MN.『聖求経』において、釈尊が無所有処・非想非非想処を捨て去ったその後、マガタ国を遊行し、ウルヴェーラーのセーナーニーガマに入って密林に坐り(46)、無碍安穏の涅槃に至ったとされる(47)。そこでは、無所有処・非想非非想処を厭って入った禅定において、生(jāti)・老(jarā)・病([P]byādhi,[S]vyādhi)・死(maran・a)・愁([P]soka,[S]㶄oka)・煩悩([P]san・kilesa,[S]sam・ kle㶄a)の過患(ādīnava)を知って、無碍安穏の涅槃に至ったとされる。そして「私の解脱は不動である(akuppā me vimutti)」という智([P]Jān・a,[S]jñāna)と見([P]dassana,[S]dar㶄ana)が生じたと説かれる。無所有処・非想非非想処を厭って入った禅定によって無碍安穏の涅槃を得たということである。そして、解脱智見に至って「不動(akopya)」であると認識したのである。
そして池田氏は、(No.964)で、
先にみたように、第三禅までは、人間が普通の心身のままで、精神を集中して思惟行動を行っている状態であったのに対し、この第四禅及びそれ以上は呼吸が働かないとされることからみても、むしろ死に近い状態を呈していると見なしうる。
と言って第三禅までの禅定と第四禅及びそれ以上の禅定の違いを説明するにあたり、次のようなエピソードを紹介しておられます。
釈尊は幼少期に初禅の状態を体験したということが示されている6)。 このエピソードが事実であるなら、出家前の釈尊が初禅を体験したということからも、後世色界の四禅とされるに至った禅定の少なくとも最初の段階の本質は、やほり精神を集中して思惟に没頭することに起因する一つの状態であった可能性が高いと推察されるのである。
また、釈尊は出家後まもなくアーラーラ・カーラーマとウッダカ・ラーマプッタを訪ね、それぞれの無所有処定と非想非非想処定を体験した後に捨て去ったと伝えられるが7)、このことはやはりこれらの禅定を退けた釈尊の立場を明確に示すものと見てよいであろう。さらに、釈尊は2カ月間、人を近づけずに一人で禅定を修したことが伝えられているが8)、そのときの禅定は、持息念(呼吸が伴う念)が中心であったとされている。 この他にも3カ月に亘る禅定が報告されているが9)、いずれもその間に比丘たちとの交渉があったとされていることからみて、滅尽定のような死に近い禅定を実践していたとは見なし難い。(No.963)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
6) Mahasaccaka-sutta, MN., I, pp. 246. cf.水 野弘元 「原始仏教 と目本 曹洞宗」(『道元禅 の思想的研究』1973年, 春秋社刊)pp. 53-58, 69-73. 以下, 註(7)(8)(9)についても同様。
7) Ariyapariyesana-sutta, MN., I, pp. 163-166.
8)『 雑 阿含』巻29; 大正2, 207a.
9) SN, V, p. 13; SN, V, pp 325-326; Vinaya, I, p. 169; Vinaya III, p. 230. etc,
「六因説」について 兵藤 一夫
http://echo-lab.ddo.jp/Libraries/印度学仏教学研究/印度學佛教學研究第33巻第2号/Vol.33 , No.2(1985)078兵藤 一夫「「六因説」について -特に「相応因」と「倶有因」に関して-」.pdf
有部の因縁論の中、「四縁説」は識(心)の生起に関する縁の分析に由来し、そこには普遍的な性格があったため、大乗も含めた他の学派にも広く採用されるところとなった。これに対し、「六因説」は有部の独特な法の理論を北具尽としており、有部的な色彩の濃いもので、当然ながら有部独自の学説という域に止ってしまった。中でも特に、「相応因」と「倶有因」の二つはその有部的色彩が最も顕著なものである。したがって、有部の「六因説」の性格を考察する場合、この二因は格好の素材となる。また、この二因に関しては、有部内部においてその理解の仕方にいくらかの違いがあるようである。それは因の成立条件に関する問題であって、「同一果」によるのか「互為果」によるのかという古来からの問題に帰着する。そこで、この小論では「相応因」と「倶有因」の内容・性格を、有部の法の理論と関連させながら検討し、最後に「同一果」と「互為果」についていささか言及してみたい。
六因の中、「相応因」と「倶有因」は倶生法に対して適用される因である。すなわち、この二因は、ある生起した法(果なる法)と倶生した諸法の中で、果なる法と密接不離な関係にある法に対して設定されたもので、いわゆる同時的因果関係を表わしたものである。このように、有部が同時的因果関係を主張することは有部の因果論の最大の特徴の一つであるが、「因は果よりも先に存在する」という世間一般の常識に逆らうことで諮り、この点が『倶舎論』や『順正理論』において他の学派から批判されるところである。しかし、有部の法の理論からすれば、この同時的因果関係の是認は必然的な帰結である。
有部の法の理論のもう一つの特徴は、実有法の分析の徹底化である。有部の考え方では、実有法は自性を有したものである。一つの実有法に複数の自性は認められないことにより、その法に少しでも別な性質が混っていたら、それを分離して別立するという厳格な態度が見られる。しかし、この態度は反面では世間的な諸存在の有機的統合性を破壊する。例えば、有情の心的活動を心王と諸々の心所なる別法に分解することは、心が全体として有している有機的な機能を損う。また、有為法をその法としての自性と有為として
の自性(有為の四相たる生・住・異・滅)に分解することは、刹那滅性という有為法個有のダイナミックな本性を奪い去ることになる。このように、法の分析を徹底的に押し進めて、法をより基本的な要素的存在へと分解していくと、それら分解された法の有機的な性質はますます薄められてくる。
五位七十五法説の持つこのような傾向を修正し、一切の有為的存在の有機的統合性を回復させる一助として利用されるのが、「諸法の倶生」或いは「相応」、「倶有(倶生)」という概念である。この中、「相応」とは心と心所聞の有機的統合を表示し、「倶有(倶生)」とはそれ以外の諸法間の有機的統合、例えば、有為法と有為の四相、色法の八事倶生(四大と(2)色・香・味・触)など、を表示する。
『法蘊足論』の四無量定と勝解:『声聞地』との関連性から 阿部 貴子
https://www.jstage.jst.go.jp/article/chisangakuho/71/0/71_0013/_pdf/-char/ja
(プリント下部 No.21-22)
次に『法蘊足論』は iii)「慈心定と四静慮」において、慈心定と静慮の関係を述べている。上のような世間的な勝解の段階では、まだ欲界~第二静慮に過ぎないが、第三静慮を得れば、慈心定と認められるとして以下のように述べる。
『法蘊足論』486a9–10:若し此の生有り、近・曾・現に第三静慮に入り、彼の楽相を取りて、是の如くの心を起こす。28
