「恒審思量(ゴウシンシリョウ)」について(成唯識論に学ぶ)
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『頌に曰く、次は第二の能変なり。是の識をば末那(まな)と名けたり。彼(第八識)に依て転じて彼(第八識)を縁ず。思量するをもって、性とも相とも為す。
四の煩悩と常に倶なり。謂く我癡と我見と、並びに我慢と我愛となり。』
この第七識は聖教において他の識とは別に末那と名づけられる、何故なら恒に審に思量すること、他の識に比べて勝れているからである。
(1)末那というは意であると。阿頼耶識は心といわれ、六識は識という意義がある。総じて識と名づけられるのは、『楞伽経』に「識に八種有り」と云うをもって、識といえば通名である。
『瑜伽論』巻六十三に「諸識を皆、心・意・識と名づくと雖も、義の勝れたるに随って説かば第八を心と名づけ、第七をば意と名づけ、余識をば識と名づくといえり。」というのが、聖教に説かれている証になるわけです。諸識をすべて心・意・識と名づけるのは通名である。しかしそれぞれの勝れたる特性をもって説くならば、第八識は心といい、第七識は意といい、その他の識は識と名づけられる、という証文を以て「是の識をば聖教に別に末那と名けたり」と述べられているわけです。
(2)「又、諸識をば皆、意となすと雖も、これが為に意を標して余識は然んばあらずといはぬとぞ。総称を標すと雖も即ち別名なり」と、諸識は皆「意」と名づけられるが、その働きから、第七識が意というにふさわしく、諸識に別して特に意と名づけるのである。何故ならば、「恒に審らかに思量すること」が他の識より勝れているからである。「何が故に諸識を別に意と名づけずとならば、恒・審に思量すること余識に勝れたるが故なり」(『述記』)どのように勝れているのかは、次のようである。
恒 ー 第六識・前五識は恒ではない。不恒である。第六識は審らかではあるが、恒ではない。
審 - 第八識・前五識は審らかではない。第八識は恒ではあるが審らか思量するという働きはない。前五識は縁に依って生起するので、恒でもなく、審らかでもない。
恒に審らかに思量するのは第七識のみであるので、第七識の特性である思量をもって末那と称し、マナス=意、と名づけるという。
出世の末那といわれることもありますが、その場合は自在位によって名づけられ、そこには未自在位の末那は転依して平等性智と名づけられ、末那とは名づけないのであって、即ち有漏にのみ名づけられ、無漏には存在しないのである、といわれます。又「顚倒の思量を遠離して正思量有るが故に」、無漏にも通じて末那と名づけるのである、と。正思量の義をもって末那ということもあるのである。
意を以て第七識の名とするならば、第七意識といってもいい、そうならば、第六意識と異なるというのはどういうことなのか、又第七識を意といい、意識と云わないのは何故か、という疑問がでてきます。『述記』によれば、「問いの中に二有り」、二つの問いの意味があるといっています。
『述記』によれば、
(1)総と別があり、総じては八識はすべて識と名づけられる。別としては第七識は意と名づける。しかし総・別を合わせると第七識を意識と名づけ得られるという。ここに第七識を意識というのと、第六識を意識というのには、どこが違うのかとう問いが生まれます。
(2)『瑜伽論』六十三の記述から「転識に七種あり」と説かれている。この七番目の転識を意識という。そうとするならば、第六番目も意識であり、第七番目も意識であるということになり、どこにその違いがみられるのかという問いが生まれます。
『論』の応答は、
(1) 第六意識は、第七識である意を所依として起こる識である。依主釈である。第七識は持業釈である。識の体、そのものが意であるということ。意即ち識である。
(2) 恒審思量の故に意の義は、特に第七識に親しい。
(3) 第七識は、第六識のために近所依となるということを顕さんとして、第七識を意と名づけるのである。
「意」という名の由来
「此れは持業釈なり、蔵識という名の如し、識即ち意なるが故に。彼は依主釈なり、眼識等という如し、識いい意に異るが故に」(『論』第四・十二左)
