仏教のお話

問答 輪廻について

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問)
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Sさん
2024/4/20 11:26
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時折、「初期仏教では輪廻が説かれたが、大乗仏教では輪廻は説かれていない」といった言説を眼にしますが、大乗の代表的論師である龍樹も無著も理論的に輪廻を説いていると思います。皆様のご意見をいただければと思います。
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復次是般若波羅蜜中種種因緣譬喻多說空法。有新發意者。
取空相著是空法。於生死業因緣中生疑。若一切法畢竟空。
無來無去無出無入相。云何死而有生。現在眼見法尚不應有。
何況死後餘處生。不可見而有。如是等種種邪疑顛倒心為斷。
是故佛種種因緣廣說有死有生。

(中略)
如人死生。雖無來去者而煩惱不盡故。於身情意相續更生身情意。
身情意造業亦不至後世。而從是因緣更生受後世果報。
譬如乳中著毒。乳變為酪。酪變為酥。乳非酪酥。酪酥非乳。
乳酪雖變而皆有毒。此身亦如是。今世五眾因緣故更生後世。
五眾行業相續不異故而受果報。又如冬木。雖未有花葉果實。
得時節會則次等而出。如是因緣故知有死生。」

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龍樹『大智度論釋往生品第四之上 卷三十八』
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(訳)
「また次に、この般若波羅蜜経においては様々な因縁や多くの譬喩によって空法を説いているのだが、新たに発心して仏道に入った者は、空という存在の見方、空という教えに執着し、生死(輪廻)の業の因縁に関して疑いを持つようになるようだ。
『もし一切のものが究極的に空であり、来るのでなく、去るのでなく、出るのでなく、入るのでもないという有り方をしているならば、一体何が死んで生まれるのか。今、眼で見えるものでさえ、実体的に有るものではない。いわんや死後の他世は見ることもできないのに、有るということがあろうか』と。
こうした様々な誤った疑い、真理に反する心を断つために、仏は様々な因縁によって、広く、死が有り、生が有るということを説かれた。

(中略)
このように人の死や生は、来去する主体は無いといえども、煩悩が尽きないがゆえに、身体、心において相続し、さらに身体と心を生じさせる。身体と心を作る業そのものは後世に続なくても、その因縁は存続して後世において果報(業の結果)を受ける。
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例えば乳に毒(※酵母?)を入れれば、乳は酪(バター)になり、酪は酥(チーズ)となるが、乳は酪でも酥でもないし、酪、酥は乳でもない。乳と酪は別物だが、いずれも同じ毒が入っている。
この身も同様で、今世の五蘊によって作られた因縁によって、後世に(心身が)生じるが、五蘊の業が相続されているので全くの別物ではない。そのため業の果報を受けることになる。
ちょうど、冬の木は、未だ花も葉も果実もつけていないが、時が来ればそれらは次第に実ってくるようなものである。
このような因縁のゆえに、死と生が有るということが知られる。」

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云何此識或説爲阿陀那識。能執持一切有色諸根。
一切受生取依止故。何以故。
有色諸根此識所執持不壞不失。及至相續後際。
又正受生時由能生取陰故。故六道身皆如是取。
是取事用識所執持故。説名阿陀那。

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無著『摂大乗論 巻上 依止勝相中衆名品第一』
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(訳)
「それは何故、阿陀那識(※阿頼耶識の別名)と呼ばれるのか.
(それは阿陀那識が)一切の身体的感覚器官を掌握する能力があり、生存全ての拠り所であるからである。身体の寿命が続いていく間、阿陀那識によって感覚器官は壊れることも失われることもない。
そして(阿陀那識は)次生にも相続される。正に取陰(※阿陀那識による五蘊への執着)によって、生を受けるからである。六道に存在するものはみなこのように阿陀那識によって保持されるのである。
それ故にそれが阿陀那識と呼ばれる。」

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※現代語訳は投稿者
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補足
龍樹や無著が輪廻を説いていたとしてもそれは個人的な意見に過ぎない、という驚きの反論を眼にしましたが、無名の僧侶の法話ならいざ知らず、龍樹と無著といえば中観派と唯識派という大乗仏教の二大潮流を作った論師です。
そして、大智度論と摂大乗論も大乗仏教を代表する論書です。

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大乗の理論的支柱と言える二人が、その代表的著作で明確に輪廻を説いているのですから、それは「個人的意見」などではなく、大乗仏教の根幹に輪廻という前提があると見なすべきなのは明らかです。
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また、この意見を述べた人は「大乗仏教に輪廻転生を教義の根幹とする宗派はありません」とも述べていますが、それなら日本の大乗宗派はなにを根拠に中陰法要(四十九日)を行っているのでしょうか?
中陰法要は死んでから次の生に転生するまでに「中陰」と呼ばれる猶予期間があるという説に基づいて、死者がより良い来生に転生できるよう追善供養をするというものです。
もし日本の宗派が輪廻を信じていないなら、彼らは自分が信じていないことのために儀式を行うことで布施を得るという詐欺的な行為を行っていることになってしまいます。

