文章が史実と小ネタに分割されている上に、このwikiらしい日本流の洒落も利いていて大変面白く良い草案となっていますね。
ただミームとセルフツッコミが効きすぎている点などが散見される事などから、それを修正した案を提案させていただきます。
本機はキ21「九七式重爆撃機」、キ49「一〇〇式重爆撃機/呑龍」の後継として生まれた、2000馬力級のハ104を搭載した双発爆撃機である。
大馬力の恩恵による優秀な運動性は単発機級、あるいは爆弾未搭載時には曲芸飛行も出来ると評価を得る程であった。
また機体強度も高く、水平爆撃機ながら装着した急降下爆撃用速度計が600km/h以上を示しても何ら異常はなかったと言われており、これらの利点は実戦での生存性にプラスされ、制空権が失われた大戦末期に本機が辛うじてでも活動出来た要因に繋がった。
前任機と比較すると、キ21で見られた欠点も改良され、縦安定性改善のために胴体前部が延長。
また、キ21・キ49では前方機銃への通路に右側操縦席が圧迫され、いくつかの計器が省略されていた((これは編隊を組む時、左側に占位した場合に機長が隊長機を視認すべく、右操縦席に座った際に不都合だった))問題を、本機では操縦室の胴体幅を拡大して中央に通路を設ける事で解消している。
同カテゴリの目玉である航続距離も、三菱は経験則的に陸軍の要求値(一説には呑龍超えたらOK程度のアバウトさ)を上回る''3800km''を独自目標で定めており、一式陸攻などのノウハウをふんだんに活かしてキ21の2700km・キ49の3000kmを大幅に上回る数値を実現した。これにより陸軍重爆としては最も長距離を飛べる機体となり、陸攻以上の強力な武装と装甲・それに次ぐ大航続距離には海軍すらも注目、まさに日本重爆の集大成とも言える仕上がりであった。
本機は先述の通り昭和17年(1942年)12月27日に試験飛行の後、19年8月(12月という諸説あり)に制式化された。
なお、生産自体は昭和18年から先行開始しており、キ84(四式戦闘機疾風)と共に『大東亜決戦機』と号されて、重点的生産が陸軍より命令されセル生産方式がとられた。
しかし、本土空襲の激化や工場の疎開に伴う混乱などが重なる内に、戦局は防戦一方に転じて活躍の場は失われ、僅か635機の製造に留まってしまった。なお、451号機以降は尾部12.7mm機銃が連装型になり、名称も「一型乙」と変更された(しかし一部には機関砲調達が間に合わず、やむを得ず単装の機体もあった)
戦果に関しては、サイパン島や硫黄島の戦いで小規模ながら夜間爆撃を成功させている。また、沖縄戦では第60戦隊と第110戦隊が義号作戦の支援機として、照明弾の投下や先行爆撃を行ったものの、その活動は決戦機の名とは裏腹に非活発であり、記録された戦果は少ない。
これは本格的な運用が始まった辺りの戦況的に、高速・少量搭載(=大量に爆撃するには複数回往復が必要)の本機の特性が特段噛み合わなかったせいと言える(なお、最優先された速力も流石に生存性を担保するには限度があり、初の大規模出動となる台湾航空戦で早々に壊滅の憂き目を見ていた)
やがて燃料や資材の懐事情も相まって、生産機の多くは本土決戦機温存という事で外地に供給されなくなったのも追い打ちをかけているだろう。
程なくして本業が開店休業状態になってしまった本機は、最新鋭機ながら古株のキ48「九九式双発軽爆撃機」と共に特攻機となる事が決定してしまう(とはいえ赤トンボすら突っ込ませようとする''特攻に脳を焼かれた上層部''の前には、超が付くほどの航続距離不足や最新戦闘機でも無い機体で免除される方が珍しいが)
特攻機への改修は密かに進められ、本機による特攻を敢行する部隊は"富嶽隊"と称し、制式化から僅か3ヶ月後の昭和19年11月13日には初めて特攻が行われた(戦果不詳)。なお、この中にはキ167なる特殊仕様も存在していた。