しかし Vibhaṅga では四無量定を初静慮~第四静慮と捉え、阿毘達磨論書においては四種をそれぞれ別の静慮に配当する。すなわち『婆沙論』は、慈・悲・捨無量定を欲界・未至定・中間静慮・四静慮の七地とし、喜無量定を欲界・初二静慮と見なす 29。『倶舎論』では慈・悲・捨無量定を未至定・中間静慮・四静慮とし、喜無量定を喜受のあることから初二静慮と定める 30。これは第三静慮において楽はあるが喜は無いという阿毘達磨の教理によるものである。
一方『声聞地』「第二瑜伽処」では、上述の経典を解説しつつ以下のように示している。
ŚrBh II, 70–71: yat punar āha (3)“vipulena mahadgatenāpramāṇene”ty anena
mṛdumadhyādhimātrasya sukhasyopasaṃhāra ākhyātaḥ kāmāvacarasya,
prathamadvitīyadhyānabhūmikasya vā, tṛtīyadhyānabhūmikasya vā /
さらにまた、(3)「広く、大きく、無量なることによって」と説かれるこれによって、僅かなもの、中程度のもの、最上のものである、欲界、あるいは第一・第二静慮地、あるいは第三静慮地の与楽が説明されている。
このように、『声聞地』は四無量を特に区別せず、欲界~第三静慮までと見ていることが分かる。
この第一ステップ(蔵教)で示された「九次第定」の瞑想法は仏教以前から存在していた個々の禅定をお釈迦さまが仏教バージョンとしてアレンジして取り入れたものです。そのことについて「池田論文」では、次のような文章で詳しく紹介されております。
色界第四禅について 池田 練太郎
http://echo-lab.ddo.jp/Libraries/印度学仏教学研究/印度學佛教學研究第40巻第2号/Vol.40 , No.2(1992)089池田 練太郎「色界第四禅について」.pdf
(プリント下部 No.966-965 ←なぜか逆番)
釈尊は、禅定をどのような意義で捉えていたのか。いわゆる八等至、九次第定と呼ばれる禅定体系の中の、特に色界の第四禅に焦点を当てて考察してみたい。
はじめに、「八等至」について、『長部』経典に見られる記述によって概括しておこう。
まず、初禅では、五蓋の煩悩を捨て去った自分を見て歓喜の心が生じ、それによって身体的に安らぎが 得られ三昧に入り、また、有尋・有伺であるとされる。第二禅は、尋伺が静まって内部に落ち着き、心が一一つ に向かって集中する。第三禅は、念(と正知が具っている状態で、身体的楽が感じられる。そして、第四禅は、不苦不楽で、捨によって念の清らかさがある、とされる。
これら一連の禅定は、jhana(Skt., dhyana)という語によって示されるが、これは、周知のごとく、jhayati(dhyai-)という動詞から造られた語であり、もともと、「考える」という意味合いを持った語であ った。その意味で、「静慮」という漢訳はその本来のニュアンス(心を静かにして考えること)をよく伝えているが、それは、この禅定の本質をもよく表しているといえる。(禅定は静慮とも言われる。)
また、尋と伺は、原始仏教では外界に対して向けられる心の働きを粗い働きと精細な働きに分けて捉えたものであり、これのある無しによって心の状態が区別されていることになる。したがって、無尋・無伺となる第二禅の状態は、外界によって精神が散乱することなく、意識を集中させて思惟(心で深く考えること)している段階に該当することになる。後に、初禅と二禅の間に「中間静慮」の段階が設定され、そこに「無尋唯伺(有伺)」が当てはめられたのは、そうした精神的な流れから見た場合、その事情をよく示しているといえよう。
以上のように見てくると、第三禅の、念と正知が具っている段階が精神を集中して思惟するという点からすると最も適していることが知られる。なぜなら思惟する以上、思考するために用いられる言語・概念には「念」即ち記憶と、「正知」即ち明瞭な認識の存在が不可欠だからである。その意味からすると、第四禅の段階に正知(認識)という知的要素が欠落することは、jhana(考える)の本来の意味が示す働きからは後退したという感を否めない。
第一ステップで四禅として説かれている「九次第定」の初禅・二禅・三禅・四禅といった四段階からなる色界禅定ですが、これは空をどの次元で理解し修行していくかで来世に転生する天界の場所が四禅天として説かれてるのではないでしょうか。
(修行の因)(果徳)
初禅の実践=初禅天へ転生
二禅の実践=二禅天へ転生
三禅の実践=三禅天へ転生
四禅の実践=四禅天へ転生(解脱を習得した阿羅漢)
この第一ステップの四禅は法空を習得しなければ入れない境地です。蔵教の声聞衆でこの四禅を体得した限られた阿羅漢達が欲界から解脱して色界へ入って天上界の仏菩薩から報身の説法を聞いて経典として後世に残して行ったものと考えられます。
「ターナヴットー論文」では、
ニヤーカにおける修行道の相互関係 ターナヴットー・ビック
https://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/record/37059/files/ib005001.pdf
プリント下部 No.5 で、『中部経典』の「調御地経」の次の文章を紹介し、
如来は更にその彼を調御したまう。「来れ比丘よ、汝は身において身を繰り返し観察して住し、身に俱える尋を尋求すること勿れ。心において受を繰り返し観察して住し、心に俱える尋を尋求すること勿れ。法において法を繰り返し観察して住し、法に俱える尋を尋求すること勿れ。」彼は尋と伺との止息のために、内心静安となり、心一趣性あり、無尋無伺にして、定より生ずる喜と楽とある第二禅を・・・・・第三禅を・・・・・第四禅を具足して住する。
この経典によれば、四念処の修習は四禅の修習と関係があり、四念処の修習によって三明などが得られることが分かる。
とターナヴットー氏は自身の見解を述べております。
では、この経典の文章の意味を考えてみましょう。
「如来は更にその彼を調御したまう」は、如来は修行者に対して次のように指導しますと訳します。「身において身を繰り返し観察して」の意味は、身、即ち五蘊によって対象を認識する訳で、それにあたって「身に俱える尋を尋求すること勿れ」ですので、尋=客観認識によってそれを認識してはいけませんよとなるかと思います。
次に「心において受を繰り返し観察して住し」その対象を心、即ち主観で思いめぐらすことで、「心に俱える尋を尋求すること勿れ」主観で描く客観としての対象を思い描いてはいけませんよとなるかと。で、最後の「法において」は概念でしょう。概念で対象を捉えてはいけませんよといった事を言われていると思います。
ようは対象を客観や主観で認識する事をやめることで、概念が空じられ善や悪、綺麗や汚いといった感情が無くなって心に楽だけが残って四禅に至るといった事を言っているのではないでしょうか。これは龍樹の空に対する四悉檀(四念処の意味する処)の①~③と内容が一致します。
①世界悉檀:世間一般における教説。(客観を空じる)
②各各為人悉檀:機根などが異なる人それぞれに応じた教説。(主観を空じる)
③対治悉檀:自我を退治した教説。(概念を空じる)
四禅と深い関係にある「四念処」の内容は、龍樹が『大智度論』の中で説き明かした説法の四段階の教説である四悉檀とも関係してくる内容です。
