仏教のお話

問答 輪廻について

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問)
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Sさん
2024/4/20 11:26
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時折、「初期仏教では輪廻が説かれたが、大乗仏教では輪廻は説かれていない」といった言説を眼にしますが、大乗の代表的論師である龍樹も無著も理論的に輪廻を説いていると思います。皆様のご意見をいただければと思います。
:
:
復次是般若波羅蜜中種種因緣譬喻多說空法。有新發意者。
取空相著是空法。於生死業因緣中生疑。若一切法畢竟空。
無來無去無出無入相。云何死而有生。現在眼見法尚不應有。
何況死後餘處生。不可見而有。如是等種種邪疑顛倒心為斷。
是故佛種種因緣廣說有死有生。

(中略)
如人死生。雖無來去者而煩惱不盡故。於身情意相續更生身情意。
身情意造業亦不至後世。而從是因緣更生受後世果報。
譬如乳中著毒。乳變為酪。酪變為酥。乳非酪酥。酪酥非乳。
乳酪雖變而皆有毒。此身亦如是。今世五眾因緣故更生後世。
五眾行業相續不異故而受果報。又如冬木。雖未有花葉果實。
得時節會則次等而出。如是因緣故知有死生。」

:
龍樹『大智度論釋往生品第四之上 卷三十八』
:
(訳)
「また次に、この般若波羅蜜経においては様々な因縁や多くの譬喩によって空法を説いているのだが、新たに発心して仏道に入った者は、空という存在の見方、空という教えに執着し、生死(輪廻)の業の因縁に関して疑いを持つようになるようだ。
『もし一切のものが究極的に空であり、来るのでなく、去るのでなく、出るのでなく、入るのでもないという有り方をしているならば、一体何が死んで生まれるのか。今、眼で見えるものでさえ、実体的に有るものではない。いわんや死後の他世は見ることもできないのに、有るということがあろうか』と。
こうした様々な誤った疑い、真理に反する心を断つために、仏は様々な因縁によって、広く、死が有り、生が有るということを説かれた。

(中略)
このように人の死や生は、来去する主体は無いといえども、煩悩が尽きないがゆえに、身体、心において相続し、さらに身体と心を生じさせる。身体と心を作る業そのものは後世に続なくても、その因縁は存続して後世において果報(業の結果)を受ける。
:
例えば乳に毒(※酵母?)を入れれば、乳は酪(バター)になり、酪は酥(チーズ)となるが、乳は酪でも酥でもないし、酪、酥は乳でもない。乳と酪は別物だが、いずれも同じ毒が入っている。
この身も同様で、今世の五蘊によって作られた因縁によって、後世に(心身が)生じるが、五蘊の業が相続されているので全くの別物ではない。そのため業の果報を受けることになる。
ちょうど、冬の木は、未だ花も葉も果実もつけていないが、時が来ればそれらは次第に実ってくるようなものである。
このような因縁のゆえに、死と生が有るということが知られる。」

:
:
云何此識或説爲阿陀那識。能執持一切有色諸根。
一切受生取依止故。何以故。
有色諸根此識所執持不壞不失。及至相續後際。
又正受生時由能生取陰故。故六道身皆如是取。
是取事用識所執持故。説名阿陀那。

:
無著『摂大乗論 巻上 依止勝相中衆名品第一』
:
(訳)
「それは何故、阿陀那識(※阿頼耶識の別名)と呼ばれるのか.
(それは阿陀那識が)一切の身体的感覚器官を掌握する能力があり、生存全ての拠り所であるからである。身体の寿命が続いていく間、阿陀那識によって感覚器官は壊れることも失われることもない。
そして(阿陀那識は)次生にも相続される。正に取陰(※阿陀那識による五蘊への執着)によって、生を受けるからである。六道に存在するものはみなこのように阿陀那識によって保持されるのである。
それ故にそれが阿陀那識と呼ばれる。」

:
※現代語訳は投稿者
:
補足
龍樹や無著が輪廻を説いていたとしてもそれは個人的な意見に過ぎない、という驚きの反論を眼にしましたが、無名の僧侶の法話ならいざ知らず、龍樹と無著といえば中観派と唯識派という大乗仏教の二大潮流を作った論師です。
そして、大智度論と摂大乗論も大乗仏教を代表する論書です。

:
大乗の理論的支柱と言える二人が、その代表的著作で明確に輪廻を説いているのですから、それは「個人的意見」などではなく、大乗仏教の根幹に輪廻という前提があると見なすべきなのは明らかです。
:
また、この意見を述べた人は「大乗仏教に輪廻転生を教義の根幹とする宗派はありません」とも述べていますが、それなら日本の大乗宗派はなにを根拠に中陰法要(四十九日)を行っているのでしょうか?
中陰法要は死んでから次の生に転生するまでに「中陰」と呼ばれる猶予期間があるという説に基づいて、死者がより良い来生に転生できるよう追善供養をするというものです。
もし日本の宗派が輪廻を信じていないなら、彼らは自分が信じていないことのために儀式を行うことで布施を得るという詐欺的な行為を行っていることになってしまいます。

:
:

ダルマ太郎
作成: 2024/04/24 (水) 00:02:19
最終更新: 2024/04/24 (水) 00:15:38
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ダルマ太郎 2024/04/26 (金) 21:55:51

ダルマ太郎さん

2024/4/24 21:00

> 「実体は無くても、名前として、概念としては有ります。」と言ったら、何もないのに言葉だけがあるような意味になりますが、そうではないでしょう?

