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詠み人知らずよ、俺と一戦やらないか? / 82

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パルス 2019/11/13 (水) 19:04:00

>> 79

「オーディエンスに見せるだの魅せるだの」ってまさしく論理の領域じゃないのか…な?

見せたり魅せたりするのが論理に基づく行為って意味で言ってるのか、論理を見せたり魅せたりするって意味で言ってるのか、どっち?

それを切り分ける意味ってあるのか…な?

切り分ける意味は2つあります。
まず1つめ。さっき反証可能性の話をあげたけど、主要仮説にフォーカスを置くのも当然大切で、それこそ具体例の提示が可能か(具体例の存在有無に関わらず)による結果論的な批判が必要なわけなんだけど、でも補助仮説にフォーカスを置くこともすごい重要なわけよ。扱ってる論題が現実の結果として視覚化・体現化される訳ではないものだったりすると、むしろ補助仮説の方が重要なわけで。理由は多分分かると思うけど一応言っとくと、補助仮説の崩壊が一部分でも起こればその論理って破綻するし、その時主要仮説に対する反証となるソースが存在しないから。じゃあ補助仮説に対する反証をしていきましょうね~ってなったときに、部分に対する反証だから、各パーツを分解して捉える必要があるよね~ってこと。この補助仮説に対する反証って、具体的にはどんな状況かっていうと、「ソースの妥当性・信憑性の検証」とかだね。
じゃあ2つめ。俺は普段扱う論題が社会問題とかじゃないし、扱うとしても政治は推論上の蓋然性に基づく評価が重要だという立ち位置なの。具体的にどんな論題扱うかっていうと、例えば(クオリア)とか(LINE民の慣習的制度の構造や、それに於ける概念や認識)とかいう思考上のもの、要は理論化学の概念を化学以外の哲学に拡張した上で成立する話なのね。んで数学的宇宙且つ理論化学みたいな思考回路で話を扱う時って、さっきも言ったけど論理は演繹法で展開されるのよ(材料は帰納法だったりするけどね。)これって、分解する意味の1つめで言ったことにも繋がるんだけど、自分自身での補助仮説の検証だったり、相手に対する補助仮説の批判だったりが絶対必要なの。
この、上記の2つの理由で、意味があると考えてます。

~以下余談~
俺は誰かに勝ちたいとか人間だから多少なりとも思いはするんだけど、どちらかというと論理的な昇華を目的にしてるの。例えば喧嘩界で最初にアドアンとやったときにも言ったんだけど、ネット喧嘩の構造上、根底にある論理の部分を破綻させればネット喧嘩では相手を倒せるのでは、っていう仮説の検証をしてたの。一応誤解招かないように言っておくと、喧嘩師は根底の論理の部分が弱いって意味じゃなくて、単純に論理の部分が崩壊したときに~ってことね。だから論理の部分が脆そうなアドアンを選んだ。
この余談、何が関係あるんだ!って思うかもしれないけど、一応ちゃんと関係してて。
この文章の上の方で書いた反証可能性なんだけど、あれって元々論理を昇華させることが重要だという前提の上で成り立ってるって話。これが俺の思想上の前提だよってことを、この余談で伝えたかったってことです。

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