世親が顕した『唯識三十頌』を護法が注釈し、
それを中国の玄奘が漢訳した唯識の論典が『成唯識論』である。
謂不可知執受 了謂了別 即是行相 識以了別為行相故
不可知の執受・處と了となり。了とはいわく、了別なり、即ち是れ行相なり、識は了別するを以て行相と為すが故に。
と、あります通り、執受と處と了とを了別することを行相といいます。
了別とは、立て分ける事を了解するという意味です。
了解するのは自分です。
なのでこの行相は能取(主体)側で起こる縁起になります。---(能縁)
行相=能縁
では、執受と處と了は、どういう事かと言いますと、
處謂處所,即器世間,是諸有情所依處故。 處とはいわく、處所なり、即ち器世間なり、是れ諸の有情の所依處なるが故に。
と、ありますように、處は器世間であり、それは有情に依って起こる器世間であると。
器世間というのは、人を取り巻く環境世界の事です。
人には生まれながらにしての身体の違いがあります。
健康な体で生まれて来る人もいれば、不自由な体で生まれ出なければならない人。
また、優しい親の元に生まれる人もいれば、DVを振るう親の元に生まれなければいけない人。
戦下に絶えない国に生まれる人もいれば、日本のような平和な国に生まれる人もいる。
そういった、人間の生まれながらの不自由は、この有情に依って起こる現象(縁起)なんですね。
有情は非情に対する言葉で、
感情を持っている生き物に起こるこころ(識)です。
次に執受とは、
執受有二,謂諸種子及有根身。諸種子者,謂諸相名分別習氣。
執受に二有り、謂く、諸の種子と及び有根身とぞ。諸の種子とは、いわく、諸の相と名と分別との習氣なり。
と、ありますように執受には、種子と有根身の二つが有ると。
種子については、『成唯識論』第一講と『成唯識論』第二講とで詳しく紹介して来ました。
有根身は、
有根身者,謂諸色根及根依處。
有根身とは、いわく、諸の色根と及び根依處とぞ。
とありますように自身の体(肉体)の事を言います。
有根身=身体
此二皆是識所執受,攝為自體同安危故。
此の二は、皆是れ識に執受せられ、攝して自体と為す、安と危とを同じうするが故に。
執受に依って自体と為すと。
執受とは、執着するこころです。
執受及處俱是所緣。阿賴耶識因緣力故自體生時,內變為種及有根身,外變為器,
執受と及び處とは、俱に是れ所緣なり。阿賴耶は、因と緣との力の故に、自体生ずる時、内には変種と及び有根身とを変為し、外には器を変為す。
その執着するこころに依って、自身の身体と環境世界がとが生じると。
ここで注意して見て欲しいのが、
「内には変種と及び有根身とを変為し、外には器を変為す。」
の部分です。
識変に依ってその人が生きて行く環境世界が
こころの外に出来る(生じる)と言っているのです。
いわゆる、外境です。
『成唯識論』では、この時点ではっきりと、
「外境有り」を宣言しているんですね。
それまでの認識は、「外境無し」だったんです。---(無相唯識)
この無相の唯識を
初期唯識とか古典唯識とかいいます。
ここから論(成唯識論)は、
なぜその無相唯識が起きたのかの詳しい説明に入って行きます。
即以所變為自所緣,行相仗之而得起故。
即ち以所を以て自の所緣と為す、行相は、之に仗して起ることを得が故に。
ここで「自の所緣」と論では言っております。
ただの所縁ではないんです、「自」の所縁です。(←ここ要注意!)
なぜ「自の所縁」なのか、
それは「行相」がこれに仗して起るからです。
「仗して起る」?