実体が無い、というのは空のことです。リンゴにはリンゴとしての実体は有りませんが、リンゴという名はあり、植物・果実・食べ物という概念は有ります。よって、名称と概念によって、それが何なのかを判断します。実体が無いというのは、何もないという意味ではありません。空と無を混同しています。

仏教でいう世界というのは、外界の事実ではなく、脳内に仮設された世界のことです。私たちが、存在するとみるのは、認識に依ります。たとえ感受しても、認識しなければ、それは存在しません。五感は、世界のありのままを感受しているわけではなく、眼や耳で受けた内容を信号に変えて、脳に送り、脳内で仮設しています。その仮設された世界を私たちは事実として認識しています。

摩訶般若波羅蜜経の中で、空は、「諸法如幻。如焔。如水中月。如虚空。如響。如揵闥婆城。如夢。如影。如鏡中像。如化」というように喩えられています。最初に、「諸法如幻」とありますので、私もこの表現を使いましたが、分かりやすいのは、「如鏡中像」でしょうね。鏡に映る像は、実物ではありません。実物ではないので実体は有りません。仮の存在です。それは、外界と脳内で仮設された世界の関係に似ています。

29
ダルマ太郎 2024/04/26 (金) 21:58:25

ダルマ太郎さん

2024/4/24 21:00

> 因縁によって生じた何かがあって、それに仮の名前をつけるというのがprajñaptiでしょう。

はじめは、物と物との因縁を観ますが、次に心と物との因縁を観て、最後に心と心の因縁を観ます。それは、認識作用と脳内仮設の世界との因縁です。認識によって、仮設された世界があります。これは、般若波羅蜜経で説かれています。Sさんは、外界を認識していると思っていませんか? 

> それでは非有非無ではなくて、非有だけの無見でしょう。

概念として有るならば、凡夫にとっては、存在していることです。輪廻・地獄・天界・神・悪魔・幽霊などは、信じている者にとっては存在しますが、信じない者にとっては存在しません。現代人にとって、根拠がないものは、存在しないとする人が多いように思えます。経典に書いてあることが、すべて事実とはいえないでしょう。

仏陀は、形而上学的なことについては無記でしたよね。

> 結局、ダルマ太郎さんが主張する輪廻方便説というのは非有非無と言いつつ、非有だけの断見であると私には見えます。

輪廻は方便だと思いますが、それを主張はしていません。概念として有れば、非無だと考えますが、Sさんとは意見が違うのでしょう。輪廻が有ると主張する人とと意見交換は難しいですね。私は、輪廻が無いとは言っていません。概念としては有るのですから非無だと伝えています。このことを熟考してください。

30
ダルマ太郎 2024/04/26 (金) 22:01:40

Sさん

質問者2024/4/24 21:57

ダルマ太郎さんの仏教理解は認識論に偏りすぎなのです。仏教というより言語哲学のようなことを書いているだけに感じます。

>リンゴにはリンゴとしての実体は有りませんが、リンゴという名はあり、植物・果実・食べ物という概念は有ります。よって、名称と概念によって、それが何なのかを判断します。

リンゴという名称や概念がなくても、リンゴと呼ばれるものは存在しています。言葉を知らない赤子にすりおろしたリンゴを与えれば彼はそれを食べることできます。そしてそれを感受し好き嫌いを感じ分けます。縁起による現象としてリンゴが確かに存在しているからです。これが非無ということであり、別の言葉で言えば衆因縁生法、縁起所生、仮設、世俗有です。

>私たちが、存在するとみるのは、認識に依ります。たとえ感受しても、認識しなければ、それは存在しません。

主観という意味ではそうですが、世界は人間の認識中心で出来ているわけではありませんよね。たとえばダルマ太郎さんはウイルスを認識することはできません。しかし、ダルマ太郎さんの免疫機能はそれを感受し、反応します。免疫がウイルスに負ければ病に陥り、下手をすれば命を落とします。

このように世界の中で私たちが認識できる範囲はとても狭く小さいですが、認識しなければ存在しないなどというのは全くの嘘です。私たちは認識できないもののせいで生かされたり死んだりしているのです。