四悉檀とは、仏は説法を聞く者の境涯に応じて四通りの説き方を示すといったもので、次のような内容になります。
①世界悉檀:世間一般における教説。
②各各為人悉檀:機根などが異なる人それぞれに応じた教説。
③対治悉檀:自我を退治した教説。
④第一義悉檀:仏が覚った真理の教説。
四諦の「三転法輪」としてこちらで詳しくお話しております。
間違いだらけの仏教の常識
https://zawazawa.jp/yuyusiki/topic/16
↑こちらに目を通して頂けると解るかと思いますが、仏教の重要概念である「空」と深く関係してくるお話です。
ステップ1である蔵教の「九次第定」は、三乗の境涯の中でも一番低い声聞衆に対して示された教法です。
声聞は仏門に入っても未だ実体思想から抜けきらないでいる境涯です。その蔵教の声聞衆にも理解出来るようにお釈迦さまは実体に即した四諦を説かれます。それが「三転法輪」の第一時の説法(第一ステップ)です。
<蔵教での四諦の説法>
苦諦 - 迷いのこの世は一切が苦であるという真実。
集諦 - 苦の原因は煩悩・妄執、求めて飽かない愛執であるという真実。
滅諦 - 苦の原因の滅という真実。
道諦 - 悟りに導く実践という真実。
四諦の中の最後の「道諦」の実践として八正道が説かれます。
1)正見(正しい見解)
2)正思(正しい思惟しゆい)
3)正語(正しい言葉)
4)正業(正しい行い)
5)正命(正しい生活)
6)正精進(正しい努力)
7)正念(正しい思念)
8)正定(正しい精神統一)
その中の8)正定が「禅定」にあたります。
八正道にあっては1)の正見を得る為に7)の正念と8)の正定が重要な要素となります。
正見とは、仏道修行によって得られる仏の智慧であって、四諦の真理などを正しく知ることで得られます。その四諦の真理を覚っていくことを四念処といいますが、7)の正念がそれにあたります。
8)の正定とともに正見である仏の智慧を覚っていく為には「正念=四念処」と「正定=禅定」は八正道において大変重要な内容です。
<四念処の内容>
身念処(身念住) - 身体の不浄を観ずる(不浄観)
受念処(受念住) - 一切の受は苦であると観ずる(一切皆苦)
心念処(心念住) - 心(citta)の無常を観ずる(諸行無常)
法念処(法念住) - 諸法の無我を観ずる(諸法無我)
仏教では、「法四依」というのが説かれておりまして、これはお釈迦さまの教えを正しく理解する為の術としてお釈迦さまが遺言的に示された四項目からなるとても大事な指針です。その中に、
依了義経不依不了義経
というのがありまして、「了義経に依りて不了義経に依らざれ」と読みますが、意味は「完結していない経典を拠りどころとせず、完結している経典を拠りどころとしなさい」といったものです。そういった意味でお釈迦さまの一代聖教を見てみると、『法華経』は、間違いなく完結している経典です。なぜそう言いきれるのかと言いますと内容を見れば分かります。
『法華経』では「開三顕一」がまず説かれております。
これは、仏が覚り得た最高の境地が言葉では言い現わせない、人間の概念から完全に抜け出た世界観であって、それを人間に理解させる為には三段階のステップを踏んだ教法を用いないと伝える事が出来ないとお釈迦さまは考えらた訳です。
そのステップ教法が『法華経』で示された三乗の教えです。
声聞の境涯に即した教え(第一ステップ=蔵教)
縁覚の境涯に即した教え(第二ステップ=通教)
菩薩の境涯に即した教え(第三ステップ=別教)
これは人間の思考に沿ったステップです。人間はまず外の情報を客観認識でキャッチします。そしてその感受した情報を吟味(模索)します。そして「これはこういうものだ!」と意識として判断します。そして最終的にそれを概念として脳にインプットしていきます。
蔵教ではまずこの客観認識のシステムに沿ってお釈迦さまは法を説いて行かれます。その客観認識がどのようなシステムになっているかを六根・六境として詳しく解き明かされます。(阿含経典)
六根=認識器官
六境=認識対象
これは「主体と対象」の関係です。〝見る側〟と〝見られる側〟のそれぞれのあり様が詳しく説かれております。
そしてこの六根・六境に六識が加わって眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識といった六つの認識が生じます。これらの一連の働きをまとめて仏教では「五蘊」と言います。(色・受・想・行・識)
この五蘊の働きを全て停止させる為に行う瞑想が第一ステップで「九次第定」としてお釈迦さまが示された蔵教における修行法です。「九次第定」ではまず色界禅定と呼ばれる四段階からなる禅定(四禅)で五蘊を全て停止させます。
これは六根・六境によって起こる第六意識までを初禅・二禅・三禅・四禅といった四段階の禅定で次第に止滅さていく禅定です。
こちらの、
法介の『ゆゆしき世界』 間違いだらけの仏教の常識
https://zawazawa.jp/yuyusiki/topic/16?page=2
の中で四諦の「三転法輪」を紹介しておりますが、この三者によるところの空の構図がその「三転法輪」を意味しております。
どの次元で空を理解するかで境涯が次のように分かれます。
析空=声聞
体空=縁覚
法空=菩薩
「空」の理論の中でわたくしは、次のように空を三つに分けて説明しております。
お釈迦さまは「空」を『無我』という角度から説きました。
お釈迦様=人間の空・仮・中(三観)--- 欲界
龍樹は「空」を『中論』で展開しました。
龍 樹 =仏 の空・仮・中(三諦)--- 色界
そして世親が「空」を『唯識』で説きました。
世 親 =如来の空・仮・中(三身)--- 無色界
この三者が説いた「空」はそれぞれ次のような「空」になります。
お釈迦様の空=第六意識を空じる空 (実体視の消滅=析空)
龍 樹 の空=縁起という仏の視点に立つ空(縁起=体空)
世 親 の空=第七末那識の自我を空じる空(法空)
「福田論文」では、物質的ダルマを色法、心的ダルマを心所法として紹介しておりますが現代的に言いかえれば、
物質的ダルマ(色法)=客観認識法
心的ダルマ(心所法)=主観による認識法
といったところで表現されるかと思います。
これは「モノの有り様」と「認識のあり方」のお話です。
モノの有り様=此縁性縁起(客観)
認識のあり方=相依性縁起(主観)
詳しくは、
法介の『ゆゆしき世界』 「空」の理論 にて。
https://zawazawa.jp/yuyusiki/topic/5?page=2
実は大衆部は、②の「法無」を主張したのではありません。それを主張しているのは現代の禅宗や「真我」を説くヒンズー教です。(有る無しの理論=実体思想)
大衆部で後に大乗仏教を起こした龍樹が説一切有部の「法有」を徹底的に論破していきますが彼が主張したのは「法無」ではなく「空」です。龍樹が『中論』で唱えた空は相依性による縁起でした。対して上座部の説一切有部の縁起は此縁性による縁起でした。
ここで一つ考えて頂きたいのですが、「法は縁起によって存在する」という言葉ですが、
「法は縁起によって存在する」だから「法は有る」とするか、--- ①
「法は縁起によって存在する」だから「法は無い」とするか、--- ②
①の「法有」を唱えたのが説一切有部です。
②の場合「法無」となりますが、では対立した大衆部は②の「法無」を唱えたのでしょうか?
