当時はわたしも気づけずに、
それを「f分の1のゆらぎ」と結びつけて考えていました。
こういう発想って
実は外道義なんですね。
ここら辺から池田さんの
「南無妙法蓮華経は宇宙のリズム」といった
梵我一如の外道思想が展開されていった。
一つは、宇宙飛行士が宇宙空間で録音した音のデータ。
そして、もう一つは
胎児が母親の中で聞く音。
この「南無妙法蓮華経」の音データ(波長データ?)と
全く同じ波長を発するデータが二つ見つかった。
そしてお隣さんは、この「南無妙法蓮華経」を徹底的に調べたらしい。
そして次の事が分かった。
どうらや学会員さんは旅行に出かけていたらしい。
このお隣さん、実は物理学者さんで
こう思った。
「この南無妙法蓮華経って音の響き、人にどのような影響をあたえるんだ?」
そしてフッと気づいた。
「南無妙法蓮華経」が聞こえてこない、、、
ある日、お隣さんは思った。
「あれ、、、今日はなんか変、、、」
その学会員さんは毎朝欠かさずに朝の勤行をやっていた。
そのお隣さんは、その学会員さんが唱える「南無妙法蓮華経」を
毎朝聞くのがルーティーンとなっていた。
座談会の席で幹部が
ある学会員さんの話を紹介した。
わたしがそれを知ったのは
まだ創価に居た頃。
馬ちゃんは、「f分の1のゆらぎ」って知ってるだろうか。
話は変わりますが、
馬ちゃんがこんな事を言っていた。
現代では、録音機という現代の利器があるのです、では
法語を聴聞して薫習することで、無漏の種子が備わって行くのであれば
聞けばいいじゃないですか~ってことになります
外縁起で前五識を因として客観の現行が起こり、
内縁起の種子生現行でデータ参照。
内縁起で現行薫種子でそれが阿頼耶識に熏習される。
外縁起の第六意識で最終判断が下される。
といった流れになるのだろう。
縁起には、外縁起と内縁起とがあります。
この第18偈で、その内縁起が阿頼耶識縁起として説かれている訳ですね。
サティはどうやら
こういうのも読んでいないようだな。 https://zawazawa.jp/bison/topic/9
我見もここまでだったとは、、、、
棒さんが、
「そうかここからなのか…」
と言いたくなるのも良くわかる。
誰か教えてやれよ
言って素直に聞くような奴ではないけどな
まー、でおーあたりが言ったら素直に聞くかもしれないな。
リダン、これならどうだ
>> 96の図の左側が「阿弥陀佛」で
右側が「南無妙法蓮華経」だ。
そしてここでは、外縁が無くても認識は起こるという。
いわゆる、内縁起が説かれている個所です。
「現行の八種の識等の展転する力を以ての故」が、
「種子生現行」と「現行薫種子」による「種子生種子」を意味します。
この第18偈では、唯識の縁起思想(阿頼耶識縁起)が説かれている。 http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/30401/rbb041-19.pdf
>> 90第18偈の続き
謂く、生の位より転じて熟の時に至る。変ぜられる種は多なりということを顕さんとして、重ねて如是と言う。謂く、一切種に三熏習と共・不共等の識種を摂め尽くすが故に。展転力とは、謂く八の現識と及び彼の相応と相・見分等なり。彼は皆互いに相い助ける力有るが故に。即ち現識等を総じて分別と名づく。虚妄分別をもって自性と為すが故に。分別の類多きが故に彼彼と言えり。此の頌の意の説かく、外縁は無しと雖も、本識の中に一切種の転変する差別有るに由り。及び現行の八種の識等の展転する力を以ての故に、彼彼の分別而も亦た生ずることを得る。何ぞ外縁を仮って方に分別を起こさんや。 諸々の浄法の起こることも、応に知るべし。亦た然なり。浄種と現行とを縁と為して生ずるが故に。
「名前を捨てる」の意味がな。
どうらやサティーも円融(仏の覚り)が何たるかを全く解っていないようだ。
931.サティー
あまらしきという阿頼耶識が転換された状態をわざわざ用意する必要がなぜあったのか、までは知らんが
唯識と五智の対照関係が整理される前に、必要にかられて生まれた説なのかしら? 2024/10/09 14:25:33
ここまで解りやすく示しても
解らんのなら
どうしようもないな、、、
やっぱりあいつは、
円融三諦を何も分かっちゃいない、、、
リダンスレを覗いてみるとリダンがこんな事を言っていた。