31
ダルマ太郎 2024/04/26 (金) 22:04:17 修正

Sさん

質問者2024/4/24 22:01

>概念として有れば、非無だと考えます

上で述べたように、非有か非無かわ我々の認識とは無関係です。ですので、概念としてあるから非無だとはいえませんし、ダルマ太郎さんがウイルスを認識できなくてもそれがあるように、輪廻もあります。しかし、ウイルスも輪廻ももちろん常住の実体はなく、因縁によって生じ、因縁によって滅びる縁起として存在しているということです。

>仏陀は、形而上学的なことについては無記でしたよね。

またどこかの仏教学者の本で読んだのかもしれませんが、形而上というのは西洋哲学の概念ですから、ブッダがそれにとらわれるはずがありません。
ブッダは輪廻について、神通について、神々について多くを説いていますし、それは大乗の経典にも受け継がれています。

それらをダルマ太郎さんが認識できないからというのは、それらが無いということの根拠にはなりません。

よく熟考してみてください。

>現代人にとって、根拠がないものは、存在しないとする人が多いように思えます。経典に書いてあることが、すべて事実とはいえないでしょう。

経典に書いてあるから事実なのではなく、ブッダが見た事実であり、仏弟子達が追体験できた事実だから経典に伝えられてきたのでは? それを信頼して三帰依するのが仏教徒なのではないですか? ダルマ太郎さんは大乗仏教徒と名乗っていましたが、三帰依は大乗のどの宗派でも要請されることですよ。

32
ダルマ太郎 2024/04/26 (金) 22:07:42

Sさん

質問者2024/4/24 23:02

ひとつ聞きたいのですが、ダルマ太郎さんのように輪廻を受けいれずに、業も解脱も方便だと言っている人は、ではそういう方便を学んで最終的にどうなりたいのですか?
成仏といいますが、どうなったら成仏で、成仏するとどんなメリットがあるのでしょうか?
別の表現で言えば、仏教の目的はなんだと考えているのか、ということになりますが、良かったら教えてください。

33
ダルマ太郎 2024/04/26 (金) 22:10:21

ダルマ太郎さん

2024/4/25 1:11

> ダルマ太郎さんの仏教理解は認識論に偏りすぎなのです。仏教というより言語哲学のようなことを書いているだけに感じます。

大智度論や摂大乗論を引用されているので、大乗仏教を少しは学ばれているのかと思いました。ほとんど大乗については知らないようですね。私がここで大乗仏教について語るより、ご自分で学ばれた方がいいと思います。

> 主観という意味ではそうですが、世界は人間の認識中心で出来ているわけではありませんよね。

五蘊とは、世界を構成する五つの要素だと言います。色受想行識のことです。初期仏教では、色を身体の意味だと説いていますが、部派仏教の時代に物質の意味とされました。世界を構成する要素のうち、色以外は精神作用です。感受・想起・意志・認識が世界を構成するということです。このことからも、仏教では、認識されたものを世界だと呼んでいるのですから、個の世界はその人の認識中心でしょう。

> たとえばダルマ太郎さんはウイルスを認識することはできません。

ウイルスを認識するのは、マスコミや医療機関の情報からです。その情報がなければ、私はウイルスを知らないし、認識することはできませんので、私の世界にはウイルスは存在しません。

> このように世界の中で私たちが認識できる範囲はとても狭く小さいですが、認識しなければ存在しないなどというのは全くの嘘です。

認識しなければ、私の世界には存在しない、ということです。外の世界の事ではありません。Sさんは、実在論者ですか?

34
ダルマ太郎 2024/04/26 (金) 22:12:42

ダルマ太郎さん

2024/4/25 1:12

> 非有か非無かは我々の認識とは無関係です。

非有だと認識するから非有という説があるし、非無だと認識するから非無という説があるのではないでしょうか? 何も認識せずに、そういう説だけが有るというのはおかしいですね。

> ですので、概念としてあるから非無だとはいえませんし、ダルマ太郎さんがウイルスを認識できなくてもそれがあるように、輪廻もあります。

概念として有れば非無です。これは、外の世界のことを言っているのではなく、脳内のことです。私たちは、外の世界の事実を知ることはできません。眼や耳で感受し、想起しているのですから、その時点で事実とは異なります。鏡の中の像と同じです。

> またどこかの仏教学者の本で読んだのかもしれませんが、形而上というのは西洋哲学の概念ですから、ブッダがそれにとらわれるはずがありません。

仏教学者の説は信用できないと思っているのですか? 知恵袋には、仏教学者を嫌っている人がいますが、Sさんも、その一人なのですか? 何だか、仏教学者よりも自分の方が知識が上だとでもいいたそうですね。学者は、人々に分かりやすいように形而上学的という言葉を使っています。仏教では、それを何と言うのか私は分かりません。

> ブッダは輪廻について、神通について、神々について多くを説いていますし、それは大乗の経典にも受け継がれています。

大乗にも輪廻・神通・神々は登場します。しかし、それらは、方便であり、事実として存在しているわけではありません。輪廻が方便であるということは、Sさんにとって何か都合が悪いのですか?