仏教では諸々の「法」が〝真理〟として説かれており、その法のことをダルマとも言いますが、それら諸々の法のことをまとめて「諸法」と呼びます。
以下に紹介します「福田論文」のプリント下部表示No.29で説一切有部がこの法(ダルマ)をどのように解釈していたかが詳しく説明なされております。
二無心定の成立 福田 琢 教授(専門:仏教学)
http://echo-lab.ddo.jp/libraries/同朋大学/同朋仏教/同朋仏教 30号(1995年7月)/同朋仏教30 004福田 琢「二無心定の成立」.pdf
No.29下段の「心不相応行」の説明のところです。
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〝見る性質をもつダルマ〟(眼)という物質的ダルマ(色法)が美しい光景をとらえれば、それが原因となってこころに〝感受する性質をもつダルマ〟(受)や〝想念のダルマ〟(想)という心的ダルマな(心所法)が発生し、快さをおぼえる。
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この説明は説一切有部が「諸法」の「法」をどのように考えていたかを説明している文章です。そして説明文は次のように続きます。
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しかし次の瞬間〝聞く性質をもつダルマ〟(耳)が騒音をとらえれば、最前の快感は消滅し、今度は不快感が生じる。このように、ダルマは常に因果律にしたがってとどまることなく生成消滅している。諸々のダルマの集合集散によってうつろいゆくこの無常な世界が有為の領域である。
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説一切有部は、このように諸法の法(ダルマ)が縁起によって生成消滅していると考えた訳です。
ですから法は縁起によって存在する。
仏は「無我」を説いたが法(ダルマ)は存在する。
といった主張が説一切有部が唱えた「法有」です。
仏教ウェブ入門講座 禅定とは?
https://true-buddhism.com/practice/reflection/
実際、ブッダが29才で出家された後、何人かの先生に禅定を習われました。
その時、アーラーラ・カーラーマに学んですぐに 無所有処むしょうしょ定を習得されます。
ですが、満足されずに別の先生を捜し求められました。
そしてやがてウッダカ・ラーマプッタに師事して禅定の中では最高の境地である非想非ひそうひ非想処ひそうしょ定にたどりつかれます。
それでもブッダは満足されずに、真の悟りを目指して旅立たれています。
ですがもはや最高の禅定を極められたブッダに教えてくれる人は誰もなく、ブッダは仏のさとりを無師独悟されたのでした。
ですから、ブッダの体得された涅槃(仏のさとり)は、四禅八定の延長線上にあるのではなく、まったく別の境地です。
説一切有部の等至の体系における静慮の重視 村上 明宏
http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/MD40138678/kbk048-16-murakami.pdf
Majjihma-Nikāya(以下MN.)『聖求経(Ariya-pariyesana-suttanta)』にお
ける「アーラーラ・カーラーマとウッダカ・ラーマプッタの伝承」では釈尊が無碍安穏の涅槃を求め、無所有処を実践成就しているアーラーラ・カーラーマのもとを訪れ、その無所有処を体験して捨て去ったと伝承される(44)。そして、無所有処を捨て去ったその後に、非想非非想処を実践成就しているウッダカ・ラーマプッタのもとを訪れ、その非想非非想処を体験して捨て去ったと伝承される(45)。無碍安穏の涅槃のためには、無所有処も非想非非想処も十分では無い、ということである。
ここで四無色定の中でも無所有処・非想非非想処についてのみ言及されているが、この二つに関しては四無色定の中でも上地とされているから、この無所有処と非想非非想処を否定的に見る見解は説一切有部が無色定より静慮を重視する根拠の一つであると推測される。
2-3.理由その⑶――第四静慮が「不動」とされることに由る――
MN.『聖求経』において、釈尊が無所有処・非想非非想処を捨て去ったその後、マガタ国を遊行し、ウルヴェーラーのセーナーニーガマに入って密林に坐り(46)、無碍安穏の涅槃に至ったとされる(47)。そこでは、無所有処・非想非非想処を厭って入った禅定において、生(jāti)・老(jarā)・病([P]byādhi,[S]vyādhi)・死(maran・a)・愁([P]soka,[S]㶄oka)・煩悩([P]san・kilesa,[S]sam・ kle㶄a)の過患(ādīnava)を知って、無碍安穏の涅槃に至ったとされる。そして「私の解脱は不動である(akuppā me vimutti)」という智([P]Jān・a,[S]jñāna)と見([P]dassana,[S]dar㶄ana)が生じたと説かれる。無所有処・非想非非想処を厭って入った禅定によって無碍安穏の涅槃を得たということである。そして、解脱智見に至って「不動(akopya)」であると認識したのである。
この「不動」に関しては、第四静慮も「不動(āneñjya)」であるとされる。しかし、その「不動」については「無碍安穏の涅槃を得た」という場合、ʻakopyaʼであり、「第四静慮の不動」は ʻāneñjyaʼ である。 第四静慮における ʻāneñjyaʼ の「不動」についてはAKBh.「世間品」において、次のように説かれる。
第四静慮は内災(ādhyātmika-apaks・āla)を離れたものである(rahitatva)から不動(āneñja)であると世尊によって説かれた(48)。(AKBh. p.190.23)
AKBh.「定品」においても、同様のことが次のように説かれる。
また、三つの静慮は動揺を伴う(sa-iñjita)と世尊によって説かれた。災患を伴う(sa-apaks・āla)からである。
しかし、八つの災患(apaks・āla)を手放したもの(muktatva)であるから、第四のもの(第四静慮)は不動(āniñja)である(49)。(11ab)(AKBh.p.441.10-12)
初静慮から第三静慮までは「動揺を伴う」けれど、第四静慮には八災患が無いから「不動(āniñja)」であると説かれる。この ʻāneñjyaʼ で示される第四静慮の「不動」は身・心ともに不動であることを意味すると考えられる。それは第四静慮において「不動」の語として用いられる ʻāneñjaʼ ʻ āniñjaʼ ʻāneñjyaʼ の語形について、AKV.では、次のように説明されるからである。不動(ānejya)とは、㲋ej-、震える(kampana)というこの語根(dhātu)より、ānejyaというこの[語]形である。しかし、āniñjya と誦すとき、㲋in・g- ‒という別の語源(prakr・ti)のこの[語]形であると見るべきである(50)。(AKV.p.344.3-5)
色界第四禅について 池田 練太郎
http://echo-lab.ddo.jp/Libraries/印度学仏教学研究/印度學佛教學研究第40巻第2号/Vol.40 , No.2(1992)089池田 練太郎「色界第四禅について」.pdf
先にみたように、第三禅までは、人間が普通の心身のままで、精神を集中して思惟行動を行っている状態であったのに対し、この第四禅及びそれ以上は呼吸が働かないとされることからみても、むしろ死に近い状態を呈していると見なしうる。-964-
釈尊は幼少期に初禅の状態を体験したということが示されている6)。 このエピソードが事実であるなら、出家前の釈尊が初禅を体験したということからも、後世色界の四禅とされるに至った禅定の少なくとも最初の階梯の本質は、やほり精神を集中して思惟に没頭することに起因する一つの状態であった可能性が高いと推察されるのである。
また、釈尊は出家後まもなくアーラーラ・カーラーマとウッダカ・ラーマプッタを訪ね、それぞれの無所有処定と非想非非想処定を体験した後に捨て去ったと伝えられるが7)、このことはやはりこれらの禅定を退けた釈尊の立場を明確に示すものと見てよいであろう。さらに、釈尊は2カ月間、人を近づけずに一人で禅定を修したことが伝えられているが8)、そのときの禅定は、持息念(anapanasati)が中心であったとされている。 この他にも3カ月に亘る禅定が報告されているが9)、いずれもその間に比丘たちとの交渉があったとされていることからみて、滅尽定のような死に近い禅定を実践していたとは見なし難い。-963-
6) Mahasaccaka-sutta, MN., I, pp. 246. cf.水 野弘元 「原始仏教 と目本 曹洞宗」(『道
元禅 の思想的研究』1973年, 春秋社刊)pp. 53-58, 69-73. 以下, 註(7)(8)(9)に つい て
も同様。
7) Ariyapariyesana-sutta, MN., I, pp. 163-166.
8)『 雑 阿含』巻29; 大正2, 207a.
