更に『天台宗教聖典Ⅱ』のP.1110(維摩経玄疏)では、この三種解脱を三身に類通させて説明されております。類通とは「共通のものとして類別する」といった意味になります。
三身の法身に類通せば、一つに、法身佛。二つに、報身佛。三つに、応身佛。なり。真性の解脱は即ち是れ法身の毘盧遮那佛。性浄の法身なり。実慧の解脱は即ち是れ報身の盧遮那佛。浄満の法身なり。方便の解脱は即ち是れ応身の釈迦牟尼佛。応化の法身なり。
ここでまず着目て欲しいのが、三種が三つとも〝法身〟と記されている点です。ここでは法身の中の三身、即ち三身如来と三種解脱とを類通させておられる訳です。また、真性を「毘盧遮那佛」とし実慧を「盧遮那佛」としている点も見逃せません。
仏教学の多くの学者さん達は、この毘盧遮那佛と盧遮那佛を同じ仏だと適当なことを申したりしますが、この二仏は明らかに意味が異なります。
毘盧遮那佛=法身
盧遮那佛=報身
釈迦牟尼佛=応身
といった仏の三身となります。仏の三身と言いましてもここでは、「三身の法身に類通せば」と申しておられますので「法」としての「如来の三身」を意味しております。
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