155.リダン◆gEV3xsS//k
>> 154 阿頼耶識が一切法の拠り所とするなら 虚空は阿頼耶識の中やとなるな
2024/10/09 13:17:53
「後に当に説くべきが故に」とありますが
次にその部分を紹介します。
識の中の種子を顕す=法介主張。--- 〇
種子を持する識=サティー&麦の主張。--- ×
「識の中の種子を顕す。種子を持する識には非ず。」
と明確に述べております。
阿頼耶識の別名である「一切種子識」について『成唯識論』第18偈では次のように云う。
種子識という言は、識の中の種子を顕す。種子を持する識には非ず。後に当に説くべきが故に。此の種子の中の種子は余の縁に助け助けられるが故に、即便ち是の如く是の如く転変す。
第18偈にも、サティーや麦の主張が間違いである根拠が示されている。
要するに護法の四分説とは、
相分=客観 見分=主観 自証分=第六意識 証自証分=第七末那識
という事になる。
「自証分」とは、「見分」を自覚する心の働きである。木が相分、それを見ているのが見分である場合、「木を見ている自分」を自覚しているのが「自証分」である。
それでは、「証自証分」とは何か。護法は、さらに心の奥底に第四の自分を想定するのである。すなわち「『<木を見ている自分>を自覚する自分』を自覚する自分」である。こう考えるならば、第五、第六の意識がさらに奥に想定されるのでないかという疑問も出てくるが、『成唯識論』では、その必要性はないとする。それは、「自証分」と「証自証分」との間で、相互に自覚しあうからだと説く。すなわち「見分」と「相分」を従えた「自証分」が、さらに心の奥にある「証自証分」と自覚しあって、認識が完成するとする。
加藤氏の四分説に対する説明文を紹介します。
護法の解釈が正義とされますが、
その護法が用いた説が
相分・見分・自証分・証自証分の四分説です。
『唯識三十頌』の解釈は、
安慧(一分説) 難陀(二分説) 陳那(三分説) 護法(四分説)
と、その解釈は分かれます。
んな事も分からんから
真理に暗い凡夫って
言われるんですよ。
有漏で無漏を拾い上げても
それは結局
有漏と化すでしょうに
有漏で無漏が引き出せるとでも、、、、
当時はわたしも気づけずに、
それを「f分の1のゆらぎ」と結びつけて考えていました。
こういう発想って
実は外道義なんですね。
ここら辺から池田さんの
「南無妙法蓮華経は宇宙のリズム」といった
梵我一如の外道思想が展開されていった。
一つは、宇宙飛行士が宇宙空間で録音した音のデータ。
そして、もう一つは
胎児が母親の中で聞く音。
この「南無妙法蓮華経」の音データ(波長データ?)と
全く同じ波長を発するデータが二つ見つかった。
そしてお隣さんは、この「南無妙法蓮華経」を徹底的に調べたらしい。
そして次の事が分かった。
どうらや学会員さんは旅行に出かけていたらしい。
このお隣さん、実は物理学者さんで
こう思った。
「この南無妙法蓮華経って音の響き、人にどのような影響をあたえるんだ?」
そしてフッと気づいた。
「南無妙法蓮華経」が聞こえてこない、、、
ある日、お隣さんは思った。
「あれ、、、今日はなんか変、、、」
その学会員さんは毎朝欠かさずに朝の勤行をやっていた。
そのお隣さんは、その学会員さんが唱える「南無妙法蓮華経」を
毎朝聞くのがルーティーンとなっていた。
座談会の席で幹部が
ある学会員さんの話を紹介した。
わたしがそれを知ったのは
まだ創価に居た頃。
馬ちゃんは、「f分の1のゆらぎ」って知ってるだろうか。
話は変わりますが、
馬ちゃんがこんな事を言っていた。
現代では、録音機という現代の利器があるのです、では
法語を聴聞して薫習することで、無漏の種子が備わって行くのであれば
聞けばいいじゃないですか~ってことになります
外縁起で前五識を因として客観の現行が起こり、
内縁起の種子生現行でデータ参照。
内縁起で現行薫種子でそれが阿頼耶識に熏習される。
外縁起の第六意識で最終判断が下される。
といった流れになるのだろう。
縁起には、外縁起と内縁起とがあります。
この第18偈で、その内縁起が阿頼耶識縁起として説かれている訳ですね。
サティはどうやら
こういうのも読んでいないようだな。
https://zawazawa.jp/bison/topic/9
我見もここまでだったとは、、、、
棒さんが、
「そうかここからなのか…」
