『成唯識論述記』の伝える安慧の一分説について http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/34873/jbk073-03-yoshimura.pdf
『成唯識論述記』訳注(三) https://shujitsu.repo.nii.ac.jp/record/406/files/07曾根訳注.pdf
『十地経』第五難勝地における 菩薩と衆生の関係性 松岡 明子 https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk/68/2/68_1027/_pdf/-char/ja
『成唯識論』第二講 へ続きます。 https://zawazawa.jp/bison/topic/33
「大円鏡智」として開かれる第八識については後ほど詳しくお話しようと思います。
ここでは唯識の意見が分かれる有相・無相の問題を
まづは取り上げてお話を進めて行きたいと思います。
この三乗の智慧が開かれてはじめて究極の仏の智慧が顕れます。
どこに顕れるのかと言いますと、
第八識に無為の法として「大円鏡智」として顕れます。
順に示すと次のように第八識はその呼び名が変ります。
析空で変化を見ることで第八識が「異熟識」となり、---(声聞の智慧)
体空で因果を観ることで第八識が「種子識」となり、---(縁覚の智慧)
法空で我と法を空じる事で第八識が「阿頼耶識」と変わります。---(菩薩の智慧)
阿羅漢(菩薩)は、その「阿頼耶識」という呼び名を捨てて、仏の覚り(大円鏡智)を得ると言います。
大乗の菩薩(別教の菩薩)は、二空で主観と客観を空じ仏の空観へ意識が入ります。
そして法空を覚る事で第八識が「阿頼耶識」と変わります。
自相の第八識は、別教の菩薩の境涯で覚る「阿頼耶識」です。
>> 32
因相の「種子識」と呼ぶ場合の境涯は縁覚です。
種子生現行(順観)と現行薫種子(逆観)の縁起を
「色即是空」と「空即是色」として覚った境涯です。
この第八識の三つの呼び名には更に深い意味が含まされております。
果相の「異熟識」と呼ぶ場合、そこでの境涯は声聞です。
因果の〝果〟としての種子が時間の変化(異時熟)でその姿が変化し(変異熟)、前六識で転変(第三能変)し現行して顕れる分別の色相(姿・形・風景)です。
>> 12の「執蔵=執我の義」が、逼計所執性で
>> 13の「所蔵=受薫の義」が、依他起性で
>> 14の「能蔵=持種の義」が、円成実性となります。
では、自相である「阿頼耶識」は、と言いますと、
逼計所執性・依他起性・円成実性からなる三性説です。
分別の相として顕れる十界の色相です。
過去世の自身の業によって生まれ出た
今のあなたの姿とあなたを取り巻く環境です。
(過去世の業によって生じた結果の色相)
そこに気づくと、更にもう一つ重要な事にも気づきます。
果相として観る「異熟識」が何を意味しているかという事です。
>> 16の「界と趣と生とを引く善・不善の業の異熟果なるが故に」
の言葉がそれを顕しております。
ここでは、色即是空が順観の縁起として説かれ ---(種子生現行)
空即是色が逆観の縁起として説かれております。 ---(現行薫種子)
しかし、この因相(種子識)が
仏の認識である空観を説いていると気づける人は、
そんなには居られないかと思います。
ここで言う「展転力」が何を意味するのか、 それは学者さんの中でも広く知られていることです。
「種子生現行」と「現行薫種子」による「種子生種子」による相続がここで説かれております。
>> 24の文章を読んである事に気づかれた方は、大した境涯の方でしょう。
学者さんでそれに気づけている人は
まず、居られないかと思います。
此の種子の中の種子は余の縁に助け助けられるが故に、即便ち是の如く是の如く転変す。謂く、生の位より転じて熟の時に至る。変ぜられる種は多なりということを顕さんとして、重ねて如是と言う。謂く、一切種に三熏習と共・不共等の識種を摂め尽くすが故に。展転力とは、謂く八の現識と及び彼の相応と相・見分等なり。彼は皆互いに相い助ける力有るが故に。即ち現識等を総じて分別と名づく。虚妄分別をもって自性と為すが故に。分別の類多きが故に彼彼と言えり。此の頌の意の説かく、外縁は無しと雖も、本識の中に一切種の転変する差別有るに由り。及び現行の八種の識等の展転する力を以ての故に、彼彼の分別而も亦た生ずることを得る。何ぞ外縁を仮って方に分別を起こさんや。諸々の浄法の起こることも、応に知るべし。亦た然なり。浄種と現行とを縁と為して生ずるが故に。