聞きなれない言葉ですよね。
「仗して」という意味は、「まもる」という意味があるようです。
という事は、行相がこれ(所縁)を守ろうとして起こるのが「自の所縁」という事になります。
自衛として起こる所縁のようなものでしょうか。
自衛って何の事だかわかりますか
自我です。
自我意識によって起こる所縁の事を「自の所縁」と言います。
後で出てくると思いますが「所縁縁」という「所縁」と似たような用語が出てきます。
実は、この「所縁縁」がこの「自の所縁」にあたります。
所縁=実際の対境の姿・形 --- ①
この①の姿・形は此縁性縁起で形成された姿・形です。
なので所(客体)の縁(縁起)で所縁です。
その所縁を自身の自我意識で認識することで所縁に似た「所縁縁」となります。
例えば、缶ジュースを所縁の姿・形とします。
それを真上から見ている人には円形の物体として認識されます。
これが「所縁縁」です。
それを真横から見ている人には
それは長方形の物体として認識されます。
これも「所縁縁」です。
同じ対象を見ても、見る人に依って認識のされようが異なって見えます。
それは所縁である対象に縁する人が変わるからです。
なので「所縁縁」なのです。
この所縁と所縁縁とは、似ていますが別モノです。
所縁=客体 --- ① 所縁縁=客観 --- ②
これは、
見られるモノ=客体① 見る者=主体②(客観③と主観④)
という位置関係にあります。
初期唯識では、この客体と客観が似ている為、どちらも同じくくりで扱われておりました。
「相分」というくくりです。
似ているのですが、ここはちゃんと別ものとして扱わないとおかしなことになりますよって主張し出したのが、護法等による後期唯識思想です。
<初期唯識> 相分=客観・客体(所取)--- ① 見分=主観・主体(能取)--- ②
<後期唯識> 客体(所取①)=モノのあり方 主体(能取②)=認識のあり様「客観(相分③)と主観(見分④)」
この<後期唯識>の構図が、護法等が主張した四分説の構図となります。
①が所縁で③が所縁縁になります。
では②が能縁で④が能縁縁になるのかと言いますと、
そうはなりません。
①所縁・③所縁縁=〇 ②能縁・④能縁縁=×
『成唯識論』では能縁縁なる言葉は、使われておりません。
人の客観認識はシンプルな構造なんですね。
それは「モノの見え方」の問題ですので。
しかし、人の主観となるとそうはいきません。
主観が起こる仕組みってとても複雑なんです。
なので所縁が縁じて所縁縁だから、能縁が縁って能縁縁って事ではないんです。
それをやってしまっているのが『倶舎論』で心法を説いている上座部や初期唯識思想になります。
心法を「有る無し」の二元論で説いてしまっているんですね。
無我は自分が無いんです、とか
自分は存在しないんです、といった「有る無し」で語っている仏教がそれにあたります。
そういった「有る無し」の理論は、所取の客体に於ける縁起(所縁)にのみ適応されるものであって、能縁側である主体は、客観(相分)と主観(見分)を踏まえた複雑な理論で成り立っております。
決して「有る無し」の二元論で語れるものではありません。
『成唯識論』ではその人の認識(客観と主観)を四つの縁起を用いて詳しく解き明かしておりま。
いわゆる、因縁、等無間縁、所縁縁、 増上縁の四種を縁として起こる縁起です。
この四縁がどのように縁起するのかは後ほど詳しくお話するとして、
ここでは『成唯識論』巻の第二の内容に沿って先に進みたいと思います。
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謂不可知執受 了謂了別 即是行相 識以了別為行相故
不可知の執受・處と了となり。了とはいわく、了別なり、即ち是れ行相なり、識は了別するを以て行相と為すが故に。
と、あります通り、執受と處と了とを了別することを行相といいます。
了別とは、立て分ける事を了解するという意味です。
了解するのは自分です。
なのでこの行相は能取(主体)側で起こる縁起になります。---(能縁)
行相=能縁
では、執受と處と了は、どういう事かと言いますと、
處謂處所,即器世間,是諸有情所依處故。
處とはいわく、處所なり、即ち器世間なり、是れ諸の有情の所依處なるが故に。
と、ありますように、處は器世間であり、それは有情に依って起こる器世間であると。
器世間というのは、人を取り巻く環境世界の事です。
人には生まれながらにしての身体の違いがあります。
健康な体で生まれて来る人もいれば、不自由な体で生まれ出なければならない人。
また、優しい親の元に生まれる人もいれば、DVを振るう親の元に生まれなければいけない人。
戦下に絶えない国に生まれる人もいれば、日本のような平和な国に生まれる人もいる。
そういった、人間の生まれながらの不自由は、この有情に依って起こる現象(縁起)なんですね。
有情は非情に対する言葉で、
感情を持っている生き物に起こるこころ(識)です。
次に執受とは、
執受有二,謂諸種子及有根身。諸種子者,謂諸相名分別習氣。
執受に二有り、謂く、諸の種子と及び有根身とぞ。諸の種子とは、いわく、諸の相と名と分別との習氣なり。
と、ありますように執受には、種子と有根身の二つが有ると。
種子については、『成唯識論』第一講と『成唯識論』第二講とで詳しく紹介して来ました。
有根身は、
有根身者,謂諸色根及根依處。
有根身とは、いわく、諸の色根と及び根依處とぞ。
とありますように自身の体(肉体)の事を言います。
有根身=身体
此二皆是識所執受,攝為自體同安危故。
此の二は、皆是れ識に執受せられ、攝して自体と為す、安と危とを同じうするが故に。
執受に依って自体と為すと。
執受とは、執着するこころです。
執受及處俱是所緣。阿賴耶識因緣力故自體生時,內變為種及有根身,外變為器,
執受と及び處とは、俱に是れ所緣なり。阿賴耶は、因と緣との力の故に、自体生ずる時、内には変種と及び有根身とを変為し、外には器を変為す。
その執着するこころに依って、自身の身体と環境世界がとが生じると。
ここで注意して見て欲しいのが、
「内には変種と及び有根身とを変為し、外には器を変為す。」
の部分です。
識変に依ってその人が生きて行く環境世界が
こころの外に出来る(生じる)と言っているのです。
いわゆる、外境です。
『成唯識論』では、この時点ではっきりと、
「外境有り」を宣言しているんですね。
それまでの認識は、「外境無し」だったんです。---(無相唯識)
この無相の唯識を
初期唯識とか古典唯識とかいいます。
ここから論(成唯識論)は、
なぜその無相唯識が起きたのかの詳しい説明に入って行きます。
即以所變為自所緣,行相仗之而得起故。
即ち以所を以て自の所緣と為す、行相は、之に仗して起ることを得が故に。
ここで「自の所緣」と論では言っております。
ただの所縁ではないんです、「自」の所縁です。(←ここ要注意!)