と言いたくなるのも良くわかる。
誰か教えてやれよ
言って素直に聞くような奴ではないけどな
まー、でおーあたりが言ったら素直に聞くかもしれないな。
リダン、これならどうだ
>> 96の図の左側が「阿弥陀佛」で
右側が「南無妙法蓮華経」だ。
そしてここでは、外縁が無くても認識は起こるという。
いわゆる、内縁起が説かれている個所です。
「現行の八種の識等の展転する力を以ての故」が、
「種子生現行」と「現行薫種子」による「種子生種子」を意味します。
この第18偈では、唯識の縁起思想(阿頼耶識縁起)が説かれている。
http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/30401/rbb041-19.pdf
>> 90第18偈の続き
謂く、生の位より転じて熟の時に至る。変ぜられる種は多なりということを顕さんとして、重ねて如是と言う。謂く、一切種に三熏習と共・不共等の識種を摂め尽くすが故に。展転力とは、謂く八の現識と及び彼の相応と相・見分等なり。彼は皆互いに相い助ける力有るが故に。即ち現識等を総じて分別と名づく。虚妄分別をもって自性と為すが故に。分別の類多きが故に彼彼と言えり。此の頌の意の説かく、外縁は無しと雖も、本識の中に一切種の転変する差別有るに由り。及び現行の八種の識等の展転する力を以ての故に、彼彼の分別而も亦た生ずることを得る。何ぞ外縁を仮って方に分別を起こさんや。
諸々の浄法の起こることも、応に知るべし。亦た然なり。浄種と現行とを縁と為して生ずるが故に。
「名前を捨てる」の意味がな。
どうらやサティーも円融(仏の覚り)が何たるかを全く解っていないようだ。
931.サティー
あまらしきという阿頼耶識が転換された状態をわざわざ用意する必要がなぜあったのか、までは知らんが
唯識と五智の対照関係が整理される前に、必要にかられて生まれた説なのかしら?
2024/10/09 14:25:33
ここまで解りやすく示しても
解らんのなら
どうしようもないな、、、
やっぱりあいつは、
円融三諦を何も分かっちゃいない、、、
リダンスレを覗いてみるとリダンがこんな事を言っていた。
155.リダン◆gEV3xsS//k
>> 154
阿頼耶識が一切法の拠り所とするなら
虚空は阿頼耶識の中やとなるな
2024/10/09 13:17:53
「後に当に説くべきが故に」とありますが
次にその部分を紹介します。
識の中の種子を顕す=法介主張。--- 〇
種子を持する識=サティー&麦の主張。--- ×
「識の中の種子を顕す。種子を持する識には非ず。」
と明確に述べております。
阿頼耶識の別名である「一切種子識」について『成唯識論』第18偈では次のように云う。
種子識という言は、識の中の種子を顕す。種子を持する識には非ず。後に当に説くべきが故に。此の種子の中の種子は余の縁に助け助けられるが故に、即便ち是の如く是の如く転変す。
第18偈にも、サティーや麦の主張が間違いである根拠が示されている。
要するに護法の四分説とは、
相分=客観
見分=主観
自証分=第六意識
証自証分=第七末那識
という事になる。
「自証分」とは、「見分」を自覚する心の働きである。木が相分、それを見ているのが見分である場合、「木を見ている自分」を自覚しているのが「自証分」である。
それでは、「証自証分」とは何か。護法は、さらに心の奥底に第四の自分を想定するのである。すなわち「『<木を見ている自分>を自覚する自分』を自覚する自分」である。こう考えるならば、第五、第六の意識がさらに奥に想定されるのでないかという疑問も出てくるが、『成唯識論』では、その必要性はないとする。それは、「自証分」と「証自証分」との間で、相互に自覚しあうからだと説く。すなわち「見分」と「相分」を従えた「自証分」が、さらに心の奥にある「証自証分」と自覚しあって、認識が完成するとする。
加藤氏の四分説に対する説明文を紹介します。
護法の解釈が正義とされますが、
その護法が用いた説が
相分・見分・自証分・証自証分の四分説です。
『唯識三十頌』の解釈は、
安慧(一分説)
難陀(二分説)
陳那(三分説)
護法(四分説)
と、その解釈は分かれます。
んな事も分からんから
真理に暗い凡夫って
言われるんですよ。
有漏で無漏を拾い上げても
それは結局
有漏と化すでしょうに
有漏で無漏が引き出せるとでも、、、、