法介の『ゆゆしき世界』

間違いだらけの仏教の常識

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世の中にはおかしな事が沢山あります。

そして「おかしな事」をおかしいと気づけないでいる人達も世の中には沢山おられます。

例えば市のおかしな条例に従い、お役人さんが駐輪違反として収入のない未成年の中学生から罰金として2,000を徴収したとしましょう。

実際にこういった行為が10年以上に渡ってわたしが住んでいる地区で執行されておりました。

「この事例のどこがおかしんですか?」と思われる方はこちらをお読みください。

『法介伝』~世の中の間違いを正す!編~
 https://zawazawa.jp/yuyusiki/topic/15

仏教の世界にも「おかしな事」が沢山あります。

お偉い仏教学の権威ある学者さんが書かれた内容なので「これが絶対に正しいんだ!」と思い込んで誤った仏教を実践なされておられる方々が沢山居られます。

そもそも仏教とは「学者さん」が理解出来る教えではありません。

日蓮聖人も御書の至るところで、「当世の学者等が邪義に就いて」、「当世の学者等は畜生の如し」、「当世の学者知らざる事なり」、「当世の学者此の意を得ざるが故に」、「当世の学者此の釈を見ずして」、「当世の学者・偏執を先と為して」、「当世の学者・愚癡邪見の至りなり」と申しておりまして、学者さんに仏教の本当のところなんか分かろうはずがないんです。

なぜなら学者という職種は客観性をもって「正しさ」を立証していく立場の人達です。仏教ではその客観からまず離れる事が説かれております。人間の「客観や主観」といった視点(概念)から離れ、「仏の空観」という視点に立って物事を捉えてはじめて物事の真実のあり様というものが観えてきます。

その真実のあり様に如何に対応していくかを覚った境地を仏教では「中観」と言います。覚りの世界観の事をそう呼びます。

 学者さん=客観思考
 お坊さん=客観→主観→空観→中観

仏教ではこの人間が観じ取る四つの世界観を四つの真理として解き明かしております。この四つの真理を明(諦)らかにする事を「四諦」と言います。

 苦諦 - 実体視は苦でしかないという真理。   (客観)
 集諦 - 苦の原因は愛執に集約されるという真理。(主観)
 滅諦 - 苦を滅した悟りの境地があるということ。(空観)
 道諦 - 仏道の実践でその境地に至るということ。(中観)

学者さんが説く「客観の仏教観」と四諦で説く「真実の仏教観」の違いを解りやすく今からお話して参ります。

法介
作成: 2023/09/03 (日) 10:27:20
最終更新: 2023/09/28 (木) 12:23:52
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法介 2023/09/03 (日) 15:36:31

お釈迦さまは入滅なされる直前に説かれた『涅槃経』の中で、自身亡き後の拠りどころとなる指針として「法四依」を示されます。

 依義不依語(義に依りて語に依らざれ)
 依智不依識(智に依りて識に依らざれ)
 依了義経不依不了義経(了義経に依りて不了義経に依らざれ)
 依法不依人(法に依りて人に依らざれ)

の四つの項目からなる遺言的に残された指針です。この中の四番目の「依法不依人」は法論の場において「根拠となる衣文を示してください」などと言って良く飛び交う文句なので知っておられる方も多いかと思われます。

ここでは、三番目の「依了義経不依不了義経」について少々お話をさせて頂きます。

釈尊が一代にわたって説いた教えのすべてを指して「八万法蔵」と言ったりしますが八万は実際の数ではなくそれだけ数多くの教えをお釈迦さまはお説きになられたという意味でそう言います。その多くの教えは全て一仏乗の「仏の智慧」として集約されていきます。『法華経』を学んでおられる方はご存知かと思いますが、仏は一乗の教えを三乗に開いて個別に各々の詳細を解き明かし、最後にそれら三乗に説いた教えを「開三顕一」として集約して究極の「法」を顕します。

ですから、その部分部分の教えを学ぶのでは無く、「依了義経不依不了義経」に示されるように完結した「了義経」を学びなさいと言われております。「不了義経」とは、真理を完全に説き明かしていない未完全な教えという意味です。

この件に関して日蓮さんが臨終間際に選ばれた六老僧(日昭、日朗、日向、日頂、日持、日興)のお一人であられました日興上人がご自身の『日興遺誡置文』の中で次のような事を書き綴っておられます。

