私は今日も夢を見る。 いつものように、また、悪夢を見ている。 それを自覚しているのに、目を覚ますことが出来ない。 起きようと意識を集中させても、舌を噛み切ってみても、目の前の景色が変わることはなかった。
「……」
私は途方に暮れて辺りを見回した。 …………。 ……仄暗くてよく見えないけど、ここが閉鎖空間ということだけはなんとなく分かる。
「…………」
真っ暗ではないということは、どこかから光が入り込んでいるのかもしれない。 私は光の源を探して見ることにした。
ぽふ
「……?」
一歩足を踏み出してみると、足が地面に沈みこんだ。 妙な感覚だった。 靴越しにふわふわとした感触が伝わってくる。 なんだろう、と思った。 こんな寝心地の良さそうな地面には心当たりがない。 それなのに、ここがどこなのかは今の一歩で理解出来てしまった。 ここは……繭の中なんだ。 誰かがヒトリで眠りにつく為の、特別な空間。 とても私がいていい場所なんかじゃない。 それなら一刻も早くここから出なければいけない……はず…?、。 なんだかぼんやりとした焦燥感を胸に、私はさらに歩を進めていく。
もふ、もふ……
もふもふもふもふ、
もふ…………もふ……
…………もふ。
私の足取りは足元から伝わるこの感触ほど軽くはなかった。 ただでさえ眠くて体が重いのに、一歩進む度に耐え難いほどに眠気が増幅されていくのだ。 もふもふに足を数もふcm沈めるだけで、意識が融けてしまいそうになる。 この眠たくて仕方ないのを何とかするべく、頬をつねってみる……。 が、あんまり痛くない。 こんなので眠気をどうこうしようなんて言うのは夢のまた夢だ。 仕方ないので、私は自分の舌を噛み切ることにした。 口を開けてめいっぱい舌を伸ばす。 目を瞑り、喉を鳴らす。 そうしてようやく覚悟が決まったら、一気に歯を食いしばる。 一気に!
「──ッ!………………?」
……痛みを感じない。 頬を指で摘んだ程度の痛みすらないのだ。 私は舌を思い切り噛めば、重く鋭い痛みがすぐにやって来るだろうと予想していた。 でも実際には違った。 重たいどころか私の舌はとても軽かった。 それも少しの質量も感じさせないほどに。 これはどういうことかと不思議に思った私は、客観的に自分を見て確認することにした。 私は妙になれた手つきで左の目玉を取り出す。 そして、少しべたつくそれを親指といずれかの指とでころがし、自分の方へと視線を合わせた。 私の左目に上下逆さまの自分が映る。 恐る恐る口を開けて中を覗き込む……。
────ない。
咄嗟にしまった、と思った。 さっき一度舌を噛んだ時に、勢い余って噛みちぎってしまったのを忘れていた。 これでは目を覚ませない。
(……とりあえず、眼は元の位置に戻しておこうかな……)
私は手に持っていたそれを右の窪みに押し込み、ぱちぱちと瞬きをした。
なんだか視点が微妙に…右にズレている気がする。 私はそのズレを修正するべく、左目へと手を伸ばした。 ………………。 しかし、指先が触れたものは、さっきまで私の手の中にあったものとは違った感触をしていた。 眼よりもずっと柔らかい何か。 私はそれを引っ張り出してみた。
(これは……石?)
所々角張ったそれは、……石のようだった。 それを理解した瞬間、
「……っ!」
空を切りながら薄闇に溶けて行く石ころ。 私は、何食わぬ顔で自分の体に紛れ込んでいたそいつにひどく腹が立った。 だから思い切り遠くへと投げ捨ててやったのだ。
なんとも言えない、喪失感のようなものが私の心を満たしている。 そうだ、そういえば舌を無くしたんだった。 とても残念……。 噛み切るための舌をどこかへやってしまった。
(……あれ?)
