また、『御義口伝』では「一大事因縁」を次のように説明されておられます。
又云く一とは中諦・大とは空諦・事とは仮諦のことであり、この円融の三諦は何物ぞというと南無妙法蓮華経是なのです
応身として現れたお釈迦様が、報身の一念三千の法門を説いて衆生を仏界(法身)へと入らせるといった悟りの面で空・仮・中が開かれて、体(如是体)を中心に十如是が展開され中諦の一念三千が応身・報身・法身として凡夫の一身に顕れて三身即一身の本仏となります。
また、『一念三千法門』ではこのように申されております。
百界と顕れたる色相は皆総て仮の義なれば仮諦の一なり 千如は総て空の義なれば空諦の一なり 三千世間は総じて法身の義なれば中道の一なり、法門多しと雖も但三諦なり此の三諦を三身如来とも三徳究竟とも申すなり
色相の真理が顕れた世界が仮諦の一念三千(応身如来)で、それによって起こる心の変化が空諦の一念三千(報身如来)で、それを以て何かしらを覚る境地を中諦の一念三千(法身如来)であると。
〝仏〟と言うのは人間が言葉で定義づけした概念です。
〝如来〟とはその仏という概念から完全に離れた存在です。これを空の理念では〝非空〟と言います。
>> 9←ここで言っている空の四義の中の最も難解な空の理解となります。
「一大事の因縁」について、日蓮大聖人は『御義口伝』の「第三 唯以一大事因縁の事」の中で次のように説明されておられます。
此の大事を説かんが為に仏は出世したもう 我等が一身の妙法五字なりと開仏知見する時・即身成仏するなり、開とは信心の異名なり信心を以て妙法を唱え奉らば軈(やが)て開仏知見するなり、然る間信心を開く時南無妙法蓮華経と示すを示仏知見と云うなり、示す時に霊山浄土の住処と悟り即身成仏と悟るを悟仏知見と云うなり、悟る当体・直至道場なるを入仏知見と云うなり、然る間信心の開仏知見を以て正意とせり、入仏知見の入の字は迹門の意は実相の理内に帰入するを入と云うなり本門の意は理即本覚と入るなり、 今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る程の者は宝塔に入るなり云云、又云く開仏知見の仏とは九界所具の仏界なり知見とは妙法の二字 止観の二字 寂照の二徳 生死の二法なり色心因果なり、所詮知見とは妙法なり九界所具の仏心を法華経の知見にて開く事なり、爰を以て之を思う に仏とは九界の衆生の事なり
我が身が妙法蓮華経の五字だと信じて妙法を唱えれば、仏知見が開かれ即座に仏の覚りの境地に入る事が出来ると仰せです。凡夫は仏程に覚ってはおりませんので九界の凡夫です。凡夫はどこまでいっても迷いの一念の中にあります。しかし、妙法を唱える事で仏の仏界が開かれて南無妙法蓮華経の七文字の宝塔へと入ります。
『法華経』の譬諭品第三にも次のような御文があります。
初説三乗。引導衆生。然後但以大乗。而度脱之。何以故。如来。有無量智慧。力無所畏。諸法之蔵。能与一切衆生。大乗之法。但不尽能受。舎利弗。以是因縁。当知諸仏。方便力故。於一仏乗。分別三説。
【現代語訳】 初め三乗を説きて衆生を引導し、しかして後、但、大乗のみをもって、これを度脱するなり。何をもっての故なりや。如来には無量の智慧・力・無所畏の諸法の蔵有りて、能く一切衆生に大乗の法を与うるに、但し、尽くは受くること能わざればなり。舎利弗よ、この因縁をもって、当に知るべし、諸仏は方便力の故に、一仏乗において、分別して三と説きたもうなり。
雖復教詔。 而不信受。於諸欲染。貪著深故。 以是方便。為説三乘。令諸衆生。 知三界苦。開示演説。出世間道。
【現代語訳】 また教え詔すと雖も、しかも信受せず、諸の欲染において、貪著すること深きが故なり。ここをもって方便して、ために三乗を説きて、諸の衆生をして、三界の苦を知らしめ、出世間の道を、開示し演説するなり。
これらの文章から開示悟入とは、「三乗に開いて教えを示し、悟らせ一仏乗に入らせる」ということが読み取れます。
法華経が開三顕一と言われる所以です。
更に方便品第二では次のように続きます。
仏告舎利弗。諸仏如来。但教化菩薩。諸有所作。常為一事。唯以仏之知見。示悟衆生。舎利弗。如来。但以一仏乗故。為衆生説法。無有余乗。若二。若三。
【現代語訳】 仏、舎利弗に告げたまわく、諸仏如来は但菩薩を教化したもう。諸の所作あるは常に一事の為なり。唯仏の知見を以て衆生に示悟したまわんとなり。舎利弗、如来は但一仏乗を以ての故に、衆生の為に法を説きたもう。余乗の若しは二、若しは三あることなし。
舎利弗。我今亦復如是。知諸衆生。有種種欲。深心所著。随其本性。以種種因縁。譬喩言辞。方便力故。而為説法。舎利弗。如此皆為。得一仏乗。一切種智故。舎利弗。十方世界中。尚無二乗。何況有三。舎利弗。諸仏出於。五濁悪世。所謂劫濁。煩悩濁。衆生濁。見濁。命濁。如是。舎利弗。劫濁乱時。衆生垢重。慳貪嫉妬。成就諸不善根故。諸仏以方便力。於一仏乗。分別説三。
【現代語訳】 舎利弗よ、われも今、またかくの如し。諸の衆生に、種種の欲と深く心に著する所とあることを知りて、その本性に随って、種種の因縁と譬喩と言辞と方便力 ①とをもっての故に、しかも、ために法を説くなり。舎利弗よ、かくの如き(①のこと)は、皆、一仏乗の一切種智を得せしめんがための故なり。
舎利弗よ、十方世界の中には、なお二乗すらなし。何に況や、三あらんや。舎利弗よ、諸仏は、五濁の悪世に出でたもう。謂う所は、劫濁と煩悩濁と衆生濁と見濁と命濁との、かくの如きなり。 舎利弗よ、劫の濁乱の時には、衆生は垢重く、慳貪・嫉妬にして、諸の不善根を成就するが故に、諸仏は方便力をもって、一仏乗において分別して三と説きたもう。
お解かりでしょうか、声聞、縁覚。菩薩の三乗に開いて説いた教えは、一乗の仏の覚りを衆生に悟らせる為に用いた方便であるとお釈迦さまは言われております。
仏が覚りえたただ一つの真理を衆生に知らしめんが為に仏は世に出現します。
それを「一大事の因縁」と言います。
よく大変な出来事を〝一大事〟と言いますが、実はここからきているんです。『法華経』の方便品第二の中に次のようなくだりがあります。
諸仏世尊。欲令衆生。開仏知見。使得清浄故。出現於世。欲示衆生。仏知見故。出現於世。欲令衆生。悟仏知見故。出現於世。欲令衆生。入仏知見道故。出現於世。舎利弗。是為諸仏。唯以一大事因縁故。出現於世。
【現代語訳】 諸仏世尊は、衆生をして仏知見を開かしめ清浄なることを得せしめんと欲するが故に、世に出現したもう。衆生をして仏知見を示さんと欲するが故に、世に出現したもう。衆生をして仏知見を悟らせめんと欲するが故に、世に出現したもう。衆生をして仏知見の道に入らしめんと欲するが故に、世に出現したもう。舎利弗、是れを諸仏は唯一大事因縁を以ての故に世に出現したもうとなづく。
仏はこの四つの仏知見を〝因〟として世に出現します。
これを開示悟入の四仏知見と言います。
仏が覚りえた究極の真理を衆生に対して三乗に開いて説き示し、その内容を悟らせてその境地へ入らせる事を一大事の因として縁起を起こして仏は世に出現します。
自分への執着が無くなると今まで見えていなかったものが見えてきます。
それは相手の心です。
「こんな事言ったら相手はどう思うだろうか」とか、
「あの人どんなに辛い思いをしているのだろう」といった
相手を想う心です。
それが自分と他者を分別しない無分別の心です。
「犬と自分が無分別」で無情を感じるのも良いかと思いますが、
(※ ↑禅宗の方が良く言われるんです)
まずは相手の気持ちに寄り添う心を持ちましょう。
相手をトンチで言い負かして悦に浸るのではなく、
(※ ↑禅宗の方が良くやられているんです)
「なるほどこの人はこんな風に考えるんだ」と
相手の考えを理解し尊重できる思考を身に着けましょう。
そんなこと言うけど日蓮さんだって他宗を片っ端から否定されてたじゃないですかって?