9) SN, V, p. 13; SN, V, pp 325-326; Vinaya, I, p. 169; Vinaya III, p. 230. etc,
雑感 「聞」について、熏習と聞熏習(成唯識論に学ぶ)
https://blog.goo.ne.jp/seikannamo/e/edb68d44666b91c9eb527d8c154eb5fd?fm=entry_awp_sleep
先日の唯識講義の対論の中で、ご住職から質問をいただきました。質問の内容がよく把握できていませんでしたが、昨日、お尋ねになったのはこういうことだったんだと気づきを得ました。
お尋ねは「種子論・熏習論」が縷縷述べられているのだが、護法合正義において、なぜ熏習ではなく、聞熏習といわれるのか」ということでありました。
護法菩薩は、熏習の中に、二つの意味があることを明らかにしておられるのですね。僕もはっきりしておらなかったのですが、再度『成唯識論』を読み、親鸞聖人の「聞」について尋ねてみますと熏習の意味がはっきりしてきました。
先師のご苦労もあったのでしょうが、現行熏種子ですね。この部分だけを捉えて熏習といっていたのです。これを護法菩薩は始起と押さえておいでになります。生まれて始めて起こって来たこと、という意味になりますが、始めて起こる依り所はどこにあるのかですね。「無始より来虚妄熏習の内因力の故に恒に身と倶なり」を依り所として生起してきたものだと教えられています。有漏の種子はどこまで積み重ねても有漏の種子を熏習するだけである、ということなのですね。無漏には転じないということです。
『論』には「若し始起のみなりといはば、有為の無漏は因縁無きが故に生ずることを得ざるべし。有漏を無漏の種と為すべからず。」
と教えています。
もう一つの問題は、種子生現行です。生まれながらに持っているとされる無漏種子の有無ですね。無漏の種子から現行し熏習される種子ですね。護月菩薩等は本有種子の有無によって五姓の差別を説きました。本有の無漏種子がなかったならば、いくら新熏種子を積み重ねても、人として目覚めを得ることはできないんだ、と。目覚めを得るには、新熏種子を積み重ねることではなく、本来から備わってる本有種子が必要なんだと論じているわけです。
護法菩薩はこの二つの極論を厳しく批判されました。そこに聞熏習がだされるのですね。
「諸の有情は無始の時より来無漏の種有り、熏習に由らずして法爾に成就せること有りと。」
無漏種子を因として現行することが有るということなのですね。それが浄法界等流の正法を聞くということなのです。
ですから、いくら仏法を聞いても、聞いたことが成就しないということがあります。それを親鸞聖人は聞不具足と押さえておられます。簡単にいいますと、名聞・利養・勝他の為の聞法は無漏種子を増盛しないと教えておられるのであろうと思います。そしてですね、六波羅蜜を修しても、名聞・利養・勝他を依り所にしている限り、六波羅蜜は善行でありながら、悪の報いを受けると云われています。
「依り所」を聞いていくのでしょう。名聞・利養・勝他の為にしか聞いていないことをはっきりさす。それしかないんだということが「聞」ということになりましょうか。
自己の中に熏習されてきた、「無始以来の虚妄熏習の内因力」を聞くということ、これが無漏種子を増盛させる、自然法爾だということでしょう。これ以外には「聞」はないということなのでしょうね。
無漏種子も有る、新熏種子もある、しかし「自己を聞く」ことが無い限り、日常のいろいろな経験は、邪見を増し、慢心を増長させ、頑なな心を作り上げるだけになる、このことも熏習といわれるけれども、聞熏習とはいわないんだ、と。ですから熏習だけでははっきりしない問題を護法菩薩は、種子生現行・現行熏種子の三法展転同時因果の内容を明らかにされたのであろうと思います。
聞法している自己の姿勢が厳しく問われています。何を聞いているのかですね。先日のご住職の質問から教えられることが出来ました。
「その聞熏習は唯だ有漏のみには非ず。正法を聞く時に亦た本有の無漏の種子を熏じて漸く増盛にあら令めて、展転して乃至出世の心を生ぜしむ。故に亦た此を説いて聞熏習と名づく。」と結ばれていました。
「一切衆生 悉有仏性」について
『大般涅槃経』では、「一切衆生 悉有仏性」という御文があって、一切衆生にことごとく仏性が有ると説かれています。しかし仏教の教学では〝本未有善〟という仏法用語があります。本未有善とは「仏に成る為に必要な善行が無い」という意味で、日蓮大聖人は『曾谷入道殿許御書』で、
「今は既に末法に入つて在世の結縁の者は漸漸に衰微して権実の二機皆悉く尽きぬ」
と、末法に入って、「釈尊在世に結縁した者は次第に少なくなり、権教と実教で成仏する機根の人は皆尽きてしまった」と言われております。ですから末法は「過去に仏との結縁が無い」本未有善の衆生が生まれてくる時代なので衆生が仏に成るには、新たな仏縁が必要となってきます。その仏縁として顕されたのが曼荼羅御本尊です。しかし、『大般涅槃経』では、一切衆生にことごとく仏性が有ると説かれています。この矛盾についてお話しします。
「一切衆生 悉有仏性」の仏性というのは、正因・了因・縁因からなる三因仏性のことで、正因仏性とは、「一切衆生に本来具わっている真如」のことで、了因仏性とは、その「正因仏性を自覚する智慧」のことです。また縁因仏性は、その「智慧を発現するための助縁となる善行」をいいます。日蓮大聖人は、『三世諸仏総勘文教相廃立』の中で、
「三因仏性は有りと雖も善知識の縁に値わざれば悟らず知らず顕れず」
と、善知識の縁(縁因)に合わないと正因も了因も顕れないと御指南あそばされております。
では縁因の〝善知識の縁〟とは一体何なのかと言えば、大聖人は『法華経』巻二譬喩品の、
「若し此の経法を信受すること有らん者は是の人は已に曾て過去の仏を見たてまつり恭敬し供養し亦此の法を聞けるなり」
の御文を引き出して、「既にかって過去世に仏を見たてまつり、恭しく敬い、供養し、またこの法を聞いたのである」と申されております。過去に仏との善行があるか否か、これが「本巳有善と本未有善」の意味するところです。ですから三因仏性は悉く一切衆生に有りと言えども、末法の衆生は本未有善なるが故に、仏性顕れずという事になります。にも拘わらず大乗では涅槃における四徳として〝常楽我浄〟が示されているのはどういうことか。次にそこのところをお話致します。
大乗では四徳の〝常楽我浄〟の〝我〟の部分を『大般涅槃経』の「一切衆生 悉有仏性」を根拠としていますが、大聖人は、『法華経』寿量品の「自我得仏来」を指しての〝我〟であると『御義口伝』の中で述べられ、その「自我得仏来」の意味を次のようにご説明なされております。
「御義口伝に云く一句三身の習いの文と云うなり、自とは九界なり我とは仏界なり此の十界は本有無作の三身にして来る仏なりと云えり、自も我も得たる仏来れり十界本有の明文なり、我は法身・仏は報身・来は応身なり此の三身・無始無終の古仏にして自得なり、無上宝聚不求自得之を思う可し、然らば即ち顕本遠寿の説は永く諸教に絶えたり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉るは自我得仏来の行者なり云云。」
ここでいう「無始無終の古仏」の意味を少し詳しく説明させて頂きます。 「自我得仏来」は「我(われ)仏の悟りを得てよりこのかた」と一般には読みますが大聖人様はその深意を「我仏来は自得なり」と解釈され法身としての〝我〟、報身としての〝仏〟、応身としての〝来〟として無始無終として備わる三身を指す言葉であると説明なされ、その真意として「無上宝聚不求自得」の御文を引用なされております。
「無上宝聚不求自得」とは、「無上の宝聚(ほうじゅ)、求めざるに自から得たり」と読む『法華経』信解品第四の一節です。
譬喩品第三の「三車火宅の譬え」の説法を聴聞して、「開三顕一の法」を信解した須菩提等の中根の声聞衆が、信解品第四の冒頭で跳とび上がって喜び歓声を上げ、当品の後半部で、
「我等今日 仏の音教を聞いて歓喜踊躍して 未曾有なることを得たり 仏声聞当に作仏することを得べしと説きたもう 無上の宝聚 求めざるに自から得えたり」
とその喜びを述べられています。 この文を天台智顗が『法華文句』の中で、
「自ら顧(かえりみ)るに心に仏道を希望する無くして、而して今忽(たちまち)得記作仏することを聞く、故に不求自得と云ふなり」
と釈しています。爾前経では、二乗は小乗教(特に阿含経)に執着して灰身滅智しますが、それを小乗の解脱を得たと勘違いし、進んで崇高な仏の悟りを求めようとしませんでした。ところが『法華経』では、開示悟入の化導によって不成仏とされた二乗も成仏できることが説かれ、四大声聞は歓喜踊躍して釈尊に感謝の心を込めて「無上宝聚不求自得」と述べたのです。 大聖人はこの文の「無上宝聚」を、
