「ターナヴットー論文」では、
ニヤーカにおける修行道の相互関係 ターナヴットー・ビック
https://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/record/37059/files/ib005001.pdf
プリント下部 No.5 で、『中部経典』の「調御地経」の次の文章を紹介し、
如来は更にその彼を調御したまう。「来れ比丘よ、汝は身において身を繰り返し観察して住し、身に俱える尋を尋求すること勿れ。心において受を繰り返し観察して住し、心に俱える尋を尋求すること勿れ。法において法を繰り返し観察して住し、法に俱える尋を尋求すること勿れ。」彼は尋と伺との止息のために、内心静安となり、心一趣性あり、無尋無伺にして、定より生ずる喜と楽とある第二禅を・・・・・第三禅を・・・・・第四禅を具足して住する。
この経典によれば、四念処の修習は四禅の修習と関係があり、四念処の修習によって三明などが得られることが分かる。
とターナヴットー氏は自身の見解を述べております。
では、この経典の文章の意味を考えてみましょう。
「如来は更にその彼を調御したまう」は、如来は修行者に対して次のように指導しますと訳します。「身において身を繰り返し観察して」の意味は、身、即ち五蘊によって対象を認識する訳で、それにあたって「身に俱える尋を尋求すること勿れ」ですので、尋=客観認識によってそれを認識してはいけませんよとなるかと思います。
次に「心において受を繰り返し観察して住し」その対象を心、即ち主観で思いめぐらすことで、「心に俱える尋を尋求すること勿れ」主観で描く客観としての対象を思い描いてはいけませんよとなるかと。で、最後の「法において」は概念でしょう。概念で対象を捉えてはいけませんよといった事を言われていると思います。
ようは対象を客観や主観で認識する事をやめることで、概念が空じられ善や悪、綺麗や汚いといった感情が無くなって心に楽だけが残って四禅に至るといった事を言っているのではないでしょうか。これは龍樹の空に対する四悉檀(四念処の意味する処)の①~③と内容が一致します。
①世界悉檀:世間一般における教説。(客観を空じる)
②各各為人悉檀:機根などが異なる人それぞれに応じた教説。(主観を空じる)
③対治悉檀:自我を退治した教説。(概念を空じる)