「教え」と「解釈」は違うんです。
教えというのは数学みたいに正しい答えがあるんです。(真理)
しかし「解釈」は、境涯によって異なって来ます。(四悉檀)
日蓮さんは仏の「教え」を法四依をもとにして正されていたに過ぎません。
それをしなければ仏教で説く真理が、人の数だけある事になってしまいます。
お釈迦さまが説かれた究極の真理は一念三千という無為の法、ただ一つなんです。
その一つの究極の法を説く為に三乗の教えをその下地として説かれております。
仏の事を無我と言いますが、初期仏教では無我を「自分という存在が無い事」だと勘違いしておりました。しかし、そういった無我解釈ですと無我の仏がどうして説法をするのかという矛盾が生じます。語るという行為は〝自分〟が存在しなければ成り立たない行為です。ましてや衆生を救いたいと思うのも自我の働き以外の何物でもありません。
無我とは「自身にとらわれた心が無い」という意味です。
それに対して自我とは、「自分に執着した心」を言います。
自分が自我の意識で思っている自分は、本当の自分ではありません。それは自分が勝手に思い込んでいる妄想分別に過ぎません。自我(自分への執着)を無くした意識、それが無我です。
本当の自分は自身の阿頼耶識に眠っております。過去の自身の行い(業)によって今の自分があるのです。それを覚る為には意識を第六意識から末那識にスイッチする必要があります。末那識は意識です。その意識を自分に執着した意識から自分にとらわれない意識へと転ずる事で、菩薩の無分別の境涯に到達します。
人の認識では、主観(性)と客観(相)によって対象のモノが実体(体)として認識されます。
<凡夫の世界観> 客観 ---(相) 主観 ---(性) 実体 ---(体)
我達が見ている世界は、この相・性・体によって立ち上がって見える世界観です。(凡夫の仮観)
では仏はどうかと言いますと、仏の相は32相だと仏典には記されております。また仏の心は唯識で説かれるところの三性の依他起性でしょう。では仏の体はと言いますと、応身・報身・法身の三身になるかと思います。
応身は人間の認識に沿って現れる実在の仏。
報身は心を中心に顕れる肉体から解脱した仏。(観音菩薩・阿弥陀佛)
法身は〝法〟そのものとしての仏。(大日法身)
この仏をお釈迦さまが観法の対境として顕されたのが32相の仏です。
無色界へ意識として入る事は出来ません。
〝覚り〟として入るのです。
その意識の指向性が応身如来・報身如来・法身如来といった究極の覚りの世界観です。
如来とは言い換えれば、無為(縁起から離れた)という事です。
無為の姿(相)と無為の心(性)と無為の体(体)によって顕れるのが、
応身如来・報身如来・法身如来の無為(人間の理解を遥かに超越した)の不思議解脱です。
人がこの生きた状態で色界に入る事を仏教では定静慮と言います。これは色界禅定という瞑想による修行法で意識として色界に入る事をいいます。(禅天)
① 四禅天(定静慮) https://ja.wikipedia.org/wiki/四禅
定静慮に対して生静慮という用語がありまして、こちらは六道輪廻から解脱して転生でこの色界に生まれ出る事をいいます。
転生先としての色界は四つに分かれており初禅天・第二禅天・第三禅天・第四禅天の四禅天から成ります。
② 四禅天(生静慮) https://ja.wikipedia.org/wiki/色界
①と②は同じ四つの禅天ですが、その内容は全く異なりまます。混同されがちですが、色界は禅定としての禅天と転生としての禅天があるという事です。
この色界を空じて無色界へ入る空(意識の指向性)が非空です。
人の認識が主観と客観なのに対し、仏の認識は縁起です。因と縁に依って果が生じる縁起が、どのような依存関係で起きるのかを詳しく解き明かしたのが唯識です。
非空では、この仏の縁起での見方を空じる訳ですが、それがどういう事なのかをコインを例えて説明します。
コインの表の面を〝因〟として、裏の面を〝果〟とします。
因が時間の経緯の中でひっくり返って裏面の果が表面になりその姿が現れます。これが此縁性縁起(色即是空)です。
そして裏返った果を見る事でその裏側の因の在り方を再認識します。認識が変わる相夜性縁起がこれに当たります(空即是色)。
このコインの「表面の因」と「裏面の果」の両面をそれぞれ見る事でコインの全ての面を見る事が出来ます(色即是空 空即是色)。ただしそれにはコインをひっくり返すという作業が必要となります。片面づつでしか表に現れないからです。
人間の生死の関係はこのコインの裏と表の関係にあたります。表面が「生の側面」で裏面が「死の側面」です。死と言いましても肉体が死滅しただけで心(識)は存在し続けます。それが裏面の肉体を持たずに意識として存在し続ける状態です。肉体から解脱した仏がこの「死の側面」になります。死と言いましてもそれは肉体が死滅しているだけで意識は存在し続けております。
生きた状態でこの仏の側面に入ると世界は色界に変わります。人間の世界は自我によって肉体が生まれ、その肉体がある事で様々な欲が生じます。その一切の欲から離れたのが色界です。ここでは完全に肉体から解脱していて肉体が持つ五蘊の機能は完全に停止状態となります。(五蘊皆空)
唯識で仏の認識が詳しく説き明かされますが、この唯識は龍樹の人空(析空と体空)をベースとして法空を覚る事で仏の真意を理解するに至ります。
空についてはこちらで詳しく解説しております。
「空」の理論
仏道 ~ その壱『空の巻』~
法空で末那識の根本自我を退治する事で意識が、人の認識である第六意識から仏の認識である第七末那識に変わります。
仏教の重要概念として中核を成す〝空〟は、その理論の難しさから四段階の理解に分かれます。それが析空・体空・法空・非空の四種の空理なのですが、最終段階の非空では、唯識で説かれる「仏の認識」を更に空じます。
その非空を詳しく解き明かしていったのが天台の智顗です。
仏の認識というのは、『般若心経』で「色即是空 空即是色」として説かれているのですが、その言葉の意味するところを更に掘り下げて理論的に明らかにしたのが無著・世親兄弟が大成した『唯識』です。
この『唯識』は、龍樹が先行して解き明かした空の理論である『中論』を前提として発展展開された法理です。龍樹が解き明かした我空(析空と体空を合わせた二空、人空とも言う)で仏の空観に入ることで人間の主観と客観による第六意識での認識から離れ、阿頼耶識を対象として起こる縁起で対象を捉えます。
唯識ではそれを三つの心(識)の性分として説きます。
① 人間の心は、遍計所執性(へんげしょしゅうしょう)。これは人の主観と客観とによって仮設された存在形態です。
② 仏の心は、依他起性(えたきしょう)。客観と主観を析空と体空の二空で機能停止させ、意識を第七末那識に持っていく事で対象を阿頼耶識を中心にすえた縁起で捉えます。縁起という他に依存しながら存在する形態です。
③ 覚りの心は、円成実性(えんじょうじつしょう)。捉え方が変わる事で対象の真実の姿が顕れてきます。唯識ではこれを「完成された存在形態」と言います。
これに対し仏の見解は、表層の第六意識での認識ではなく、深層の第七末那識による認識となります。
人間の認識は八つの識層によって成り立っていると説くのが『唯識』です。
この唯識では人間の意識は我々が通常認識している表層意識と、認識する事無く深層で無意識滝に意識とは関係なく働いている深層意識とがあると説きます。
前者の意識を第六意識といい、後者を第七末那識と言います。
第六意識は感覚器官である前五識を対象として起こる意識で、第七末那識は、その更に深層にある第八阿頼耶識を対象として起こる意識です。
『唯識』については、こちらで詳しく解説しております。
唯識三十頌 その①
縁起とは縁に依って起こるものです。
因が縁に依って果が生じる。
この縁起というモノの見方を外道の二辺見に対して〝中道〟と言います。
対象を「有る無し」の実体思想で捉える見方をお釈迦さまは、有ると見るを常見と言い、無いと見るを断見としてこのようなモノが有る状態と無い状態とで見る見方を外道の見解とされました。このような「有る無し」の二辺見は人間の感覚器官が縁となって見える現象(出来事=縁起)で、これは表層意識である第六意識での認識によって起こります。
対象を感覚器官が客観で捉え、捉えた情報を過去の記憶と照らし合わせて主観で思いめぐらしそれが何であるかを判断します。この一連の作用を仏教では五蘊(色・受・想・行・識)として説かれております。
