世親が顕した『唯識三十頌』を護法が注釈し、
それを中国の玄奘が漢訳した唯識の論典が『成唯識論』である。
『唯識三十頌』では第五頌から、末那識について語られます。
唯識において阿頼耶識は、善・悪の判断が生じない「無記」であることは、
良く知られております。
しかし、この末那識も無記であるという事はあまり知られておりません。
我々人間(凡夫)は、行いを善と悪とに分けて考えますが、実は善・悪を超えたところに真理はあります。
仏は善・悪ではなく「無記」で対象を認識します。
その無記に、有覆無記(うふくむき)と無覆無記(むふくむき)とがあります。
有覆無記が第七末那識で、
無覆無記が第八阿頼耶識になります。
『成唯識論』に、
此の意は四煩悩の等きと相応す。是れ染法なるが故に、聖道を障侭し自心を隠蔽す。説いて有覆と名づく。善不善に非ず、故に無記と名づく。
とありまして、末那識も本来は、阿頼耶識と同じように無記なのですが、その無記が煩悩に覆われてしまっているので末那識は、有覆無記となります。
四煩悩とは、我癬、我見、我愛、我慢のことで、これらの煩悩が相応して起こると、聖道である無漏の智慧を覆い隠してしまいます。この煩悩が無くなった末那識の状態のことを「無我」といいます。
七識とハ識の違いは、意識が働くか働かないかの違いでもあります。
末那識の煩悩がなくなると汚れのない無漏の智慧が意識として働き出します。
それが一切衆生を苦しみから救ってあげたいという仏の慈悲の心です。
その慈悲のこころが一大事の因縁となって仏は欲界に顕れます。
無我の事を「自分が無い」とか「自他の分別が無い」とか言う人達(主に学者さん)が沢山おられます。
しかし、そういった無我の解釈が間違いであった事は、昨今の仏教学界でも認識が改められております。
間違いだらけの仏教の常識 https://zawazawa.jp/yuyusiki/topic/16
仏さまには、自我はあります。
自分と他者の区別があるから一切衆生(他者)を救いたいという意識(思慮)が起こります。
そもそも〝仏〟と言っている時点で他との分別が起きております。
そこのところを龍樹が『中論』で鋭く指摘しております。
2.仏と如来の違い https://butudou.livedoor.blog/archives/17702360.html
この末那識について説明しているのが第五頌・第六頌・第七頌です。
【第五頌】 次第二能變 是識名末那 依彼轉緣彼 思量為性相
【第六頌】 四煩惱常俱 謂我癡我見 并我慢我愛 及餘觸等俱
【第七頌】 有覆無記攝 隨所生所繫 阿羅漢滅定 出世道無有
『成唯識論』卷第四 https://cbetaonline.dila.edu.tw/zh/T1585_004
5次第二能變, 是識名末那, 依彼轉緣彼, 思量為性相。 6四煩惱常俱, 謂我癡我見, 并我慢我愛, 及餘觸等俱。 7有覆無記攝, 隨所生所繫, 阿羅漢滅定, 出世道無有。
論曰:次初異熟能變識後,應辯思量能變識相。是識聖教別名末那,恒審思量勝餘識故。此名何異第六意識。此持業釋,如藏識名,識即意故。彼依主釋,如眼識等,識異意故。
この三頌を玄奘は、『成唯識論』の中で、
この第七識は聖教において他の識とは別に末那と名づけられる、何故なら恒に審に思量すること、他の識に比べて勝れているからである。
と述べ、「恒審思量」の説明から始めております。
お話を中断して
ここから文字お越し作業をやります。
謂假必依真事似事共法而立
仮は必ず真事と似事と共法とに依って立つ
如有真火 有似火人
真の火有り、火に似る人有り
有猛赤法乃可假說此人為火
猛赤の法有るをもって、乃ち仮って此の人を説いて人とす可きが如し
假說牛等應知亦然
仮って牛等と説くことも、應(まさ)に知るべし亦然なり
我法若無 依何假說
我法いい若し無くんば、何に依ってか仮って説かむ
依何假說 無假說故
仮って説くべきこと無きが故に、似も亦成ぜずなぬ
似亦不成,如何說心似外境轉彼難非理
如何ぞ、心いい外境に似て転ずと説くという、彼が難ずること理に非ず