此の第七識を意識と称する場合は、持業釈(じごっしゃく)である。これは第八識を蔵識と名づけるのと同じであり、識即ち意である。
彼(第六意識)を意識と称する場合は依主釈(えしゅしゃく)であり、これは眼根等に依る識を眼識等と名づけるのと同じである。第七識を意識という場合は識と意は同じものを指すが、第六識を意識という場合は、識と意とは異なるものである、という。
第七識 意=識 意が識自体を指す。(持業釈)
第六識 意根による識(意根を所依とする識)、即ち、
意根(第七識)を所依とする識であるという意味で
意識と名づけられる。(依主釈)
「意というは、是れ自体なり。識というは即ち意なり。六釈(六合釈・りくがっしゃく)の中に於いて是れ持業釈なり。・・・阿頼耶識を蔵識と名づくるが如し。識の体即蔵にして亦是れ此の釈なり。此れは彼と同なり。故に指して喩と為す。いかんぞ此の釈を為るとならば、識体即意なるが故なり。其の第六識は体是れ識なりと雖も、而も是れ意には非ず。
恒・審するものに非ざるが故なり。
(第六識依主の釈)彼の依主釈というは、主というは謂く第七なり。・・・眼識等というが如し、というは眼は是れ所依なり。而も体是れ識なり。眼に依るの識なり。故に眼識と名づく。何んぞ此の釈を為るとならば、識いい意に異なるが故なり。能・所依別なり、依に従って名を得たり。」(『述記』第四末・五十左)
(1)第六も第七も意識と称するならば混乱が起きる恐れがあるので、諸の聖教には第七識には意という名をたてるのである、という。そしてその反対の問いも立てられるのですね。第六識を意といい、第七識を意識と名づけてもいいのではないか、というものです。にもかかわらず、第七識を意というのは何故なのであろうか。前項でも説明されていましたが、意は持業釈で、意=識であり、意で第七識を説明しているわけです。意識は依主釈であって、第七識を所依として成り立っている識を意識というのですけら、これは第六識に限るわけです。いうなれば、理が成り立たないわけですね。意識という場合は「意根に依る識」なので、第七識を意識とはいわず、意と名づけるのです。
(2)また第七識について意という名のみを標示しているのは、第七識を心(第八識)と識(前六識)から区別するためである。その理由は第七識は積集し、了別することは他の識より劣っているからである。
八識はすべて心・意・識と名づけることができるけれども、増勝の義によって第七識を意と名づけるのである、と。
「積集の心の義と了別の識の義とは余の識より劣るが故に、後の心(第八識)と、前の識(前六識)とに簡ばんとして但意という名を立てたり。恒・審するが故に。」(『述記』第四末・五十一左)
積集(しゃくじゅう)-蓄積すること。
こころを心・意・識とに分類するとき、心の堆積する働きを積集という。深層の根源的な心である阿頼耶識が表層の業の結果である種子を堆積する働きをいう。又、業の結果である種子を集起する阿頼耶識が心であると解釈する。この場合には集起(じゅうき)といい、「集起の故に心と名づけ、思量の故に意と名づけ、了別の故に識と名づく。」といわれている。
以上のように第七識を “意” というのは、第八識の積集(種子集起)の心と前六識の了別の識とを簡ぶためである。それは、第七識は積集と了別とにおいては劣っているが、恒審思量の働きに於いては増勝の義、すぐれた特徴があるから、第七識を意と表現するのである。
雑感 「聞」について、熏習と聞熏習(成唯識論に学ぶ)
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先日の唯識講義の対論の中で、ご住職から質問をいただきました。質問の内容がよく把握できていませんでしたが、昨日、お尋ねになったのはこういうことだったんだと気づきを得ました。
お尋ねは「種子論・熏習論」が縷縷述べられているのだが、護法合正義において、なぜ熏習ではなく、聞熏習といわれるのか」ということでありました。
護法菩薩は、熏習の中に、二つの意味があることを明らかにしておられるのですね。僕もはっきりしておらなかったのですが、再度『成唯識論』を読み、親鸞聖人の「聞」について尋ねてみますと熏習の意味がはっきりしてきました。