この主観と客観による認識で我々人間は、対象を〝実体〟として見ます。
<人の認識> 客観=相(対象の姿・形、外観) 主観=性(それが何であるかを考える心の働き) 実体=体(言語によって概念化された対象の呼び名)
『如来滅後五五百歳始観心本尊抄』ではその因果を次のように説明されております。
疑つて云く草木国土の上の十如是の因果の二法は何れの文に出でたるや、答えて曰く止観第五に云く「国土世間亦十種の法を具す所以に悪国土・相・性・体・力等」と云云、釈籤第六に云く「相は唯色に在り性は唯心に在り体・力・作・縁は義色心を兼ね因果は唯心・報は唯色に在り」等云云、金錍論に云く「乃ち是れ一草・一木・一礫・一塵・各一仏性・各一因果あり縁了を具足す」等云云。 問うて曰く出処既に之を聞く観心の心如何、答えて曰く観心とは我が己心を観じて十法界を見る是を観心と云うなり、譬えば他人の六根を見ると雖も未だ自面の六根を見ざれば自具の六根を知らず明鏡に向うの時始めて自具の六根を見るが如し、設い諸経の中に処処に六道並びに四聖を載すと雖も法華経並びに天台大師所述の摩訶止観等の明鏡を見ざれば自具の十界・百界千如・一念三千を知らざるなり。
ここで着目して欲しいのが、
金錍論に云く「乃ち是れ一草・一木・一礫・一塵・各一仏性・各一因果あり縁了を具足す」
の御文です。
中でも最後の「縁了を具足す」という文句です。
全てのモノにはそれぞれに因果が備わっており、しかもその縁起は完了してそのモノに備わっていると。
要するに十如是の本末究竟等だと言われているのです。
犬にも石にも仏性が有るとは、こういう事を言うのです。
妙法蓮華経の五字は、
五仏性、および五智の如来の種子だと。
如来とは無為であり、「如来の種子」とは
無為の法である事を意味します。
阿弥陀佛はお釈迦さまが顕された有為の仏です。
有為を対境としてもそこで観じ取れるのは有為の法でしかありません。
有為の法とは、此縁性縁起であり相依性縁起であり不二の法門です。
過去に仏との因縁が阿頼耶識にある仏道者は、対境の阿弥陀佛を因として自身の阿頼耶識に眠っている仏との因果を取り出す事が出来ます。
その取り出した仏との因果を因として縁起が起こり、覚りの縁起が起こります。
この仏との因果は、因位と果位とが同時に同体で備わる無漏の種子です。
これを因果俱時と言います。
日蓮大聖人は、『三世諸仏総勘文教相廃立』の中で次のように申されております。
今経に之を開して一切衆生の心中の五仏性・五智の如来の種子と説けり是則ち妙法蓮華経の五字なり、此の五字を以て人身の体を造るなり本有常住なり本覚の如来なり是を十如是と云う此を唯仏与仏・乃能究尽と云う、不退の菩薩と極果の二乗と少分も知らざる法門なり然るを円頓の凡夫は初心より之を知る故に即身成仏するなり金剛不壊の体なり
語訳しますと次のようになります。
法華経にはこの五行を開会して、一切衆生の心中にある五仏性、および五智の如来の種子であると説いている。これがすなわち妙法蓮華経の五字である。の五字をもって人身の体を造っているのである。したがって我が身は本有常住であり本覚の如来である。
これを法華経方便品第二で十如是と説いたのであり、これは「ただ、仏と仏とのみが、すなわちよくこれを究め尽くしている」と説かれるのである。
この法門は不退の菩薩も極果の阿羅漢を得た二乗も少しも知らない法門である。それを法華円頓の教えを信ずる凡夫は初信の位からこれを知ることができるゆえに即身成仏するのであり、金剛不壊の体となるのである。
阿弥陀佛というのは、観法の対境として用いるお釈迦さまが顕された仏です。
それに対し日蓮大聖人が顕された十界曼荼羅は、〝正観〟の対境として顕された無為法です。
〝正観〟と言いますのは、日蓮大聖人が『本因妙抄』で、
文の底とは久遠実成の名字の妙法を余行にわたさず直達の正観・事行の一念三千の南無妙法蓮華経是なり
と仰せの「直達正観」です。
①客体(見られる側)=モノのあり様 ②主体(見る側) =認識のあり様(主観と客観)
②は人間の認識(主観と客観)で立ち上がる世界でこれを〝実体〟と言います。
それに対し①は人間の認識とは関係なく〝実在〟している世界。
この実体と実在について詳しくお話して参ります。
わたしが見ている世界は、「わたし」の五蘊によって造られた世界です。
それが②のわたしの主観と客観で立ち上がって見えている世界です。
しかし、その世界が世界の全てではありません。
またその世界は「わたし」による勝手な決めつけてで出来ている世界でもあります。
モノの存在は人の認識があって始めてその存在が認められます。
例えば誰も居ない宇宙空間を漂う石があったとします。しかし誰からもその存在を認識されないその石の存在は人の世界においては存在しません。
しかし実際のところは、その石は実在しております。
人の世界とは人間の認識における世界観です。仏教(天台教学)ではこの人間の世界観を仮観と言います。人間の認識の世界観では存在しない石ですが、その石は人間の認識とは全く関係ない世界で実在しております。
何が言いたいのかと言いますと、人間の認識だけが世界の全てでは無いという事です。
世界はあらゆるモノで形成されております。我々人間もそのモノの中の一部です。
まず大前提としてこの「世界はモノから出来ている」があります。その次に「人間が認識する世界」があります。その関係を構図として顕すと次のようになります。
人が認識している世界は②の「主観と客観」からなる世界観です。それに対し宇宙を漂う石は①のモノの世界の方に実在しております。①の方は実在の世界です。この実在の世界を客体として②の人間が主体となった世界が立ち上がります。
その人間の世界は、主観と客観といった二つの観が一つの世界となって「人間の世界観」が形成されます。では、その人間の主観と客観とで①の実在の世界の全てを観じ取れているかと言えば、決してそうではありません。
人間はコウモリ程に音を繊細に聞き取れませんし、犬のような優れた嗅覚も持ち合わせません。視力にしても人間よりももっと優れた視力を持つ動物は幾らでもいます。例えば宇宙空間までも見えるといったあり得ない視力を持った生き物が居たとしたら、その生物の世界観では宇宙を漂う石の存在も認識されることでしょう。
そういった業識や認識や意識といった八つの識からなる『唯識』の話はこちらで詳しく語っておりますの宜しかったらご覧ください。
唯識三十頌 その① https://zawazawa.jp/bison/topic/19
ここではその『唯識』における客観について仏教学のお偉い学者さん達がこぞって陥っている重大な落とし穴について詳しくお話してまいります。
まず最初にこの落とし穴の重要なキーワードをお伝えしておきます。
それは唯識は人の認識についてのお話だという事です。
「人の認識において」なんです。
実際のところ、世界は人の認識だけでは出来ておりません。
最近、よく量子力学の話と唯識を結びつけて>> 2で紹介しました動画のような説を主張される方々がおられますが、量子力学というのは人の認識作用を力学に取り入れた学識になります。しかしモノの存在は、人の認識から離れて実在しております。
ですから仏教では、そういった人間の勝手な解釈を一旦リセットする為に「空」が説かれます。
「空の理論」の事を空理と言いますが、人間の客観を0リセットする事を析空と言い、主観を0リセットすることを体空と言います。この析空と体空の理論を覚る事で人は自身の主観と客観を機能停止させ脳内思考を空っぽにする事が出来ます。
人には必ず「先入観」という作用が働きます。
例えば暗闇でロープが道端に転がっていたとします。それを見て「蛇だ!」と勘違いして驚いたりします。これは「蛇は細長い生き物」という概念が既に脳内にあって、その概念が先行して働くことでロープであるにも関わらずそれを蛇だと誤認してしまう訳です。
人のこういった一連の動作の裏では五蘊という作用が働いております。
「色・受・想・行・識」という五つの働きが順に作用していく事で人の主観と客観が起こります。まず客観で対象を認識し主観でそれが何かを判別し、それに対してどう行動を起こすかといった一連の作用が識として記憶に蓄えられていきます。
その識の事を唯識では業(業識)と言いまして、この業が阿頼耶識という蔵に蓄えられていきます。
人の認識は、主観と客観とからなりますが、唯識ではその主観を見分と言い、客観を相分と言います。
この見分と相分とによって「実体」が立ち上がります。
