>> 7681
清原元輔の娘がどういう経緯で『枕草子』を書き始めたのかは、実は分かっていない。
今回の大河ドラマは、跋文の中宮定子「帝は史記といふ文を」から清少納言「枕にこそはべらめ」に至る逸話と(おそらく「枕詞」の意だろう、という点は多くの論者が一致)、四季を描いた第1段「春はあけぼの」が『史記』との掛詞(てゆーかダジャレ)になっている点(今まで専門家はほとんど指摘していないのでは?)、そして『枕草子』は定子と周囲の栄華のみ描き悲劇には一切触れていないこと、この3つの事実から創作されたオリジナル脚本。
しかし、日本人の大半は古典の授業を忘れたのか受けていないのか、知って身に着けようという意識も無いのか、史実とドラマの異同さえ考えることなく「そうだったのか!」とあっさり受け入れている(バカ丸出し)。かつて大本営発表を無批判に鵜呑みしていた臣民どもと同じ穴の狢(ムジナ)だわね(さすが子孫、蛙の子は蛙、瓜の蔓に茄子は成らぬ)。
紫式部も清少納言も生没年不詳だということさえ知らない無教養どもは、1000年末の定子死去後は宮中から退いた清少納言と1006年暮れに初めて一条院にて彰子に仕えた紫式部が、実は1度も会ったことがないだろうという学識経験者の指摘さえ知らない(大河ドラマでは式部の生年は道長と同じ966年説だけど、あたし個人は973年説)。
もし脚本通りなら、藤原為時の娘は早くから才女として評判になり既に宮中に仕えていて当然であるだけでなく、とっくにどこぞの貴族の妻か妾になっている年頃だし、百人一首所収「夜をこめて鶏の空音は」の和歌でも分かるほど自己顕示欲や承認欲求が強い清少納言も紙を与えられて早速何かしら書きつけていたはず。
何も定子落飾直後のタイミングで『枕草子』を書き始める必要はなく、以前に紙をもらったのだからもっと早くから書くほうが自然であり、清少納言のブログ&ツイッターが評判になれば一条天皇も定子のサロンに来やすくなる(後の『源氏物語』は彰子サロンに天皇を呼び込むネタとして書かれた側面もある)。そのうえ、第1段から書いたという証拠もない(『枕草子』の時系列や配列はメチャクチャで、バラバラの紙に書き散らしたものが順序に関係なく世に出回り、後で冊子にまとめられる結果になっただけで、だから「三巻本」など複数の配列があるw ついでながら『源氏物語』も「桐壺」ではなく「雨夜の品定め」や「若紫」から先に書いていた可能性もあるわけで、並びの巻も含めて構成は後からでも追加や変更がいくらでも可能)。
まァ、名ばかり高卒や名ばかり大卒が多すぎるから、浅学軽薄で恋愛&推しメインストーリーのトレンディ大河ドラマに感銘して「古典を勉強したくなった」とツイートする不勉強のアホどもが(さらには「そう思う」を押すマヌケどもも)目立ってしまう(笑えない現実)。
どうせ今だけ、書き込む瞬間だけよ、だって書店でもAmazonでも、大河ドラマの写真集的解説本は売れても(あたしは寡聞のせいか)『枕草子』や『源氏物語』は現代語訳さえ販売が急増しているなんて見聞きしたことさえないんだわ(これまた笑えない現実)。
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「蛍の多く飛び違ひたる」で嗚咽。『枕草子』に込められた清少納言の中宮定子への愛と忠心【光る君へ 満喫リポート】
https://news.yahoo.co.jp/articles/b7a240102639039e5e282baa040a457e9af5c74a