この因相としての「種子識」については、第18頌で詳しく説かれております。
種子識という言は、識の中の種子を顕す。種子を持する識には非ず。後に当に説くべきが故に。
第八識を「種子識」と呼ぶ時は、識の中の種子を顕しております。種子を持った識を顕しているのではありません。その意味はこの後に詳しく説かれております。
果の相に対し因の相として第八識をみるのが「種子識」です。
諸法の種子を執持して、失せざらしむるが故に、一切種と名づく。此に離れて、余の法、能く遍く諸法の種子を執持すること、得可からざるが故に、此は即ち、初能変の識に所有る因相を顕示す。この識の因相は、多種有りと雖も、種を持することは不共なり。
「執持」とは、しっかりと保持することを意味します。
変異熟は、姿や形、あり様が「縁」によって変化した様。
異時熟は、時間の相違を「縁」として生じた結果。
異類熟は、善や悪を因として生じる結果。
このような果の相として見る第八識が「異熟識」です。
〝異熟〟の意味は>> 19のような内容かと思われます。
そして、この異熟識には、次の三つの熟があると言われます。
変異熟・異時熟・異類熟
種子説の研究 近藤 伸介
https://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/HB/A085/HBA0851L001.pdf
異熟生には二つの意味があり、一つ目は「異熟という性質によって」、つまり異熟という過程を経て生じるが故に異熟生と呼ばれ、二つ目は異熟=アーラヤ識から生じるが故に異熟生と呼ばれる。この二つ目はでも説かれていたが、一つ目はアーラヤ識あるいは種子から果が生じる「過程」を異熟と名づけている。そして『成唯識論』になると、より明確に、異熟がアーラヤ識と現行識の間に生じる「変化の過程」であると語られることになる。
~省略~
アーラヤ識から現行識が生じること、及び現行識からアーラヤ識が生じることが異熟果であると述べられている。これに従えば、アーラヤ識と現行識は互いにとって、それぞれ異熟因であり、異熟果であることになる。すなわちアーラヤ識と現行識は相互に因となり果となる関係にありながら、互いに異質であるため、両者の間の変化は必ず異熟とされなければならない。これが唯識における異熟の意味するところである。そのことは、『成唯識論』の次の箇所からも明らかである。
此の識の果相は多くの位、多くの種ありと雖も、異熟というは、寛く不共なり。故に偏えに之を説けり。
ここでは「不共」という言葉が用いられております。
ここのレス3で詳しく紹介しておりますが、 https://zawazawa.jp/bison/topic/9
識と識の依存性を言い現わした用語が「共・不共」という言葉です。
「界と趣と生」とは、三界・五趣・四生の事で、
三界は「欲界・色界・無色界」、
五趣は、「天界、畜生界、地獄界、餓鬼界、人間界」、
四生は、生物の四種の生まれ方を言います。
胎生(母胎から生まれる人や獣など) 卵生(卵から生まれる鳥類など) 湿生(湿気から生まれる虫類など) 化生(他によって生まれるのでなく、みずからの業力によって忽然と生ずる、天・地獄・中有などの衆生)
能く諸の界と趣と生とを引く善・不善の業の異熟果なるが故に、説いて異熟と名ずく。此に離れて、命根(みょうこん)と衆同分等を恒時(ごうじ)に相続して勝れたる異熟果なりということは、得可(うべ)からざるが故に、此は即ち、初能変の識に所有(あらゆ)る果相を顕示す。
この分段で「果相」の側面が紹介されております。
このような第八識の「阿頼耶識」的(蔵)な側面を自相と言います。
第八識の三つの呼び名は、それぞれ、次のような三つの相を備えております。
「阿頼耶識」=自相
「一切種子識」=因相
「異熟識」=果相
能蔵は、「持種の義」と言いまして、
種子(業)を保持し続ける働きを言います。
このように「業」によって起こる因果の側面を言い表す時に