「実体」とは、そのものの本当の姿。実質。正体のことで、認識の対象がもつ性質、状態、作用、関係などの根底に横たわってこれを根拠づけながら、同一性を保って自存するものを人間が言語によって定義づけした〝概念〟になります。
我々人間はこの「概念」で様々なモノを捉えております。
しかし、この人間が言葉で定義づけした概念によるところの「実体」は、そのモノの真実の姿を捉えた内容ではありません。
この概念は人間が勝手に考えて対象のモノにあてはめた言わば人間視点による勝手な人間解釈に過ぎず、対象のモノの本当の姿はそのモノがそのモノとなり得た因果で観ないと本当の姿は見えてはきません。
唯識では一人一宇宙を説きます。
これは人が認識している世界は自身の心が造りがしている事を言った言葉です。『華厳経』で説く、
「心は工なる画師の種種の五陰を造るが如く一切世間の中に法として造らざること無し心の如く仏も亦爾なり仏の如く衆生も然なり三界唯一心なり心の外に別の法無し心仏及び衆生・是の三差別無し」
といった文句によるところです。
そういった昭和の学者さんの解釈で『唯識』を学ぶとこちらの動画解説のように、
【nTechチャンネル】量子力学で語る唯識
「宇宙は無い」といったおかしな事を胸を張って言いだします。
そのおかしな主張の根幹思想にあるのが横山先生の誤った唯識解釈です。
横山先生もそうですが、こういった主張をされる方々は概ね「客観の混同」に陥っております。
昭和の大先生方が陥った解釈の誤りの最大の原因に、仏教の重要概念である「空」の解釈問題があげられます。
龍樹が『中論』で顕した空理を中村先生が自身の著書『龍樹』で詳しく解説されております。龍樹が説いた空は「相依性縁起」だったとする先生の見解はお見事ではあるものの、それは空の持つ四大意義の第二義をひも解いたに過ぎません。『中論』の更に深層では第三義、第四義を龍樹は説いておりそれは仏教が中国に渡って天台智顗が「析空・体空・法空・非空」として詳しくひも解いております。
その内容についてはこちらで詳しく紹介しております。
「空」の理論 https://zawazawa.jp/yuyusiki/topic/5
ネットで析空と体空の違いを調べてみてください。初議と第二義であるこの二空の違いですらまともに解説出来ている文献は見当たりません。
如何に昭和の大先生方が空理に暗かったかが分かるかと思います。
以下に続きます。
法介説法『唯識の四分について』 https://zawazawa.jp/Bukipedia/topic/25
法蔵の唯識説への対応 石橋真誠 (五重唯識観について) https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/32/2/32_2_954/_pdf/-char/ja
以下のリンク先へ続きます。
法介説法『空と唯識』 https://zawazawa.jp/Bukipedia/topic/26
二無心定の成立 福田 琢
http://echo-lab.ddo.jp/libraries/同朋大学/同朋仏教/同朋仏教 30号(1995年7月)/同朋仏教30 004福田 琢「二無心定の成立」.pdf
四分 https://www.yuishiki.org/四分の教え/
1) <相分>とは、認識の対象のことである。(客体) 2) <見分>とは、<相分>を直接認識することである。(主観) 3) <自証分>とは、<見分>を自覚する働きの一面である。<見分>を対象としてみている自分である。(自我) 4) <証自証分>とは、<自証分>を自覚する一面である。(本来の自分)
iv. 「成唯識論」では、認識は<四分>で完結するという。
https://note.com/hiruandondesu/n/n689adb194a88
●自証分 上記の主観的契機(見分)を更に知る自己認識契機です。相分と見分とを二極化する前の段階であり、識それ自体が見られる側(客観)と見る側(主観)に二極化し、その対立の上に感覚や思考などの様々な認識作用が成立するとされます。 ●証自証分 上記の自証分を更に分割したもので、自証分の奥にその働きを確証するもう一つの確証作用を立てます。自己認識を更に知る契機です。証自証分を確証するのは自証分であるとし、無間遡及を回避しています。
『成唯識論』の縁起思想 http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/30401/rbb041-19.pdf
唯識では阿頼耶識縁起、華厳では法界縁起などが説かれていくことになる。
阿頼耶識縁起(転識) 法界縁起(因果俱時の縁起)
【大乗仏教】唯識派 唯識二派 https://note.com/hiruandondesu/n/n1172680a7a41
六世紀の初頭にナーランダー出身の徳慧(グナマティ)は西インドのカーティアワール半島にあるヴァラビーに移り、彼の弟子である安慧(スティラマティ)に至って、この地の仏教学は最盛期を迎えたと言われます。同じ頃、ナーランダーにおいては護法(ダルマパーラ)が活動していましたが、安慧(スティラマティ)と護法(ダルマパーラ)の間には唯識説の解釈に相違がありました。
前者は阿頼耶識が最終的には否定されることで、最高の実在(光り輝く心)が個体において現成し、主観と客観とが分かれない境地へ至れるとします。
後者は阿頼耶識を実在とみなし、それが変化して主観と客観とが生じるという説をたてます。覚りを得ても阿頼耶識そのものが否定されるのではなく、その中にある煩悩の潜在力が根絶されるのみです。阿頼耶識(の種子)が変化したものとしての主観と客観は最終的にも存在することになります。
仏教認識論 https://note.com/hiruandondesu/n/n12419e2866ef
『倶舎論』 客体(見られる側)=モノのあり様 『唯識論』 主体(見る側) =認識のあり様(主観と客観)
唯識はこの主体である見る人の心のあり様を説いた教えです。
『十如是事』では次のように仰せです。
我が身が三身即一の本覚の如来にてありける事を今経に説いて云く如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等文、初めに如是相とは我が身の色形に顕れたる相を云うなり是を応身如来とも又は解脱とも又は仮諦とも云うなり、次に如是性とは我が心性を云うなり是を報身如来とも又は般若とも又は空諦とも云うなり、三に如是体とは我が此の身体なり是を法身如来とも又は中道とも法性とも寂滅とも云うなり、されば此の三如是を三身如来とは云うなり此の三如是が三身如来にておはしましけるを・よそに思ひへだてつるがはや我が身の上にてありけるなり、かく知りぬるを法華経をさとれる人とは申すなり此の三如是を本として是よりのこりの七つの如是はいでて十如是とは成りたるなり、此の十如是が百界にも千如にも三千世間にも成りたるなり、かくの如く多くの法門と成りて八万法蔵と云はるれどもすべて只一つの三諦の法にて三諦より外には法門なき事なり、其の故は百界と云うは仮諦なり千如と云うは空諦なり三千と云うは中諦なり空と仮と中とを三諦と云う事なれば百界千如・三千世間まで多くの法門と成りたりと云へども唯一つの三諦にてある事なり、されば始の三如是の三諦と終の七如是の三諦とは唯一つの三諦にて始と終と我が一身の中の理にて唯一物にて不可思議なりければ本と末とは究竟して等しとは説き給へるなり、是を如是本末究竟等とは申したるなり、始の三如是を本とし終の七如是を末として十の如是にてあるは我が身の中の三諦にてあるなり、此の三諦を三身如来とも云へば我が心身より外には善悪に付けてかみすぢ計りの法もなき物をされば我が身が頓て三身即一の本覚の如来にてはありける事なり、是をよそに思うを衆生とも迷いとも凡夫とも云うなり、是を我が身の上と知りぬるを如来とも覚とも聖人とも智者とも云うなり、かう解り明かに観ずれば此の身頓て今生の中に本覚の如来を顕はして即身成仏とはいはるるなり
この「凡夫の三身」を体顕する修行が勤行(法華経の読誦)です。十如是の三編読みで>> 3を体顕します。
勤行の後のお題目の唱題行はその体の「凡夫の三身」と用の「仏の三身」が『南無妙法蓮華経』で一つに融け合い(融合)、境と智が冥合した「境智冥合」を体顕する儀式です。
これによって体の仏と用の仏とが一体となって当体蓮華の真実の仏(本仏)が顕れて凡夫の身のまま即身で仏と成ります。
これを即身成仏と言います。
