結構昔からの疑問なのですが、この生きてるのは夢なんですかね、現実なんですかね。
この今見えているもの、今までの思い出…死んだらこれらは見えなくなったり、思い出せなくなったりするじゃないですか、多分。
そう考えるとこれらが夢か現実かわからなくなりません?
少なくとも私はそうなのですが…。
あともう一つ疑問があるのですが死んだ側からの視点ってどうなるんでしょうね。
私達から見たら死んだというのはわかるじゃないですか。本人からしたらどのよううな状況になるんですかね。
結構昔からの疑問なのですが、この生きてるのは夢なんですかね、現実なんですかね。
この今見えているもの、今までの思い出…死んだらこれらは見えなくなったり、思い出せなくなったりするじゃないですか、多分。
そう考えるとこれらが夢か現実かわからなくなりません?
少なくとも私はそうなのですが…。
あともう一つ疑問があるのですが死んだ側からの視点ってどうなるんでしょうね。
私達から見たら死んだというのはわかるじゃないですか。本人からしたらどのよううな状況になるんですかね。
なにこの非生産的なテーマ。
妄想症の患者が集うサナトリウムじゃあるまいし、もっとマシなトピック立てろよ。
まじでバップすぎんだろw
えー。
別にいいじゃないですかー。
因みに天使さん的にはどっちだと思います?
病院行けばいいと思うよ。
そうすれば夢か現実かわかるんじゃない?
病院いったらわかるんですか?
精神病院か何か?どのような病院か具体的にお願いしまーす。
"病院"自体には誰しもが行ったことあると思います。
あ、勿論私は行った事ありますよ!
病院に行けばわかるんですよね?私行ったことありますがわかりません!なぜでしょうか!
喧嘩中毒者さん喧嘩しようよ
それがどこ情報か知りませんけど私は喧嘩中毒者じゃないですよー
喧嘩は気が向いたらしましょう
クソスレ上げるならそれなりの文章書けよ。
それができないなら一回死んで検証してこい。
黄泉の国で死人に口無しという問題を解決してからまた再会しような。
その日がやってくることを期待せずに待っておくぞ。
達者でな。
ちなみにこの世界が明晰夢のようなものであったとして、夢の中で夢であることに気付くことは至難の業だと思います。
もしかしたらこの世界はマトリックスみたいな構造になっているのかもしれないけれど、確認する手段なんて俺は思いつかない。
ただ、夢の世界にしろ死後の世界にしろ2重スリット実験みたいな観測してない状態の世界の在り方ってのはあるかもしれないね。
そういえば似たような話で知人のエンジニアがおもしろいこと言ってたよ。
いわゆるプログラムのエラーが起こると、その原因を追求しようとするわけなんだが、直す前に勝手に直ってるという現象が稀にあるらしい。
なぜ直ったのか意味不明なケースにおいては、この画面上の現象が、俺たちが認識している物理世界の構造として起こり表出したものが幽霊とか超常現象とかその類のものだったりするんじゃないかなぁって。
死にたくなんかないですよー
死んだらどうなるかがわからないから怖くて死ねません
____________________
至難の業ですね…。二週間ほど立ってもう一度考えたとき気づきました。
確認する手段があれば確認してる人は多いと思います。
そんな世界の在り方なら面白そうですね。いつかそれすらもわかるようなものができたらもっと興味が出そう!
2重スリット実験のようなことは私達の身近にもあるってことですね。
認識できないものって興味出てきます。
誰にもわからないから知りたいって思いません?
うん、なにやら書けばいいかよくわからんけど、仮に夢だったとしたら、どうなるの?
目を醒ますの?
夢の中のまんまなの?
前者なら、そこに現実があるし、後者なら、そこで生きることになるんだから、どちらにしたってやりたいこと、やれることをすればいいだけじゃないか?