「今日蓮等の類の心は、無上とは南無妙法蓮華経、無上の中の極無上なり。此の妙法を指して無上宝聚と説き玉ふなり。宝聚とは、三世の諸仏の万行万善諸波羅蜜の宝を聚(あつ)めたる南無妙法蓮華経なり」
と述べられ、仏の万行万善の功徳・善根を具足した南無妙法蓮華経の当体、即ち御本尊がそれにあたると御指南あそばされております。そして、「不求自得」とは、
「此の無上宝聚を辛労も無く行功も無く一言に受け取るは信心なり。不求自得とは是なり」
と仰せのように、ただ信心の一念によって「無上宝聚の御本尊の功徳」を授かることが出来ると申されております。このことを『観心本尊抄』では、
「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与へたまふ。四大声聞の領解に云はく『無上宝聚、不求自得』云云」
と御指南あそばされております。 このような『法華経』における顕本は、諸経では説かれておりませんし、またその深い文底の意味するところの解釈も大聖人の御心を拝することで私達は正しく理解出来てきます。
何をどう理解出来るのかと申しますと、「自我得仏来」は「我仏来は自得なり」という意味で、法身としての〝我〟、報身としての〝仏〟、応身としての〝来〟として無始無終として備わる三身を指す言葉で凡夫の身に顕れる法身・報身・応身の三身如来の因となり得る三つの因が、
<三因仏性>
縁因仏性=応身如来(如来の相)
了因仏性=報身如来(如来の性)
正因仏性=法身如来(如来の体)
であるという理解が得られるということです。大聖人様が〝常楽我浄〟の〝我〟を「自我得仏来」の〝我〟と解釈される深意はこういうことです。
このように大乗の〝常楽我浄〟の誤った解釈により「永遠不滅の仏」といった〝常見〟の外道思想が仏法に混ざりこんでしまっている現状がありますが、 お釈迦様が説かれた「永遠に変わらずに有り続ける存在はあり得ない=縁起」と「縁起なるが故に無我」の真理は大乗・小乗に限らず一代聖教を貫く真理に他なりません。
始聞仏乗義 (法華三昧、三因仏性)について
http://blog.livedoor.jp/inae_sokagakkai/archives/1997056.html
二種の開会とは、法華経巻第三薬草喩品第五の文に由来している。その文とは「唯だ如来のみ有って、此の衆生の種相体性、①何の事を念じ、②何の事を思い、③何の事を修し、④云何に念じ、⑤云何に思い、⑥云何に修し、⑦何の法を以て念じ、⑧何の法を以て思い、⑨何の法を以て修し、⑩何の法を以て何の法を得ということを知れり」である。
https://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?mode=detail&useid=0262_,09,0019a19&key=知此衆生種相體性&ktn=&mode2=2
この就類種開会とは三因仏性を開発することに他ならない。ゆえに、日蓮大聖人は、天台大師の法華玄義巻九下、法華文句巻七上の取意としての「凡そ心有る者は是れ正因の種なり随つて一句を聞くは是れ了因の種なり低頭挙手は是れ縁因の種なり」の文を引用されているのである。
ここにいう正因の種とは、一切衆生が本然的に具えている仏性のことで、この正因の仏性を事実の上に顕して覚知する智慧を了因の種といい、経文の一句でも聞き、理解したり、了解したりすることのなかに現れてくるものである。また縁因の種とは、〝低頭挙手〟して仏や化導の師を敬うことや仏前に香華、灯明を供えること、合掌することなどにみられるように、了因仏性を開発する助縁となる善根功徳を指す。
仏は方便を用いて「有」の実体の世界に現れ(従空入仮観)、方便を取り払って(非有)空の住処へ戻ります。凡夫はその逆で、有(実体)を完全に寂滅して「空」に入ります(従仮入空観)。
【一空一切空】
空(凡夫の空観)亦空 従仮入空
空(仏の空観) 非有 従空入仮
空(悟りの空観)非有非空
空を方便として滅して有の世界に「非空」で顕れる仏の空観(従空入仮観)を観じることで、凡夫が「有」を滅することなく有(実体)を空(縁起=因果)へと転換することが出来ます。
『摩訶止観』卷第三上には次のようにあります。
從空入假名平等觀者。若是入空尚無空可有何假可入。當知此觀爲化衆生。知眞非眞方便出假故言從空①。分別藥病而無差謬故言入假。 平等者望前稱平等也。前觀破假病不用假法但用眞法②。破一不破一未爲平等。後觀破空病還用假法③。破用既均異時相望故言平等也。
大正蔵テキストデータベース
「此の観は衆生を化せんが為なることを。眞は眞には非ずと知りて、方便として仮に出づ、故に従空と言う。」①
(仏は非空から仮に入るから従空入空観という。)
「前観は仮を破して仮法を用いず、但だ眞法を用いるのみ。」②
(凡夫の空・仮・中は俗諦を破してただ真諦を用いるだけ)
「後観は空を破して還た仮法(非空)を用う。」③
(仏の空・仮・中は非空(有)から非有(空)へ入空観する。)
この意味するところが先に紹介しました『維摩經玄疏』の中の「能観の三観」についての説明文にあたります。
「能観を明かすとは、若し此の一念無明の心(凡夫の従仮入空観)を観ぜば、空に非ず仮に非ず。一切諸法も亦た空・仮に非ず(仏の従空入仮観に入る)。而して能く心の空・仮(真実の仏の空・仮)を知らば、即ち一切法の空・仮を照らす(悟りの空・仮の非有・非空)。是れ則ち一心三観もて円かに三諦の理(一空一切空観)を照らす。此れは即ち観行即(己心に仏性を観ずる位)なり。」
(維摩經玄疏 529a11-15)
能観の三観について
一心三観に含まれる三つの意味の二番目の「能観の三観」について『維摩經玄疏』では次のように説明がなされています。
「能観を明かすとは、若し此の一念無明の心を観ぜば、空に非ず仮に非ず。一切諸法も亦た空・仮に非ず。而して能く心の空・仮を知らば、即ち一切法の空・仮を照らす。是れ則ち一心三観もて円かに三諦の理を照らす。此れは即ち観行即なり。」
(維摩經玄疏 529a11-15)
ここでいう「観行即」とは最初に紹介しました六即(理即・名字即・観行即・相似即・分真即・究竟即)の中の観行即です。能観はこの六即の中の三番目の観行即にあたるということで、己心に仏性を観じとる階位にあたります。
仏性を観じとるとは具体的にどういうことかと言いますと、仏性は仏の「性」で、十如是で言うところの「性」にあたります。我々凡夫は凡夫の空・仮・中の「空」、即ち無明の一念の心を起点として判断し、そして行動を起こします。ですから自身に競い起こる全ての事象は全て自身の心が因となって生じたものなのです。(心から生ずると書いて性)
人間が視覚的に認識するさま(色相)を「相」というのですが、先ほど説明しました「所観の境」は、その相を中心とした「仮諦」のお話でした。凡夫が凡夫の心で認識している仮在の相を「仮観」といい、仏の心に照らされて顕れる真実の相を「仮諦」といいます。
【一仮一切仮】(通相三観の仮)
仮(凡夫の仮観)亦有
仮(仏の仮諦) 非空(有)
仮(悟りの応身)亦有非空の従仮(仮観)
※ 全てが仮の即仮
それに対し「空」は、仏性を心で観じとっていく心を中心にした観法で、具体的に言えば、その仏性、即ち仏の心とは「衆生を迷いの暗闇から救いたい」という仏の深い慈悲の一念です。その慈悲の一念が「一大事の因縁」となって衆生の住む実在の世界に仏は出現します。それがお釈迦様です。
仏は実在の「有」から解脱した「空」の天上界を住処としています。その空を破して「非空」で有の実在の世界に出現するわけですが、これは仏が用いる「方便」の姿です。非空という方便を使ってかりに「有」の世界に現れるわけで、方便(非空)で用いた「有」を払えば再び「非有」の「空」の世界に戻ります。しかしなぜ仏の事を「空」ではなく「非有」と表現するかと言いますと、方便として「有」を滅しているという意味がそこには含まれているのです。我々が朝夕に唱える『自我偈』の中に、
為度衆生故 方便現涅槃 而実不滅度 常住此説法
我常住於此 以諸神通力 令顛倒衆生 雖近而不見
というくだりがありますが、その意味は次のようになります。
「人々を救うために、一度は(釈迦として)死んだ姿をとりましたが、実際に死んだのではなく、常にこの世界にいて法を説いているのです。私は常にこの世に現れていますが、神通力によって迷っている人々には、姿を見せないようにしているのです。」