通相三観の仮一切仮が方便の解脱にあたり、空一切空が実慧の解脱、中一切中が真性の解脱となります。
<円融三観> ①+A+壱=仮一切仮 ---(方便の解脱) ②+B+弐=空一切空 ---(実慧の解脱) ③+C+参=中一切中 ---(真性の解脱)
これは相(仮観)・性(空観)・体(中観)の三つの世界観を阿頼耶識の三因でそれぞれ開いて顕れる世界観です。その世界観が欲界、色界、無色界の三界の世界観として凡夫の一身に顕われます。
方便の解脱=欲界 ---(応身) 実慧の解脱=色界 ---(報身) 真性の解脱=無色界 ---(法身)
これが体の仏である「凡夫の三身」です。
また、『御義口伝』では「一大事因縁」を次のように説明されておられます。
又云く一とは中諦・大とは空諦・事とは仮諦のことであり、この円融の三諦は何物ぞというと南無妙法蓮華経是なのです
応身として現れたお釈迦様が、報身の一念三千の法門を説いて衆生を仏界(法身)へと入らせるといった悟りの面で空・仮・中が開かれて、体(如是体)を中心に十如是が展開され中諦の一念三千が応身・報身・法身として凡夫の一身に顕れて三身即一身の本仏となります。
また、『一念三千法門』ではこのように申されております。
百界と顕れたる色相は皆総て仮の義なれば仮諦の一なり 千如は総て空の義なれば空諦の一なり 三千世間は総じて法身の義なれば中道の一なり、法門多しと雖も但三諦なり此の三諦を三身如来とも三徳究竟とも申すなり
色相の真理が顕れた世界が仮諦の一念三千(応身如来)で、それによって起こる心の変化が空諦の一念三千(報身如来)で、それを以て何かしらを覚る境地を中諦の一念三千(法身如来)であると。
〝仏〟と言うのは人間が言葉で定義づけした概念です。
〝如来〟とはその仏という概念から完全に離れた存在です。これを空の理念では〝非空〟と言います。
>> 9←ここで言っている空の四義の中の最も難解な空の理解となります。
「一大事の因縁」について、日蓮大聖人は『御義口伝』の「第三 唯以一大事因縁の事」の中で次のように説明されておられます。
此の大事を説かんが為に仏は出世したもう 我等が一身の妙法五字なりと開仏知見する時・即身成仏するなり、開とは信心の異名なり信心を以て妙法を唱え奉らば軈(やが)て開仏知見するなり、然る間信心を開く時南無妙法蓮華経と示すを示仏知見と云うなり、示す時に霊山浄土の住処と悟り即身成仏と悟るを悟仏知見と云うなり、悟る当体・直至道場なるを入仏知見と云うなり、然る間信心の開仏知見を以て正意とせり、入仏知見の入の字は迹門の意は実相の理内に帰入するを入と云うなり本門の意は理即本覚と入るなり、 今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る程の者は宝塔に入るなり云云、又云く開仏知見の仏とは九界所具の仏界なり知見とは妙法の二字 止観の二字 寂照の二徳 生死の二法なり色心因果なり、所詮知見とは妙法なり九界所具の仏心を法華経の知見にて開く事なり、爰を以て之を思う に仏とは九界の衆生の事なり
我が身が妙法蓮華経の五字だと信じて妙法を唱えれば、仏知見が開かれ即座に仏の覚りの境地に入る事が出来ると仰せです。凡夫は仏程に覚ってはおりませんので九界の凡夫です。凡夫はどこまでいっても迷いの一念の中にあります。しかし、妙法を唱える事で仏の仏界が開かれて南無妙法蓮華経の七文字の宝塔へと入ります。
『法華経』の譬諭品第三にも次のような御文があります。
初説三乗。引導衆生。然後但以大乗。而度脱之。何以故。如来。有無量智慧。力無所畏。諸法之蔵。能与一切衆生。大乗之法。但不尽能受。舎利弗。以是因縁。当知諸仏。方便力故。於一仏乗。分別三説。
【現代語訳】
初め三乗を説きて衆生を引導し、しかして後、但、大乗のみをもって、これを度脱するなり。何をもっての故なりや。如来には無量の智慧・力・無所畏の諸法の蔵有りて、能く一切衆生に大乗の法を与うるに、但し、尽くは受くること能わざればなり。舎利弗よ、この因縁をもって、当に知るべし、諸仏は方便力の故に、一仏乗において、分別して三と説きたもうなり。
雖復教詔。 而不信受。於諸欲染。貪著深故。 以是方便。為説三乘。令諸衆生。 知三界苦。開示演説。出世間道。
【現代語訳】
また教え詔すと雖も、しかも信受せず、諸の欲染において、貪著すること深きが故なり。ここをもって方便して、ために三乗を説きて、諸の衆生をして、三界の苦を知らしめ、出世間の道を、開示し演説するなり。
これらの文章から開示悟入とは、「三乗に開いて教えを示し、悟らせ一仏乗に入らせる」ということが読み取れます。
法華経が開三顕一と言われる所以です。
更に方便品第二では次のように続きます。
仏告舎利弗。諸仏如来。但教化菩薩。諸有所作。常為一事。唯以仏之知見。示悟衆生。舎利弗。如来。但以一仏乗故。為衆生説法。無有余乗。若二。若三。
【現代語訳】
仏、舎利弗に告げたまわく、諸仏如来は但菩薩を教化したもう。諸の所作あるは常に一事の為なり。唯仏の知見を以て衆生に示悟したまわんとなり。舎利弗、如来は但一仏乗を以ての故に、衆生の為に法を説きたもう。余乗の若しは二、若しは三あることなし。
舎利弗。我今亦復如是。知諸衆生。有種種欲。深心所著。随其本性。以種種因縁。譬喩言辞。方便力故。而為説法。舎利弗。如此皆為。得一仏乗。一切種智故。舎利弗。十方世界中。尚無二乗。何況有三。舎利弗。諸仏出於。五濁悪世。所謂劫濁。煩悩濁。衆生濁。見濁。命濁。如是。舎利弗。劫濁乱時。衆生垢重。慳貪嫉妬。成就諸不善根故。諸仏以方便力。於一仏乗。分別説三。
【現代語訳】
舎利弗よ、われも今、またかくの如し。諸の衆生に、種種の欲と深く心に著する所とあることを知りて、その本性に随って、種種の因縁と譬喩と言辞と方便力 ①とをもっての故に、しかも、ために法を説くなり。舎利弗よ、かくの如き(①のこと)は、皆、一仏乗の一切種智を得せしめんがための故なり。
舎利弗よ、十方世界の中には、なお二乗すらなし。何に況や、三あらんや。舎利弗よ、諸仏は、五濁の悪世に出でたもう。謂う所は、劫濁と煩悩濁と衆生濁と見濁と命濁との、かくの如きなり。 舎利弗よ、劫の濁乱の時には、衆生は垢重く、慳貪・嫉妬にして、諸の不善根を成就するが故に、諸仏は方便力をもって、一仏乗において分別して三と説きたもう。
お解かりでしょうか、声聞、縁覚。菩薩の三乗に開いて説いた教えは、一乗の仏の覚りを衆生に悟らせる為に用いた方便であるとお釈迦さまは言われております。
仏が覚りえたただ一つの真理を衆生に知らしめんが為に仏は世に出現します。
それを「一大事の因縁」と言います。
よく大変な出来事を〝一大事〟と言いますが、実はここからきているんです。『法華経』の方便品第二の中に次のようなくだりがあります。
諸仏世尊。欲令衆生。開仏知見。使得清浄故。出現於世。欲示衆生。仏知見故。出現於世。欲令衆生。悟仏知見故。出現於世。欲令衆生。入仏知見道故。出現於世。舎利弗。是為諸仏。唯以一大事因縁故。出現於世。
【現代語訳】
諸仏世尊は、衆生をして仏知見を開かしめ清浄なることを得せしめんと欲するが故に、世に出現したもう。衆生をして仏知見を示さんと欲するが故に、世に出現したもう。衆生をして仏知見を悟らせめんと欲するが故に、世に出現したもう。衆生をして仏知見の道に入らしめんと欲するが故に、世に出現したもう。舎利弗、是れを諸仏は唯一大事因縁を以ての故に世に出現したもうとなづく。
仏はこの四つの仏知見を〝因〟として世に出現します。
これを開示悟入の四仏知見と言います。
仏が覚りえた究極の真理を衆生に対して三乗に開いて説き示し、その内容を悟らせてその境地へ入らせる事を一大事の因として縁起を起こして仏は世に出現します。
自分への執着が無くなると今まで見えていなかったものが見えてきます。
それは相手の心です。
「こんな事言ったら相手はどう思うだろうか」とか、
「あの人どんなに辛い思いをしているのだろう」といった
相手を想う心です。
それが自分と他者を分別しない無分別の心です。
「犬と自分が無分別」で無情を感じるのも良いかと思いますが、
(※ ↑禅宗の方が良く言われるんです)
まずは相手の気持ちに寄り添う心を持ちましょう。
相手をトンチで言い負かして悦に浸るのではなく、
(※ ↑禅宗の方が良くやられているんです)
「なるほどこの人はこんな風に考えるんだ」と
相手の考えを理解し尊重できる思考を身に着けましょう。
そんなこと言うけど日蓮さんだって他宗を片っ端から否定されてたじゃないですかって?