離識我法前已破故 依類依實假說火等 俱不成
識に離れたる我法は、前に己(すで)に破してしが故に、類に依り実に依って仮って火等を説くという 俱(とも)に成ぜざるが故に
依類假說理且不成,猛赤等德非類有故
類に依って仮説すという理いい且つ成ぜず、猛と赤との等(ごと)きの徳は、類に有るものには非ざるが故に
若無共德而假說彼,應亦於水等假說火等名。
若し、共徳は無けれども、而も仮って彼を説くといはば、亦水等の於(うえ)にも仮って火等の名を説くべし
若謂猛等雖非類德而不相離故可假說 此亦不然 人類猛等現見亦有互相離故。
若しいわく、猛等は類が徳には非ずと雖も、而も相離せず、故に仮って説く可しといはば、此れも亦然らず、人類と猛等とは、現に見るに、亦互に相離れたることるが故に
類既無德又互相離,然有於人假說火等,故知假說不依類成。
類いい既に徳無く、又互に相離れたり、然るを、人の於(うえ)に仮って火等を説くこと有るべけむや、故に知る、仮説は類に依っては成ぜずということを
依實假說理亦不成 猛赤等德非共有故
実に依って仮説すということ、理いい亦成ぜず、猛赤等の徳は共有に非ざるが故に
謂猛赤等在火在人其體各別,所依異故
いわく、猛赤の等(ごと)きは、火に在ると人に在ると其の体各別なり、所依異るが故に
『成唯識論』巻の第二 からの引用です。 https://cbetaonline.dila.edu.tw/zh/T1585_002
語訳は、『国訳大蔵経』 論部第十 によるところです。
『成唯識論』巻の第二では、『唯識三十頌』の以下の二頌の説明がなされております。
3不可知執受 處了常與觸 作意受想思 相應唯捨受 4是無覆無記 觸等亦如是 恒轉如瀑流 阿羅漢位捨
引用しております>> 12の文章は、その第三頌の
「不可知の執受処と了となり」について書かれている個所です。
不可知(ふかち)と言うのは、人知では知ることができないという意味です。
人が知り得ない、執受と処と了についての説明です。
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『唯識三十頌』では第五頌から、末那識について語られます。
唯識において阿頼耶識は、善・悪の判断が生じない「無記」であることは、
良く知られております。
しかし、この末那識も無記であるという事はあまり知られておりません。
我々人間(凡夫)は、行いを善と悪とに分けて考えますが、実は善・悪を超えたところに真理はあります。
仏は善・悪ではなく「無記」で対象を認識します。
その無記に、有覆無記(うふくむき)と無覆無記(むふくむき)とがあります。
有覆無記が第七末那識で、
無覆無記が第八阿頼耶識になります。
『成唯識論』に、
此の意は四煩悩の等きと相応す。是れ染法なるが故に、聖道を障侭し自心を隠蔽す。説いて有覆と名づく。善不善に非ず、故に無記と名づく。
とありまして、末那識も本来は、阿頼耶識と同じように無記なのですが、その無記が煩悩に覆われてしまっているので末那識は、有覆無記となります。
四煩悩とは、我癬、我見、我愛、我慢のことで、これらの煩悩が相応して起こると、聖道である無漏の智慧を覆い隠してしまいます。この煩悩が無くなった末那識の状態のことを「無我」といいます。
七識とハ識の違いは、意識が働くか働かないかの違いでもあります。
末那識の煩悩がなくなると汚れのない無漏の智慧が意識として働き出します。
それが一切衆生を苦しみから救ってあげたいという仏の慈悲の心です。
その慈悲のこころが一大事の因縁となって仏は欲界に顕れます。
無我の事を「自分が無い」とか「自他の分別が無い」とか言う人達(主に学者さん)が沢山おられます。
しかし、そういった無我の解釈が間違いであった事は、昨今の仏教学界でも認識が改められております。
間違いだらけの仏教の常識
https://zawazawa.jp/yuyusiki/topic/16
仏さまには、自我はあります。
自分と他者の区別があるから一切衆生(他者)を救いたいという意識(思慮)が起こります。
