認識が空観に変わるとどうなるかと言いますと、対象を凡夫の前五識で認識しその現量を因として第六意識で比量が働き結果として対象を「実体」として見ていた認識が、前五識と第六意識が空じられ、それにより第七意識が阿頼耶識に貯蔵されている「そのモノがそのモノと成り得た因果」を拾い上げ、それを因とした阿頼耶識縁起が起こります。
「主観と客観」での第六意識での認識から、末那識での阿頼耶識の因果の認識へと変わる事で対象の真実の姿が観えてきます。
これが『唯識』で説かれる三性説です。
『唯識三十頌』の28頌の「相分と見分」の三性説です。
唯識三十頌 その④ https://zawazawa.jp/bison/topic/28
①相分も見分もない(依他起性) ②相分も見分もある(遍計所執性) ③見分はあるが相分はない(円成実性)
この人間の認識である「主観と客観」空じる事で、我々凡夫が仏の認識に立つことが出来きます。この仏の認識を〝空観〟と言います。
客観は此縁性縁起で起こります。 そして主観は相依性縁起で起こります。
この二つの縁起を空じる事で「主観と客観」が「空観」の認識に変わります。
人間は「主観と客観」で物事を認識し、対象の姿(色相)に定義付けをして概念化することで分別し識別することで様々なモノや出来事を整理して記憶に留めていきます。そういった一連の認識システムが仏教では「五蘊」として解き明かされております。
モノには姿形がありそれを相(色相)と言います。そしてそのモノの定義を人の心が決めていきます。その〝相〟は人の客観で認識される姿(現量)で此縁性縁起によって形成された〝相〟です。
そしてモノの定義は、そのモノを人の心がどういうふうに受け止めているかといった〝性〟にあたり(比量)こちらは相依性縁起によって定義付けされます。
人間によるこの「主観(性)と客観(相)」による認識によって我々は対象のモノを「実体」として認識します。
客観=相 主観=性 実体=体
この析空と体空の二空をもって人間の世界観から離れて「空」の世界観へ意識が入る事を入空観と言います。
析空と体空は人間の「客観と主観」をそれぞれ空じますのでこの二空の事を「人空」と言います。その人空に対して「法空」と呼ばれる空があります。これは人間の深層意識で起きる内縁を対象として起こる縁起を空じる「空」です。
美味しい物をたらふく食べたい、綺麗な服が着たい、カッコいい車に乗りたい、立派な家に住みたいなどといった欲が生まれるのもこの「分別」によるところです。
「美味しいやマズイ」「綺麗とか汚い」「良いとか悪い」「立派だとか貧素だとか」こういった分別は、物事を客観で認識した心が主観で思う事です。
仏教のファースト・ステージでは客観を空じ、次のセカンド・ステージで主観を空じます。
客観を空じる=析空 主観を空じる=体空
人間の認識は「主観と客観」から成ります。この「主観と客観」を空じる事で人間の表層認識は止滅します。
仏教では最初に〝実体〟を空じる教えが説かれます。
「空」のファースト・ステージです。
実体とは我々人間が客観的に見ているモノや出来事(現象)の事です。そういったモノや出来事を自分達の言葉で定義づけして分別し、それが概念として阿頼耶識に蓄えられていきます。そうやって物事を分別していく事は大変便利な反面、その分別によって苦しみが生み出される事もまた事実です。
そういった視点で人の人生を考えてみると、客観的に見えている姿って案外あてにならないもので、人生ってその人の〝主観〟で成り立っているんだなと思いませんか。
そう考えてみると前回、四分の説法でお話しました「相分(客観)は無いが見分(主観)は有る」の言葉の意味するところが読めて来ませんか。
「モノのあり様」を〝人間の客観〟という視点で展開していきますと、科学が発展し様々な便利なモノが沢山造られていきます。医学も進歩します。それによって多くの人達が病から救われます。
しかし、そういった客観的視点で物事を展開していっても幸福な人生に辿り着くとは限りません。
なぜなら人の人生は主観で出来ているからです。
我々昭和の人間は、「いい大学を出れば一流企業に入れて安定した将来が約束される」と教えられてきました。そしてそれが幸せな人生をつかむ一番確実な道筋だと信じて生きて来ました。しかし、「社会的に成功する事」と「幸せな人生を手に入れる事」って果たしてイコールで結ばれるものなのでしょうか。
社会的に成功している人達って裕福な暮らしをされていて、傍から見ると羨ましく思えますが、そんな恵まれた環境にある人達が必ずしも幸せな日々をおくっているとは限りません。
客観的には羨ましい存在に見えていても、当の本人にとっては苦しみの人生だったりする事はよくあります。またその逆で、生活は苦しくてもいつも家族皆が仲良しで、いつも楽しそうに暮らしている人達も沢山おられます。私なんかはまさに後者の方です。
これは「モノのあり様」を説いた実在の真理(此縁性縁起)です。
そのモノがどのようにしてそのモノとして成り立っているか細分化して見ていきます。
科学と全く同じ視点です。
実体は仮和合によって仮在(仮設)する。
条件が変わればそのあり様もまた変化する。
よって変わらずにあり続ける本質は無い。
それが蔵教で説かれた真理です。
人間は主観と客観とで物事を認識します。この働きを仏教では五蘊と言います。この五蘊での認識を止めて対象を縁起で観る事が正しい物事の捉え方であるとお釈迦さまは縁起の法門を説かれたのです。
客観による認識は、此縁性縁起で起こります。客観視の対境である「見られるモノ=六境」は此縁性縁起で成り立っているからです。これは科学や物理と全く同じ概念で、物体の時間経緯によって生じる変化(縁起)です。実体における真理(実在の真理)なので科学や物理学と全く同じ真理となります。
蔵教で説かれた『倶舎論』がこれにあたります。
この空を「モノのあり様」を説いた教えだと思い込んでいる人達が沢山おられます。
実体は仮和合(縁起)であって実在しない。
だから「空」だと。
しかし、実体は仮和合(縁起)によって実在しています。
あなたは今、スマホを手に取っていますよね。
それは幻影ですか?