先師のご苦労もあったのでしょうが、現行熏種子ですね。この部分だけを捉えて熏習といっていたのです。これを護法菩薩は始起と押さえておいでになります。生まれて始めて起こって来たこと、という意味になりますが、始めて起こる依り所はどこにあるのかですね。「無始より来虚妄熏習の内因力の故に恒に身と倶なり」を依り所として生起してきたものだと教えられています。有漏の種子はどこまで積み重ねても有漏の種子を熏習するだけである、ということなのですね。無漏には転じないということです。
『論』には「若し始起のみなりといはば、有為の無漏は因縁無きが故に生ずることを得ざるべし。有漏を無漏の種と為すべからず。」
と教えています。
もう一つの問題は、種子生現行です。生まれながらに持っているとされる無漏種子の有無ですね。無漏の種子から現行し熏習される種子ですね。護月菩薩等は本有種子の有無によって五姓の差別を説きました。本有の無漏種子がなかったならば、いくら新熏種子を積み重ねても、人として目覚めを得ることはできないんだ、と。目覚めを得るには、新熏種子を積み重ねることではなく、本来から備わってる本有種子が必要なんだと論じているわけです。
護法菩薩はこの二つの極論を厳しく批判されました。そこに聞熏習がだされるのですね。
「諸の有情は無始の時より来無漏の種有り、熏習に由らずして法爾に成就せること有りと。」
無漏種子を因として現行することが有るということなのですね。それが浄法界等流の正法を聞くということなのです。
ですから、いくら仏法を聞いても、聞いたことが成就しないということがあります。それを親鸞聖人は聞不具足と押さえておられます。簡単にいいますと、名聞・利養・勝他の為の聞法は無漏種子を増盛しないと教えておられるのであろうと思います。そしてですね、六波羅蜜を修しても、名聞・利養・勝他を依り所にしている限り、六波羅蜜は善行でありながら、悪の報いを受けると云われています。
「依り所」を聞いていくのでしょう。名聞・利養・勝他の為にしか聞いていないことをはっきりさす。それしかないんだということが「聞」ということになりましょうか。
自己の中に熏習されてきた、「無始以来の虚妄熏習の内因力」を聞くということ、これが無漏種子を増盛させる、自然法爾だということでしょう。これ以外には「聞」はないということなのでしょうね。
無漏種子も有る、新熏種子もある、しかし「自己を聞く」ことが無い限り、日常のいろいろな経験は、邪見を増し、慢心を増長させ、頑なな心を作り上げるだけになる、このことも熏習といわれるけれども、聞熏習とはいわないんだ、と。ですから熏習だけでははっきりしない問題を護法菩薩は、種子生現行・現行熏種子の三法展転同時因果の内容を明らかにされたのであろうと思います。
聞法している自己の姿勢が厳しく問われています。何を聞いているのかですね。先日のご住職の質問から教えられることが出来ました。
「その聞熏習は唯だ有漏のみには非ず。正法を聞く時に亦た本有の無漏の種子を熏じて漸く増盛にあら令めて、展転して乃至出世の心を生ぜしむ。故に亦た此を説いて聞熏習と名づく。」と結ばれていました。
<受熏の四義>
https://komajo.repo.nii.ac.jp/record/1146/files/KJ00008526339.pdf
依何等義立熏習名。所熏能熏各具四義令種生長。故名熏習。何等名為所熏四義。一堅住性。若法始終一類相續能持習氣。乃是所熏。此遮轉識及聲風等性不堅住故非所熏。二無記性。若法平等無所違逆。能容習氣乃是所熏。此遮善染勢力強盛無所容納故非所熏。由此如來第八淨識。唯帶舊種非新受熏。三可熏性。若法自在性非堅密能受習氣乃是所熏。此遮心所及無為法依他堅密故非所熏。四與能熏共和合性。若與能熏同時同處不即不離。乃是所熏。此遮他身刹那前後無和合義故非所熏。唯異熟識具此四義可是所熏。非心所等。何等名為能熏四義。一有生滅。若法非常能有作用生長習氣。乃是能熏。此遮無為前後不變無生長用故非能熏。二有勝用。若有生滅勢力増盛能引習氣。乃是能熏。此遮異熟心心所等勢力羸劣故非能熏。三有増減。若有勝用可増可減攝植習氣。乃是能熏。此遮佛果圓滿善法無増無減故非能熏。彼若能熏便非圓滿。前後佛果應有勝劣。四與所熏和合而轉。若與所熏同時同處不即不離。乃是能熏。此遮他身刹那前後無和合義故非能熏。唯七轉及彼心所有勝勢用。而増減者具此四義可是能熏。如是能熏與所熏識倶生倶滅熏習義成。