『自我偈』の前に読む『方便品』では、先ほど説明しました「仮」の真理である「諸法実相」をお釈迦様が声聞の弟子である舎利弗に諭している様子が述べられています。この『方便品』を読誦している時は、仏の空・仮・中の仮諦を体現しています。そしてここ『自我偈』の読誦は、我々凡夫が仏の「空」を自らの心に観じとっていくところなのです。十如是で言えば「性」を中心にして読む番の空諦読みの十如是です。
一心三観について
天台智顗は『維摩經玄疏』の中で、
今明此一心三觀亦爲三意。一明所觀不思議之境。二明能觀三觀。三明證成。
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「今、此の一心三観を明かすに、亦た三意と為す。一に所観の不思議の境を明かし、二に能観の三観を明かし、三に証成を明かす。」
と述べら、一心三観は「所観の不思議の境」と「能観の三観(能観の智)」と「証成」の三つの意味があると申されております。
次に、
一明不思議之觀境者即是一念無明心因縁所生十法界以爲境也。問曰。一人具十法界。次第經無量劫。云何
大正蔵テキストデータベース
「一に不思議の観境を明かすとは、即ち是れ一念の無明心の因縁もて生ずる所の十法界、以て境と為すなり。」
所観の境とは、一念無明の因縁より生じるところの十法界を対境とするとあります。そして、十法界についての質問に答える形で「十二因縁所成の十法界」には、即空・即仮・即中の三観・三諦の理を含む無量の法がおさまっているものの、三惑によって心が覆われている凡夫は、真実を見て取れないでいるという説明がなされています。
我々人間が認識している現実の世界は、凡夫の無明の一念(真理に暗い迷い心)が因となって十二因縁が生じて立ち上がった仮在の世界観です。実相(実体)を縁起(空)の角度から説き明かし、ありのままを受け入れる事が苦を滅する第一歩となる訳です。
真理に疎(うと)い凡夫の一念(凡夫の空・仮・中)を境(対象)とするのではなく、真理を悟った仏の一念(仏の空・仮・中)を境として三観・三諦の理を起こすことが所観の境だとこの『維摩經玄疏』の中では述べられております。
私達が朝夕に勤行の中で十如是を三遍繰り返し読んでいるのは、凡夫の無明の一念が因となって立ち上がっている仮在の世界観(凡夫の仮)を打ち払い、真理を悟った仏の心を因として真実の実相(仏の仮)を観じとっていく修行を実は行じているのです。
その十如是の「相」を中心にした仮諦読みは、「一仮一切仮」の即仮を体現している訳ですが、その因となる対象(境)の「相」が仏の十法界の相を顕された十界曼荼羅御本尊にあたります。
日蓮正宗の『三大秘法義』に記載されている円融三諦の「三三九諦の相」について。
(315ページから316ページに記載)
この「三大秘法義」は日顕上人の著書ですが、この説明文とここで示されている三諦互融図が日顕氏のものではないことは氏が講義する的外れな三諦論を拝すれば容易に察しがつきます。
「空・仮・中の三諦が円融である故に、各々にさらに三諦を具える義が成立する。すなわち、空諦の空は泯有の意、空諦の仮は立空の意、空諦の中は泯立融法の意であり、仮諦の空は泯空の意、仮諦の仮は立有の意、仮諦の中は泯立融法の意である。また、中諦の空は双泯空有の意であり、中諦の仮は双立空有の意、中諦の中は双遮双容の意である。ここに、三三九諦の相がある。
この九諦につき、空諦泯法の意としましては、泯有の空、泯空の空、双泯空有の空がある。次に、仮諦立法の意としては、立空の仮、立有の仮、双立空有の仮となる。次に、中諦容法の意としては、空においての泯立融法の中、仮においての泯立融法の中、双遮双容の中となる。この空諦泯法、仮諦立法、中諦容法がそのまま円融であり、元の三諦と開合の関係において互融するのである」
では、誰が示されたものなのか、以前ネットで調べてみましたところ、日蓮正宗の妙通寺のホームページに日淳上人の空・仮・中の三諦のご指南が掲載されておりまして、その中に、
「かくて最後に円融の三諦でありますが、此れは、空・仮・中の三諦は各々、また三諦を具するとして相即を説くのであります。即ち三即一、一即三といひ、不縦、不横といって縦や横に並ぶのではないといふのであります。若し空といへば一切がそのまま空、仮といへば一切がそのまま仮、中といへば一切がそのまま中であるといふのであります。それを即空、即仮、即中と申すのであります。今此れを図にすれば、次の如くであります」
https://www.myotsuuji.info/65世-日淳上人ご指南-空仮中三諦-仏教の基本理念/
とありまして、その図がサイトでは掲載されておりません。妙通寺さんへ連絡を取り確認しましたが、妙通寺さんがHPへ記載する際に元とした資料にも、既にその図が無かったということでした。
おそらくここで示されている図が「三大秘法義」で紹介されている三諦互融の図だと思われます。
しかし、この日淳上人のご指南は昭和29年6月の「大白蓮華誌」に掲載されたもので、現在入手困難な為、確認は出来ておりません。
ちなみに、こちらは仏教学の大野榮人博士(号)がまとめられた『法華玄義』の研究という研究論文の中で紹介されている三諦互融の図です。
数年前、当時、曹洞宗天寧寺でご住職をなされていた博士本人に連絡を取り、この図の出どころをお尋ねしましたところ、天台の円融三諦を研究した結果導き出された博士ご本人が顕された構図だとの事でした。
https://www.d3b.jp/npcolumn/15381
「52位」と「六即」の関係が示されております。
「六即」の内容は以下の通りです。
1.理即とは、理の上では衆生はことごとく仏性を備えてはいるものの、未だ正法を聞かず、全く修行の徳がない位をいいます。
2.名字即とは、初めて仏法の名字を見聞し、一切の法は皆仏法であると知る位をいいます。
3.観行即とは、名字を知ってその教えのままに修行して、己心に仏性を観ずる位をいいます。
4.相似即とは、修行の結果、仏の覚りに相似した智慧が得られる位をいいます。
5.分真即とは、分証即とも言って、真理の一部分を体現している位をいいます。
6.究竟即とは、完全なる覚りに到達している位をいいます。
道元禅師の「三界唯心」について
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/41/2/41_2_744/_pdf/-char/ja
説一切有部の等至の体系における静慮の重視
http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/MD40138678/kbk048-16-murakami.pdf
阿頼耶識思想の成立とその展開 -末那識の成立をめぐってー
file:///C:/Users/Bison/Downloads/%E5%A4%A7%E8%B0%B7%E5%AD%B8%E5%A0%B1%20%E7%AC%AC49%E5%B7%BB%E7%AC%AC2%E5%8F%B7-4%E8%88%9F%E6%A9%8B%20(7).pdf
天台智顗における四悉檀の意義
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/47/2/47_2_537/_pdf/-char/ja
パーリ仏教における空の修行法
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/55/1/55_1_362/_pdf/-char/ja
A.スマナサーラ
https://j-theravada.net/wp/wp-content/uploads/2018/12/Sallekha-sutta_all.pdf
『法華玄義』の研究(十五-二)
https://agu.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=3777&item_no=1&attribute_id=22&file_no=1
支婁迦讖訳『般舟三昧経』第二章 吹田隆徳
https://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/DB/0048/DB00480L017.pdf
七世紀以前の中国仏教の種姓(性)説について
――『菩薩地持経』・『仁王経』・『菩薩瓔珞本業経』を中心に――
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk/65/1/65_185/_pdf/-char/ja
『菩薩瓔珞本業經』の二十四願偈について
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/52/1/52_1_220/_pdf/-char/ja