なぜ「自の所縁」なのか、
それは「行相」がこれに仗して起るからです。
「仗して起る」?
聞きなれない言葉ですよね。
「仗して」という意味は、「まもる」という意味があるようです。
という事は、行相がこれ(所縁)を守ろうとして起こるのが「自の所縁」という事になります。
自衛として起こる所縁のようなものでしょうか。
自衛って何の事だかわかりますか
自我です。
自我意識によって起こる所縁の事を「自の所縁」と言います。
後で出てくると思いますが「所縁縁」という「所縁」と似たような用語が出てきます。
実は、この「所縁縁」がこの「自の所縁」にあたります。
所縁=実際の対境の姿・形 --- ①
この①の姿・形は此縁性縁起で形成された姿・形です。
なので所(客体)の縁(縁起)で所縁です。
その所縁を自身の自我意識で認識することで所縁に似た「所縁縁」となります。
例えば、缶ジュースを所縁の姿・形とします。
それを真上から見ている人には円形の物体として認識されます。
これが「所縁縁」です。
それを真横から見ている人には
それは長方形の物体として認識されます。
これも「所縁縁」です。
同じ対象を見ても、見る人に依って認識のされようが異なって見えます。
それは所縁である対象に縁する人が変わるからです。
なので「所縁縁」なのです。
この所縁と所縁縁とは、似ていますが別モノです。
所縁=客体 --- ①
所縁縁=客観 --- ②
これは、
見られるモノ=客体①
見る者=主体②(客観③と主観④)
という位置関係にあります。
初期唯識では、この客体と客観が似ている為、どちらも同じくくりで扱われておりました。
「相分」というくくりです。
似ているのですが、ここはちゃんと別ものとして扱わないとおかしなことになりますよって主張し出したのが、護法等による後期唯識思想です。
<初期唯識>
相分=客観・客体(所取)--- ①
見分=主観・主体(能取)--- ②
<後期唯識>
客体(所取①)=モノのあり方
主体(能取②)=認識のあり様「客観(相分③)と主観(見分④)」
この<後期唯識>の構図が、護法等が主張した四分説の構図となります。
①が所縁で③が所縁縁になります。
では②が能縁で④が能縁縁になるのかと言いますと、
そうはなりません。
①所縁・③所縁縁=〇
②能縁・④能縁縁=×
『成唯識論』では能縁縁なる言葉は、使われておりません。
人の客観認識はシンプルな構造なんですね。
それは「モノの見え方」の問題ですので。
しかし、人の主観となるとそうはいきません。
主観が起こる仕組みってとても複雑なんです。
なので所縁が縁じて所縁縁だから、能縁が縁って能縁縁って事ではないんです。
それをやってしまっているのが『倶舎論』で心法を説いている上座部や初期唯識思想になります。
心法を「有る無し」の二元論で説いてしまっているんですね。
無我は自分が無いんです、とか
自分は存在しないんです、といった「有る無し」で語っている仏教がそれにあたります。
そういった「有る無し」の理論は、所取の客体に於ける縁起(所縁)にのみ適応されるものであって、能縁側である主体は、客観(相分)と主観(見分)を踏まえた複雑な理論で成り立っております。
決して「有る無し」の二元論で語れるものではありません。
『成唯識論』ではその人の認識(客観と主観)を四つの縁起を用いて詳しく解き明かしておりま。
いわゆる、因縁、等無間縁、所縁縁、 増上縁の四種を縁として起こる縁起です。
この四縁がどのように縁起するのかは後ほど詳しくお話するとして、
ここでは『成唯識論』巻の第二の内容に沿って先に進みたいと思います。