「義道の落居無くして天台の学文す可からざる事」

「義道」とは大聖人の仏法の教義と道理のことで、「落居」とは習得してしっかり胸中に収めることを言います。日蓮仏法を学び習得してからでないと「天台の学問」をいてはならないと戒められている訳です。

日蓮仏法と言いますのは、「了義経」である『法華経』を拠りどころとする仏法です。その日蓮聖人が詳しく解き明かす『法華経』の法理・法門を正しく理解して天台の教学を学ばないと、天台教学を凡夫の浅はかな概念で解釈してしまい、手前勝手な凡夫解釈の教学となってしまうからです。仏教では声聞・縁覚・菩薩・仏といったそれぞれの境涯に即した四種の智慧が説かれており、その四つの智慧を持って経典を読み取っていかなければおかしな解釈に陥ってしまいます。

 声聞の智慧
 縁覚の智慧
 菩薩の智慧
 仏 の智慧

この四つの智慧の意味をきちんと理解した上で経典を読んでいかないと仏の深意は決して読み取れません。

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法介 2023/09/03 (日) 15:45:15 修正

実は四諦の真理は3度繰り返されることで完成に至ると『解深密経』の中で説かれておりましてこれを「三転十二行相」と言います。

世尊。初於一時在婆羅尼斯仙人堕処施鹿林中。惟為発趣声聞乗者。以四諦相転正法輪。雖是甚奇甚為希有。一切世間諸天人等先無有能如法転者。而於彼時所転法輪。有上有容是未了義。是諸諍論安足処所。世尊。在昔第二時中惟為発趣修大乗者。依一切法皆無自性無生無滅。本来寂静自性涅槃。以隠密相転正法輪。雖更甚奇甚為希有。而於彼時所転法輪。亦是有上有所容受。猶未了義。是諸諍論安足処所。世尊。於今第三時中普為発趣一切乗者。依一切法皆無自性無生無滅。本来寂静自性涅槃無自性性。以顕了相転正法輪。第一甚奇最為希有。于今世尊所転法輪。無上無容是真了義。非諸諍論安足処所。

世尊は、最初の時にヴァーラーナシーの地の仙人堕処、鹿野苑において、声聞乗へと正しく向かっている者たちに対して、四聖諦とその内容を説かれました。それは希有なる素晴らしいもので、過去に天となれる者や人となれる者、その如何なる者すらもこの世間に転じたことのないひとつの法輪を転じ給われたのです。この世尊が完全に転じた法輪には、更により上のものがあり、更なる余地を残しているものであり、これは未了義であり、論義の基盤となっています

また世尊は、諸法無自性をはじめと、不生不滅、本来寂静、自性涅槃について、大乗へと正しく向かっている者たちに対して、空性を語るという内容によって、稀有なる素晴らしい第二の法輪が転じ給われたのです。この世尊が転じられた法輪もまた、更により上のものがあり、更なる余地を残しているものであり、未了義であり、論義の基盤となっています

これらに反して、世尊は諸法無自性をはじめ、不生不滅、本来寂静、自性涅槃について、すべての乗へと正しく向かっている者たちに対して、善く判別され内容をもつ、稀有なる素晴らしい第三の法輪を転じ給われました。この世尊が転ぜられた法輪は、無上なものであり、余地無く、了義であり、論争の基盤とはなっていないのです

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法介 2023/09/03 (日) 15:56:47 修正

この四諦の「三転法輪」は、初転法輪・中転法輪・後転法輪と呼ばれ、初転法輪は声聞乗に対して、中転法輪は縁覚乗に対して、後転法輪は菩薩乗に対してそれぞれ説かれます。この四諦がなぜ3回繰り返し説かれるのかという事は、『法華経』の開三顕一の理論と同じで声聞・縁覚・菩薩といった三乗のそれぞれの機根に応じて四諦が説かれて行ったのではないかという事が経文の内容から読み取れます。

天台智顗は『勝鬘経』と『涅槃経』を根拠として「四種四諦」の教義を顕しますが、これは四諦の「三転十二行相」とおしらく深く関わってくるものだと考えられます。三回繰り返し説かれる「三転十二行相」ですがそれを説く仏の劣応身・勝応身・報身・法身の四身をくわえますと「四種四諦」となるからです。そして智顗はこの「四種四諦」をもとに『観無量寿経』の16観法から「四門の料簡」を読み取ったのではないでしょうか。