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ダルマ太郎
作成: 2024/04/24 (水) 00:02:19
最終更新: 2024/04/24 (水) 00:15:38
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1
ダルマ太郎 2024/04/24 (水) 00:20:49 修正

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答)
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ダルマ太郎さん
2024/4/22 22:56

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こんばんは。
龍樹の『大智度論釋往生品第四之上 卷三十八』を読んでみました。Sさんが引用されているところは、質問者の質問に対し、龍樹が答えているところです。質問は、『摩訶般若波羅蜜経』の往生品第四の経文に関してです。その経文を参考のために引用します。

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経)
舍利弗。汝所問菩薩摩訶薩。與般若波羅蜜相應。從此間終當生何處者。舍利弗。此菩薩摩訶薩。從一佛國至一佛國。常値諸佛終不離諸佛。舍利弗。有菩薩摩訶薩不以方便入初禪乃至第四禪。亦行六波羅蜜。是菩薩摩訶薩得禪故生長壽天。隨彼壽終來生是間。得人身値遇諸佛。是菩薩諸根不利。舍利弗。有菩薩摩訶薩入初禪乃至第四禪。亦行般若波羅蜜。不以方便故捨諸禪生欲界。是菩薩諸根亦鈍。舍利弗。有菩薩摩訶薩。入初禪乃至第四禪。入慈心乃至捨。入虚空處乃至非有想非無想處。修四念處乃至八聖道分。行佛十力乃至大慈大悲。是菩薩用方便力不隨禪生。不隨無量心生。不隨四無色定生。在所有佛處於中生。常不離般若波羅蜜行。如是菩薩賢劫中當得阿耨多羅三藐三菩提。
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訳)
舎利弗よ。あなたが問うたのは、菩薩摩訶薩が般若波羅蜜と相応すれば、この間を終われば、どこに生まれるのか、ということですね。舎利弗よ。この菩薩摩訶薩は、一仏国から、一仏国に至り、常に諸仏に会い、ついに仏から離れることはありません。舎利弗よ。ある菩薩摩訶薩が、方便によらずに、初禅に入り、ないし第四禅に入り、または六波羅蜜を行じれば、この菩薩摩訶薩は、禅を得ることによって、長寿の天に生まれます。彼の寿命が終われば、この間に生まれ、人身を得て、諸仏に出会います。しかし、この菩薩の諸根は利ではありません。舎利弗よ。ある菩薩摩訶薩が、初禅に入り、ないし第四禅に入り、また般若波羅蜜を行じていても、方便によらなかったため、諸々の禅を捨て、欲界に生まれます。この菩薩の諸根もまた鈍いです。舎利弗よ。ある菩薩摩訶薩が、初禅に入り、ないし第四禅に入り、慈心に入り、ないし捨心に入り、虚空処に入り、ないし非有想非無想処に入り、四念処を修め、ないし八正道を修め、仏の十力、ないし大慈大悲を行うけれど、この菩薩が方便力を用いるがために、諸禅、無量心、四無色定に随って、生じることはなく、諸仏のところに生じて、常に般若波羅蜜の行から離れることがありません。この菩薩は、現在において、まさに無上の覚りを得るのです。

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この経の内容について、対論者から質問があります。
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経)
舎利弗は、今、前世と後世を問えるに、仏は何を以っての故にか、前世中の三種を答えて、後世中に広く分別したもう。
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経典では、上記の内容の前に前世と現世のことが答えられていて、「他方の仏国」「兜率天」「人中」の三種について説いています。来世については詳しく広く説いているので、その違いを問うています。龍樹の答えの三番目が、質問者さんが訳しているところです。
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空を学び始めた者は、空を空と観ず、空の相をみて、空に執着します。「実体の欠如」の意味を深く理解しようとはせず、空を無だと誤解して、すべてを否定してしまいます。無来、無去、無出、無入という言葉によって、単純に輪廻を否定してしまいます。しかし、仏教では輪廻が無いとは断言していません。非有非無の中道を説いていますから、常見も断見も否定しています。無に執着している者には、生まれること、死ぬことを教えます。
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> 初期仏教では輪廻が説かれたが、大乗仏教では輪廻は説かれていない
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初期仏教でも、大乗仏教でも、業報輪廻については説かれています。十二因縁・四諦・八正道は、輪廻から解脱することがテーマです。業報輪廻は、紀元前7世紀頃のカウシータキー・ウパニシャッドで説かれています。それ以前から庶民には知られていたのでしょうが、このウパニシャッドでバラモンたちにも知られるようになりました。よって、輪廻説は、アーリヤ人の思想だったのではなく、インドの土着民族の思想だったのでしょう。
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釈尊の時代は、業報輪廻の思想が定着しており、修行者たちは、輪廻からの解脱を目指しました。業報輪廻とは、善悪の行為によって善悪の業報を積み、その結果、死後、天上界・人間界・動物界・地獄界に趣くことです。悪業を繰り返せば、どんどん悪い世界に堕ちていきます。そして、長い間、苦の世界を輪廻します。輪廻から解脱するためには、善業を積むしかありません。
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インドには、カースト制度があり、カースト制度と業報輪廻が結び付いて、人々を苦しめていました。カースト制度とは、バラモン(司祭)・クシャトリヤ(王族)・ヴァイシャ(平民)・シュードラ(奴隷)という身分制度のことです。親の身分を子も引き継ぎ、身分は一生変わりません。奴隷の子は奴隷であり、死ぬまで奴隷です。努力精進しても、今世では身分は変わりません。しかも、今の自分の環境は、前世での自分の行為の結果なので、誰にも文句は言えません。業報輪廻は、自己責任の思想です。来世に期待し、今は我慢して善業をコツコツと積むしかありません。
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釈尊は、人々の苦を抜き、楽を与えることを目的にして活動しました。その時、大きな課題として、業報輪廻とどのように取り組むかがありました。人々は、業報輪廻説を信じ切っており、苦の原因になっています。十二因縁に「生」が入るのは、この世界に生まれるということは、前世での善業が足りていなかったということが分かるからです。繰り返す輪廻から解脱できないことへの絶望は、苦そのものでしょう。仏教の根本義である十二因縁・四諦・八正道は、苦(輪廻)から解脱する道を説いています。
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しかし、釈尊が業報輪廻をどのようにとらえていたのかは分かりません。肯定していたのか、否定していたのかは不明です。しかし、実際に苦しんでいる人々にとって、輪廻の有無は問題ではなく、必要なのは、治療のための薬です。悪業をつくらず、善業を積むことによって、心を浄化すれば、輪廻から解脱できることを教え、具体的には、八正道という修行方法を示しました。
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2
ダルマ太郎 2024/04/24 (水) 00:58:50 修正 >> 1