スマホは因果の法理に基づいて今、あなたの手に握られ、
まぎれもなくそこに実在しております。
此縁性縁起という実体に即した真理によってそこに実在しているんです。
人間がモノを認識する五蘊という働きでその物体をスマホとして認識しているんです。
空とは、その認識を止めましょう(空じる)という教えです。
その認識は正しいモノの認識法ではないと言っているのです。
このように我々人間は阿頼耶識に蓄えられた情報を概念化し、外界の様々なモノや出来事をその概念という色眼鏡でもって認識しています。
しかし、その概念って人間が造り出したものですよね。
仏教では人間の事を凡夫と言います。
迷いの中にある衆生の事を凡夫と言い、凡夫の心は無明と言いまして真実に疎い存在とされます。
そんな迷いの心で人生をどんなに頑張って生きていっても、所詮、迷いの人生でしかありません。
そんなあてにならない凡夫の概念など捨ててしまいなさいというのが「空」の教えです。
スマホを例にとって考えてみますと、かくかくしかじかの機能を備えた物体をスマホと言います。
言葉で定義付けされた物体が「スマホ」です。言葉による定義がなければそれはただのモノ(物体)でしかありません。ですから言葉の概念がない赤ちゃんにはただのモノ(物体)としてしか認識されません。
実体は概念によって造り出されます。
この言葉に依る定義が蓄えられていく処が阿頼耶識という記憶の蔵です。その蔵に収まっている「定義」を深層意識である末那識の自我意識が拾い上げ、それを概念として表層の意識である第六意識に手渡します。本来無分別で存在している対象の見られる側のモノ(物体)を眼識が現量で認識します。それを第六意識が言葉の概念で分別(識別)して、そのモノをスマホとして認識します(比量)。
過去世に仏との善業が無い末法の本未有善の荒凡夫が、無漏の種子を薫習するには『法華経』で説かれた一念三千の法門によるしかありません。
どうしてかというお話を日蓮大聖人の御書を通してこちらで詳しくお話しております。
虚空絵(一) 法介のほ~『法華経』その⑦ https://zawazawa.jp/yuyusiki/topic/24
虚空絵(二) 法介のほ~『法華経』その⑧ https://zawazawa.jp/yuyusiki/topic/25
虚空絵(三) 法介のほ~『法華経』その⑨ https://zawazawa.jp/yuyusiki/topic/26
『無為法』のお話は、このへんで終わりとさせて頂きます
お付き合い頂きまして、ありがとうございました。
人は人生において常に〝判断〟が付きまといます。
一瞬の判断を間違うと不幸の道へと転落して行きます。
ですから仏教では正しい判断が出来るように八正道が説かれております。
一念三千の法門で自身の阿頼耶識に無漏の種子が薫習されますと、そういった判断に対して正しい選択を直感的に無意識で出来るようになっていきます。
この場合の無意識は末那識で起こる縁起です(有為法)。
無漏の種子が薫習されているから起こる有為法です。
無為法とはこの無漏の種子を自身の阿頼耶識に薫習(インストール)する法門(方法)としての一念三千の事を言います。
無漏種子が薫習される事で、それが知識としてではなく経験値として修行の果徳が自身の阿頼耶識に備わります。
例えば、喫煙者はタバコが体に良くないという知識は持っています。しかし体に悪いと分かっていても中々止められない人が沢山います。しかし、お題目を唱えて行くとどういう訳か自然とタバコを止める事が出来たりします。これが知識としての薫習と経験値としての薫習の違いです。
『法華経』本門ではこの>> 16>> 17>> 18の円融三観が説かれております。
それを天台智顗が一仮一切仮・一空一切空・一中一切中の円融三観として説き顕しております。
阿頼耶識の三因仏性が末那識を鏡として円融で凡夫の一身に顕れます。
これが三諦の円融で起こる大円鏡智です。
<一仮一切仮> 阿頼耶識の縁因仏性(因縁説周)を因として、曼荼羅本尊(応身仏)を縁として、凡夫の体に応身如来が顕れます(果)。
<一空一切空> 阿頼耶識の了因仏性(譬喩説周)を因として、法華経(報身仏)を縁として、凡夫の体に報身如来が顕れます(果)。
<一中一切中> 阿頼耶識の正因仏性(法説周)を因として、南無妙法蓮華経(法身仏)を縁として、凡夫の体に法身如来が顕れます(果)。
この三諦の円融で凡夫の阿頼耶識に無漏の種子がインストールされます。
法身とは法そのもので、具体的には当体蓮華の妙法になります。
法身(縁=南無妙法蓮華経)+中観(当体蓮華)+中諦(因果=法説周)
これが三三九諦図の(証成)としての中諦の一念三千。
因縁果が同時に同体として一中一切中 (← 縁起ではない)で顕れる。
報身とは覚りへ導く智慧です。具体的には『法華経』の教えがそれにあたります。
報身(縁=対境の心)+空観(観じる側の心)+空諦(因果=譬喩説周)
これが三三九諦図の(能観の智)としての空諦の一念三千。
因縁果が同時に同体として一空一切空 (← 縁起ではない)で顕れる。
観の意味は世界観、諦の意味は真理で、凡夫は三観、仏は三諦と凡夫が仮設の世界を観るのに対し、仏は対象を真理(縁起)で観ます。
凡夫が捉える対象物は全て仮設ですが三身の応身如来は仮設ではありません。
縁起で立ち上がる実体が仮設です。
応身如来は凡夫の認識で顕れる真理です。
真如の世界を顕した十界曼荼羅がそれにあたります。
応身(縁=見られる側)+仮観(見る側)+仮諦(因果=因縁説周)
見る側である凡夫が見ている対境の曼荼羅と一体となります。と同時に覚りの因果もそこには備わっております。(一仮一切仮 ← 縁起ではない)
