言いたいことを一文に詰め込めすぎてる気がしなくもないからもう少し改削して改行を駆使してもいいのかな、という気はします。
あと、主要仮説と補助仮説の関係性から、結局何が言いたいのか話の起承転結がはっきりしてなくてよくわかりませんでした。
パルスくんは反証主義である、ということが言いたいのかな?
…というように、文章の「見せ方」や「伝え方」について論理的に考える、あるいは問題点を模索するということはしないのか?と疑問に思って、>> 67を書いたんだけれども。
- 批判は立論全体に対するものではなく立論のパーツに対するもの
- 反証可能性的な認識をしてた
- 俺は抽象的な論理から演繹的に展開する思考スタンス
これらは1レスにまとめないこと、または無駄に連投してしまうことの理由になってない、と言いたいわけだ。
ひとつのレスの中で、パーツごとに反論を示すことは(他のみんながやっているように)普通に可能だし
反証可能性的な認識だと何がどういう理屈で「断片的に返す」ことになるのかの説明がない。
また、「単純に論理だけで考えて、相互で論理的に昇華させる論争」を行うと「断片的に返す」ことになってしまう理由もわからない。
そして「抽象的な論理から演繹的に展開する思考」をひとつにまとめることなんて造作もないことだというのが俺の考え方なわけだ。
これらの「連投してしまう理由」と「連投という行動」の文脈の繋がりが、ない。
連投以外の部分で言うと、起承転結の「転」がなくていきなり「結」に飛ぶかと思えば着陸地点を見失っているかのような締まりのない文章が
さらに読みづらく、伝わりづらくさせている要因になっているのではないかと思う。
実はパルスくんとアドアンくん(コンチネンタルマンコ)とのやりとりがグダっている理由もそこにあるんじゃないかと思っていて
お互いにお互いの脳内で完結している言葉やものの考え方を全面的に押し出して、お互い一歩も引かない(相互理解への配慮が足りない)状態になってしまっているという点は留意しておくべきだろうね。
長々とやっていたけれど、あれは下手したら2レスで終わるような話じゃないか?
俺が意図的に「連投になってしまうよくわからない理由」を無視して、基本的には「文章の見やすさへの指摘」に留めていたのも
そういった理解を促す文章の見やすさについては論理的に考えてはみないのか?ということを伝えたかったからだ。
自分のスタンスを客観的に見てほしい
もっと噛み砕いて言うなら、「確かに一気にまとめた方が周りからは読みやすいかも。」とパルスくん自身が思った
「確かに」という部分についてなぜ「確かに」と思ったのか自己分析してみてほしかったんだよ。
ただ、結果はご覧の通り。
>> 82の一方的な話を見て何も理解できていないな、と思ったよ。
少し脳内補完しすぎな言い方をする節があるよね。
アウトプットの形式が凝り固まっている。
俺が納得してる理由としては
- すまんLINEとツイッターのクセでござる。
これ。
なるほど。
確かにLINEやTwitterは掲示板に比べてその性質上コンスタントなやりとりが多いから
連投や一文に詰め込んじゃうところあるよね、当然その環境に慣れれば癖になることも…って部分。
それ以外はさっぱりわからない。
何言ってんだこいつって感じだ。
「切り分け」について完全に誤解している。
何と何を切り分けて考えているのか?
話を整理しよう。
オーディエンスに見せるだの魅せるだのじゃなくて単純に論理だけで考えて
これが事の発端のパルスくんの発言だ。
切り分けると
- オーディエンスに見せる(魅せる)こと
- 単純に論理だけで考えること
この2つだ。
前者は、言い換えるなら「見やすさへの配慮」。
後者は、文字通り「単純に論理を重視する考え方」。
つまりここでパルスくんが言いたかったことは、「論理、つまり話の内容を重視しているので、文章の見やすさとかは二の次です」と解釈することができると思う。
それを踏まえて
俺が問題提起したことは(繰り返しになるが)
「文章の見やすさについては論理的に考えようとはしないのか?」という話だ。
では次に、パルスくんが言っていたよくわからない「切り分ける理由」として、反証可能性の話をピックアップして当てはめることができるか検証してみよう。
- 主要仮説「連投しないほうが文章は見やすい」
これを考えるにあたっての補助仮説とは具体的に何を指しているのか?