35
ダルマ太郎 2024/04/26 (金) 22:15:11

ダルマ太郎さん

2024/4/25 1:12

> それらをダルマ太郎さんが認識できないからというのは、それらが無いということの根拠にはなりません。

輪廻は概念だと認識しています。だから、仮に有ると言っています。

> 経典に書いてあるから事実なのではなく、ブッダが見た事実であり、仏弟子達が追体験できた事実だから経典に伝えられてきたのでは?

だから、経典に書いてあることが事実ってことでしょう? だとしたら、事実として梵天や帝釈天は存在するのですか? 釈尊は、生まれてすぐに歩まれて、「天上天下唯我独尊」とおっしゃったのですか? 方便を方便として読んだ方がいいのではないですか?

> ひとつ聞きたいのですが、ダルマ太郎さんのように輪廻を受けいれずに、業も解脱も方便だと言っている人は、ではそういう方便を学んで最終的にどうなりたいのですか?

方便とは、「真理に近づける方法」という意味です。釈尊は、菩提樹の下で最高の真理を覚られて、その後に、人々を真理に近づける方便を覚られました。輪廻に執着して苦しむ人たちには、輪廻からの解脱を説いて安楽の境地へと導き、その後、真理を覚る道へと導きました。私は、釈尊の方便を学び、一歩でも覚りに近づけられたらと思っています。

36
ダルマ太郎 2024/04/26 (金) 22:16:26

ダルマ太郎さん

2024/4/25 1:13

> 成仏といいますが、どうなったら成仏で、成仏するとどんなメリットがあるのでしょうか?

仏陀とは、無上の覚り(阿耨多羅三藐三菩提)を完成された方です。覚りを得るには、智慧の完成(般若波羅蜜)が必要です。智慧とは、真理を観察する能力のことです。よって成仏とは、智慧を完成させて、最高の真理に目覚めることです。成仏のメリットとは、最高の真理を知見できることでしょう。

> 別の表現で言えば、仏教の目的はなんだと考えているのか、ということになりますが、良かったら教えてください。

それは、自他の成仏です。

以上です。

37
ダルマ太郎 2024/04/26 (金) 22:19:34

Sさん

質問者2024/4/25 7:33

私が「認識論」と読んでいるのは、言語的・概念的に把握されることに拘る哲学的立場のことです。対して、仏教における識というのは言語的認識だけを指すのではありません。初期仏教で説かれた六識も、唯識が説いた八識も、言語的に概念として認識すること以外にも識という働きが作用していることを説いています。リンゴという言葉・概念がなくても、私たちはそれを見ること(眼識)、その匂いを嗅ぐこと(鼻識)、それを口で味わうこと(舌識)、手でそれを触ること(身識)でも識別しています。自分の感情や欲望を認識するときも、それを逐一言語化して、概念化してから識別しているわけではありません。意識にそれらが接触すれば一刹那のうちにそれを識別するのです。言語的認識というのはわたしたちの心的作用のごく一部に過ぎません。

ウイルスに体が反応するのも身識によって識別しているということですから、ウイルスという概念を知らなくても、ウイルスに冒された人にとってそれは存在しているのです。ダルマ太郎さんはあくまで言葉と概念というものにこだわり、そこから全てを説明しようとしているように見えます。大乗の一部にそうした傾向があることは否定しませんが、それが大乗仏教だというのは偏った見方だと思いますよ。

>Sさんは、実在論者ですか?

外の世界のことを仏教では「境」(visaya)と呼んでいます。「認識しなければ、私の世界には存在しない」と言いますが、そもそも認識は対象がなければ成立しませんよね? もちろんリンゴは実体として有るわけではありません。縁起生のものとして生滅していますが、そうした形で私たちの外に認識に関わらず世界が存在しているという事実も、私たちの世界に含まれているというのが私の立場です。

38
ダルマ太郎 2024/04/26 (金) 22:21:22

Sさん

質問者2024/4/25 7:37

>大乗にも輪廻・神通・神々は登場します。しかし、それらは、方便であり、事実として存在しているわけではありません。

ほら、ここです。ダルマ太郎さんは「概念として有れば非無です」といいながら、一方で「事実としては」それらが存在しないと見なしているのです。ダルマ太郎さんがいう「非無」というのはただ言葉の上でのことであり、一言でいえば詭弁なのです。事実としては輪廻の存在を否定しているわけですから、事実としては断滅論者なのですが、それが邪見とされていることを知識として知っているので、そう見なされないように立ち回っているだけではないでしょうか。

>経典に書いてあることが事実ってことでしょう? 