「教え」と「解釈」は違うんです。
教えというのは数学みたいに正しい答えがあるんです。(真理)
しかし「解釈」は、境涯によって異なって来ます。(四悉檀)
日蓮さんは仏の「教え」を法四依をもとにして正されていたに過ぎません。
それをしなければ仏教で説く真理が、人の数だけある事になってしまいます。
お釈迦さまが説かれた究極の真理は一念三千という無為の法、ただ一つなんです。
その一つの究極の法を説く為に三乗の教えをその下地として説かれております。
仏の事を無我と言いますが、初期仏教では無我を「自分という存在が無い事」だと勘違いしておりました。しかし、そういった無我解釈ですと無我の仏がどうして説法をするのかという矛盾が生じます。語るという行為は〝自分〟が存在しなければ成り立たない行為です。ましてや衆生を救いたいと思うのも自我の働き以外の何物でもありません。
無我とは「自身にとらわれた心が無い」という意味です。
それに対して自我とは、「自分に執着した心」を言います。
自分が自我の意識で思っている自分は、本当の自分ではありません。それは自分が勝手に思い込んでいる妄想分別に過ぎません。自我(自分への執着)を無くした意識、それが無我です。
本当の自分は自身の阿頼耶識に眠っております。過去の自身の行い(業)によって今の自分があるのです。それを覚る為には意識を第六意識から末那識にスイッチする必要があります。末那識は意識です。その意識を自分に執着した意識から自分にとらわれない意識へと転ずる事で、菩薩の無分別の境涯に到達します。
人の認識では、主観(性)と客観(相)によって対象のモノが実体(体)として認識されます。
<凡夫の世界観>
客観 ---(相)
主観 ---(性)
実体 ---(体)
我達が見ている世界は、この相・性・体によって立ち上がって見える世界観です。(凡夫の仮観)
では仏はどうかと言いますと、仏の相は32相だと仏典には記されております。また仏の心は唯識で説かれるところの三性の依他起性でしょう。では仏の体はと言いますと、応身・報身・法身の三身になるかと思います。
応身は人間の認識に沿って現れる実在の仏。
報身は心を中心に顕れる肉体から解脱した仏。(観音菩薩・阿弥陀佛)
法身は〝法〟そのものとしての仏。(大日法身)
この仏をお釈迦さまが観法の対境として顕されたのが32相の仏です。
無色界へ意識として入る事は出来ません。
〝覚り〟として入るのです。
その意識の指向性が応身如来・報身如来・法身如来といった究極の覚りの世界観です。
如来とは言い換えれば、無為(縁起から離れた)という事です。
無為の姿(相)と無為の心(性)と無為の体(体)によって顕れるのが、
応身如来・報身如来・法身如来の無為(人間の理解を遥かに超越した)の不思議解脱です。
人がこの生きた状態で色界に入る事を仏教では定静慮と言います。これは色界禅定という瞑想による修行法で意識として色界に入る事をいいます。(禅天)
① 四禅天(定静慮)
https://ja.wikipedia.org/wiki/四禅
定静慮に対して生静慮という用語がありまして、こちらは六道輪廻から解脱して転生でこの色界に生まれ出る事をいいます。
転生先としての色界は四つに分かれており初禅天・第二禅天・第三禅天・第四禅天の四禅天から成ります。
② 四禅天(生静慮)
https://ja.wikipedia.org/wiki/色界
①と②は同じ四つの禅天ですが、その内容は全く異なりまます。混同されがちですが、色界は禅定としての禅天と転生としての禅天があるという事です。
この色界を空じて無色界へ入る空(意識の指向性)が非空です。
人の認識が主観と客観なのに対し、仏の認識は縁起です。因と縁に依って果が生じる縁起が、どのような依存関係で起きるのかを詳しく解き明かしたのが唯識です。
非空では、この仏の縁起での見方を空じる訳ですが、それがどういう事なのかをコインを例えて説明します。
コインの表の面を〝因〟として、裏の面を〝果〟とします。
因が時間の経緯の中でひっくり返って裏面の果が表面になりその姿が現れます。これが此縁性縁起(色即是空)です。
そして裏返った果を見る事でその裏側の因の在り方を再認識します。認識が変わる相夜性縁起がこれに当たります(空即是色)。
このコインの「表面の因」と「裏面の果」の両面をそれぞれ見る事でコインの全ての面を見る事が出来ます(色即是空 空即是色)。ただしそれにはコインをひっくり返すという作業が必要となります。片面づつでしか表に現れないからです。
人間の生死の関係はこのコインの裏と表の関係にあたります。表面が「生の側面」で裏面が「死の側面」です。死と言いましても肉体が死滅しただけで心(識)は存在し続けます。それが裏面の肉体を持たずに意識として存在し続ける状態です。肉体から解脱した仏がこの「死の側面」になります。死と言いましてもそれは肉体が死滅しているだけで意識は存在し続けております。
生きた状態でこの仏の側面に入ると世界は色界に変わります。人間の世界は自我によって肉体が生まれ、その肉体がある事で様々な欲が生じます。その一切の欲から離れたのが色界です。ここでは完全に肉体から解脱していて肉体が持つ五蘊の機能は完全に停止状態となります。(五蘊皆空)
唯識で仏の認識が詳しく説き明かされますが、この唯識は龍樹の人空(析空と体空)をベースとして法空を覚る事で仏の真意を理解するに至ります。
空についてはこちらで詳しく解説しております。
「空」の理論
仏道 ~ その壱『空の巻』~
法空で末那識の根本自我を退治する事で意識が、人の認識である第六意識から仏の認識である第七末那識に変わります。
仏教の重要概念として中核を成す〝空〟は、その理論の難しさから四段階の理解に分かれます。それが析空・体空・法空・非空の四種の空理なのですが、最終段階の非空では、唯識で説かれる「仏の認識」を更に空じます。
その非空を詳しく解き明かしていったのが天台の智顗です。
仏の認識というのは、『般若心経』で「色即是空 空即是色」として説かれているのですが、その言葉の意味するところを更に掘り下げて理論的に明らかにしたのが無著・世親兄弟が大成した『唯識』です。
この『唯識』は、龍樹が先行して解き明かした空の理論である『中論』を前提として発展展開された法理です。龍樹が解き明かした我空(析空と体空を合わせた二空、人空とも言う)で仏の空観に入ることで人間の主観と客観による第六意識での認識から離れ、阿頼耶識を対象として起こる縁起で対象を捉えます。
唯識ではそれを三つの心(識)の性分として説きます。
① 人間の心は、遍計所執性(へんげしょしゅうしょう)。これは人の主観と客観とによって仮設された存在形態です。
② 仏の心は、依他起性(えたきしょう)。客観と主観を析空と体空の二空で機能停止させ、意識を第七末那識に持っていく事で対象を阿頼耶識を中心にすえた縁起で捉えます。縁起という他に依存しながら存在する形態です。
③ 覚りの心は、円成実性(えんじょうじつしょう)。捉え方が変わる事で対象の真実の姿が顕れてきます。唯識ではこれを「完成された存在形態」と言います。
これに対し仏の見解は、表層の第六意識での認識ではなく、深層の第七末那識による認識となります。
人間の認識は八つの識層によって成り立っていると説くのが『唯識』です。
この唯識では人間の意識は我々が通常認識している表層意識と、認識する事無く深層で無意識滝に意識とは関係なく働いている深層意識とがあると説きます。
前者の意識を第六意識といい、後者を第七末那識と言います。
第六意識は感覚器官である前五識を対象として起こる意識で、第七末那識は、その更に深層にある第八阿頼耶識を対象として起こる意識です。
『唯識』については、こちらで詳しく解説しております。
唯識三十頌 その①
縁起とは縁に依って起こるものです。
因が縁に依って果が生じる。
この縁起というモノの見方を外道の二辺見に対して〝中道〟と言います。
対象を「有る無し」の実体思想で捉える見方をお釈迦さまは、有ると見るを常見と言い、無いと見るを断見としてこのようなモノが有る状態と無い状態とで見る見方を外道の見解とされました。このような「有る無し」の二辺見は人間の感覚器官が縁となって見える現象(出来事=縁起)で、これは表層意識である第六意識での認識によって起こります。
対象を感覚器官が客観で捉え、捉えた情報を過去の記憶と照らし合わせて主観で思いめぐらしそれが何であるかを判断します。この一連の作用を仏教では五蘊(色・受・想・行・識)として説かれております。
この主観と客観による認識で我々人間は、対象を〝実体〟として見ます。
<人の認識>
客観=相(対象の姿・形、外観)
主観=性(それが何であるかを考える心の働き)
実体=体(言語によって概念化された対象の呼び名)
『如来滅後五五百歳始観心本尊抄』ではその因果を次のように説明されております。