(護法等菩薩造 / 玄奘譯『成唯識論』卷第二)*6
①堅住性とは、熏習を受けるものは長期的に同体性を維持していかなければならない、という容体ならではの本質を指すものである。
(繰り返し同じ内容でなければ熏習されない)
②無記性とは、善悪の種子を薫習されるものとして、その所熏の識は、あくまでも容体としてそれ自身が善であったり悪であったりすることはない。したがって、善とも悪とも決定しない無記の性質のものでなければならないという本質を指すものである。
(阿頼耶識では意志は働かない)
③可熏性とは、その容体が他の別な容体に二重に支配されることを排除し、どこまでも独立的に自主性をもった存在でなければならないこと、かつ常恒的に不変であるというようなものでは柔軟に熏習する有余が亡くなってしまうことから、熏習可能の余裕のある存在でなければならないという本質を指すものである。
(阿頼耶識は熏習可能。熏習機能は阿頼耶識にしかない特性)
④能所和合性とは、能熏する側と相応して離れることがない存在でなければならないという本質を指すものである。すなわち、能熏と所熏とが同時間かつ同空間を共有し、二者和合して離れないということが条件であることになる。これは他身において前後異時におけるものを斥ける特質であり、そうでないと因果関係が破綻してしまうからである。
(能熏する側と能熏される側が因縁で和合していなければならない)
(瞬間瞬間に熏習される。タイムラグはない。第三者に熏習さることもない)
<「金 範松」論文の要点>
『心・意・識説に関する研究』
― 阿頼耶識と末那識との関係を中心― 金 範松
https://tais.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=277&file_id=22&file_no=1
難陀等:まず、前五識は、第六識をもってその所依とする。なぜなら、五識が現起する時には、必ず意識が俱に起きるので眼等の根をその所依とすべきではない。五根は五識の種子であると主張する。次に、第六識は、第七識をもってその所依とする。なぜなら、この識は必ず末那に託して起こるからである。そして、第七識と第八識とは、別に所依はない。なぜなら、第七・第八はいずれも恒に相続して転じており、自力が勝れているからであるという。
前五識→第六識
五識→五根
第六識→第七識
第七識と第八識とに所依はない。
安慧等:難陀等の説を全面否定して論破する。難陀は五根を五識の種子だというが、その時、起きる過失について十難を立てて論破する。そして、前五識は、一つ一つに必ず二つの俱有依がある。それは五色根(五根)と五識と同時の第六識(五俱意識)だという。第六意識は、必ず恒に一つの俱有依がある。つまり、七識である。五識と共に起こる時は、さらに五識をも俱有依とする。第七識は、必ずただ一つの俱有依がある。つまり、第八識である。ただ第八識は、恒に転変する
ことがなく、自らよく立つので俱有依は無いという。
五識→五根× 十難を立てて論破する。
安慧は、五識は、一つ一つに必ず二つの俱有依があると主張。
五識→五根と「五識と同時の第六識」の二つの俱有依がある。
第六意識→七識
五識と共に起こる時は、五識をも俱有依とする。
第六意識→七識・五識
七識→八識
八識は、恒に転変することがなく、俱有依は無い。
浄月等:前の安慧の説に対して、七識については同じであるが、第八識に俱有依がないことについては、未だ理を尽くしていないと批判する。即ち第八識も識性なる限り、俱有依があるべきだと主張する。さらに、現行識にその依がある限り、種子識にもまた、現行識に依るべきだと主張する。従って第八識の現行識においては、決定して第七識をもってその所依とする。第七・第八二識は、俱に間断なく恒に相続するので互に俱有依とする。もし、有色界にある時には、また、五根をもって所依とする。また、種子識においては、決定して第八現行は依る。これ第八現行は種子の住依
