唯識三十頌 その① で日蓮大聖人の言葉を紹介しました中に、
「二乗の有余・無余の二つの涅槃の相を離るが故に不相と云う」
という言葉がありました。これは『無量義経』で説かれている
「無相・不相の一法より無量義を出生す」
という文句を天台智顗が『法華文句』において、
「生滅無常の相無きが故に無相と云うなり二乗の有余・無余の二つの涅槃の相を離るが故に不相と云うなり」
と注釈されたお話です。
ここではこの「二乗の有余・無余の二つの涅槃の相」について少々掘り下げたお話をさせて頂きます。
唯識三十頌 その① で日蓮大聖人の言葉を紹介しました中に、
「二乗の有余・無余の二つの涅槃の相を離るが故に不相と云う」
という言葉がありました。これは『無量義経』で説かれている
「無相・不相の一法より無量義を出生す」
という文句を天台智顗が『法華文句』において、
「生滅無常の相無きが故に無相と云うなり二乗の有余・無余の二つの涅槃の相を離るが故に不相と云うなり」
と注釈されたお話です。
ここではこの「二乗の有余・無余の二つの涅槃の相」について少々掘り下げたお話をさせて頂きます。
唯識三十頌の第七頌に
唯識三十頌
https://yuishiki30.blogspot.com/2013/02/blog-post_7.html
(7)
有覆無記に摂めらる 所生に随って繋せらる
阿羅漢と滅定と 出世道とには有ること無し
とありまして、これは第七末那識について説明されている項目です。
阿羅漢と滅定と出世道には末那識は無いと世親が申しております。
ここで言う「阿羅漢」についてですが、小乗仏教では「仏」について詳しく解き明かされておらず、その時代において修行者が目指したのは「仏の境地」ではなく、全ての煩悩を寂滅させた阿羅漢という境地でした。
この阿羅漢にあっては末那識は識無辺で寂滅されます。
滅定は「滅尽定」のことでして、無所有処に入った修行者が無余涅槃として無色界の第四有頂天へ生まれ出ます。ですので滅尽定の境地に入った者にも末那識は寂滅しており存在し得ません。
ですから「阿羅漢と滅定には末那識は無い」となりますが「出世道」とはなにを指しての言葉なのか、ここの解釈がこの『唯識三十頌』の中で最も難解なところとなります。
実は先に紹介しました「二乗の有余・無余の二つの涅槃の相」がこの「出世道」と深く関わってきます。
「二乗作仏」という仏教用語をご存知でしょうか。
声聞と縁覚の二乗は成仏出来ないという意味の言葉です。平安時代初頭に「天台宗」の最澄と「法相宗」の徳一の間で五年間にわたって繰り広げられた、仏教史上まれにみる規模の教理的問題における討議がなされ、「三一権実論争」「三乗一乗権実諍論」「法華権実論争」などと言われたりしております。
両者が激しく対立し、重ねて批判の応酬が為された論題の中にこの「二乗作仏」に関する問題があります。
じつは『唯識三十頌』の第七頌に示されている「出世道」もこの「二乗作仏」が深く関係しております。
自分のさとりだけを求める小乗の心をひるがえして大乗に向かうことを「廻心向大」と言うのですが、天台宗や華厳宗では一切皆成の立場からすべての二乗が廻心して成仏することを主張します。
一方、法相宗では「五姓各別」の立場から二乗に決定性と不定性の二種があり、決定性の二乗は廻心向大することがなく、不定性の二乗は無余涅槃に入る直前に廻心して大乗の菩薩になるとします。
この論争のポイントとなるのは「三一権実諍論」とも言われるように三乗の教えと一乗の教え、どっちが権教(仮の教え)でどっちが実教(真実の教え)かといった事なのですが、『法華経』では開三顕一が説かれており、声聞・縁覚・菩薩といった三乗の境涯に対して説かれた蔵教・通教・別教の三種の教えは最終的に一仏乗である『法華経』へ集約されます。ですからその一仏乗の『法華経』を実践すれば声聞であれ縁覚であれ菩薩であれ皆、「薬草喩品第五」の「三草二木」の喩えどおりに平等に等しく仏の智慧を授かって成仏の覚りを得ていきます。
天台宗の最澄はこの『法華経』に基づいて「一乗真実三乗方便」を主張しますが、法相宗の徳一は、五性各別(ごしょうかくべつ)の説に基づいて、三乗の教えこそが真実の教えであり『法華経』は方便として説かれた教えであるとする「三乗真実一乗方便」を主張し両者は三乗・一乗のいずれが真かをめぐって真っ向から対立し激しく衝突しました。
