世親が顕した『唯識三十頌』を護法が注釈し、
それを中国の玄奘が漢訳した唯識の論典が『成唯識論』である。
仏教は、大きく分けて小乗仏教と大乗仏教とに分かれます。
二分する最も大きな要因に、仏教の重要概念である「空」の理解の相違があります。
空を説く経典に『小空経』と『空大経』がありまして、小乗仏教は『小空経』で説かれる空を、大乗仏教では『空大経』で説かれる空をもとにして空思想が展開されております。
小乗仏教=『小空経』 大乗仏教=『空大経』
『小空経』では、「有る無し」の二元論で空が説かれ、『空大経』では、四段階で空が説かれております。いわゆる「析空・体空・法空・非空」の空の四義です。
「有る無し」の空とは、モノの状態をとらえた空で、物理や科学と同じモノの見方です。
水は個体として認識されますので「有る」という状態です。
しかし、その水が蒸発して水素と酸素に分解すると気体となって認識されない状態の「無し」になります。
このように無くなった訳ではないのですが、認識されない状態で存在していることを空というのが『小空経』で説かれる空です。
このようにモノを状態で見ることを実在論といいます。
それに対し、大乗が用いた『空大経』は、モノの方ではなくそのモノを見る側である人の認識を四つの空で説き明かしております。
こちらは、認識論になります。
具体的に言いますと三蔵教(蔵教)のアビダルマ(論蔵)として顕された『倶舎論』が実在論で、別教で顕された『唯識』が認識論にあたります。
『倶舎論』=実在論 『唯識論』=認識論
『倶舎論』に於いては、人の在り方さえも実在論(有る無しの二元論)で説かれております。
認識論である『唯識』には、無著や安慧が展開した初期唯識と、世親や護法が展開した後期唯識とがあって、前者を無相唯識、後者を有相唯識と専門家の中では呼ばれております。
無相唯識=無著・安慧 有相唯識=世親・護法・玄奘
両者の違いを説明するにあたっては、第一講の最初に紹介しました「所取」と「能取」の二取の捉え方が深く関わってきます。
解りやすく言いますと、「主観と客観」と「主体と客体」の混同が問題となってきます。
「客体と主体」というのは、〝見られるモノ〟と〝見る者〟の関係でして、〝見る者〟が居て〝見られるモノ〟がある訳です。これは認識論なんですね。そういう発想で展開した唯識が、無著や安慧が展開した初期唯識です。
ここでは「客体と主体」である所取と能取の二取が、人の認識である相分と見分の二分と重なり合ってきます。
客体(所取)=見られるモノ=人の認識である相分 主体(能取)=見る者=人の認識である見分
その結果、二取と二分とが=で結びつきます。
所取=相分 能取=見分
ここで「客体と主体」と「相分と見分」の混同が生じます。
本来、この四者の関係は、第一講でも紹介しましたが、次のような関係にあります。
所取 ①=真実のモノのあり様 能取 ②=人の認識(相分 ③ + 見分 ④ )
①=客体 ②=主体 ③=客観 ④=主観
これ↑が正しい関係(後期唯識)で↓この関係(初期唯識)は正しくありません。
所取(客体)=相分(客観) 能取(主体)=見分(主観)
この関係を正したのが護法の四分説です。
人間の認識(相分・見分)は、いい加減なもの(妄想分別)で、本来の正しいモノのあり様は人の認識から離れた①の所取にあると主張したのです。
安慧が主張した一分説というのは、自証分だけがあって、相分も見分もないというもので、
初期唯識では「相分=所取」で「見分=能取」でもありますので、相分・見分・所取・能取の全てが無相となります。
この護法と安慧の主張の食い違いは、実は空に対する理解の違いが根底にあったのではないかと考えられます。
と言いますのも、見分〝あり〟とか相分〝あり〟とか、見分〝なし〟とか相分〝なし〟とか言ってる時点で、思考が「有る無し」の空の二元論での発想なんですね。
中国の法相宗を起した基が注釈した『成唯識論述記』(659年)に、護法の主張が次のように紹介されております。
護法釋云。識自證分所變相・見依他二分。非我非法。無主宰故。無作用故。性離言故。聖教名我法者是強目彼。如世説火口不被燒。所説火言明非目火。世間凡夫。依識所變相・見二分依他性上。執爲我法。此所變者似彼妄情名似我法。彼妄所執我法實無。
https://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?mode=detail&useid=1830_,43,0242b14&key=後諸識起變似我法。護法釋云。識自&ktn=&mode2=2
「護法釋云。識自證分所變相・見依他二分。非我非法。無主宰故。無作用故。性離言故」
護法釈して云く。識の自証分の所変の相・見の依他の二分は、我にも非ず法にも非ず。主宰無きが故に。作用無きが故に。性、言を離るるが故に。
「世間凡夫。依識所變相・見二分依他性上。執爲我法。此所變者似彼妄情名似我法。彼妄所執我法實無。」
世間の凡夫は、識所変の相・見二分に依りて、依他性の上に執して我・法と為す。此の所変の者の彼の妄情に似るを、「[諸識の生ずる時に変じて]我・法に似る」と名づく。彼の妄所執の我・法は実には無し。
識の自証分によって変じた所変の相分・見分は「依他起」であり、そこには主宰も作用もなく、本性として言葉から離れている。
と護法は言っております。
「主宰も作用もなく」の意味は、後半へ読み進めば分かります。
「世間の凡夫は」と言っておりますので、前半の部分は「仏の見解」だという事がわかります。
不適切なコンテンツとして通報するには以下の「送信」ボタンを押して下さい。 現在このグループでは通報を匿名で受け付けていません。 管理者グループにはあなたが誰であるかがわかります。
どのように不適切か説明したい場合、メッセージをご記入下さい。空白のままでも通報は送信されます。
通報履歴 で、あなたの通報と対応時のメッセージを確認できます。
トピックをWIKIWIKIに埋め込む
次のコードをWIKIWIKIのページに埋め込むと最新のコメントがその場に表示されます。
// generating...