その説明が、ない。
ピンとくる例文もなく、控えめに言って理解不能だ。
好き放題書き殴ったものの、あまりに解釈が丸投げではないか?
寿司屋に来てシャリだけ出されて「ヘイお待ち!マグロです」と言われたような心境に陥ったよ…。
そもそも、「文章の見やすさ」というテーマを、科学の分野で取り扱おうとする行為自体ズレてないか?
いや、人間の「認識の問題」に帰着させたいと考えているのならまだわかるが、それにしたって「感覚的な話」で済むはずなんだよ。
パルスくんが「確かに」と理解を少なからず示していること、これは論理を掘り返すまでもなく経験に先立って再認していると言えるだろう。
ならば「反証可能性」を取り上げる必要もない。
誤解のないように言っておくと、別に「そういう話」をしてもいい。
ただ、あまりに説明不足では?と思うわけ。
で、薄々気付いてるかもしれないけど
こうやってパルスくんの一方的な話に合わせていると
これ、そもそもなんの話だっけ?
って思ってきちゃわない?w
結論を書くね。
単純に論理だけを考えるにしても、その行動に「文章の見やすさについて考える」ということも含めることはできる。
したがって、切り分ける必要はない、だよ。
つまりな?
「文章の見やすさについて論理的に考え、理解を促す表現に配慮する行為」はお前の論争のスタンス相反しないでしょって話だ。
その他、>> 82は突っ込みどころ満載なんだが、無視します。
「論理を昇華させることが重要」という考え方なのに、「価値観の違い」で終わらせるのか。
こういった態度には一貫性がない。
何回も繰り返して悪いが、パルスくんの「確かに(連投しないほうが見やすいかも)」という認識の「論理的な不十分」とやらを補おうとしなかったのがますます奇妙に見える。
- 「喧嘩、議論、論理、なんでもオッケー」
- ここにユーザーがもう少し論理的思考をしているのかな?って思ってたからってのがあったから、大丈夫かと思った。
何が大丈夫なんだ?
なんでもオッケーだろうが論理的思考力のあるユーザーが多いことが前提にあろうが「連投が視認性を妨げる場合がある(特にパルスくんのような適当な書き方が加えられるとそれに拍車がかかる)」ということの否定には一切なってないぞ。
「論理は断定であろうとあくまで解釈だよ」・・・①
じゃあその解釈の主体はどうなっているのか、解釈はどのように、どのような基準で行われているのか。これがあなたの質問だよね?
ごめんね〜。フワッとした聞き方して。
でもおかげでパルスくんの思考領域が大体わかったよ。
答え合せだけ先に言っとくけど、違います。
俺が聞きたいのは〜
その「基準」を採用しているパルスくん自身の価値観に論理的な必然性与えられる?って話です。
クオリアとか哲学的ゾンビとか、飲茶さんの『哲学的な何か、あと科学とか』というサイトのサブコンテンツ「論客コミュニティ」(もうだいぶ前になくなったけど喧嘩界の古参は大体出入りしてたと思う)でさんざん議論し尽くされてたから知ってはいるけど
特に、パルスくんの話で目新しいと思った意見はなかったです。
つーか、見飽きてる。
そんなことよりも、「会話」のイロハについてもう少し見識を深めたほうが良さそうだね。
やっぱりすげ〜損してるわ。
俺みたいに散らかったとりとめのない話をこうやって親切に整理整頓してくれるお人好しなんてそうそういないし、コスパ悪すぎ。