世親が顕した『唯識三十頌』を護法が注釈し、
それを中国の玄奘が漢訳した唯識の論典が『成唯識論』である。
『唯識三十頌』第一頌
「彼依識所変 此能変唯三」
彼れは識が所変に依る。此れが能変は唯三つのみなり。
唯識における「識転変」について、安慧(スティラマティ)の注釈によれば、「転変」とは、「変化すること」と解説される。すなわち、原因となるある刹那が消滅し、と同時にその刹那とは別の刹那が、形を変えて、新たな結果として生起することである。
今ここに、一個のりんごがあるとする。このりんごは、その場所に、形を変えずに存在しているように思われるが、数日もたてば、水分が飛び、しなびて、ゆくゆくは腐ってしまう、これは、りんごが一瞬一瞬、刹那滅を繰り返し、徐々に形を変えていっているからに他ならない。
唯識では、そのりんごは、実際そこに存在するのではなく、我々の心の中に現れ出ているものに過ぎないと考える。
実際、目の前にあるりんごを、それを見ている者達がみな同じ色、形として認識しているとは限らないし、同じにおいがしているとも限らないのである。この道理こそが、世親の説く「識の転変」と言われるものである。
しかし、玄奘は>> 1を漢文にする際、このパリナーマ(転変)なる語に「所変」・「能変」という二種類の語を使い分けている。この点に関しては、専門家においても意見の分かれるところとなっている。
所変・能変とは、
能変=変化せしめるもの
所変=変化せしめられたもの
となるのですが、唯識では能取を主体、所取を客体とします。
見られる側(所取)=客体 見る側 (能取)=主体
この「主体と客体」の関係に対し、人の認識である「主観と客観」を唯識では、相分と見分とします。
主観=見分 客観=相分
客体 (① 見られる側)=真実のモノのあり様 主体 (② 見る側) =凡夫の認識(客観 ③ + 主観 ④ )
①=所取 ②=能取 ③=相分 ④=見分
玄奘は、『唯識三十頌』第一頌の
「彼依識所変 此能変唯三」を
「彼れは識が所変に依る。此れが能変は唯三つのみなり。」
と訳しておりまして、所変が「変化せしめられたもの」、即ち ① の客体、
能変は「変化せしめるもの」、即ち ② の主体となります。
「所変」=時間経緯で起こる此縁性縁起 ---(客体)
↑自然界の出来事(縁起)
「能変」=凡夫の認識(主観と客観) ---(主体)
その主体である凡夫の認識に、初能変と第二能変と第三能変の三つの能変があります。
『唯識三十頌』第二頌
謂異熟思量 及了別境識
(いわく、異熟と思量と及び了別識との識ぞ)
「能変」の唯三つとは、「異熟と思量と了別識」と言っております。
異熟識=阿頼耶識
思量識=末那識 了別識=前六意(前五識と第六識)
『唯識三十頌』第二頌の『成唯識論』の解説文の一部(重要部)を紹介します。
識所変の相は、無量の種なりと雖も、而も能変の識の類別なることは、唯だ三のみなり。一には、謂く異熟、即ち第八識なり。多く異熟性なるが故に。二には、謂く思量、即ち第七識なり。恒に審に思量するが故に。三には、謂く了境、即ち前六識なり。境相の麤を了するが故に。及という言は、六を合して一種と為すことを顕す。 論じて曰く、初能変の識を大・小乗教に阿頼耶と名ずく。此の識には具に能蔵と所蔵と執蔵との義有るが故に。謂く雑染の与に互いに縁と為るが故に。有情に執せられ自の内我と為らるるが故に、此は即ち、初能変の識に、所有る自相を顕示す。因と果とを摂持して、自相と為すが故に。此の識の自相は分位多なりと雖も、蔵というは、初なり過重く、是の故に偏えに説けり。此は是れ、能く諸の界と趣と生とを引く善・不善の業の異熟果なるが故に、説いて異熟と名ずく。此に離れて、命根と衆同分等を恒時に相続して勝れたる異熟果なりということは、得可からざるが故に、此は即ち、初能変の識に所有る果相を顕示す。此の識の果相は多くの位、多くの種ありと雖も、異熟というは、寛く不共なり。故に偏えに之を説けり。此は能く、諸法の種子を執持して、失せざらしむるが故に、一切種と名づく。此に離れて、余の法、能く遍く諸法の種子を執持すること、得可からざるが故に、此は即ち、初能変の識に所有る因相を顕示す。この識の因相は、多種有りと雖も、種を持することは不共なり。是の故に偏えに説けり。初能変の識体の相は多なりと雖も、略して唯だ是の如き三相のみ有りと説く。