『大智度論』における般舟三昧と首楞厳三昧の関係(澤 﨑)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk/69/2/69_761/_pdf
天台浄土教の二つの側面(知礼)
https://otani.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=7148&file_id=22&file_no=1&nc_session=fhuoegugc6cld1utefe6550cm1 target=
『成唯識論述記』訳注(一)
https://shujitsu.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=406&item_no=1&attribute_id=22&file_no=1
『成唯識論』の三性説の解釈について
http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/36083/rbb047-06-yoshimura.pdf
玄奘の唯識思想
http://echo-lab.ddo.jp/Libraries/駒澤大学仏教学部研究紀要/駒澤大學佛教學部研究紀要78/駒澤大學佛教學部研究紀要 78 009吉村, 誠「玄奘の唯識思想 : その推定方法と二、三の特徴について」.pdf
『成唯識論述記』訳注(三)
https://shujitsu.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=551&item_no=1&attribute_id=22&file_no=1
《唯識二十論》電子版
http://buddhism.lib.ntu.edu.tw/BDLM/sutra/chi_pdf/sutra14/T31n1590.pdf
空性と真如仏性
https://hu.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=1149&item_no=1&attribute_id=22&file_no=1
『維摩経』における不二法門について
http://echo-lab.ddo.jp/libraries/大正大学/綜合仏教研究所年報/綜合仏教研究所年報35号(2013-03-21)/綜合仏教研究所年報35号 014西野 翠「『維摩経』における不二法門について」.PDF
パーリ上座部における 空(sunna)の語の理解 中 井 亮 介
http://echo-lab.ddo.jp/Libraries/京都光華女子大学/真宗文化/真宗文化 第23号/真宗文化 第23号 005中井 亮介「パーリ上座部における空(sunna)の語の理解」.pdf
阿彌陀佛の経典と佛塔 平川 彰(般舟三昧経関係)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/14/2/14_2_787/_pdf/-char/ja
『天台四教儀』 における法華三昧の考察 金 貞 男(偏 照)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/54/1/54_1_516/_pdf/-char/en
智顗の「四悉檀」解釈 石田 幸司
https://soka.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=40370&item_no=1&attribute_id=15&file_no=1
天台五時教判の根拠と意味 崔 箕杓
https://www.min.ac.jp/img/pdf/labo-sh17_27L.pdf
天台大師教学の綱要 関口真大
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/25/1/25_1_47/_pdf/-char/ja
頓漸五味論 関口真大
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/26/1/26_1_61/_pdf/-char/ja
天台五時八教論について 佐藤哲英
関口博士の疑義二十五力条に対する回答
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/24/1/24_1_260/_pdf
開口博士の五時八教廃棄論への疑義 佐藤・浅田・関口による対論
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/23/2/23_2_810/_pdf/-char/ja
「経典成立史の立場と天台の教判」(佐藤泰舜著)をめぐる諸問題 山内舜雄
http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/18582/KJ00005114024.pdf
中論二諦について 田中正徳
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/21/2/21_2_669/_pdf/-char/ja
吉蔵の「非有非空中道」について 池田宗譲
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/28/2/28_2_666/_pdf
如來蔵と仏性 水谷幸正
https://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/GH/0031/GH00310R038.pdf
『華厳経』「十地品」における「唯識」について 室寺義仁
https://www.koyasan-u.ac.jp/laboratory/pdf/kiyo14/14_muroji.pdf
ナーガールジュナ(ナーガルジュナ/龍樹〔竜樹〕)の中論
http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/pdf/mulama22.pdf
『大日経』における法界
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/31/2/31_2_797/_pdf
『法華三昧徴儀』研究序説 ロバート・F・ローズ
https://otani.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=7260&item_no=1&attribute_id=22&file_no=1
『 摩訶止観』と『 次第禅門』との関係について 瀧 英寛
https://www.jstage.jst.go.jp/article/bukkyobunka1992/2003/12/2003_12_58/_pdf/-char/ja
「但中」と「円中」 天台智者大師の中道思想
https://toyo.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=8955&item_no=1&attribute_id=22&file_no=1
月稱の中観論繹から見た中論本顛の特色
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/7/1/7_1_170/_pdf/-char/ja
Nāgārjuna における空と縁起
― 『中論偈』第 24 章・第 18 偈の解釈をめぐって―
https://researchmap.jp/read0012109/published_papers/17272419/attachment_file.pdf
法華玄義の研究
「円融三諦」については、以下の論文の(P.74-P.75)を参照。
http://hokekyou.up-jp.com/wp-content/uploads/2022/10/『法華玄義』の研究-20.pdf
『中論三諦偈と十界互具』 木村周誠
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk/56/1/56_KJ00004818838/_pdf/-char/ja
パーリ経典に説かれる「九次第定」の成立と構造 藤本 晃
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/53/2/53_2_891/_pdf/-char/ja