度が高い為、僕が求めているイメージを明記したことにはなり得ません。本当に話の流れが掴めていないようで、あらあらまあまあといった感じです。


    え?僕の要求は「パルスさんの主張の細部の、パルスさん自身のイメージを理解したい」というものであり、例えそのイメージが独立してあったとして、そしてその独立したイメージをパルスさんなりの提示方法で僕にプレゼンしたところで、僕が理解出来なければ僕の要求は満たされませんよ?よって、さっさと主張の詳細をパルスさんは明記するべきです。


    えっと、パルスさんが「反論になっていない」と述べている言説の部分、反論であるだなんて僕言いました?それに、当たり前かのように「帰納法の前提要求」とか言ってやがりますけど、僕が求めているのはあくまで「具体例を混じえた説明」であり、それはつまり抽象度が高い単語への解説なんです。より単語を具体的にし、細部までのイメージを掴む、それこそが僕の目的なのです。その事を簡単に説明し、パルスさんの誤解を解こうとしたつもりでしたが、またまた誤読が入っているようですね。よって、反論だと僕は主張していないため、僕の論を打破する主張にパルスさんの主張はなり得ていませんし、そもそもの話前提が間違っています。


    え?今回の話は「万物」のうちの一つを取り出し、それがしっかりと理論に当てはまっているのかを検証することが出来ないのですか?どのような仕組みで不可能だという結論が導き出されるのですか?例えば演繹的に求められているという証明をパルスさんはしていますが、その中での「水槽の脳」の話だって、「例えば今スマホがあると認識しているが、その認識すること自体が法則である」というように具体例(あくまで水槽の脳の具体例は僕が推し量って提示した具体例であり、実際はパルスさんのイメージと誤差があるかもしれませんが)を出せるのではないですか?これだって万物のうちの一つ、ですよね?つまり、必ずしも万物のうちの一つを示すことができない場合がない、と僕は主張しているのではなく、今回のケースにおいては万物のうちの一つを提示できるのではないか、という主張です。よって、パルスさんの発言は的外れです。


    これはこれは…とても大きなメタコミュニケーションの不成立がありますね。どうやら「提喩(シネクドキ)」というものをパルスさんはご存知でないようで…。例えば花見、という単語は桜を見に行くことを意味します。これは桜を花という上位互換に言い換えているのです。それと同じように、「万物がある論理に基づいているという言説の具体例」と僕が記載したのは、具体的にいえば「万物はある論理に基づいているという言説の、実際に論理に当てはまっている万物のうちの一つ」というものになります。つまり「論理に基づく万物」に「論理に基づく万物のうちの一つ」を言い換えたのです。よって「万物はある論理に基づいているという言説の具体例ではなく万物の具体例だ」というAではなくてBというパルスさんの指摘は、実際はA=Bであり、実際にパルスさんが読み取れている通り、文脈的にも意図が明らかになっています。つまり、提喩は成功です。パルスさんが今していることは「花見」という単語を見て「花じゃなくて桜を見に行くんだろ!」と指摘しているようなものです。つまり同じ意味合いなのです。つまりパルスさんの指摘は尽く的外れです。建設的な議論、しませんか?(笑)


    これも僕が求めている「イメージ」の範囲を理解していないから起こってしまう悪論理の主張ですね。何かの論理に万物が基づく、と言っているからこそ、僕は「どのような論理がどのように万物に当てはまっている、とパルスはイメージしているのか」という、「細部のイメージ」を知るために具体例を求めているのです。よって、例え全体的なイメージが掴めても、細部のイメージが掴めていないため、僕が要求している細部のイメージを説明するために、パルスさんの話の全体的なイメージを「縷説」しなければいけませんね?イメージを縷説することにより、イメージを得るのです。よって、イメージを得るために縷説を求めるのは何らおかしいことではありません。
    また、例え具体例を僕が要求していたとしても、その行動が「万物がある論理に基づいている」という言説を是認することを意味しません。本当に万物がある論理に基づいているのかどうか、ということを確かめる為にも、具体例の要求は出来ます。よって、僕が具体例を要求したという根拠だけで、万物はある論理に基づいているという言説を是認するという結論は導き出せません。確かにパルスさんは論理で構築されているようですね。悪論理という論理で(笑)


    あの、めちゃくちゃパルスさんは馬鹿ですね。僕、一度でも「100パーセントの明晰化をしろ」だなんて言いました?確かにその性質上、語義というのは「完全」に明晰化することは出来ません。しかし、ある程度の明晰化は出来ますよね?例えば、どのように僕が分からないのかを縷説した>> 36では、具体例をまじえて説明することによって、より僕自身の「分からない」という単語のイメージを具体的にしました。これは一種の明晰化です。つまり無限遡行をしろと僕は言っているのではないのです。ただ、ある程度の明晰化はできると僕は述べているのです。よって、既に質問の明晰化に僕は成功しており、パルスさんの指摘は藁人形論法です。この⑦の件だって、パルスさんが「細部のイメージを確認すること」を怠っているからこそ起こった齟齬じゃないですか。本当にいい加減やめません?アホすぎて鳥肌が立ってますから今。


    あの、めちゃくちゃどうでもいい所でそんな長文書かれても…😅百歩譲って長文書くとして、ただ「量子的もつれ」とか言われましても、ぶっちゃけほにゃほにゃって感じです。死ねって感じです。これ、読んでる人のうち、どれだけが理解出来てると思いますか。まじでオナニーやめてください。
    まぁそんなこと言ってもしょうがないので、じゃあ仮に演繹的に求められたものだとしましょう。実際は「水槽の脳」のくだり一つをとっても、認識の対象を生み出しているという経験を積み重ねたことにより導き出した「法則」なのではないか、それは帰納的に導き出された法則なのではないか、といったような疑問もありますし、そこでまた先述の文章の二倍くらいの議論ができるですけど、今回はストップしましょう。何故ならば、意味が無いからです。例えパルスさんの主張が演繹的に求められているとしても、僕が求めている具体例と説明は提示できることは既に示してありますから。流石に枝葉の議論で文章の大半を占めるのは重すぎますし…。よって、疑問はあるが保留する、といった結論になりますね。

    何十ヵ所かで論破したようです。以上です。