経典に書いてあることが事実だと思っていないなら、なぜ仏教に帰依するのです? ブッダが存在したと、真理を悟ったとされていること、ブッダの教えたこと、それら全ては経典に書いてあるだけですよ。

もちろん経典には修辞的・神話的な表現も多くありますから、逐語的に全てを信じる必要などありませんが、経典を貫いている前提や論理があるなら、それを信じないでどうやって仏教に帰依するのでしょうか。

39
ダルマ太郎 2024/04/26 (金) 22:23:15

Sさん

質問者2024/4/25 7:39

>輪廻が方便であるということは、Sさんにとって何か都合が悪いのですか?

輪廻が方便ならなんのために仏教が説かれたのか、その理由が無くなりますと言っているのです。ブッダはあなたが言う最高の真理を知見して成仏した後に、普通の人と同じように、老いて病んで死んだのです。ブッダの死と凡夫の死との違いは輪廻するかしないかの一点です。もしもそうした違いがないなら、なぜ一生を投げ打って修行をする必要があるのでしょうか?

>成仏のメリットとは、最高の真理を知見できることでしょう。

最高の真理を知見することで知的な満足を得ることが仏教の目的ということですか? それでは仏教はただ知的な達成度を競うゲームに過ぎなくなります。仏教にとって智慧の開発は三学の一つであり、それこそがあくまで手段・方便です。ダルマ太郎さんは輪廻を否定し解脱という目的を否定しているため、手段が目的になってしまっているように見えます。

真理を知見したらどうなるのでしょうか?
成仏している人としていない人の違いはなんなのでしょうか?
輪廻を否定すれば、その答えが無いのです。

40
ダルマ太郎 2024/04/26 (金) 22:25:43

ダルマ太郎さん

2024/4/25 18:02

> 私が「認識論」と読んでいるのは、言語的・概念的に把握されることに拘る哲学的立場のことです。

私は、認識論者だとは思っていません。それは、Sさんの感想です。

> 対して、仏教における識というのは言語的認識だけを指すのではありません。初期仏教で説かれた六識も、唯識が説いた八識も、言語的に概念として認識すること以外にも識という働きが作用していることを説いています。

もちろん、言語的認識だけではありません。言語・概念・イメージなどを認識しています。般若経では、言語に依る認識を重視していますから、私もそうしています。疑問があるのなら、摩訶般若波羅蜜経をお読みください。

Sさんは、外の世界を認識していると考えているのですか?

> リンゴという言葉・概念がなくても、私たちはそれを見ること(眼識)、その匂いを嗅ぐこと(鼻識)、それを口で味わうこと(舌識)、手でそれを触ること(身識)でも識別しています。

私たちが、知らないものを見たら、それを景色の一部だと認識します。知っていたら、そのものの名称や概念を想起します。それを見てリンゴだと思うのは概念に依ります。耳・鼻・舌・身も同じです。

> 自分の感情や欲望を認識するときも、それを逐一言語化して、概念化してから識別しているわけではありません。意識にそれらが接触すれば一刹那のうちにそれを識別するのです。

感情や欲望も、概念化し、言語化するまでは、正体不明でしょう? 憂悲苦悩は、それを憂悲苦悩だと言葉で知っているから認識できます。

41
ダルマ太郎 2024/04/26 (金) 22:27:24

ダルマ太郎さん

2024/4/25 18:02

> 言語的認識というのはわたしたちの心的作用のごく一部に過ぎません。

私たち人間が、どれほど言語的認識をしているのかを、じっくりと思惟されてはいかがでしょうか?

> ウイルスに体が反応するのも身識によって識別しているということですから、ウイルスという概念を知らなくても、ウイルスに冒された人にとってそれは存在しているのです。

身体が反応しても、ウイルスを知らなければ、何が起こったのかは不明ですよね。

> ダルマ太郎さんはあくまで言葉と概念というものにこだわり、そこから全てを説明しようとしているように見えます。大乗の一部にそうした傾向があることは否定しませんが、それが大乗仏教だというのは偏った見方だと思いますよ。

少なくとも、私が学んできた大乗仏教では、概念と言葉は重視されています。たとえば、摩訶般若波羅蜜経には、次のように説かれています。

42
ダルマ太郎 2024/04/26 (金) 22:28:55

ダルマ太郎さん

2024/4/25 18:38

摩訶般若波羅蜜經習應品第三

仏の舎利弗に告げたまわく、『菩薩摩訶薩は、般若波羅蜜を行ずる時、応に是の如く思惟すべし、菩薩は但だ字有るのみ、仏も亦た但だ字有るのみ、般若波羅蜜も亦た但だ字有るのみ、色は但だ字有るのみ、受想行識も亦た但だ字有るのみ、と。舎利弗、我れに、但だ字のみ有るが如く、一切の我は、常に不可得なり。衆生、寿者、命者、生者、養育、衆数、人、作者、使作者、起者、使起者、受者、使受者、知者、見者、是の一切は皆、不可得なり。不可得なれば空なるが故に、但だ名字を以って説く。菩薩摩訶薩も亦た是の如く般若波羅蜜を行ずるも、我を見ず、衆生を見ず、乃至知者、見者を見ず。所説の名字も亦た見るべからず。