環境を楽しめばいいと思うよ。
あの後自分の中で考えたのですが、夢って目を覚ますとわかるじゃないですか。そうなるとここが現実の可能性があります。
けど、死んでしまったあとの世界はわからないから現実かどうかが不明。もしかしたらそれが夢だった、とわかるかもしれませんし。
やりたいことはやってますよ。今こうして今やりたいことがこれだったから返してる。
環境を楽しんではいるんですよねー。
これは楽しんでいるからこその疑問なんです。
ずっと生きたい、そう願っていても人はいつか死ぬからその死のことを考えているんです。
つまんね~~~~~~~・・・・・・・・・・・・・・・・・・
夜に返事します
水槽の脳の話してんの?
ならこれ永遠に答え出ない気がするけど。
だからクソスレなんて言われんじゃない?
あ、そんな言葉があるんですね!学べました、ありがとうございます。
まあ永遠に続くのはわかります。
ただ、目的としては他の意見を聞くためです。
クソスレになるんですかね、他の人の意見を聞くスレが。
芥川龍之介の小説に、『黄粱夢』という話があります。
これは、盧生という人物が夢の中で、自分の一生を経験するという「邯鄲の枕」から題材をとった物語です。
その小説の最後の方に、こう書かれています。
ここが夢だとしても現実だとしても、自分が生きたと言えるほど生きれば、それでいいんじゃないですか?
死んだあとのことなんて死んだ人にしか分からないんですから、杞憂だと思いますよ。
生きたというのは言えると思います。
例え夢の中だとしても生きているような感覚はあるのですから。
死にたくないから死んだあとを考えるんですよ。死んだあとに希望があるのならこれについて悩んでいる人にとったら気持ちが軽くなると思うんですよね。
因みに私の言う希望はその先も生きているような感覚などのことです。
君には我思うゆえに我ありという言葉を教えてあげますからこれを以て自己解決しなさい。
しかし他の人の意見を見ても思考停止ばかりなんじゃないですか。
ちなみに、わたしも夢の中で死んだことがあります。
死んだというのは厳密にはわかりませんが、そういう体験をしたという話です。
その時の夢の内容を書きます。
わたしは病床にいて、ちょうど緊急の手術に運ばれようとするところでした。
不思議なのは、わたし自身が、それを上から見ているということです。
ざわついた病室から運び出されていくわたしを見て、「ああ、死ぬんだな」って思いました。
だって、"わたし"は、外に出れなかったんですから。
視点が変わって、今度は緊急手術前のわたしになりました。
ただ眩しいだけで、はっきりとは見えず、人工呼吸器の規則ただしい音を聴いてました。
「麻酔入れますよ」
そんな声がすると、数秒で身体が痺れ始めた。意識がもうろうとしてくる。
視界もどんどん暗くなっていく中で、ぼんやりと死んだ友達が頭をよぎります。
(ごめんなさい…)
それがわたしの最期のことばでした。
夢から醒めても、すぐには夢だと思えなかった。
あの時感じた感覚が、そのまま疼痛として残ってたからです。
もしかしたら、あれはひとつの現実だったのかもしれません。
その夢すごいですね…死を体験できる夢…そんな夢を見たいです。そうすれば解決できそう、この悩みも。
こんばんは~
あ、やほです!さんこいちの一人が来てくれて嬉しいです♪
どもども!
やっと慣れて来た所です
こんばんは~
>> 19
では聞きますが、仮に希望を持たせたとして、現実がそうでなければ、あなたはどう責任をとるんですか?
世間では、天国や地獄、極楽浄土などと言われてますが、死後の世界は実際に死んでみないとわからないんです。
たとえば、病気で死ぬかもしれない人は、そんな死後の世界を信じつつも疑います。
そこにあるのは、一生続く不安・恐怖です。
このやりとりを見て、多少の安心を与えるかもしれない。
でも、死んだ先で、もっと苦しい現実が待っていたとしたらどうするんですか?
あなたにその重みがわかりますか?