(※假 → 仮)
これが三三九諦図の(所観の境)としての仮諦の一念三千です。
こちらの三三九諦図の、別相三観がその開かれた三種三観の相になります。
三観がどのように無為の法と成り得るのか。
それが説かれているのが『法華経』の本門です。
迹門では十如是と三周の説法で三種三観の三三九諦の相がまず開かれます。
どうやって開くかと言いますと方便品の「十如是」の三遍読みで開きます。
天台・日蓮教学では、無為法とは一念三千の法門の事を言います。
ではどのように三観が円かに溶け合うのかを次に詳しく説明して参ります。
『法華経』で説かれる無為の法門(一念三千の法門)を朝夕に実践する事で、声聞・縁覚・菩薩といった三乗が仏のもとで積み上げてきた歴劫修行の因果を自身の〝経験値〟として阿頼耶識に無漏種子として熏習されます。
それは知識ではなく、〝経験値〟です。
そのことを日蓮さんんは『如来滅後五五百歳始観心本尊抄』の中で次のように仰せです。
釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う
南無妙法蓮華経とは無為法なんです。
それがどのような無為の法なのかを説明しているのが「十如是」です。
ですから法相宗では「五姓各別」が説かれているのです。
最終的に阿弥陀さまにお願いしましょうといった他力本願です。
しかし、それは『法華経』が説かれるまでは阿弥陀さまが責任もって浄土へ導きますといったもので、『法華経』が説かれると阿弥陀佛は期限切れの仏となります。
もともと阿弥陀佛は、お釈迦さまが化身となった姿で、そのお釈迦さまが法華経を説き、衆生がその教えを理解するに至れば阿弥陀さまのお役は必要なくなるからです。
阿弥陀佛は他受用報身なのに対し法華経では自受用報身が説かれます。
他力に頼らなくても、自らに覚りの果徳を受け用いる事が出来るのです。
分かりやすく言いますと、
泳ぎ方をいくら教科書を読んで学んだと言っても、だからといっていきなり海に飛び込んで泳げるものではありませんよね。
泳ぎ方を教科書で学ぶ事は知識です。
しかし、実際に訓練しなければ泳ぐ事は出来ません。
無漏種子というのは、仏のもとで気の遠くなる程の長い歴劫修行を積み上げて熏習される種子なんです。
仏と全く縁が無い凡夫がどんなに正聞熏習しても無漏の種子とは成り得ません。
>> 1のところで三乗の智慧を覚っている(理解している)人の話をしました。
これは正聞熏習と言いまして、正しい教えを繰り返し聴聞することで自身の阿頼耶識にその教えが知識として染み込んで行くことをいいます。
このような教えとして学ぶ「正聞熏習」は知識として蓄えられて行く種子で、これを有漏の種子と『唯識』ではいいます。
そしてこの有漏の種子はどこまで積み重ねても有漏の種子を熏習するだけで無漏の種子とは成り得ないと『成唯識論』では説かれております。
「若し始起のみなりといはば、有為の無漏は因縁無きが故に生ずることを得ざるべし。有漏を無漏の種と為すべからず」
今日では、三乗の智慧は、
蔵教=倶舎論 ---(声聞の智慧) 通教=中論 ---(縁覚の智慧) 別教=唯識論 ---(菩薩の智慧)
として我々は知識として学び得る事が出来ます。しかしそういった教えをいくら学んでも、それは有漏の種子を積み重ねているだけで無漏の種子、即ち仏性とは成り得ないというのです。
無為と似た言葉で、無漏という仏教用語があります。
『唯識』では無漏の種子とか言いますが、この無漏とは迷いが無く不浄なものが尽きているといった意味です。
一念三千の〝一念〟とは今一瞬の心を指して言うのですが、凡夫は自身のどこを探しても迷いの心しかありません。真理に疎いのが凡夫ですから凡夫の心は〝無明〟なのです。
縁起というのは人為的に起こる(心が縁じて起こる)もので、凡夫の心を因として起こる限りそれは有漏であり不浄なものが完全に尽きているとは言えません。
たとえそれが阿頼耶識を因として起こる末那識であったとしても(阿頼耶識縁起)です。
禅宗などでは「はっ!」とした無意識で起こる気づきを仏の悟りのように教えられているようですが、無意識は末那識で起こる深層意識ですが、それに気づく意識は表層の第六意識ですし、因となっているのも自身の凡夫の阿頼耶識に過ぎません。
この深層の第七末那識と表層の第六意識の二つの意識で対象を捉えることを「片眼仏、片眼凡夫」などとも言ったりしますが、ここでの意識は凡夫の自身の阿頼耶識を因として起こる出来事(縁起)なのでこれは有為です。
また『十地経』よりもさらに古い原典で初期仏典の『般舟三昧経』でも、
「一切世界が心のみである」
と「三界唯心」が示されております。
この『般舟三昧経』で示され、『華厳経』の「十地品」に伝承された「三界唯心」を智顗が詳しく解き明かしたのが天台の「円融三観」となります。
お釈迦さまが『法華経』で説かれた「十如是」という無為の法を「円融三観」の一念三千の法門として解き明かしたのです。
初期大乗仏教経典に『十地経』というのがありまして、後に『華厳経』に「十地品」として組み込まれ伝承されております。
内容は、菩薩の修行位階が十段階に分け説かれており、龍樹はこの『十地経』を註釈して『十住毘婆沙論』を著したりもしております。
その『十地経』に伝わる経句で、
「三界に属するもの、おおよそ(この一切)は、ただ心のみである。」(DBhS 49.10)
とありまして菩薩が覚る境地として「三界唯心」の一文が示されております。
三種の三観の世界観は、初期仏教で言うところの欲界・色界・無色界の三界にあたります。