初能変の識を大・小乗教に阿頼耶と名ずく。此の識には具(つぶさ)に能蔵と所蔵と執蔵との義有るが故に。謂(いわ)く雑染(ぞうぜん)の与(ため)に互いに縁と為るが故に。
初能変とは、>> 5の ② の能取(主体)で起こる変化です。
第八識の呼び名って、実は三つあるのをご存じでしょうか。
「阿頼耶識」と「一切種子識」と「異熟」です。
>> 9の文段では、「阿頼耶識」と呼ぶ場合は、
能蔵と所蔵と執蔵の意義(意味)があると言っております。
これを唯識では、「蔵の三義」と言います。
そして、雑染の為に互いに縁となると。
「雑染」とは、善・悪・無記の三つに通じて、一切の煩悩を増長するものです。
「因と果とを摂持して、自相と為すが故に。」とありますが、
「阿頼耶識」には全ての行いが「業」として蓄えられていきます。
その「業」が因となって末那識が縁となって執我が起こります。(執蔵=執我の義)
所蔵は、「受薫の義」と言いまして、
眼・耳・鼻・舌・身の前五識と第六意識・第七末那識の七つの識で起こる
「七転識」がこれにあたります。
果としての「業」が阿頼耶識に蓄えられていきます。
能蔵は、「持種の義」と言いまして、
種子(業)を保持し続ける働きを言います。
このように「業」によって起こる因果の側面を言い表す時に
第八識は、「阿頼耶識」と呼ばれます。
個人の「業」によって生じる因果と縁起です。
それが、
「雑染(ぞうぜん)の与(ため)に互いに縁と為るが故に。」
の文句が意味するところです。
このような第八識の「阿頼耶識」的(蔵)な側面を自相と言います。
第八識の三つの呼び名は、それぞれ、次のような三つの相を備えております。
「阿頼耶識」=自相
「一切種子識」=因相
「異熟識」=果相
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『唯識三十頌』第一頌
「彼依識所変 此能変唯三」
彼れは識が所変に依る。此れが能変は唯三つのみなり。
唯識における「識転変」について、安慧(スティラマティ)の注釈によれば、「転変」とは、「変化すること」と解説される。すなわち、原因となるある刹那が消滅し、と同時にその刹那とは別の刹那が、形を変えて、新たな結果として生起することである。
今ここに、一個のりんごがあるとする。このりんごは、その場所に、形を変えずに存在しているように思われるが、数日もたてば、水分が飛び、しなびて、ゆくゆくは腐ってしまう、これは、りんごが一瞬一瞬、刹那滅を繰り返し、徐々に形を変えていっているからに他ならない。
唯識では、そのりんごは、実際そこに存在するのではなく、我々の心の中に現れ出ているものに過ぎないと考える。
実際、目の前にあるりんごを、それを見ている者達がみな同じ色、形として認識しているとは限らないし、同じにおいがしているとも限らないのである。この道理こそが、世親の説く「識の転変」と言われるものである。
しかし、玄奘は>> 1を漢文にする際、このパリナーマ(転変)なる語に「所変」・「能変」という二種類の語を使い分けている。この点に関しては、専門家においても意見の分かれるところとなっている。
所変・能変とは、
能変=変化せしめるもの
所変=変化せしめられたもの
となるのですが、唯識では能取を主体、所取を客体とします。
見られる側(所取)=客体
見る側 (能取)=主体
この「主体と客体」の関係に対し、人の認識である「主観と客観」を唯識では、相分と見分とします。
主観=見分
客観=相分
客体 (① 見られる側)=真実のモノのあり様
主体 (② 見る側) =凡夫の認識(客観 ③ + 主観 ④ )
①=所取 ②=能取 ③=相分 ④=見分
玄奘は、『唯識三十頌』第一頌の
「彼依識所変 此能変唯三」を