疑つて云く草木国土の上の十如是の因果の二法は何れの文に出でたるや、答えて曰く止観第五に云く「国土世間亦十種の法を具す所以に悪国土・相・性・体・力等」と云云、釈籤第六に云く「相は唯色に在り性は唯心に在り体・力・作・縁は義色心を兼ね因果は唯心・報は唯色に在り」等云云、金錍論に云く「乃ち是れ一草・一木・一礫・一塵・各一仏性・各一因果あり縁了を具足す」等云云。 問うて曰く出処既に之を聞く観心の心如何、答えて曰く観心とは我が己心を観じて十法界を見る是を観心と云うなり、譬えば他人の六根を見ると雖も未だ自面の六根を見ざれば自具の六根を知らず明鏡に向うの時始めて自具の六根を見るが如し、設い諸経の中に処処に六道並びに四聖を載すと雖も法華経並びに天台大師所述の摩訶止観等の明鏡を見ざれば自具の十界・百界千如・一念三千を知らざるなり。
ここで着目して欲しいのが、
金錍論に云く「乃ち是れ一草・一木・一礫・一塵・各一仏性・各一因果あり縁了を具足す」
の御文です。
中でも最後の「縁了を具足す」という文句です。
全てのモノにはそれぞれに因果が備わっており、しかもその縁起は完了してそのモノに備わっていると。
要するに十如是の本末究竟等だと言われているのです。
犬にも石にも仏性が有るとは、こういう事を言うのです。
妙法蓮華経の五字は、
五仏性、および五智の如来の種子だと。
如来とは無為であり、「如来の種子」とは
無為の法である事を意味します。
阿弥陀佛はお釈迦さまが顕された有為の仏です。
有為を対境としてもそこで観じ取れるのは有為の法でしかありません。
有為の法とは、此縁性縁起であり相依性縁起であり不二の法門です。
過去に仏との因縁が阿頼耶識にある仏道者は、対境の阿弥陀佛を因として自身の阿頼耶識に眠っている仏との因果を取り出す事が出来ます。
その取り出した仏との因果を因として縁起が起こり、覚りの縁起が起こります。
この仏との因果は、因位と果位とが同時に同体で備わる無漏の種子です。
これを因果俱時と言います。
日蓮大聖人は、『三世諸仏総勘文教相廃立』の中で次のように申されております。
今経に之を開して一切衆生の心中の五仏性・五智の如来の種子と説けり是則ち妙法蓮華経の五字なり、此の五字を以て人身の体を造るなり本有常住なり本覚の如来なり是を十如是と云う此を唯仏与仏・乃能究尽と云う、不退の菩薩と極果の二乗と少分も知らざる法門なり然るを円頓の凡夫は初心より之を知る故に即身成仏するなり金剛不壊の体なり
語訳しますと次のようになります。
法華経にはこの五行を開会して、一切衆生の心中にある五仏性、および五智の如来の種子であると説いている。これがすなわち妙法蓮華経の五字である。の五字をもって人身の体を造っているのである。したがって我が身は本有常住であり本覚の如来である。
これを法華経方便品第二で十如是と説いたのであり、これは「ただ、仏と仏とのみが、すなわちよくこれを究め尽くしている」と説かれるのである。
この法門は不退の菩薩も極果の阿羅漢を得た二乗も少しも知らない法門である。それを法華円頓の教えを信ずる凡夫は初信の位からこれを知ることができるゆえに即身成仏するのであり、金剛不壊の体となるのである。
阿弥陀佛というのは、観法の対境として用いるお釈迦さまが顕された仏です。
それに対し日蓮大聖人が顕された十界曼荼羅は、〝正観〟の対境として顕された無為法です。
〝正観〟と言いますのは、日蓮大聖人が『本因妙抄』で、
文の底とは久遠実成の名字の妙法を余行にわたさず直達の正観・事行の一念三千の南無妙法蓮華経是なり
と仰せの「直達正観」です。
①客体(見られる側)=モノのあり様
②主体(見る側) =認識のあり様(主観と客観)
②は人間の認識(主観と客観)で立ち上がる世界でこれを〝実体〟と言います。
それに対し①は人間の認識とは関係なく〝実在〟している世界。
この実体と実在について詳しくお話して参ります。
わたしが見ている世界は、「わたし」の五蘊によって造られた世界です。
①客体(見られる側)=モノのあり様
②主体(見る側) =認識のあり様(主観と客観)
それが②のわたしの主観と客観で立ち上がって見えている世界です。
しかし、その世界が世界の全てではありません。
またその世界は「わたし」による勝手な決めつけてで出来ている世界でもあります。
モノの存在は人の認識があって始めてその存在が認められます。
例えば誰も居ない宇宙空間を漂う石があったとします。しかし誰からもその存在を認識されないその石の存在は人の世界においては存在しません。
しかし実際のところは、その石は実在しております。
人の世界とは人間の認識における世界観です。仏教(天台教学)ではこの人間の世界観を仮観と言います。人間の認識の世界観では存在しない石ですが、その石は人間の認識とは全く関係ない世界で実在しております。
何が言いたいのかと言いますと、人間の認識だけが世界の全てでは無いという事です。
世界はあらゆるモノで形成されております。我々人間もそのモノの中の一部です。
まず大前提としてこの「世界はモノから出来ている」があります。その次に「人間が認識する世界」があります。その関係を構図として顕すと次のようになります。
①客体(見られる側)=モノのあり様
②主体(見る側) =認識のあり様(主観と客観)
人が認識している世界は②の「主観と客観」からなる世界観です。それに対し宇宙を漂う石は①のモノの世界の方に実在しております。①の方は実在の世界です。この実在の世界を客体として②の人間が主体となった世界が立ち上がります。
その人間の世界は、主観と客観といった二つの観が一つの世界となって「人間の世界観」が形成されます。では、その人間の主観と客観とで①の実在の世界の全てを観じ取れているかと言えば、決してそうではありません。
人間はコウモリ程に音を繊細に聞き取れませんし、犬のような優れた嗅覚も持ち合わせません。視力にしても人間よりももっと優れた視力を持つ動物は幾らでもいます。例えば宇宙空間までも見えるといったあり得ない視力を持った生き物が居たとしたら、その生物の世界観では宇宙を漂う石の存在も認識されることでしょう。
そういった業識や認識や意識といった八つの識からなる『唯識』の話はこちらで詳しく語っておりますの宜しかったらご覧ください。
唯識三十頌 その①
https://zawazawa.jp/bison/topic/19
ここではその『唯識』における客観について仏教学のお偉い学者さん達がこぞって陥っている重大な落とし穴について詳しくお話してまいります。
まず最初にこの落とし穴の重要なキーワードをお伝えしておきます。
それは唯識は人の認識についてのお話だという事です。
「人の認識において」なんです。
実際のところ、世界は人の認識だけでは出来ておりません。
最近、よく量子力学の話と唯識を結びつけて>> 2で紹介しました動画のような説を主張される方々がおられますが、量子力学というのは人の認識作用を力学に取り入れた学識になります。しかしモノの存在は、人の認識から離れて実在しております。
ですから仏教では、そういった人間の勝手な解釈を一旦リセットする為に「空」が説かれます。
「空の理論」の事を空理と言いますが、人間の客観を0リセットする事を析空と言い、主観を0リセットすることを体空と言います。この析空と体空の理論を覚る事で人は自身の主観と客観を機能停止させ脳内思考を空っぽにする事が出来ます。
人には必ず「先入観」という作用が働きます。
例えば暗闇でロープが道端に転がっていたとします。それを見て「蛇だ!」と勘違いして驚いたりします。これは「蛇は細長い生き物」という概念が既に脳内にあって、その概念が先行して働くことでロープであるにも関わらずそれを蛇だと誤認してしまう訳です。
人のこういった一連の動作の裏では五蘊という作用が働いております。
「色・受・想・行・識」という五つの働きが順に作用していく事で人の主観と客観が起こります。まず客観で対象を認識し主観でそれが何かを判別し、それに対してどう行動を起こすかといった一連の作用が識として記憶に蓄えられていきます。
その識の事を唯識では業(業識)と言いまして、この業が阿頼耶識という蔵に蓄えられていきます。
人の認識は、主観と客観とからなりますが、唯識ではその主観を見分と言い、客観を相分と言います。
この見分と相分とによって「実体」が立ち上がります。
「実体」とは、そのものの本当の姿。実質。正体のことで、認識の対象がもつ性質、状態、作用、関係などの根底に横たわってこれを根拠づけながら、同一性を保って自存するものを人間が言語によって定義づけした〝概念〟になります。
我々人間はこの「概念」で様々なモノを捉えております。
しかし、この人間が言葉で定義づけした概念によるところの「実体」は、そのモノの真実の姿を捉えた内容ではありません。