プレビュー
ここまでがあなたのコンテンツ
ここからもあなたのコンテンツ
仏教は、大きく分けて小乗仏教と大乗仏教とに分かれます。
二分する最も大きな要因に、仏教の重要概念である「空」の理解の相違があります。
空を説く経典に『小空経』と『空大経』がありまして、小乗仏教は『小空経』で説かれる空を、大乗仏教では『空大経』で説かれる空をもとにして空思想が展開されております。
小乗仏教=『小空経』
大乗仏教=『空大経』
『小空経』では、「有る無し」の二元論で空が説かれ、『空大経』では、四段階で空が説かれております。いわゆる「析空・体空・法空・非空」の空の四義です。
「有る無し」の空とは、モノの状態をとらえた空で、物理や科学と同じモノの見方です。
水は個体として認識されますので「有る」という状態です。
しかし、その水が蒸発して水素と酸素に分解すると気体となって認識されない状態の「無し」になります。
このように無くなった訳ではないのですが、認識されない状態で存在していることを空というのが『小空経』で説かれる空です。
このようにモノを状態で見ることを実在論といいます。
それに対し、大乗が用いた『空大経』は、モノの方ではなくそのモノを見る側である人の認識を四つの空で説き明かしております。
こちらは、認識論になります。
具体的に言いますと三蔵教(蔵教)のアビダルマ(論蔵)として顕された『倶舎論』が実在論で、別教で顕された『唯識』が認識論にあたります。
『倶舎論』=実在論
『唯識論』=認識論
『倶舎論』に於いては、人の在り方さえも実在論(有る無しの二元論)で説かれております。
認識論である『唯識』には、無著や安慧が展開した初期唯識と、世親や護法が展開した後期唯識とがあって、前者を無相唯識、後者を有相唯識と専門家の中では呼ばれております。
無相唯識=無著・安慧
有相唯識=世親・護法・玄奘
両者の違いを説明するにあたっては、第一講の最初に紹介しました「所取」と「能取」の二取の捉え方が深く関わってきます。
解りやすく言いますと、「主観と客観」と「主体と客体」の混同が問題となってきます。
「客体と主体」というのは、〝見られるモノ〟と〝見る者〟の関係でして、〝見る者〟が居て〝見られるモノ〟がある訳です。これは認識論なんですね。そういう発想で展開した唯識が、無著や安慧が展開した初期唯識です。
ここでは「客体と主体」である所取と能取の二取が、人の認識である相分と見分の二分と重なり合ってきます。
客体(所取)=見られるモノ=人の認識である相分
主体(能取)=見る者=人の認識である見分
その結果、二取と二分とが=で結びつきます。
所取=相分
能取=見分
ここで「客体と主体」と「相分と見分」の混同が生じます。
本来、この四者の関係は、第一講でも紹介しましたが、次のような関係にあります。
所取 ①=真実のモノのあり様
能取 ②=人の認識(相分 ③ + 見分 ④ )
①=客体 ②=主体 ③=客観 ④=主観
これ↑が正しい関係(後期唯識)で↓この関係(初期唯識)は正しくありません。
所取(客体)=相分(客観)
能取(主体)=見分(主観)
この関係を正したのが護法の四分説です。
人間の認識(相分・見分)は、いい加減なもの(妄想分別)で、本来の正しいモノのあり様は人の認識から離れた①の所取にあると主張したのです。
安慧が主張した一分説というのは、自証分だけがあって、相分も見分もないというもので、
初期唯識では「相分=所取」で「見分=能取」でもありますので、相分・見分・所取・能取の全てが無相となります。
この護法と安慧の主張の食い違いは、実は空に対する理解の違いが根底にあったのではないかと考えられます。
と言いますのも、見分〝あり〟とか相分〝あり〟とか、見分〝なし〟とか相分〝なし〟とか言ってる時点で、思考が「有る無し」の空の二元論での発想なんですね。
中国の法相宗を起した基が注釈した『成唯識論述記』(659年)に、護法の主張が次のように紹介されております。
護法釋云。識自證分所變相・見依他二分。非我非法。無主宰故。無作用故。性離言故。聖教名我法者是強目彼。如世説火口不被燒。所説火言明非目火。世間凡夫。依識所變相・見二分依他性上。執爲我法。此所變者似彼妄情名似我法。彼妄所執我法實無。
https://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?mode=detail&useid=1830_,43,0242b14&key=後諸識起變似我法。護法釋云。識自&ktn=&mode2=2
「護法釋云。識自證分所變相・見依他二分。非我非法。無主宰故。無作用故。性離言故」
護法釈して云く。識の自証分の所変の相・見の依他の二分は、我にも非ず法にも非ず。主宰無きが故に。作用無きが故に。性、言を離るるが故に。
「世間凡夫。依識所變相・見二分依他性上。執爲我法。此所變者似彼妄情名似我法。彼妄所執我法實無。」
世間の凡夫は、識所変の相・見二分に依りて、依他性の上に執して我・法と為す。此の所変の者の彼の妄情に似るを、「[諸識の生ずる時に変じて]我・法に似る」と名づく。彼の妄所執の我・法は実には無し。
識の自証分によって変じた所変の相分・見分は「依他起」であり、そこには主宰も作用もなく、本性として言葉から離れている。
と護法は言っております。
「主宰も作用もなく」の意味は、後半へ読み進めば分かります。
「世間の凡夫は」と言っておりますので、前半の部分は「仏の見解」だという事がわかります。