ほんであとあれか、俺のその「万物はある論理に基づいている」とかいうやつが帰納法じゃね?的なやつ。
これぐらいだな、あんたさんのまともなレスポンス。
まず俺さ、「ある論理」って言い方したっけ。そこは覚えてないけど。
んでまあ、じゃあ本題入るとして、もし何かにランダム性が見受けられるのだとすれば、ランダムを発生させる論理が存在するというのは当然なわけよ。逆に、何かしら公理があるとして、その公理は何かしらの現象(現象と呼ぶのが妥当なのかわからないが)によって存在するわけ。そういったものを超人智的なものとして、扱ってしまったら建設的でないとする思考は存在するわけ。まあそうだとしても万物に論理があることを前提にはしてるんだけどね。
ほんじゃあこれ、3つのパターンに分けて考えよっか。こっからの3つにパターンで、世界の認識主体に論理が存在するか否か、と認識の対象に論理が存在するか否か、の2点について扱うね。それらが共に存在する、となれば、俺の言説は成り立つから。
まず1つ目のパターン。物質自体がそれとして存在して、俺らも物質で、物質の動作を機械的に俺らが認識しているのがこの世界であるとする場合。
この点、主体の論理の有無は、認識の対象の論理の有無と一致するよね。それじゃあ、認識の対象である物質に論理は存在するのか。これについては、本当はもっと高度な話(例えば認識主体・認識の対象、双方を構成物質というもの自体が仮想上に作られたものである可能性とか もしこの例だとしても、双方が物質である場合に当てはめても大丈夫だからわざわざ出しはしないけど)をしたいんだけど、特定の1つの論理の具体例を示せば、認識の対象における論理の存在は証明できるから、1つだけ具体例出すね。
「量子的もつれ」
ほい。
このとき、これはコンピューターにも代入できるんだけど、認識主体と認識の対象における論理の有無の合致より、認識主体が形成される論理があること(必要十分条件を満たした)も証明完了。
次、2つ目のパターン。認識主体は物質で、認識の対象は物質ではない仮想上のもののとき。これはつまり、脳があることを仮定したときに、脳が想像しているのではってやつだね。俗には水槽の脳とかいう言い方をする。
このとき、この脳が認識の対象を生み出すという、それ自体が法則であって、それ自体に論理が存在するよね。そうなると、認識の対象が論理に基づいていることはもう証明済みとなる。じゃあ認識主体はどうか。このとき、認識主体が物質であると仮定しているから、1つ目のパターンに従って、論理は存在するよね。
はい、証明完了。
3つ目のパターンね。
認識主体が物質ではない何かで、認識の対象が物質の場合。世界五分前仮説が1つ目や2つ目ののパターンの場合もあるけど、それは問題ない。問題となってくるのは世界五分前仮説がこのパターンとなる時。
実はこのパターンは、2つに細分化できる。
(1)認識主体は内部に存在するが、外部からの干渉を受けている場合。
(2)外部に認識主体が存在する場合。
ここでは認識の対象が物質であると仮定している。もちろんこれは、2つ目のパターン等の特殊な例を除き、当然我々が考えている通りのことだ。ここで、世界五分前仮説等、世界に対する過去の認識が予め外部からの干渉によって設定されたものであるとする。この時、(1)ならば、外部からの干渉によって認識主体と認識の対象が、それぞれ………、~~という状態となる、という論理が存在する為問題ない。
では、(2)のように、FPSのような、そういう場合を考えるとなるとどうだろうか。こうなると、まず認識の対象は認識主体によって存在するため、認識の対象における論理は存在すると言えそうだ。では、論理主体においてはどうなるか。ここで論理主体は、認識主体に対する認識を持っている。これの認識主体自体が認識されて存在するという論理に基づくため、論理は存在すると言える。これをイデアという概念で考えた哲学者もおれば、俺は小3のとき、これを、世間的にはクオリアと言われる概念で考えたこともある。
以上のように、万物はどのような体系をとっていても、何かしらの論理に基づいていることが演繹法として証明される。
証明終了。
はい、示しました。
反論あるならおなしゃす。
>> 59
物質自体がそれとして存在して
また理解できないとあれだから言っとくけど、ここでの「それとして」って物質として、な。"が"って助詞からして伝わるとは思うけど。
双方を構成物質
って書いたけど
双方を構成する物質
だわ
脱字すまんの