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現実か夢か / 28

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長月 2020/05/19 (火) 18:13:52 67b3d@8b05e

私的には知的好奇心を刺激する面白いテーマと感じたので投稿する。
ひも理論にも似た「世界は実はヒモ状の波動でできている」「現実とは投写(ホログラフィック)である」と言った信じがたい説と、そんな理論を全く無知なままにふとそう言ったような気がするヴィジョン。ある意味において感覚と究極の理論がリンクしてしまうようなテーマだと思う。
確か映画マトリックスも似たようなテーマだったね。

もちろん普通に生きているならば、現実世界において「ここは夢の世界である」可能性は排除されている。そんな疑問が少しでも浮かんで信じたりしたら、そもそも生を支えている主軸となるベース(物語)そのものにヒビが入る。本気でそう思えばそう思うほど、メンタルクリニック入りは不回避になる。
ゲームの中の主人公が「ここはゲームの世界かもしれない、そうに違いない」とかいちいち言ったら規定していたゲームの世界観が崩れてしまうように。
しかしここで言いたいことは「実は現実は夢の世界」なのかも知れないという感覚が、妄想なのかそうでないかの判断をするのは常に「夢ではないと思っている人たち」によって決定付けられるという点だと思う。この時点でそもそも殆ど議論の体をなしてない。
だから常にそのような疑問に真摯に向き合う人は、めちゃくちゃ頭がいい奇才の物理学者か、もしくはそんなテーマにも話してみようと思う変人くらい。だから議論の議題にしにくいテーマでもある気がしている。
ただ、それが物事の本質から逸れているのかといえば、そうは言い切れない切り口だと思う。

こういうことは色々な人間社会が人間社会であるために作り出されたシステムにも似たようなことが散見されると思う。言葉は実はただの音じゃないか、とか お金はただの紙じゃないか、とか。
で、ここで言いたいことは「はい、言葉はただの音です、無意味です、だから言葉に意味はないです、とか「はい現実世界は実は夢です、ホログラフィックです」っていう全てを巨視した結果行き着いたようなロジックでさえ、人間社会のシステムの構築(意味があると見なす世界)に組み込まれる部品になりうると私は考える。
だからこういった「現実が夢かもしれない」みたいな「それがそうだったとしてどうなるよ?」みたいな感覚や、発想も、むしろそういう一見「非生産的」なテーマの追求が結果的に「より本質めいた生産」へ一役買う場合もあるんじゃない?というようなことが言いたかった。具体的には、そういう発想のもとに作った芸術作品や、物語や、アカデミック分野では新しい理論の物理学の発展に検討するとか。
人間は経済であれ、言葉であれシステム下に組み込まれた範囲でしか基本的に生きていけないのは前提だけれど、そのシステムの完全な奴隷であることを拒絶するような発想で楽しいと思った次第。

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