こうして本機は『大東亜決戦機』として大きな期待をかけられながらも、時代錯誤な仕様が祟って戦局に寄与する所は少なかった。その結果、少数生産に留まり一泡吹かす事も出来ず終戦を迎えたのである。
本機の不幸は「爆装を犠牲に高速度で敵機を振り切る」というキ21から伝統の戦闘機不要論を引きずった当局の思想と実戦のミスマッチにあったかもしれない。呑龍から引き続き、重爆撃機の名を冠しながらも最大爆装量は後に単発機ですら実現・超えてみせる1t程度で、それを補償する為に必要な機数と出撃回数が案の定膨大になり((小爆装高速機の大量投入とは、言い方を変えれば「爆弾1個を運ぶのに割り当てるエンジンの数を際限なく増やす」という、極めて贅沢というか無駄遣い的な事である))、43年以降の更なる貧窮の我が国にとって悪手となったのも見逃せない。
((とはいえ本機の仕様書の元となった設計方針が陸軍より出されたのは昭和15年、1940年である。この頃は丁度日中戦争で重慶爆撃が開始された時期であり、それまでに得られていた戦訓を鑑みると「爆装を犠牲に高速度で敵機を振り切る」という方針を採用するのも無理は無いと言えなくもない。さらにWW2前後での「戦闘機の劇的進化」を考えると、「想定した敵機の性能がやや控えめ」な段階だった可能性もありうる。さらに上層部も爆装の少なさとそれに起因する爆撃効率の悪さには頭を悩ませていたらしく、30kg爆弾((より小型の爆弾を雨あられと降らせる事で薄く広く爆撃する事を目論んだ))の開発や爆装量を1.5t程に強化した後期生産型の設計なども行っている。))
なお陸軍は対中ソ戦線より南方の戦場でより強力な英米などの連合軍との戦いで得た教訓から反省したのか、後継機には本機の特色を濃く受け継ぐ「キ90」を取りやめ、単発単座のキ119((川崎製。本機と同等の爆撃能力、遥かに優れた経済性と空中性能を持つ))を選択したのであった。
小ネタ用
出来らぁ!
というやり取りがなされたかはさておき、時は生産真っ只中の昭和19年1月。「本機の内100機に雷撃装備をつけろ」と陸軍(!?)より命令があり、試作機の中から2機が改造されて海軍指導下で雷撃試験が行われ、良好な結果を残した。((一説によると、開発が遅れていたキ67が採用されたのはこの雷撃装備が良好な結果を残したが故であるとか))
このため、生産中であった甲型の160号機以降は魚雷搭載型として製造されることになり、本機は「雷撃可能な陸軍重爆」という珍しい特徴を備えた機体となった。とはいえ、最初から雷撃を考慮した設計ではないので、魚雷は爆弾倉に格納するのではなく機外懸架となった。この雷撃型は、海軍内では非公式に「靖国」という通称で呼ばれていた。
こうして本機を配備する海軍及び''陸軍''雷撃隊は、豊橋海軍航空隊と浜松陸軍飛行場にて訓練を実施、夜間雷撃に奮戦したものの米側の損害記録はなく、一方的に被害を被っただけに終わってしまった。レーダー付きボフォースには勝てなかったよ…
飛龍をベースに、一切の防御装備を排除・直径1.6m・重量2.9tにも及ぶ巨大な対艦自爆用成形炸薬弾頭『桜弾』((「爆発すれば前方3km、後方300mが吹き飛ぶ」という前代未聞の超大型HEAT爆弾))を内蔵するという無茶苦茶で悲惨な改造を施したモノ。
あまりに自爆弾頭が巨大で爆弾倉に収まらなかったため、胴体背面にザラマンダーを思い出させるような巨大なバルジを隆起させて機体内部に無理矢理詰め込んだ構造となっている。このバルジが猛烈な抵抗を産んだ上、貧弱なペイロードの三倍に及ぶ過積載により水平飛行も儘ならず、当の陸軍からも「これで敵の防空網を突破して艦船に特攻するのは無理がある」という意見が内部から出てくる程であった。
なお当機は沖縄戦に投入されたらしいが、戦果なども不明である。
ご意見あれば…