仮観=凡夫の世界観 ---(欲界) 空観=仏の世界観 ---(色界) 中観=真如の世界観 ---(無色界)
凡夫や仏の世界観は縁起で起こりますので有為です。
その有為の凡夫や仏の意識から離れたところにあるのが無為の真如の世界(無色界)となります。
因縁によって生じた、生滅・変化してやまない現実のありさまを有為といいます。
対して人間の全ての概念から向け出た「真如の世界」にあっては、時間も空間も存在しませんので生滅も変化も起こりません。この真如の世界を無為と言います。
縁起と円融の違いは、縁起が因と縁と果がそれぞれ個別に成り立っている要素が仮に和合して起こる現象(出来事)なのに対し、円融は因と縁と果が同時に同体で一体となって起こります。
『法華経』の方便品でお釈迦さまが仏の究極の覚りとして舎利弗に告げられた「十如是」がそれにあたります。
如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等の十の如是からなる十如是は、十の要素が縁起として順に起こるのではなく全てが等しく同時に同体で備わっており、この十如是で開かれる仮観・空観・中観の三つの世界観が円かに溶け合う事で円融します。
仮観・空観・中観とは、
仮観=凡夫の世界観 空観=仏の世界観 中観=真如の世界観
の三種の三観の事でして天台教学では、これを「三種三観」と言います。
声聞の智慧、縁覚の智慧、菩薩の智慧の三つの智慧の事を「三乗の智慧」と言います。
お釈迦さまは『法華経』で、一乗の仏の教えを三乗に個別に開いて説き顕したことを明かします。これを「開三顕一」と言います。三乗の智慧を三智といい仏の智慧を一切智と言い、四つを合わせて四智とも言います。
一切智として「開三顕一」で開かれる仏の智慧の事を大円鏡智と言います。
三乗の智慧が縁起で起こるのに対し、この仏の智慧にあっては縁起は起こりません。
ここで起こるのは〝円融〟です。
声聞の智慧が働く人は、此縁性縁起が薫習されておりますので物事を見た目で判断しません。そのモノがそのモノと成りえた因果で対象を捉えます。
縁覚の智慧が働く人は、相依性縁起が薫習されておりますので決めつけや勝手な思い込みで対象を観ません。相手の話をまず理解し相手の立場で物事を考える事が出来ます。
菩薩の智慧が働く人は、自我で「分別する心」から自我に捕らわれずに物事を「平等に見る心」へ意識が変わります。
この三つの智慧を得る事で開かれる智慧が『法華経』で明かされる〝仏の智慧〟です。
三変土田で国土を常寂光土に変え、虚空絵の説法が始まります。
この虚空絵の会座こそが、実は「真如の世界観」を顕しております。
真如の世界とは常寂光土であり、法身・般若・解脱の三徳をそなえた如来が住む国土です。
法身とは仏が覚りえた究極の真理(仏の智慧)、般若とはその真理を覚る智慧(三乗の智慧)、解脱とは生死の苦悩から根源的に解放された状態(肉体からの解脱)をいいます。
今回のお話はここまでとして、次のお話でその真如の世界観について詳しくお話して参ります。
無為法
お付き合い頂きましてありがとうございました。
まず文上ではどのように説かれているのか。
それが方便品第二の後半から授学無学人記品第九にわたって三乗に対して説かれた「広開三顕一」の三周の説法です。
こちらで詳しく解説しておりますのでご覧ください。
三周の説法 法介のほ~『法華経』その⑥
三周の説法を説かれた後、お釈迦さまは真如の世界を開く為に国土を整えます。
それが見宝塔品第十一で説かれる、「三変土田」です。
こちらで詳しく語っておりますのでご覧ください。
虚空絵(一) 法介のほ~『法華経』その⑦
どのように仏の覚りの因と果が阿頼耶識に収まっているのかを説いているのが方便品第二の『十如是』の文言です。
如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等
実はこの『十如是』、密教で説かれております。
密教と言えば真言密教を頭に浮かべる事かと思いますが、
真言密教とは本来、「真理の言葉を密教として説いた」という意味です。
この十如是の意味するところに真理の言葉(真言)が隠されております。
その言葉が『法華経』の本門で文の底に密教という教えで説かれております。
これを「文底秘沈」と言います。
『法華経』の方便品第二の中でお釈迦さまは、仏が覚った究極の真理の法を『十如是』として舎利弗に伝えます。
要略して「開三顕一」を説かれる訳ですが、これを「略開三顕一」と言います。
この「略開三顕一」で示された「十如是」こそが、仏の究極の覚り、即ち無為法です
この「十如是」には、仏の覚りの因位と果位とが本末究竟等として収まっております。
本末究竟等とは、因位と果位とが同時に同体で収まっているという事です。
人知を超えた真如の世界では、縁起が起こらないので因と果が同時に同体で存在します。
どこに存在しているのかと言いますと、
他ならぬ阿頼耶識でしょう。
人類の全ての行いが〝業〟として蓄えられる処が蔵としての阿頼耶識です。
その阿頼耶識では意識は働きません。
認識が空観に変わるとどうなるかと言いますと、対象を凡夫の前五識で認識しその現量を因として第六意識で比量が働き結果として対象を「実体」として見ていた認識が、前五識と第六意識が空じられ、それにより第七意識が阿頼耶識に貯蔵されている「そのモノがそのモノと成り得た因果」を拾い上げ、それを因とした阿頼耶識縁起が起こります。
「主観と客観」での第六意識での認識から、末那識での阿頼耶識の因果の認識へと変わる事で対象の真実の姿が観えてきます。
これが『唯識』で説かれる三性説です。
『唯識三十頌』の28頌の「相分と見分」の三性説です。