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答 2)
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大智度論の最初の讃仏偈
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経)
智度大道佛從來 智度大海佛窮盡
智度相義佛無礙 稽首智度無等佛
有無二見滅無餘 諸法實相佛所説
常住不壞淨煩惱 稽首佛所尊重法
聖衆大海行福田 學無學人以莊嚴
後有愛種永已盡 我所既滅根亦除
已捨世間諸事業 種種功徳所住處
一切衆中最爲上 稽首眞淨大徳僧
一心恭敬三寶已 及諸救世彌勒等
智慧第一舍利弗 無諍空行須菩提
我今如力欲演説 大智彼岸實相義
願諸大徳聖智人 一心善順聽我説

:
訳)
般若波羅蜜多の大道は 仏だけが よく来られました
般若波羅蜜多の大海は 仏だけが 極めつくされました
般若波羅蜜多の特徴は 仏だけが とらわれがありません
般若波羅蜜多を成就された 比類なき仏に 敬意を表します
有無の二つの思想を滅して余すことがなく
諸法実相は 仏の所説です

・・・略・・・
:
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これは、龍樹が大智度論を論じるに先だって、釈尊を讃嘆している偈です。この中に、「有無二見滅無餘」という文がありますので、これに注目したいと思います。見とは思想のことです。仏は、有無という二つの思想を滅し尽くした、といいますから、仏教において、有無を否定することは、基本的な立場だということが分かります。
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有見とは、「すべてのものには実体が有ると考え、実体に執着する思想」です。無見とは、「一切は無であると考え、そのことに執着する思想」です。仏教では、縁起を説いて、有無二見を否定しました。「すべてのものは因縁によって仮に有るので実体は無い」ということから、仮に有るので無を否定し、実体が無いので有を否定しました。非有非無の中道であり、これを空ともいいます。
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有見は常見とも呼ばれ、ものの実在に固執する見解です。無見は断見とも呼ばれ、虚無にこだわる見方です。インドの宗教の多くは、アートマン(自我)は実在し、常住すると考えています。死んでもアートマンは常にあると観るので、常見といいます。業報輪廻は、この常見が土台にあります。アートマンが有ることを前提にしています。アートマンが業報を積み、アートマンが輪廻し、アートマンが解脱をすると考えます。よって、アートマンを否定して、無我を説いた仏教は、常見を否定していることが分かります。
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一方、断見とは、死ねば断滅して、再び生まれ変わることはなく、業報・輪廻・解脱など無いとする思想です。仏教は、この思想だという誤解を持つ人が多いのですが、仏教は、断見を否定します。釈尊は、因果の法を説き、因縁にはそれに相応しく果報があると説いたのですから、今世の因縁は、来世に果報として受け取ると教えています。これを相続といいます。特徴を受け継いでいくから相続です。アートマンが有るから輪廻するのではなく、特徴を受け継いで輪廻するのです。このことから、釈尊や龍樹の説く輪廻は、世間一般的に言われている輪廻とは異なることが分かります。アートマンが輪廻するとはいわないのです。
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龍樹は、中論の最初でも、帰敬序という讃仏偈を読んでいます。
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経)
不生亦不滅 不常亦不斷
不一亦不異 不來亦不出
能説是因縁 善滅諸戲論
我稽首禮佛 諸説中第一

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「不常亦不斷」とありますので、常見と断見を滅した仏を讃えていることが分かります。このように、非有非無の中道、非常非断の中道は、釈尊と龍樹の思想の根底にあることが分かります。
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