第八識は、「阿頼耶識」と呼ばれます。
個人の「業」によって生じる因果と縁起です。
それが、
「雑染(ぞうぜん)の与(ため)に互いに縁と為るが故に。」
の文句が意味するところです。
所蔵は、「受薫の義」と言いまして、
眼・耳・鼻・舌・身の前五識と第六意識・第七末那識の七つの識で起こる
「七転識」がこれにあたります。
果としての「業」が阿頼耶識に蓄えられていきます。
「因と果とを摂持して、自相と為すが故に。」とありますが、
「阿頼耶識」には全ての行いが「業」として蓄えられていきます。
その「業」が因となって末那識が縁となって執我が起こります。(執蔵=執我の義)
>> 9の文段では、「阿頼耶識」と呼ぶ場合は、
能蔵と所蔵と執蔵の意義(意味)があると言っております。
これを唯識では、「蔵の三義」と言います。
そして、雑染の為に互いに縁となると。
「雑染」とは、善・悪・無記の三つに通じて、一切の煩悩を増長するものです。
第八識の呼び名って、実は三つあるのをご存じでしょうか。
「阿頼耶識」と「一切種子識」と「異熟」です。
初能変の識を大・小乗教に阿頼耶と名ずく。此の識には具(つぶさ)に能蔵と所蔵と執蔵との義有るが故に。謂(いわ)く雑染(ぞうぜん)の与(ため)に互いに縁と為るが故に。
初能変とは、>> 5の ② の能取(主体)で起こる変化です。
トーク板で『成唯識論』を紹介しようと考えてましたが、
サティのしょーもな突っ込みがウザいので
こちらでする事にしました。 https://zawazawa.jp/bison/topic/32
『唯識三十頌』第二頌の『成唯識論』の解説文の一部(重要部)を紹介します。
識所変の相は、無量の種なりと雖も、而も能変の識の類別なることは、唯だ三のみなり。一には、謂く異熟、即ち第八識なり。多く異熟性なるが故に。二には、謂く思量、即ち第七識なり。恒に審に思量するが故に。三には、謂く了境、即ち前六識なり。境相の麤を了するが故に。及という言は、六を合して一種と為すことを顕す。 論じて曰く、初能変の識を大・小乗教に阿頼耶と名ずく。此の識には具に能蔵と所蔵と執蔵との義有るが故に。謂く雑染の与に互いに縁と為るが故に。有情に執せられ自の内我と為らるるが故に、此は即ち、初能変の識に、所有る自相を顕示す。因と果とを摂持して、自相と為すが故に。此の識の自相は分位多なりと雖も、蔵というは、初なり過重く、是の故に偏えに説けり。此は是れ、能く諸の界と趣と生とを引く善・不善の業の異熟果なるが故に、説いて異熟と名ずく。此に離れて、命根と衆同分等を恒時に相続して勝れたる異熟果なりということは、得可からざるが故に、此は即ち、初能変の識に所有る果相を顕示す。此の識の果相は多くの位、多くの種ありと雖も、異熟というは、寛く不共なり。故に偏えに之を説けり。此は能く、諸法の種子を執持して、失せざらしむるが故に、一切種と名づく。此に離れて、余の法、能く遍く諸法の種子を執持すること、得可からざるが故に、此は即ち、初能変の識に所有る因相を顕示す。この識の因相は、多種有りと雖も、種を持することは不共なり。是の故に偏えに説けり。初能変の識体の相は多なりと雖も、略して唯だ是の如き三相のみ有りと説く。
『唯識三十頌』第二頌
謂異熟思量 及了別境識
(いわく、異熟と思量と及び了別識との識ぞ)
「能変」の唯三つとは、「異熟と思量と了別識」と言っております。
異熟識=阿頼耶識
思量識=末那識 了別識=前六意(前五識と第六識)
玄奘は、『唯識三十頌』第一頌の
「彼依識所変 此能変唯三」を
「彼れは識が所変に依る。此れが能変は唯三つのみなり。」
と訳しておりまして、所変が「変化せしめられたもの」、即ち ① の客体、
能変は「変化せしめるもの」、即ち ② の主体となります。
「所変」=時間経緯で起こる此縁性縁起 ---(客体)
↑自然界の出来事(縁起)
「能変」=凡夫の認識(主観と客観) ---(主体)
その主体である凡夫の認識に、初能変と第二能変と第三能変の三つの能変があります。
客体 (① 見られる側)=真実のモノのあり様 主体 (② 見る側) =凡夫の認識(客観 ③ + 主観 ④ )
①=所取 ②=能取 ③=相分 ④=見分
この「主体と客体」の関係に対し、人の認識である「主観と客観」を唯識では、相分と見分とします。
主観=見分 客観=相分