唯識三十頌 その④
https://zawazawa.jp/bison/topic/28
①相分も見分もない(依他起性)
②相分も見分もある(遍計所執性)
③見分はあるが相分はない(円成実性)
この人間の認識である「主観と客観」空じる事で、我々凡夫が仏の認識に立つことが出来きます。この仏の認識を〝空観〟と言います。
客観は此縁性縁起で起こります。
そして主観は相依性縁起で起こります。
この二つの縁起を空じる事で「主観と客観」が「空観」の認識に変わります。
人間は「主観と客観」で物事を認識し、対象の姿(色相)に定義付けをして概念化することで分別し識別することで様々なモノや出来事を整理して記憶に留めていきます。そういった一連の認識システムが仏教では「五蘊」として解き明かされております。
モノには姿形がありそれを相(色相)と言います。そしてそのモノの定義を人の心が決めていきます。その〝相〟は人の客観で認識される姿(現量)で此縁性縁起によって形成された〝相〟です。
そしてモノの定義は、そのモノを人の心がどういうふうに受け止めているかといった〝性〟にあたり(比量)こちらは相依性縁起によって定義付けされます。
人間によるこの「主観(性)と客観(相)」による認識によって我々は対象のモノを「実体」として認識します。
客観=相
主観=性
実体=体
この析空と体空の二空をもって人間の世界観から離れて「空」の世界観へ意識が入る事を入空観と言います。
析空と体空は人間の「客観と主観」をそれぞれ空じますのでこの二空の事を「人空」と言います。その人空に対して「法空」と呼ばれる空があります。これは人間の深層意識で起きる内縁を対象として起こる縁起を空じる「空」です。
美味しい物をたらふく食べたい、綺麗な服が着たい、カッコいい車に乗りたい、立派な家に住みたいなどといった欲が生まれるのもこの「分別」によるところです。
「美味しいやマズイ」「綺麗とか汚い」「良いとか悪い」「立派だとか貧素だとか」こういった分別は、物事を客観で認識した心が主観で思う事です。
仏教のファースト・ステージでは客観を空じ、次のセカンド・ステージで主観を空じます。
客観を空じる=析空
主観を空じる=体空
人間の認識は「主観と客観」から成ります。この「主観と客観」を空じる事で人間の表層認識は止滅します。
仏教では最初に〝実体〟を空じる教えが説かれます。
「空」のファースト・ステージです。
実体とは我々人間が客観的に見ているモノや出来事(現象)の事です。そういったモノや出来事を自分達の言葉で定義づけして分別し、それが概念として阿頼耶識に蓄えられていきます。そうやって物事を分別していく事は大変便利な反面、その分別によって苦しみが生み出される事もまた事実です。
そういった視点で人の人生を考えてみると、客観的に見えている姿って案外あてにならないもので、人生ってその人の〝主観〟で成り立っているんだなと思いませんか。
そう考えてみると前回、四分の説法でお話しました「相分(客観)は無いが見分(主観)は有る」の言葉の意味するところが読めて来ませんか。
唯識三十頌 その④
https://zawazawa.jp/bison/topic/28
「モノのあり様」を〝人間の客観〟という視点で展開していきますと、科学が発展し様々な便利なモノが沢山造られていきます。医学も進歩します。それによって多くの人達が病から救われます。
しかし、そういった客観的視点で物事を展開していっても幸福な人生に辿り着くとは限りません。
なぜなら人の人生は主観で出来ているからです。
我々昭和の人間は、「いい大学を出れば一流企業に入れて安定した将来が約束される」と教えられてきました。そしてそれが幸せな人生をつかむ一番確実な道筋だと信じて生きて来ました。しかし、「社会的に成功する事」と「幸せな人生を手に入れる事」って果たしてイコールで結ばれるものなのでしょうか。
社会的に成功している人達って裕福な暮らしをされていて、傍から見ると羨ましく思えますが、そんな恵まれた環境にある人達が必ずしも幸せな日々をおくっているとは限りません。
客観的には羨ましい存在に見えていても、当の本人にとっては苦しみの人生だったりする事はよくあります。またその逆で、生活は苦しくてもいつも家族皆が仲良しで、いつも楽しそうに暮らしている人達も沢山おられます。私なんかはまさに後者の方です。
これは「モノのあり様」を説いた実在の真理(此縁性縁起)です。
そのモノがどのようにしてそのモノとして成り立っているか細分化して見ていきます。
科学と全く同じ視点です。
実体は仮和合によって仮在(仮設)する。
条件が変わればそのあり様もまた変化する。
よって変わらずにあり続ける本質は無い。
それが蔵教で説かれた真理です。
人間は主観と客観とで物事を認識します。この働きを仏教では五蘊と言います。この五蘊での認識を止めて対象を縁起で観る事が正しい物事の捉え方であるとお釈迦さまは縁起の法門を説かれたのです。
客観による認識は、此縁性縁起で起こります。客観視の対境である「見られるモノ=六境」は此縁性縁起で成り立っているからです。これは科学や物理と全く同じ概念で、物体の時間経緯によって生じる変化(縁起)です。実体における真理(実在の真理)なので科学や物理学と全く同じ真理となります。
蔵教で説かれた『倶舎論』がこれにあたります。
この空を「モノのあり様」を説いた教えだと思い込んでいる人達が沢山おられます。
実体は仮和合(縁起)であって実在しない。
だから「空」だと。
しかし、実体は仮和合(縁起)によって実在しています。
あなたは今、スマホを手に取っていますよね。
それは幻影ですか?