ちなみに、わたしは、死後の世界は苦痛しかないと思います。
具体的には、無限の闇です。
真っ暗で、光も音もなく、感覚もわからない。ただただ続く深淵の孤独。
自分がいるのかいないのかもわからない世界。
だから、わたしは、死にたくない。
たとえ余命宣告を受けたとしても、ウィルスに心臓を止められそうになっても、生きて生きて生き抜きたい。
本当に病気の人は、もっと苦しいかもしれないですけど、そばにいる大切な人のためにそうであってほしいと願います。
苦痛と思うのは現実世界から見た感覚であって、死後の世界からしたら全く違う感覚のはずですよ。例えば海の中は我々からすれば不自由な世界ですが、海中生物にとっては地上よりは自由な世界なんですよ。君は海中生物に生まれたくないと言ってるのと同じです。その世界でしか分からない事がありますよ。よって死後の苦しさを想像で語るのは全くナンセンスですよ。
>> 18
他の人の意見も何も、これが夢か現実かとか死んだらどうなるかとかってそんなもん「分かりません」以外答えようがないじゃん。
私的には知的好奇心を刺激する面白いテーマと感じたので投稿する。
ひも理論にも似た「世界は実はヒモ状の波動でできている」「現実とは投写(ホログラフィック)である」と言った信じがたい説と、そんな理論を全く無知なままにふとそう言ったような気がするヴィジョン。ある意味において感覚と究極の理論がリンクしてしまうようなテーマだと思う。
確か映画マトリックスも似たようなテーマだったね。
もちろん普通に生きているならば、現実世界において「ここは夢の世界である」可能性は排除されている。そんな疑問が少しでも浮かんで信じたりしたら、そもそも生を支えている主軸となるベース(物語)そのものにヒビが入る。本気でそう思えばそう思うほど、メンタルクリニック入りは不回避になる。
ゲームの中の主人公が「ここはゲームの世界かもしれない、そうに違いない」とかいちいち言ったら規定していたゲームの世界観が崩れてしまうように。
しかしここで言いたいことは「実は現実は夢の世界」なのかも知れないという感覚が、妄想なのかそうでないかの判断をするのは常に「夢ではないと思っている人たち」によって決定付けられるという点だと思う。この時点でそもそも殆ど議論の体をなしてない。
だから常にそのような疑問に真摯に向き合う人は、めちゃくちゃ頭がいい奇才の物理学者か、もしくはそんなテーマにも話してみようと思う変人くらい。だから議論の議題にしにくいテーマでもある気がしている。
ただ、それが物事の本質から逸れているのかといえば、そうは言い切れない切り口だと思う。
こういうことは色々な人間社会が人間社会であるために作り出されたシステムにも似たようなことが散見されると思う。言葉は実はただの音じゃないか、とか お金はただの紙じゃないか、とか。
で、ここで言いたいことは「はい、言葉はただの音です、無意味です、だから言葉に意味はないです、とか「はい現実世界は実は夢です、ホログラフィックです」っていう全てを巨視した結果行き着いたようなロジックでさえ、人間社会のシステムの構築(意味があると見なす世界)に組み込まれる部品になりうると私は考える。
だからこういった「現実が夢かもしれない」みたいな「それがそうだったとしてどうなるよ?」みたいな感覚や、発想も、むしろそういう一見「非生産的」なテーマの追求が結果的に「より本質めいた生産」へ一役買う場合もあるんじゃない?というようなことが言いたかった。具体的には、そういう発想のもとに作った芸術作品や、物語や、アカデミック分野では新しい理論の物理学の発展に検討するとか。
人間は経済であれ、言葉であれシステム下に組み込まれた範囲でしか基本的に生きていけないのは前提だけれど、そのシステムの完全な奴隷であることを拒絶するような発想で楽しいと思った次第。
もし死後の世界が確認されたら
死に際の言葉は「さようなら」ではなく「いってきます」になって
MMORPGからログアウトするような感覚で自殺する人が急増したりするかもな。
マズ宇宙の果てはどうなっているのか論からスタートしなぜ存在は存在するのか論を通り越しそこからようやくのようやく現実か夢かのテーマに回帰していくことをオススメしたいと思いましたまる