と、このように説かれています。すべては言葉によって認識されるので、真理を観察する時には、言葉を見るなと説いています。

> ダルマ太郎さんは「概念として有れば非無です」といいながら、一方で「事実としては」それらが存在しないと見なしているのです。ダルマ太郎さんがいう「非無」というのはただ言葉の上でのことであり、一言でいえば詭弁なのです。

事実として輪廻が有るならば、そのことの根拠を示し、証明する必要があります。誰も死後の世界については知りませんので、根拠はありませんよね。経典に書いてあるといっても、理証や現証がなければ、証明としては不足しています。理証とは、道理にかなっていることによる証明です。現証は、現実に起こったことによる証明です。釈尊が、嘘をついていると言っているのではなく、人々を救うための方便として、業・輪廻・解脱を説いているのでしょう。

「概念として有れば非無です」という説を受け入れるのも、受け入れないのも、あなた次第です。

43
ダルマ太郎 2024/04/26 (金) 22:31:29

ダルマ太郎さん

2024/4/25 18:40

> 事実としては輪廻の存在を否定しているわけですから、事実としては断滅論者なのですが、それが邪見とされていることを知識として知っているので、そう見なされないように立ち回っているだけではないでしょうか。

それは、Sさんの感想ですね。諸法は幻のごとしです。諸法には、業・輪廻・解脱も含まれます。

> 経典に書いてあることが事実だと思っていないなら、なぜ仏教に帰依するのです?

経典に書いてあることが、事実だとは思っていません。経典とは、事実を記した記録書ではないし、歴史書でもありません。人々を救済し、教化し、覚りへと導く教本です。教えるために書かれていますから、方便・譬喩・因縁・言辞が多用されています。ノンフィクションではないのです。その点を熟考されてください。

> ブッダが存在したと、真理を悟ったとされていること、ブッダの教えたこと、それら全ては経典に書いてあるだけですよ。

そうです。だから、本当のことは誰にも分かりません。経典の内容は、仏陀の説法の記録ではありませんから、後の弟子たちの加筆が為されているでしょう。輪廻にしても、釈尊がどんな説法をされていたのかは謎です。なぜなら、釈尊は教えの文字化をしていないからです。大乗仏教の場合は、龍樹が教えを文字にしています。だから、ある程度は、仏教の教義が分かります。

> もちろん経典には修辞的・神話的な表現も多くありますから、逐語的に全てを信じる必要などありませんが、経典を貫いている前提や論理があるなら、それを信じないでどうやって仏教に帰依するのでしょうか。

真理は言葉では表せません。だから、釈尊は方便力で人々を真理へと導いたのです。方便も言葉ですが、譬喩によって、象徴表現によって、因縁によって、巧みに言葉を使われ、真理へと近づけさせました。最終的に覚るのは、学ぶ側自身の智慧によります。それを知らないで、どうやって仏教に帰依するのでしょうか。

44
ダルマ太郎 2024/04/26 (金) 22:34:04

ダルマ太郎さん

2024/4/25 18:42

> 輪廻が方便ならなんのために仏教が説かれたのか、その理由が無くなりますと言っているのです。

衆生は、輪廻が幻であることを知らず、実体の無い幻に恐怖し、怯え、苦しんでいるので、そこから救済するために仏教は説かれたのでしょう。輪廻からの解脱とは、輪廻を概念だと気づき、輪廻への執着から離れることだと思います。

輪廻が事実として有るのなら、それは自然現象だということですか。だとしたら、輪廻は地球が自転しているのと同じで、誰も変えようがありませんよね? 解脱とは、一体何なのでしょう? 自然現象を解決できる方法ってあるのですか? 輪廻が概念だから、それを解決できる方法があるということです。

> 最高の真理を知見することで知的な満足を得ることが仏教の目的ということですか?

概念ではなく、名称ではなく、あるがままの真実を知るということを「如実知見」といいますね。それを知的な満足だというのであれば、それはSさんの感想ですので、いいのではないでしょうか。

> 真理を知見したらどうなるのでしょうか? 成仏している人としていない人の違いはなんなのでしょうか?