となるのでという。
第八識に俱有依がないことについては、
未だ理を尽くしていないと批判する。
第八識も識性なる限り、俱有依があるべきだと主張。
しかがって第八識の現行識においては、
決定して第七識をもってその所依とする。
第八識→第七識
第七・第八の二識は、俱に間断なく
恒に相続するので互に俱有依とする。
第七⇄第八
有色界にある時には、また、五根をもって所依とする。
護法の批判:護法は、前三師の説は皆理に応じないと論破する。なぜなら、そもそも依存関係にある法には「依」と「所依」との区別があると主張する。「依」とは、広く因縁・等無間縁等の四縁に通じ、すべての有為法において因に頼り、縁に託して生じ住する法を皆「依」と名づける。それは、例えば、王と臣が互いに相依る如くのものである。しかし、これを「所依」と名づけるべきではない。俱有の所依と名づけるべきものは、必ず決定・有境・為主および取自所縁の四義を俱にしなければならない。これらの条件を備えているのは内の六処(六根と六境)である。然るに前三師は、何れもこれを弁別しないので間違いであるという。
第六意識は第七末那識を依とするが第七意識は第六末那識を依とはしない(不共依)
第六意識→第七末那識(不共依の直接関係)
施本 「仏教 ~ 一枚の紙から考える ~」
http://oujyouin.com/buddhism5p.html
業種子は、前五識・第六識・第七識・第八識の全てに影響を与える基となっている種子のことで、原因が善・悪であっても、阿頼耶識の中でたくわえられます。また、阿頼耶識においては、異なって熟されていくため、このことを「異熟習気《じっけ》」と表されます。
また、種子には六つの条件があって、このことを「種子の六義」と言います。
種子の六義
刹那滅《せつなめつ》(刹那に生滅変化すること)・果倶有《かくう》(結果と同一に存在すること)・恒随転《ごうずいてん》(生滅が常に続くが性質はずっと保持していること)・性決定《しょうけつじょう》(善・悪・無記の因果性が決まること)・待衆縁《たいしゅうえん》(因縁によって現行すること)・引自乗《いんじか》(因果は同一の性質で引き継がれること)
では、具体的に「識」によって作り出される、この世の現象世界の事物についての一連の働き、変化については、第一能変・第二能変・第三能変で示されます。
第一能変・・種子をたくわえる阿頼耶識において、あらゆる業(心《しん》・口《く》・意《い》の三業)の結果が、種子の様々な因縁によって、その結果が異なった形で熟し、新たな認識として生起して現行していくこと。このことを異熟《いじゅく》と言います。例えば、悪業を積み重ねて、その種子を阿頼耶識にたくわえても、その後に善業を重ねて、その善業の種子が阿頼耶識にたくわえられていけば、その因縁によっては、悪業による種子を浄化させて、先の悪業の結果も変わって熟していき、新たな認識の生起、現行をもたらすということです。この第一能変は、仏教における悪をなさず善を行ないなさいという善行奨励の理由として、輪廻についての説明でも理論的に補完されているところであると考えられます。また、先にも述べてありますように、阿頼耶識そのものは、善でも悪でもない「無記《むき》」なるものであります。
第二能変・・未那識における考え・思考のこと。思量《しりょう》とも言われる。この思量では、無意識においても常に自我意識をもたらし、自己執着(我執)して、特に四つの我についての根本煩悩にさいなまれている認識のこと。我見(自己は固定した実体としての存在があるとして、固執していること)、我痴(諸行無常・諸法無我などの仏法の真理を知らない愚かなこと)、我慢(自己について慢心していること)、我愛(自己に愛着していること)。もちろん、未那識は阿頼耶識によって強く影響を受けています。