スマホは因果の法理に基づいて今、あなたの手に握られ、
まぎれもなくそこに実在しております。
此縁性縁起という実体に即した真理によってそこに実在しているんです。
人間がモノを認識する五蘊という働きでその物体をスマホとして認識しているんです。
空とは、その認識を止めましょう(空じる)という教えです。
その認識は正しいモノの認識法ではないと言っているのです。
このように我々人間は阿頼耶識に蓄えられた情報を概念化し、外界の様々なモノや出来事をその概念という色眼鏡でもって認識しています。
しかし、その概念って人間が造り出したものですよね。
仏教では人間の事を凡夫と言います。
迷いの中にある衆生の事を凡夫と言い、凡夫の心は無明と言いまして真実に疎い存在とされます。
そんな迷いの心で人生をどんなに頑張って生きていっても、所詮、迷いの人生でしかありません。
そんなあてにならない凡夫の概念など捨ててしまいなさいというのが「空」の教えです。
スマホを例にとって考えてみますと、かくかくしかじかの機能を備えた物体をスマホと言います。
言葉で定義付けされた物体が「スマホ」です。言葉による定義がなければそれはただのモノ(物体)でしかありません。ですから言葉の概念がない赤ちゃんにはただのモノ(物体)としてしか認識されません。
実体は概念によって造り出されます。
この言葉に依る定義が蓄えられていく処が阿頼耶識という記憶の蔵です。その蔵に収まっている「定義」を深層意識である末那識の自我意識が拾い上げ、それを概念として表層の意識である第六意識に手渡します。本来無分別で存在している対象の見られる側のモノ(物体)を眼識が現量で認識します。それを第六意識が言葉の概念で分別(識別)して、そのモノをスマホとして認識します(比量)。
過去世に仏との善業が無い末法の本未有善の荒凡夫が、無漏の種子を薫習するには『法華経』で説かれた一念三千の法門によるしかありません。
どうしてかというお話を日蓮大聖人の御書を通してこちらで詳しくお話しております。
虚空絵(一) 法介のほ~『法華経』その⑦
https://zawazawa.jp/yuyusiki/topic/24
虚空絵(二) 法介のほ~『法華経』その⑧
https://zawazawa.jp/yuyusiki/topic/25
虚空絵(三) 法介のほ~『法華経』その⑨
https://zawazawa.jp/yuyusiki/topic/26
『無為法』のお話は、このへんで終わりとさせて頂きます
お付き合い頂きまして、ありがとうございました。
人は人生において常に〝判断〟が付きまといます。
一瞬の判断を間違うと不幸の道へと転落して行きます。
ですから仏教では正しい判断が出来るように八正道が説かれております。
一念三千の法門で自身の阿頼耶識に無漏の種子が薫習されますと、そういった判断に対して正しい選択を直感的に無意識で出来るようになっていきます。
この場合の無意識は末那識で起こる縁起です(有為法)。
無漏の種子が薫習されているから起こる有為法です。
無為法とはこの無漏の種子を自身の阿頼耶識に薫習(インストール)する法門(方法)としての一念三千の事を言います。
無漏種子が薫習される事で、それが知識としてではなく経験値として修行の果徳が自身の阿頼耶識に備わります。
例えば、喫煙者はタバコが体に良くないという知識は持っています。しかし体に悪いと分かっていても中々止められない人が沢山います。しかし、お題目を唱えて行くとどういう訳か自然とタバコを止める事が出来たりします。これが知識としての薫習と経験値としての薫習の違いです。
『法華経』本門ではこの>> 16>> 17>> 18の円融三観が説かれております。
それを天台智顗が一仮一切仮・一空一切空・一中一切中の円融三観として説き顕しております。
阿頼耶識の三因仏性が末那識を鏡として円融で凡夫の一身に顕れます。
これが三諦の円融で起こる大円鏡智です。
<一仮一切仮>
阿頼耶識の縁因仏性(因縁説周)を因として、曼荼羅本尊(応身仏)を縁として、凡夫の体に応身如来が顕れます(果)。
<一空一切空>
阿頼耶識の了因仏性(譬喩説周)を因として、法華経(報身仏)を縁として、凡夫の体に報身如来が顕れます(果)。
<一中一切中>
阿頼耶識の正因仏性(法説周)を因として、南無妙法蓮華経(法身仏)を縁として、凡夫の体に法身如来が顕れます(果)。
この三諦の円融で凡夫の阿頼耶識に無漏の種子がインストールされます。
法身とは法そのもので、具体的には当体蓮華の妙法になります。
法身(縁=南無妙法蓮華経)+中観(当体蓮華)+中諦(因果=法説周)
これが三三九諦図の(証成)としての中諦の一念三千。
因縁果が同時に同体として一中一切中 (← 縁起ではない)で顕れる。
報身とは覚りへ導く智慧です。具体的には『法華経』の教えがそれにあたります。
報身(縁=対境の心)+空観(観じる側の心)+空諦(因果=譬喩説周)
これが三三九諦図の(能観の智)としての空諦の一念三千。
因縁果が同時に同体として一空一切空 (← 縁起ではない)で顕れる。
観の意味は世界観、諦の意味は真理で、凡夫は三観、仏は三諦と凡夫が仮設の世界を観るのに対し、仏は対象を真理(縁起)で観ます。
凡夫が捉える対象物は全て仮設ですが三身の応身如来は仮設ではありません。
縁起で立ち上がる実体が仮設です。
応身如来は凡夫の認識で顕れる真理です。
真如の世界を顕した十界曼荼羅がそれにあたります。