それは、真理を知見しなければ分からないし、成仏しないと分かりません。

45
ダルマ太郎 2024/04/26 (金) 22:40:33

Sさん

質問者2024/4/25 21:13

>事実として輪廻が有るならば、そのことの根拠を示し、証明する必要があります。

長いので引用しませんが、私が引用した大智度論の釈往生品で、龍樹は根拠を示して輪廻の理証を試みていますよ。ご存じないのでしょうか? 成唯識論では死体の変化による現証を示して阿頼耶識の論証を試みているところがありますが、阿頼耶識というのは輪廻を前提とした識ですから、輪廻を論証しようとしているのと同じことです。他にもそういう試みは多くあるのに、ダルマ太郎さんが知らないだけだと思います。

>Sさんの感想ですね。

経典の引用や仏教的概念の辞書的解説には熱心でも、自分自身の思想的態度を問われるという肝心のところでそのような逃げ口上しか出てこないとは。

「一方、断見とは、死ねば断滅して、再び生まれ変わることはなく、業報・輪廻・解脱など無いとする思想です。仏教は、この思想だという誤解を持つ人が多いのですが、仏教は、断見を否定します。」

これはご自身の言葉でしょう?そして以下もあなたの言です。

「大乗にも輪廻・神通・神々は登場します。しかし、それらは、方便であり、事実として存在しているわけではありません。」

二つを並べてみれば、あなたが実は断滅論者で、それを取り繕うために詭弁を弄しているのは明らかです。

46
ダルマ太郎 2024/04/26 (金) 22:43:41

Sさん

質問者2024/4/25 21:16

>ノンフィクションではないのです。

いえ、ブッダの言行の記録であるというのが、経典の前提です。如是我聞に始まり、経典の内容がどこで誰を相手に説かれたものか明らかにするという形式が、ほぼ全ての経典で徹底されているのはそういうことです。それを信じないというのは勝手ですが、そうした形式が徹底されていることからノンフィクションを標榜されたものであるということは明らかですし、大乗経典がこの形式を踏襲したのも創作ではなくノンフィクションだと信じさせたかったからです。

そして、それが信じられないなら、ブッダの存在やブッダの悟りやブッダの教えも信じる根拠がなくなりますから、帰依も生じないでしょう。

ダルマ太郎さんは「初期経典を読む暇は無い」と放言していましたが、ブッダの教説そのものが含まれる可能性が最も高いものがあるのに、その程度の興味しか示さないというのはそういうことなんでしょう。

>なぜなら、釈尊は教えの文字化をしていないからです。

文字で書かれた大乗経典の方にこそ真贋を巡って多くの議論があります。書かれていれば信頼性が高いなどということは言えない証拠です。そもそも、そういうのは仏教学者の弁であって仏教徒のものではありません。教えを聞いて、経典を読んで浄信が生じれば、それを縁として帰依を誓うのが仏教徒でしょう? それ以外にどうやって仏教徒になるのでしょう?

>最終的に覚るのは、学ぶ側自身の智慧によります。

龍樹は大智度論でこう言っています。

若人心中有信清淨。是人能入佛法。
若無信是人不能入佛法。
不信者言是事不如是。是不信相。

(訳)
「もし人の心に清浄なる信があれば、その人は仏法に入ることが出来る。
もし信が無ければその人は仏法に入ることができない。
信のないものはこれを否定するが、それこそが不信の特徴である。」

47
ダルマ太郎 2024/04/26 (金) 23:19:17

Sさん

質問者2024/4/25 21:19

>輪廻が事実として有るのなら、それは自然現象だということですか。

自然現象といいたければ言っても良いですが、他のあらゆるものと同様に縁起、因縁生ということです。

>解脱とは、一体何なのでしょう? 自然現象を解決できる方法ってあるのですか?

…だからそれを説いているのが十二縁起であり、四諦八正道なんですが。大丈夫でしょうか。般若経を読む前にいろいろ学ぶことがある気がしますが。

私たちの心も自然の一部です。そして、生存という現象は無明から始まり、死に終わるというサイクルを繰り返しています。心が先導しているのです、この生存という現象は。それが仏教の発見なのです。

従って智慧によって心の無明を解消すれば生存という現象が起こらなくなるということです。 仏教が智慧を重視するのはこのためであって、智慧が目的ではないのです。

>如実知見

如実知見は解脱の縁ですが、あくまで方便です。目的ではありません。

>成仏しないと分かりません。

成仏とはなにか、成仏するとどうなるかは多くの経論に書いてあります。すべて輪廻を前提としているはずですから、勉強してみてください。

48
ダルマ太郎 2024/04/26 (金) 23:21:14

ダルマ太郎さん

2024/4/25 23:48

> 長いので引用しませんが、私が引用した大智度論の釈往生品で、龍樹は根拠を示して輪廻の理証を試みていますよ。

Sさんが、どの文章によって、龍樹が根拠を示して輪廻の理証を試みていると言っているのかが分かりませんので、具体的にその文を引用してください。そうすると話が早いです。

> 経典の引用や仏教的概念の辞書的解説には熱心でも、自分自身の思想的態度を問われるという肝心のところでそのような逃げ口上しか出てこないとは。

Sさんが、私のことを決めつけて意見を言うので、「Sさんの感想ですね」と返しました。私は、何度も、「輪廻は概念として有るので、無ではない」と伝えているのに、それを無視して、私のことを断滅論者だと決めつけるから、それは感想だと言ったのです。