『成唯識論述記』の伝える安慧の一分説について
http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/34873/jbk073-03-yoshimura.pdf
『成唯識論述記』訳注(三)
https://shujitsu.repo.nii.ac.jp/record/406/files/07曾根訳注.pdf
『十地経』第五難勝地における 菩薩と衆生の関係性 松岡 明子
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk/68/2/68_1027/_pdf/-char/ja
『成唯識論』第二講 へ続きます。
https://zawazawa.jp/bison/topic/33
「大円鏡智」として開かれる第八識については後ほど詳しくお話しようと思います。
ここでは唯識の意見が分かれる有相・無相の問題を
まづは取り上げてお話を進めて行きたいと思います。
この三乗の智慧が開かれてはじめて究極の仏の智慧が顕れます。
どこに顕れるのかと言いますと、
第八識に無為の法として「大円鏡智」として顕れます。
順に示すと次のように第八識はその呼び名が変ります。
析空で変化を見ることで第八識が「異熟識」となり、---(声聞の智慧)
体空で因果を観ることで第八識が「種子識」となり、---(縁覚の智慧)
法空で我と法を空じる事で第八識が「阿頼耶識」と変わります。---(菩薩の智慧)
阿羅漢(菩薩)は、その「阿頼耶識」という呼び名を捨てて、仏の覚り(大円鏡智)を得ると言います。
大乗の菩薩(別教の菩薩)は、二空で主観と客観を空じ仏の空観へ意識が入ります。
そして法空を覚る事で第八識が「阿頼耶識」と変わります。
自相の第八識は、別教の菩薩の境涯で覚る「阿頼耶識」です。
>> 32
因相の「種子識」と呼ぶ場合の境涯は縁覚です。
種子生現行(順観)と現行薫種子(逆観)の縁起を
「色即是空」と「空即是色」として覚った境涯です。
この第八識の三つの呼び名には更に深い意味が含まされております。
果相の「異熟識」と呼ぶ場合、そこでの境涯は声聞です。
因果の〝果〟としての種子が時間の変化(異時熟)でその姿が変化し(変異熟)、前六識で転変(第三能変)し現行して顕れる分別の色相(姿・形・風景)です。
>> 12の「執蔵=執我の義」が、逼計所執性で
>> 13の「所蔵=受薫の義」が、依他起性で
>> 14の「能蔵=持種の義」が、円成実性となります。
では、自相である「阿頼耶識」は、と言いますと、
逼計所執性・依他起性・円成実性からなる三性説です。
分別の相として顕れる十界の色相です。
過去世の自身の業によって生まれ出た
今のあなたの姿とあなたを取り巻く環境です。
(過去世の業によって生じた結果の色相)
そこに気づくと、更にもう一つ重要な事にも気づきます。
果相として観る「異熟識」が何を意味しているかという事です。
>> 16の「界と趣と生とを引く善・不善の業の異熟果なるが故に」
の言葉がそれを顕しております。
ここでは、色即是空が順観の縁起として説かれ ---(種子生現行)
空即是色が逆観の縁起として説かれております。 ---(現行薫種子)
しかし、この因相(種子識)が
仏の認識である空観を説いていると気づける人は、
そんなには居られないかと思います。
ここで言う「展転力」が何を意味するのか、
それは学者さんの中でも広く知られていることです。
「種子生現行」と「現行薫種子」による「種子生種子」による相続がここで説かれております。
>> 24の文章を読んである事に気づかれた方は、大した境涯の方でしょう。
学者さんでそれに気づけている人は
まず、居られないかと思います。
此の種子の中の種子は余の縁に助け助けられるが故に、即便ち是の如く是の如く転変す。謂く、生の位より転じて熟の時に至る。変ぜられる種は多なりということを顕さんとして、重ねて如是と言う。謂く、一切種に三熏習と共・不共等の識種を摂め尽くすが故に。展転力とは、謂く八の現識と及び彼の相応と相・見分等なり。彼は皆互いに相い助ける力有るが故に。即ち現識等を総じて分別と名づく。虚妄分別をもって自性と為すが故に。分別の類多きが故に彼彼と言えり。此の頌の意の説かく、外縁は無しと雖も、本識の中に一切種の転変する差別有るに由り。及び現行の八種の識等の展転する力を以ての故に、彼彼の分別而も亦た生ずることを得る。何ぞ外縁を仮って方に分別を起こさんや。諸々の浄法の起こることも、応に知るべし。亦た然なり。浄種と現行とを縁と為して生ずるが故に。