応身(縁=見られる側)+仮観(見る側)+仮諦(因果=因縁説周)
見る側である凡夫が見ている対境の曼荼羅と一体となります。と同時に覚りの因果もそこには備わっております。(一仮一切仮 ← 縁起ではない)
(※假 → 仮)
これが三三九諦図の(所観の境)としての仮諦の一念三千です。
こちらの三三九諦図の、別相三観がその開かれた三種三観の相になります。
三観がどのように無為の法と成り得るのか。
それが説かれているのが『法華経』の本門です。
迹門では十如是と三周の説法で三種三観の三三九諦の相がまず開かれます。
どうやって開くかと言いますと方便品の「十如是」の三遍読みで開きます。
天台・日蓮教学では、無為法とは一念三千の法門の事を言います。
ではどのように三観が円かに溶け合うのかを次に詳しく説明して参ります。
『法華経』で説かれる無為の法門(一念三千の法門)を朝夕に実践する事で、声聞・縁覚・菩薩といった三乗が仏のもとで積み上げてきた歴劫修行の因果を自身の〝経験値〟として阿頼耶識に無漏種子として熏習されます。
それは知識ではなく、〝経験値〟です。
そのことを日蓮さんんは『如来滅後五五百歳始観心本尊抄』の中で次のように仰せです。
釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う
南無妙法蓮華経とは無為法なんです。
それがどのような無為の法なのかを説明しているのが「十如是」です。
ですから法相宗では「五姓各別」が説かれているのです。
最終的に阿弥陀さまにお願いしましょうといった他力本願です。
しかし、それは『法華経』が説かれるまでは阿弥陀さまが責任もって浄土へ導きますといったもので、『法華経』が説かれると阿弥陀佛は期限切れの仏となります。
もともと阿弥陀佛は、お釈迦さまが化身となった姿で、そのお釈迦さまが法華経を説き、衆生がその教えを理解するに至れば阿弥陀さまのお役は必要なくなるからです。
阿弥陀佛は他受用報身なのに対し法華経では自受用報身が説かれます。
他力に頼らなくても、自らに覚りの果徳を受け用いる事が出来るのです。
分かりやすく言いますと、
泳ぎ方をいくら教科書を読んで学んだと言っても、だからといっていきなり海に飛び込んで泳げるものではありませんよね。
泳ぎ方を教科書で学ぶ事は知識です。
しかし、実際に訓練しなければ泳ぐ事は出来ません。
無漏種子というのは、仏のもとで気の遠くなる程の長い歴劫修行を積み上げて熏習される種子なんです。
仏と全く縁が無い凡夫がどんなに正聞熏習しても無漏の種子とは成り得ません。
>> 1のところで三乗の智慧を覚っている(理解している)人の話をしました。
これは正聞熏習と言いまして、正しい教えを繰り返し聴聞することで自身の阿頼耶識にその教えが知識として染み込んで行くことをいいます。
このような教えとして学ぶ「正聞熏習」は知識として蓄えられて行く種子で、これを有漏の種子と『唯識』ではいいます。
そしてこの有漏の種子はどこまで積み重ねても有漏の種子を熏習するだけで無漏の種子とは成り得ないと『成唯識論』では説かれております。
「若し始起のみなりといはば、有為の無漏は因縁無きが故に生ずることを得ざるべし。有漏を無漏の種と為すべからず」
今日では、三乗の智慧は、
蔵教=倶舎論 ---(声聞の智慧)
通教=中論 ---(縁覚の智慧)
別教=唯識論 ---(菩薩の智慧)
として我々は知識として学び得る事が出来ます。しかしそういった教えをいくら学んでも、それは有漏の種子を積み重ねているだけで無漏の種子、即ち仏性とは成り得ないというのです。
無為と似た言葉で、無漏という仏教用語があります。
『唯識』では無漏の種子とか言いますが、この無漏とは迷いが無く不浄なものが尽きているといった意味です。
一念三千の〝一念〟とは今一瞬の心を指して言うのですが、凡夫は自身のどこを探しても迷いの心しかありません。真理に疎いのが凡夫ですから凡夫の心は〝無明〟なのです。
縁起というのは人為的に起こる(心が縁じて起こる)もので、凡夫の心を因として起こる限りそれは有漏であり不浄なものが完全に尽きているとは言えません。
たとえそれが阿頼耶識を因として起こる末那識であったとしても(阿頼耶識縁起)です。
禅宗などでは「はっ!」とした無意識で起こる気づきを仏の悟りのように教えられているようですが、無意識は末那識で起こる深層意識ですが、それに気づく意識は表層の第六意識ですし、因となっているのも自身の凡夫の阿頼耶識に過ぎません。
この深層の第七末那識と表層の第六意識の二つの意識で対象を捉えることを「片眼仏、片眼凡夫」などとも言ったりしますが、ここでの意識は凡夫の自身の阿頼耶識を因として起こる出来事(縁起)なのでこれは有為です。
また『十地経』よりもさらに古い原典で初期仏典の『般舟三昧経』でも、
「一切世界が心のみである」
と「三界唯心」が示されております。
この『般舟三昧経』で示され、『華厳経』の「十地品」に伝承された「三界唯心」を智顗が詳しく解き明かしたのが天台の「円融三観」となります。
お釈迦さまが『法華経』で説かれた「十如是」という無為の法を「円融三観」の一念三千の法門として解き明かしたのです。
初期大乗仏教経典に『十地経』というのがありまして、後に『華厳経』に「十地品」として組み込まれ伝承されております。
内容は、菩薩の修行位階が十段階に分け説かれており、龍樹はこの『十地経』を註釈して『十住毘婆沙論』を著したりもしております。