「彼れは識が所変に依る。此れが能変は唯三つのみなり。」
と訳しておりまして、所変が「変化せしめられたもの」、即ち ① の客体、
能変は「変化せしめるもの」、即ち ② の主体となります。
「所変」=時間経緯で起こる此縁性縁起 ---(客体)
↑自然界の出来事(縁起)
「能変」=凡夫の認識(主観と客観) ---(主体)
その主体である凡夫の認識に、初能変と第二能変と第三能変の三つの能変があります。
『唯識三十頌』第二頌
謂異熟思量 及了別境識
(いわく、異熟と思量と及び了別識との識ぞ)
「能変」の唯三つとは、「異熟と思量と了別識」と言っております。
異熟識=阿頼耶識
思量識=末那識
了別識=前六意(前五識と第六識)
『唯識三十頌』第二頌の『成唯識論』の解説文の一部(重要部)を紹介します。
識所変の相は、無量の種なりと雖も、而も能変の識の類別なることは、唯だ三のみなり。一には、謂く異熟、即ち第八識なり。多く異熟性なるが故に。二には、謂く思量、即ち第七識なり。恒に審に思量するが故に。三には、謂く了境、即ち前六識なり。境相の麤を了するが故に。及という言は、六を合して一種と為すことを顕す。
論じて曰く、初能変の識を大・小乗教に阿頼耶と名ずく。此の識には具に能蔵と所蔵と執蔵との義有るが故に。謂く雑染の与に互いに縁と為るが故に。有情に執せられ自の内我と為らるるが故に、此は即ち、初能変の識に、所有る自相を顕示す。因と果とを摂持して、自相と為すが故に。此の識の自相は分位多なりと雖も、蔵というは、初なり過重く、是の故に偏えに説けり。此は是れ、能く諸の界と趣と生とを引く善・不善の業の異熟果なるが故に、説いて異熟と名ずく。此に離れて、命根と衆同分等を恒時に相続して勝れたる異熟果なりということは、得可からざるが故に、此は即ち、初能変の識に所有る果相を顕示す。此の識の果相は多くの位、多くの種ありと雖も、異熟というは、寛く不共なり。故に偏えに之を説けり。此は能く、諸法の種子を執持して、失せざらしむるが故に、一切種と名づく。此に離れて、余の法、能く遍く諸法の種子を執持すること、得可からざるが故に、此は即ち、初能変の識に所有る因相を顕示す。この識の因相は、多種有りと雖も、種を持することは不共なり。是の故に偏えに説けり。初能変の識体の相は多なりと雖も、略して唯だ是の如き三相のみ有りと説く。
初能変の識を大・小乗教に阿頼耶と名ずく。此の識には具(つぶさ)に能蔵と所蔵と執蔵との義有るが故に。謂(いわ)く雑染(ぞうぜん)の与(ため)に互いに縁と為るが故に。
初能変とは、>> 5の ② の能取(主体)で起こる変化です。
第八識の呼び名って、実は三つあるのをご存じでしょうか。
「阿頼耶識」と「一切種子識」と「異熟」です。
>> 9の文段では、「阿頼耶識」と呼ぶ場合は、
能蔵と所蔵と執蔵の意義(意味)があると言っております。
これを唯識では、「蔵の三義」と言います。
そして、雑染の為に互いに縁となると。
「雑染」とは、善・悪・無記の三つに通じて、一切の煩悩を増長するものです。
「因と果とを摂持して、自相と為すが故に。」とありますが、
「阿頼耶識」には全ての行いが「業」として蓄えられていきます。
その「業」が因となって末那識が縁となって執我が起こります。(執蔵=執我の義)
所蔵は、「受薫の義」と言いまして、
眼・耳・鼻・舌・身の前五識と第六意識・第七末那識の七つの識で起こる
「七転識」がこれにあたります。
果としての「業」が阿頼耶識に蓄えられていきます。
能蔵は、「持種の義」と言いまして、
種子(業)を保持し続ける働きを言います。
このように「業」によって起こる因果の側面を言い表す時に
第八識は、「阿頼耶識」と呼ばれます。
個人の「業」によって生じる因果と縁起です。
それが、
「雑染(ぞうぜん)の与(ため)に互いに縁と為るが故に。」
の文句が意味するところです。
このような第八識の「阿頼耶識」的(蔵)な側面を自相と言います。
第八識の三つの呼び名は、それぞれ、次のような三つの相を備えております。
「阿頼耶識」=自相
「一切種子識」=因相
「異熟識」=果相