この概念は人間が勝手に考えて対象のモノにあてはめた言わば人間視点による勝手な人間解釈に過ぎず、対象のモノの本当の姿はそのモノがそのモノとなり得た因果で観ないと本当の姿は見えてはきません。
唯識では一人一宇宙を説きます。
これは人が認識している世界は自身の心が造りがしている事を言った言葉です。『華厳経』で説く、
「心は工なる画師の種種の五陰を造るが如く一切世間の中に法として造らざること無し心の如く仏も亦爾なり仏の如く衆生も然なり三界唯一心なり心の外に別の法無し心仏及び衆生・是の三差別無し」
といった文句によるところです。
そういった昭和の学者さんの解釈で『唯識』を学ぶとこちらの動画解説のように、
【nTechチャンネル】量子力学で語る唯識
「宇宙は無い」といったおかしな事を胸を張って言いだします。
そのおかしな主張の根幹思想にあるのが横山先生の誤った唯識解釈です。
横山先生もそうですが、こういった主張をされる方々は概ね「客観の混同」に陥っております。
昭和の大先生方が陥った解釈の誤りの最大の原因に、仏教の重要概念である「空」の解釈問題があげられます。
龍樹が『中論』で顕した空理を中村先生が自身の著書『龍樹』で詳しく解説されております。龍樹が説いた空は「相依性縁起」だったとする先生の見解はお見事ではあるものの、それは空の持つ四大意義の第二義をひも解いたに過ぎません。『中論』の更に深層では第三義、第四義を龍樹は説いておりそれは仏教が中国に渡って天台智顗が「析空・体空・法空・非空」として詳しくひも解いております。
その内容についてはこちらで詳しく紹介しております。
「空」の理論
https://zawazawa.jp/yuyusiki/topic/5
ネットで析空と体空の違いを調べてみてください。初議と第二義であるこの二空の違いですらまともに解説出来ている文献は見当たりません。
如何に昭和の大先生方が空理に暗かったかが分かるかと思います。
以下に続きます。
法介説法『唯識の四分について』
https://zawazawa.jp/Bukipedia/topic/25
法蔵の唯識説への対応 石橋真誠 (五重唯識観について)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/32/2/32_2_954/_pdf/-char/ja
以下のリンク先へ続きます。
法介説法『空と唯識』
https://zawazawa.jp/Bukipedia/topic/26
以下のリンク先へ続きます。
法介説法『唯識の四分について』
https://zawazawa.jp/Bukipedia/topic/25
二無心定の成立 福田 琢
http://echo-lab.ddo.jp/libraries/同朋大学/同朋仏教/同朋仏教 30号(1995年7月)/同朋仏教30 004福田 琢「二無心定の成立」.pdf
四分
https://www.yuishiki.org/四分の教え/
1) <相分>とは、認識の対象のことである。(客体)
2) <見分>とは、<相分>を直接認識することである。(主観)
3) <自証分>とは、<見分>を自覚する働きの一面である。<見分>を対象としてみている自分である。(自我)
4) <証自証分>とは、<自証分>を自覚する一面である。(本来の自分)
iv. 「成唯識論」では、認識は<四分>で完結するという。
https://note.com/hiruandondesu/n/n689adb194a88
●自証分
上記の主観的契機(見分)を更に知る自己認識契機です。相分と見分とを二極化する前の段階であり、識それ自体が見られる側(客観)と見る側(主観)に二極化し、その対立の上に感覚や思考などの様々な認識作用が成立するとされます。
●証自証分
上記の自証分を更に分割したもので、自証分の奥にその働きを確証するもう一つの確証作用を立てます。自己認識を更に知る契機です。証自証分を確証するのは自証分であるとし、無間遡及を回避しています。
『成唯識論』の縁起思想
http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/30401/rbb041-19.pdf
唯識では阿頼耶識縁起、華厳では法界縁起などが説かれていくことになる。
阿頼耶識縁起(転識)
法界縁起(因果俱時の縁起)
【大乗仏教】唯識派 唯識二派
https://note.com/hiruandondesu/n/n1172680a7a41
六世紀の初頭にナーランダー出身の徳慧(グナマティ)は西インドのカーティアワール半島にあるヴァラビーに移り、彼の弟子である安慧(スティラマティ)に至って、この地の仏教学は最盛期を迎えたと言われます。同じ頃、ナーランダーにおいては護法(ダルマパーラ)が活動していましたが、安慧(スティラマティ)と護法(ダルマパーラ)の間には唯識説の解釈に相違がありました。
前者は阿頼耶識が最終的には否定されることで、最高の実在(光り輝く心)が個体において現成し、主観と客観とが分かれない境地へ至れるとします。
後者は阿頼耶識を実在とみなし、それが変化して主観と客観とが生じるという説をたてます。覚りを得ても阿頼耶識そのものが否定されるのではなく、その中にある煩悩の潜在力が根絶されるのみです。阿頼耶識(の種子)が変化したものとしての主観と客観は最終的にも存在することになります。
仏教認識論
https://note.com/hiruandondesu/n/n12419e2866ef
『倶舎論』 客体(見られる側)=モノのあり様
『唯識論』 主体(見る側) =認識のあり様(主観と客観)
唯識はこの主体である見る人の心のあり様を説いた教えです。
『十如是事』では次のように仰せです。
我が身が三身即一の本覚の如来にてありける事を今経に説いて云く如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等文、初めに如是相とは我が身の色形に顕れたる相を云うなり是を応身如来とも又は解脱とも又は仮諦とも云うなり、次に如是性とは我が心性を云うなり是を報身如来とも又は般若とも又は空諦とも云うなり、三に如是体とは我が此の身体なり是を法身如来とも又は中道とも法性とも寂滅とも云うなり、されば此の三如是を三身如来とは云うなり此の三如是が三身如来にておはしましけるを・よそに思ひへだてつるがはや我が身の上にてありけるなり、かく知りぬるを法華経をさとれる人とは申すなり此の三如是を本として是よりのこりの七つの如是はいでて十如是とは成りたるなり、此の十如是が百界にも千如にも三千世間にも成りたるなり、かくの如く多くの法門と成りて八万法蔵と云はるれどもすべて只一つの三諦の法にて三諦より外には法門なき事なり、其の故は百界と云うは仮諦なり千如と云うは空諦なり三千と云うは中諦なり空と仮と中とを三諦と云う事なれば百界千如・三千世間まで多くの法門と成りたりと云へども唯一つの三諦にてある事なり、されば始の三如是の三諦と終の七如是の三諦とは唯一つの三諦にて始と終と我が一身の中の理にて唯一物にて不可思議なりければ本と末とは究竟して等しとは説き給へるなり、是を如是本末究竟等とは申したるなり、始の三如是を本とし終の七如是を末として十の如是にてあるは我が身の中の三諦にてあるなり、此の三諦を三身如来とも云へば我が心身より外には善悪に付けてかみすぢ計りの法もなき物をされば我が身が頓て三身即一の本覚の如来にてはありける事なり、是をよそに思うを衆生とも迷いとも凡夫とも云うなり、是を我が身の上と知りぬるを如来とも覚とも聖人とも智者とも云うなり、かう解り明かに観ずれば此の身頓て今生の中に本覚の如来を顕はして即身成仏とはいはるるなり
この「凡夫の三身」を体顕する修行が勤行(法華経の読誦)です。十如是の三編読みで>> 3を体顕します。
勤行の後のお題目の唱題行はその体の「凡夫の三身」と用の「仏の三身」が『南無妙法蓮華経』で一つに融け合い(融合)、境と智が冥合した「境智冥合」を体顕する儀式です。
これによって体の仏と用の仏とが一体となって当体蓮華の真実の仏(本仏)が顕れて凡夫の身のまま即身で仏と成ります。
これを即身成仏と言います。
通相三観の仮一切仮が方便の解脱にあたり、空一切空が実慧の解脱、中一切中が真性の解脱となります。
<円融三観>
①+A+壱=仮一切仮 ---(方便の解脱)
②+B+弐=空一切空 ---(実慧の解脱)
③+C+参=中一切中 ---(真性の解脱)
これは相(仮観)・性(空観)・体(中観)の三つの世界観を阿頼耶識の三因でそれぞれ開いて顕れる世界観です。その世界観が欲界、色界、無色界の三界の世界観として凡夫の一身に顕われます。
方便の解脱=欲界 ---(応身)
実慧の解脱=色界 ---(報身)
真性の解脱=無色界 ---(法身)
これが体の仏である「凡夫の三身」です。