この因相としての「種子識」については、第18頌で詳しく説かれております。
種子識という言は、識の中の種子を顕す。種子を持する識には非ず。後に当に説くべきが故に。
第八識を「種子識」と呼ぶ時は、識の中の種子を顕しております。種子を持った識を顕しているのではありません。その意味はこの後に詳しく説かれております。
果の相に対し因の相として第八識をみるのが「種子識」です。
諸法の種子を執持して、失せざらしむるが故に、一切種と名づく。此に離れて、余の法、能く遍く諸法の種子を執持すること、得可からざるが故に、此は即ち、初能変の識に所有る因相を顕示す。この識の因相は、多種有りと雖も、種を持することは不共なり。
「執持」とは、しっかりと保持することを意味します。
変異熟は、姿や形、あり様が「縁」によって変化した様。
異時熟は、時間の相違を「縁」として生じた結果。
異類熟は、善や悪を因として生じる結果。
このような果の相として見る第八識が「異熟識」です。
〝異熟〟の意味は>> 19のような内容かと思われます。
そして、この異熟識には、次の三つの熟があると言われます。
変異熟・異時熟・異類熟
種子説の研究 近藤 伸介
https://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/HB/A085/HBA0851L001.pdf
異熟生には二つの意味があり、一つ目は「異熟という性質によって」、つまり異熟という過程を経て生じるが故に異熟生と呼ばれ、二つ目は異熟=アーラヤ識から生じるが故に異熟生と呼ばれる。この二つ目はでも説かれていたが、一つ目はアーラヤ識あるいは種子から果が生じる「過程」を異熟と名づけている。そして『成唯識論』になると、より明確に、異熟がアーラヤ識と現行識の間に生じる「変化の過程」であると語られることになる。
~省略~
アーラヤ識から現行識が生じること、及び現行識からアーラヤ識が生じることが異熟果であると述べられている。これに従えば、アーラヤ識と現行識は互いにとって、それぞれ異熟因であり、異熟果であることになる。すなわちアーラヤ識と現行識は相互に因となり果となる関係にありながら、互いに異質であるため、両者の間の変化は必ず異熟とされなければならない。これが唯識における異熟の意味するところである。そのことは、『成唯識論』の次の箇所からも明らかである。
此の識の果相は多くの位、多くの種ありと雖も、異熟というは、寛く不共なり。故に偏えに之を説けり。
ここでは「不共」という言葉が用いられております。
ここのレス3で詳しく紹介しておりますが、
https://zawazawa.jp/bison/topic/9
識と識の依存性を言い現わした用語が「共・不共」という言葉です。
「界と趣と生」とは、三界・五趣・四生の事で、
三界は「欲界・色界・無色界」、
五趣は、「天界、畜生界、地獄界、餓鬼界、人間界」、
四生は、生物の四種の生まれ方を言います。
胎生(母胎から生まれる人や獣など)
卵生(卵から生まれる鳥類など)
湿生(湿気から生まれる虫類など)
化生(他によって生まれるのでなく、みずからの業力によって忽然と生ずる、天・地獄・中有などの衆生)
能く諸の界と趣と生とを引く善・不善の業の異熟果なるが故に、説いて異熟と名ずく。此に離れて、命根(みょうこん)と衆同分等を恒時(ごうじ)に相続して勝れたる異熟果なりということは、得可(うべ)からざるが故に、此は即ち、初能変の識に所有(あらゆ)る果相を顕示す。
この分段で「果相」の側面が紹介されております。
このような第八識の「阿頼耶識」的(蔵)な側面を自相と言います。
第八識の三つの呼び名は、それぞれ、次のような三つの相を備えております。
「阿頼耶識」=自相
「一切種子識」=因相
「異熟識」=果相
能蔵は、「持種の義」と言いまして、
種子(業)を保持し続ける働きを言います。
このように「業」によって起こる因果の側面を言い表す時に