その『十地経』に伝わる経句で、
「三界に属するもの、おおよそ(この一切)は、ただ心のみである。」(DBhS 49.10)
とありまして菩薩が覚る境地として「三界唯心」の一文が示されております。
三種の三観の世界観は、初期仏教で言うところの欲界・色界・無色界の三界にあたります。
仮観=凡夫の世界観 ---(欲界)
空観=仏の世界観 ---(色界)
中観=真如の世界観 ---(無色界)
凡夫や仏の世界観は縁起で起こりますので有為です。
その有為の凡夫や仏の意識から離れたところにあるのが無為の真如の世界(無色界)となります。
因縁によって生じた、生滅・変化してやまない現実のありさまを有為といいます。
対して人間の全ての概念から向け出た「真如の世界」にあっては、時間も空間も存在しませんので生滅も変化も起こりません。この真如の世界を無為と言います。
縁起と円融の違いは、縁起が因と縁と果がそれぞれ個別に成り立っている要素が仮に和合して起こる現象(出来事)なのに対し、円融は因と縁と果が同時に同体で一体となって起こります。
『法華経』の方便品でお釈迦さまが仏の究極の覚りとして舎利弗に告げられた「十如是」がそれにあたります。
如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等の十の如是からなる十如是は、十の要素が縁起として順に起こるのではなく全てが等しく同時に同体で備わっており、この十如是で開かれる仮観・空観・中観の三つの世界観が円かに溶け合う事で円融します。
仮観・空観・中観とは、
仮観=凡夫の世界観
空観=仏の世界観
中観=真如の世界観
の三種の三観の事でして天台教学では、これを「三種三観」と言います。
声聞の智慧、縁覚の智慧、菩薩の智慧の三つの智慧の事を「三乗の智慧」と言います。
お釈迦さまは『法華経』で、一乗の仏の教えを三乗に個別に開いて説き顕したことを明かします。これを「開三顕一」と言います。三乗の智慧を三智といい仏の智慧を一切智と言い、四つを合わせて四智とも言います。
一切智として「開三顕一」で開かれる仏の智慧の事を大円鏡智と言います。
三乗の智慧が縁起で起こるのに対し、この仏の智慧にあっては縁起は起こりません。
ここで起こるのは〝円融〟です。
声聞の智慧が働く人は、此縁性縁起が薫習されておりますので物事を見た目で判断しません。そのモノがそのモノと成りえた因果で対象を捉えます。
縁覚の智慧が働く人は、相依性縁起が薫習されておりますので決めつけや勝手な思い込みで対象を観ません。相手の話をまず理解し相手の立場で物事を考える事が出来ます。
菩薩の智慧が働く人は、自我で「分別する心」から自我に捕らわれずに物事を「平等に見る心」へ意識が変わります。
この三つの智慧を得る事で開かれる智慧が『法華経』で明かされる〝仏の智慧〟です。
三変土田で国土を常寂光土に変え、虚空絵の説法が始まります。
この虚空絵の会座こそが、実は「真如の世界観」を顕しております。
真如の世界とは常寂光土であり、法身・般若・解脱の三徳をそなえた如来が住む国土です。
法身とは仏が覚りえた究極の真理(仏の智慧)、般若とはその真理を覚る智慧(三乗の智慧)、解脱とは生死の苦悩から根源的に解放された状態(肉体からの解脱)をいいます。
今回のお話はここまでとして、次のお話でその真如の世界観について詳しくお話して参ります。
無為法
お付き合い頂きましてありがとうございました。
まず文上ではどのように説かれているのか。
それが方便品第二の後半から授学無学人記品第九にわたって三乗に対して説かれた「広開三顕一」の三周の説法です。
こちらで詳しく解説しておりますのでご覧ください。
三周の説法 法介のほ~『法華経』その⑥
三周の説法を説かれた後、お釈迦さまは真如の世界を開く為に国土を整えます。
それが見宝塔品第十一で説かれる、「三変土田」です。
こちらで詳しく語っておりますのでご覧ください。
虚空絵(一) 法介のほ~『法華経』その⑦
どのように仏の覚りの因と果が阿頼耶識に収まっているのかを説いているのが方便品第二の『十如是』の文言です。
如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等
実はこの『十如是』、密教で説かれております。
密教と言えば真言密教を頭に浮かべる事かと思いますが、
真言密教とは本来、「真理の言葉を密教として説いた」という意味です。
この十如是の意味するところに真理の言葉(真言)が隠されております。
その言葉が『法華経』の本門で文の底に密教という教えで説かれております。
これを「文底秘沈」と言います。
『法華経』の方便品第二の中でお釈迦さまは、仏が覚った究極の真理の法を『十如是』として舎利弗に伝えます。
要略して「開三顕一」を説かれる訳ですが、これを「略開三顕一」と言います。
この「略開三顕一」で示された「十如是」こそが、仏の究極の覚り、即ち無為法です
この「十如是」には、仏の覚りの因位と果位とが本末究竟等として収まっております。
本末究竟等とは、因位と果位とが同時に同体で収まっているという事です。
人知を超えた真如の世界では、縁起が起こらないので因と果が同時に同体で存在します。
どこに存在しているのかと言いますと、
他ならぬ阿頼耶識でしょう。
人類の全ての行いが〝業〟として蓄えられる処が蔵としての阿頼耶識です。
その阿頼耶識では意識は働きません。