そもそも〝仏〟と言っている時点で他との分別が起きております。
そこのところを龍樹が『中論』で鋭く指摘しております。
2.仏と如来の違い
https://butudou.livedoor.blog/archives/17702360.html
この末那識について説明しているのが第五頌・第六頌・第七頌です。
【第五頌】
次第二能變 是識名末那
依彼轉緣彼 思量為性相
【第六頌】
四煩惱常俱 謂我癡我見
并我慢我愛 及餘觸等俱
【第七頌】
有覆無記攝 隨所生所繫
阿羅漢滅定 出世道無有
『成唯識論』卷第四
https://cbetaonline.dila.edu.tw/zh/T1585_004
5次第二能變, 是識名末那,
依彼轉緣彼, 思量為性相。
6四煩惱常俱, 謂我癡我見,
并我慢我愛, 及餘觸等俱。
7有覆無記攝, 隨所生所繫,
阿羅漢滅定, 出世道無有。
論曰:次初異熟能變識後,應辯思量能變識相。是識聖教別名末那,恒審思量勝餘識故。此名何異第六意識。此持業釋,如藏識名,識即意故。彼依主釋,如眼識等,識異意故。
この三頌を玄奘は、『成唯識論』の中で、
この第七識は聖教において他の識とは別に末那と名づけられる、何故なら恒に審に思量すること、他の識に比べて勝れているからである。
と述べ、「恒審思量」の説明から始めております。
お話を中断して
ここから文字お越し作業をやります。
謂假必依真事似事共法而立
仮は必ず真事と似事と共法とに依って立つ
如有真火 有似火人
真の火有り、火に似る人有り
有猛赤法乃可假說此人為火
猛赤の法有るをもって、乃ち仮って此の人を説いて人とす可きが如し
假說牛等應知亦然
仮って牛等と説くことも、應(まさ)に知るべし亦然なり
我法若無 依何假說
我法いい若し無くんば、何に依ってか仮って説かむ
依何假說 無假說故
仮って説くべきこと無きが故に、似も亦成ぜずなぬ
似亦不成,如何說心似外境轉彼難非理
如何ぞ、心いい外境に似て転ずと説くという、彼が難ずること理に非ず
離識我法前已破故 依類依實假說火等 俱不成
識に離れたる我法は、前に己(すで)に破してしが故に、類に依り実に依って仮って火等を説くという 俱(とも)に成ぜざるが故に
依類假說理且不成,猛赤等德非類有故
類に依って仮説すという理いい且つ成ぜず、猛と赤との等(ごと)きの徳は、類に有るものには非ざるが故に
若無共德而假說彼,應亦於水等假說火等名。
若し、共徳は無けれども、而も仮って彼を説くといはば、亦水等の於(うえ)にも仮って火等の名を説くべし
若謂猛等雖非類德而不相離故可假說 此亦不然 人類猛等現見亦有互相離故。
若しいわく、猛等は類が徳には非ずと雖も、而も相離せず、故に仮って説く可しといはば、此れも亦然らず、人類と猛等とは、現に見るに、亦互に相離れたることるが故に
類既無德又互相離,然有於人假說火等,故知假說不依類成。
類いい既に徳無く、又互に相離れたり、然るを、人の於(うえ)に仮って火等を説くこと有るべけむや、故に知る、仮説は類に依っては成ぜずということを
依實假說理亦不成 猛赤等德非共有故
実に依って仮説すということ、理いい亦成ぜず、猛赤等の徳は共有に非ざるが故に
謂猛赤等在火在人其體各別,所依異故
いわく、猛赤の等(ごと)きは、火に在ると人に在ると其の体各別なり、所依異るが故に
『成唯識論』巻の第二 からの引用です。
https://cbetaonline.dila.edu.tw/zh/T1585_002
語訳は、『国訳大蔵経』 論部第十 によるところです。
『成唯識論』巻の第二では、『唯識三十頌』の以下の二頌の説明がなされております。
3不可知執受 處了常與觸
作意受想思 相應唯捨受
4是無覆無記 觸等亦如是
恒轉如瀑流 阿羅漢位捨
引用しております>> 12の文章は、その第三頌の
「不可知の執受処と了となり」について書かれている個所です。
不可知(ふかち)と言うのは、人知では知ることができないという意味です。
人が知り得ない、執受と処と了についての説明です。