諸法は幻のごとしです。諸法には、業・輪廻・解脱も含まれます。輪廻は幻です。

> 二つを並べてみれば、あなたが実は断滅論者で、それを取り繕うために詭弁を弄しているのは明らかです。

なぜ私が詭弁を使う必要があるのですか? 
Sさんは、決めつけが多いですねwww
「断見とは、死ねば断滅して、再び生まれ変わることはなく、業報・輪廻・解脱など無いとする思想です」「大乗にも輪廻・神通・神々は登場します。しかし、それらは、方便であり、事実として存在しているわけではありません」という文章のどこを読んで、私を断滅論者だと決めつけたのですか? 方便というのは、真理へと導く方法のことです。つまり、概念・言葉としては仮に有るので、それを受け入れて教化しているということです。

49
ダルマ太郎 2024/04/26 (金) 23:23:33

ダルマ太郎さん

2024/4/25 23:49

> いえ、ブッダの言行の記録であるというのが、経典の前提です。

仏陀の言行の記録だというのは、Sさんの個人的見解ですか? それとも、所属する会の説ですか? 大乗仏教の経典は、紀元前後から編纂されたので、釈尊の言行の記録だとは思えませんが、初期経典も釈尊が亡くなってから、弟子たちが書き加えたことが多いのではないでしょうか? このことは、多くの学者も言っています。学者の説を信じないSさんにとっては、受け入れられないのでしょうが。

> そして、それが信じられないなら、ブッダの存在やブッダの悟りやブッダの教えも信じる根拠がなくなりますから、帰依も生じないでしょう。

経典は、仏陀の記録ではなく、仏陀の教えを記した教本です。だから、それを説かれた仏陀、仏陀の教えに帰依をします。

> ダルマ太郎さんは「初期経典を読む暇は無い」と放言していましたが、ブッダの教説そのものが含まれる可能性が最も高いものがあるのに、その程度の興味しか示さないというのはそういうことなんでしょう。

私は、大乗仏教の経典に興味・関心があるから仏教を学んでいます。般若経や法華経は、もう何度も読みましたが、今でも繰り返し読み続けています。読むごとに発見があるからです。

龍樹・無著・世親は、いずれも最初は説一切有部に属していました。しかし、後に大乗仏教にかわっています。大乗仏教に魅力を感じたからでしょう。

日本は、大乗仏教の国です。初期経典を読む人は少ないのではありませんか? 最近は、スリランカから僧侶が来て、テーラワーダ仏教を弘めていますが、どれほど日本に流布するのでしょうね?

50
ダルマ太郎 2024/04/26 (金) 23:26:22

ダルマ太郎さん

2024/4/25 23:51

> 文字で書かれた大乗経典の方にこそ真贋を巡って多くの議論があります。

話が変わっていますね。釈尊は、教えを文字にして残さなかったけれど、龍樹は文字で残しているので、何を論じていたのかがある程度理解できるといったのです。

> だからそれを説いているのが十二縁起であり、四諦八正道なんですが。

私は、輪廻が自然現象ならば、それを解決する手段はない、と言っているのです。目に見える災害ならば、それを避ける方法はあるのでしょうが、目に見えない輪廻をどうやって解決するのですか? 

十二因縁では、苦の根本原因を無明だとし、無明を滅すれば苦が滅すると説いています。無明とは、真理を知らないことですが、なぜ真理を知れば、輪廻から解脱できるのですか? 輪廻は概念として仮に有るということを覚ることによって、輪廻から解脱するのではありませんか? 四諦・八正道も、真理を覚るための教義です。

> 心が先導しているのです、この生存という現象は。

ここでいう心とは何ですか? 
先導している心って実在するのですか?

> 仏教が智慧を重視するのはこのためであって、智慧が目的ではないのです。

大乗仏教では、般若波羅蜜多を目的にしています。智慧を完成すると同時に、無上の覚りを得られるからです。このことは、般若心経にも、「依般若波羅蜜多故得阿耨多羅三藐三菩提」だと説いています。

> 成仏とはなにか、成仏するとどうなるかは多くの経論に書いてあります。

コーヒーの味は、コーヒーを飲まないと分かりません。経論に書いてあっても、自分で体験しないと分からないのではありませんか?

51
ダルマ太郎 2024/04/26 (金) 23:27:14

Sさん

質問者2024/4/26 0:24

きりがないので、ここまでにしましょう。
大智度論の輪廻理証に関しては長いので気が向いたら質問として投稿しますよ。
「それは方便です」と繰り返すだけなのがわかっているので私にとっては無意味ですが、世間には眼のある人もいると思いますので。

それでは、ご苦労様です。

52
ダルマ太郎 2024/04/26 (金) 23:28:12

ダルマ太郎さん

2024/4/26 0:31

了解しました。
お疲れ様です。

以上です。