法相宗で説く「五性各別」とは、修道論の観点から声聞種姓・独覚種姓・菩薩種姓・不定種姓・無性有情の五つに分類し、声聞種姓・独覚種姓は、小乗の修行によりそれぞれ阿羅漢果・独覚果を得るのですが、無余涅槃なので灰身滅智して成仏には至らないと考えます。これを「定性二乗」と言うのですが、実はこれこそが『唯識三十頌』の第七頌、
「阿羅漢と滅定と 出世道とには有ること無し」
で言う「出世道」にあたります。
「五性各別」の中の菩薩種姓は、大乗の修行により大菩提を得て大涅槃を証して成仏する者なのですがこれは有余涅槃となります。不定種姓は、小乗の修行から大乗の修行に転向(廻心向大)して成仏する者。無性有情は、修行により人天の果を得ることもあるが成仏はできない者である。
声聞種姓・独覚種姓・菩薩種姓にはそれぞれの証果をもたらす無漏種子があり、不定種姓には声聞・独覚・菩薩のいずれかの無漏種子があるが、無性有情には無漏種子がないとされる。これによれば、成仏できるのは大乗も菩薩の無漏種子を持つ菩薩種姓と不定種姓のみであり、定性二乗と無性有情は成仏できないということになります。
徳一の考えは『法華経』は、この定性二乗と無性有情のような無漏種子がない者であっても成仏できると励まして仏果へと導くための方便として説かれた教えであるといったものでした。
この「五性各別」で問題視しているのは無漏の種子があるか無いかという問題です。
では「無漏の種子」ってなんなのでしょう。
五姓各別では、声聞の覚りの種を持った「声聞定姓」と縁覚(独覚)の覚りの種を持つ「独覚定姓」、菩薩の覚りの種を持つ「菩薩定姓」といった感じでそれぞれの境涯に即したそれぞれの「覚りの種」の存在が重要視されます。これこそが「種子説」でいうところの〝種〟そのものです。
ではこの三乗の境涯のそれぞれの覚りが何かと言いますと、声聞に対して蔵教で説かれた実体に即した真理 ---(此縁性縁起)、縁覚に対して通教で説かれた実体を空じた真理 ---(相依性縁起)、そして菩薩に対しては別教で而二不二が説かれ此縁性縁起と相依性縁起を合わせた「色即是空 空即是色」がそれぞれその種にあたります。
声聞の覚りの種=色即是空(此縁性縁起)--- 仮諦
縁覚の覚りの種=空即是色(相依性縁起)--- 空諦
菩薩の覚りの種=色即是空 空即是色 --- 中諦
これは凡夫の相(仮観)・性(空観)・体(中観)における真理となる「凡夫の三諦」です。
空理で捉えると次のようになります。
声聞=色即是空(此縁性縁起)--- 析空
縁覚=空即是色(相依性縁起)--- 体空
菩薩=色即是空 空即是色 --- 人空(析体の二空を空じた空)
初期仏教で説かれる「九次第定」の色界禅定の初禅では客観を止滅させます。それが「析空」です。
二禅では「体空」によって主観が止滅します。
三禅で「主観と客観」によって起こる〝感情(心の乱れ)〟が起きなくなります(人空)。
そして四禅で仏の空観にはいります。
蔵教では「空の理論」や唯識の「覚りの理論」までは説かれておりませんので蔵教の声聞はひたすら寂滅するのみで空観に入る事もありません。転生で天上界へ向かいます。---(生静慮)
通教で龍樹によって「空」が詳しく解き明かされ、解脱を習得した阿羅漢達が仏の空観(天上界)に転生ではなく意識として入っていきます。---(定静慮)
この二種の瞑想は共に「九次第定」です。蔵教の声聞は色界禅定で実体を空じています(第六意識の止滅)。
通教の縁覚は更に無色界禅定で深層意識(末那識・阿頼耶識)をも寂滅させます。
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この瞑想(九次第定)で空観に意識として入っても仏の説法は聞けません。どうなるかと言いますと、
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8.阿弥陀経(その①)
https://butudou.livedoor.blog/archives/17786229.html
↑このようになります。
空観(天上界)で仏の説法を聞く為には、九次第定とはまた別の行法が行われたと考えられます。
それが三昧という観法です。
『観無量寿経』ではその三昧法が16観法として説かれております。
以下に続きます。
法介説法『唯識の四分について』
https://zawazawa.jp/Bukipedia/topic/25