第八識は、「阿頼耶識」と呼ばれます。
個人の「業」によって生じる因果と縁起です。
それが、
「雑染(ぞうぜん)の与(ため)に互いに縁と為るが故に。」
の文句が意味するところです。
所蔵は、「受薫の義」と言いまして、
眼・耳・鼻・舌・身の前五識と第六意識・第七末那識の七つの識で起こる
「七転識」がこれにあたります。
果としての「業」が阿頼耶識に蓄えられていきます。
「因と果とを摂持して、自相と為すが故に。」とありますが、
「阿頼耶識」には全ての行いが「業」として蓄えられていきます。
その「業」が因となって末那識が縁となって執我が起こります。(執蔵=執我の義)
>> 9の文段では、「阿頼耶識」と呼ぶ場合は、
能蔵と所蔵と執蔵の意義(意味)があると言っております。
これを唯識では、「蔵の三義」と言います。
そして、雑染の為に互いに縁となると。
「雑染」とは、善・悪・無記の三つに通じて、一切の煩悩を増長するものです。
第八識の呼び名って、実は三つあるのをご存じでしょうか。
「阿頼耶識」と「一切種子識」と「異熟」です。
初能変の識を大・小乗教に阿頼耶と名ずく。此の識には具(つぶさ)に能蔵と所蔵と執蔵との義有るが故に。謂(いわ)く雑染(ぞうぜん)の与(ため)に互いに縁と為るが故に。
初能変とは、>> 5の ② の能取(主体)で起こる変化です。
トーク板で『成唯識論』を紹介しようと考えてましたが、
サティのしょーもな突っ込みがウザいので
こちらでする事にしました。
https://zawazawa.jp/bison/topic/32
『唯識三十頌』第二頌の『成唯識論』の解説文の一部(重要部)を紹介します。
識所変の相は、無量の種なりと雖も、而も能変の識の類別なることは、唯だ三のみなり。一には、謂く異熟、即ち第八識なり。多く異熟性なるが故に。二には、謂く思量、即ち第七識なり。恒に審に思量するが故に。三には、謂く了境、即ち前六識なり。境相の麤を了するが故に。及という言は、六を合して一種と為すことを顕す。
論じて曰く、初能変の識を大・小乗教に阿頼耶と名ずく。此の識には具に能蔵と所蔵と執蔵との義有るが故に。謂く雑染の与に互いに縁と為るが故に。有情に執せられ自の内我と為らるるが故に、此は即ち、初能変の識に、所有る自相を顕示す。因と果とを摂持して、自相と為すが故に。此の識の自相は分位多なりと雖も、蔵というは、初なり過重く、是の故に偏えに説けり。此は是れ、能く諸の界と趣と生とを引く善・不善の業の異熟果なるが故に、説いて異熟と名ずく。此に離れて、命根と衆同分等を恒時に相続して勝れたる異熟果なりということは、得可からざるが故に、此は即ち、初能変の識に所有る果相を顕示す。此の識の果相は多くの位、多くの種ありと雖も、異熟というは、寛く不共なり。故に偏えに之を説けり。此は能く、諸法の種子を執持して、失せざらしむるが故に、一切種と名づく。此に離れて、余の法、能く遍く諸法の種子を執持すること、得可からざるが故に、此は即ち、初能変の識に所有る因相を顕示す。この識の因相は、多種有りと雖も、種を持することは不共なり。是の故に偏えに説けり。初能変の識体の相は多なりと雖も、略して唯だ是の如き三相のみ有りと説く。
『唯識三十頌』第二頌
謂異熟思量 及了別境識
(いわく、異熟と思量と及び了別識との識ぞ)
「能変」の唯三つとは、「異熟と思量と了別識」と言っております。
異熟識=阿頼耶識
思量識=末那識
了別識=前六意(前五識と第六識)
玄奘は、『唯識三十頌』第一頌の
「彼依識所変 此能変唯三」を
「彼れは識が所変に依る。此れが能変は唯三つのみなり。」
と訳しておりまして、所変が「変化せしめられたもの」、即ち ① の客体、
能変は「変化せしめるもの」、即ち ② の主体となります。
「所変」=時間経緯で起こる此縁性縁起 ---(客体)
↑自然界の出来事(縁起)
「能変」=凡夫の認識(主観と客観) ---(主体)
その主体である凡夫の認識に、初能変と第二能変と第三能変の三つの能変があります。
客体 (① 見られる側)=真実のモノのあり様
主体 (② 見る側) =凡夫の認識(客観 ③ + 主観 ④ )
①=所取 ②=能取 ③=相分 ④=見分
この「主体と客体」の関係に対し、人の認識である「主観と客観」を唯識では、相分と見分とします。
主観=見分
客観=相分