第三能変・・前五識・第六意識における認識作用。了別《りょうべつ》と言う。眼・耳・鼻・舌・身・意によって、それぞれ対象である色・声・香・味・触・法を認識する眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識のこと。ただし、意識は、前五識とはやや異なり、前五識の情報を受けて、すべての事物(現在・過去・未来を含めて)について認識・判断するものとして区別されています。もちろん、阿頼耶識は、前五識・第六意識に大きく影響しています。
能蔵・所蔵・執蔵の三義について
https://talk.jp/boards/psy/1692236321
レス241-281
阿頼耶識 と依他性 との関係 について
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/23/2/23_2_1001/_pdf/-char/ja
『唯識三十頽』第5偶
「この(阿頼耶識の)転捨は阿羅漢の位においてである。(tasya vyrttir arhatve)」3)
>> 5の204レス
唯識三十頌/訓読
https://yuishiki30.blogspot.com/2013/02/blog-post_7.html
(5)
次のは第二能変なり 是の識を末那(末那識)と名づく
彼(阿頼耶識)に依りて転じて彼を縁ず 思量するを性とも相とも為す
唯識三十頌 作者:世親 訳者:玄奘
https://ja.wikisource.org/wiki/唯識三十頌
仏教認識論
https://note.com/hiruandondesu/n/n12419e2866ef
『倶舎論』 客体(見られる側)=モノのあり様
『唯識論』 主体(見る側) =認識のあり様(主観と客観)
唯識はこの主体である見る人の心のあり様を説いた教えです。
【大乗仏教】唯識派 唯識二派
https://note.com/hiruandondesu/n/n1172680a7a41
六世紀の初頭にナーランダー出身の徳慧(グナマティ)は西インドのカーティアワール半島にあるヴァラビーに移り、彼の弟子である安慧(スティラマティ)に至って、この地の仏教学は最盛期を迎えたと言われます。同じ頃、ナーランダーにおいては護法(ダルマパーラ)が活動していましたが、安慧(スティラマティ)と護法(ダルマパーラ)の間には唯識説の解釈に相違がありました。
前者は阿頼耶識が最終的には否定されることで、最高の実在(光り輝く心)が個体において現成し、主観と客観とが分かれない境地へ至れるとします。
後者は阿頼耶識を実在とみなし、それが変化して主観と客観とが生じるという説をたてます。覚りを得ても阿頼耶識そのものが否定されるのではなく、その中にある煩悩の潜在力が根絶されるのみです。阿頼耶識(の種子)が変化したものとしての主観と客観は最終的にも存在することになります。
『成唯識論』の縁起思想
http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/30401/rbb041-19.pdf
唯識では阿頼耶識縁起、華厳では法界縁起などが説かれていくことになる。
阿頼耶識縁起(転識)
法界縁起(因果俱時の縁起)
四分
https://www.yuishiki.org/四分の教え/
1) <相分>とは、認識の対象のことである。(客体)
2) <見分>とは、<相分>を直接認識することである。(主観)
3) <自証分>とは、<見分>を自覚する働きの一面である。<見分>を対象としてみている自分である。(自我)
4) <証自証分>とは、<自証分>を自覚する一面である。(本来の自分)
iv. 「成唯識論」では、認識は<四分>で完結するという。
https://note.com/hiruandondesu/n/n689adb194a88
●自証分
上記の主観的契機(見分)を更に知る自己認識契機です。相分と見分とを二極化する前の段階であり、識それ自体が見られる側(客観)と見る側(主観)に二極化し、その対立の上に感覚や思考などの様々な認識作用が成立するとされます。
●証自証分
上記の自証分を更に分割したもので、自証分の奥にその働きを確証するもう一つの確証作用を立てます。自己認識を更に知る契機です。証自証分を確証するのは自証分であるとし、無間遡及を回避しています。