そもそも、舌はどうして必要なんだっけ。 なんで無くなったら『残念』なんだろう。 別になくてもそんなに困らない気がする。 むしろ、味覚を感じなくて済むなら、無い方がいいに決まってる。 それなのに私は、そんなものにいつまでも執着している……。 どうしてだろう? 噛み切るための舌。 噛み切って、……痛みに身を縮こませるための────。 そうだ、思い出した。 今の私に必要なのは不味い味を感じさせる舌でも、つらい現実を映し出す目玉でもない。 目を覚ますための痛みが必要なんだ。 ここは夢だから。 私が大嫌いな痛みを許容しているのも、自らのおぞましい行動に目を瞑っているのも、全部、ここが夢の中であるからこそだ。
(これだけ理解できてれば、……十分だよ。)
右腕を顔の前まで持ってくる。 そして、彼女が逃げられないように、残されたもう一本の手で拘束した。 これでもう逃げられない。 肘の内側辺りに歯を突き立てると、そのまま右腕を力任せに引きちぎった。 断面に耐え難い痛みを感じる。 ……いや、実際には耐えられる程度の痛みしか感じてはいないのだろう。 まともに思考できているのがその証拠だ。 この程度、私があの子に与えたものには遠く及ばない……。 私はいつの間にか手段が目的に成り代わっているのに気づいた。 元々は眠気に耐えるための行いだったはずだ。 なら、本来の目的は達成出来ただろうか? その答えは考えずとも分かる。 痛みによる意識の鮮明化はあまり効果が無かった。 でも、私は間違いなく目的を果たせたのだと実感している。 今は血の気が引いて、眠いどころではない。 取り返しのつかない事をしてしまったと青ざめているのだ。 断面から溢れ出す血なまぐさい液体は、繭の色を真っ赤に染め上げてしまった。 最初のうちは私の足元だけに留まっていた色は、今では全体に広がってしまっている。 もう取り返しがつかない。
「っ!?、っ?!っ──……………?」
半ばパニック状態になりながら、何とか流れる血を止めようとする中で、ふと、私は不思議なことに気づいた。 あんなに暗かったのに、血の赤色だけはやけにはっきりと目に映るのだ。 私は少し考えて、そして理解した。 この身体に流れる液体、私の血液は発光していたのだ。 なるほど、道理で気分が落ち込むはずだ。 私は悪態をつきたくなるのをぐっとこらえた。 血が光るからと言って、悪いことばかりではないはずだ。 目がチカチカして安眠出来ないかもしれない。 偶然誰かに見られて不気味がられるかもしれない。 でも、今はどうだろう。 ここには私しかいないし、ここでぐっすり眠るつもりもない。 それに、ほら─────。 俯いた視線を遠くへと向ける。 さっきまでは暗くてほとんど何も見えなかったのに、今では空間全体が赤く照らし出されていて、遠くまで見渡せた。 思いの外広かった繭の内側には、目印になるものが何も無く、ひどく殺風景だ。 何も見えなかったのはそういう事か、と納得する。
(えっと、出口は…………あそこかな?)
周囲を注意深く見渡していると、遠くの方に一際強い光を見つけた。 しかし、そこは私が向かっていたのとは逆方向だった。 …………。 数歩分の徒労で済んだだけ良かったのかもしれない。 もし、あと五、六歩くらい離れてしまっていたら、もう光は永遠に見えなくなっていたかもしれないのだから。
(よし────っ!)
私は気を取り直して、光ある方へと足を向けた。
もふ、もふ、もす、ぽふ
ぱふ、ばす、がす、ばち
めき、めき、ぼき、ぶち
がつ、ざく、ざく、ぴしゃん
地面に足を埋める度、不気味な音が辺りに木霊する。 そのどれもが不吉で、痛みや別れを想起させるものばかりだ。 でも、不思議と恐怖を感じることはなかった。 きっと、自分でもわかっていたんだと思う。 私にとっての痛みと別れは、これから始まるのだと……。 私は躊躇しつつも前へと進む。 背後には小さな気配がひとつ、いつの間にか着いてきていた。 振り返ってはいけない、歩みを止めてはいけない。 この身には不釣り合いなほど優秀すぎた本能が告げる。 それならと、私は前へ前へと進んだ。 つき動かされるように。 本能は決して裏切らないから。 彼女はいつだって、私がより苦しむ選択を導き出す。 だから盲目的にでも信じられるのだ。
…………………………。
そうして歩いていると、次第に、正体不明の不快音が聞こえなくなってくる。 その代わりなのだろうか。 今、ようやく静かになったはずの頭の中で、パチパチという音が鳴っている。 燻るように、小さな音で。 不安に思いつつも立ち止まることは出来ない。 なにかに取りつかれたように足を前へと、前へと。 近づけば近づくほど視界が鮮明になっていく。 ……音の正体と光の正体。 その両方が、残された片方だけの目に痛く鮮明に焼き付いた時、私はようやく足を止めることが出来た。 さすがにこれだけ近づけばこれが何かはわかる。 周囲を照らしていたもの。 それは火だった。 直径十センチほどの、炎にも満たない小さな灯り。 私はその小さな灯りに誘い出されたのだ。
(なんだ、出口じゃなかったんだ。)
その場でしゃがみこんでぼんやりと火を眺める。 手をかざすとほんのりと熱を感じた。
(あったかいな……)
無駄足だったのかもしれない。 でもこうしていると、悪態のひとつをつきたくなる感情がみるみるうちに溶けていく。 とっても、心が安らぐ……。
バサバサっ。
ふと、火の中に何かが飛び込んだ。 なんだろう。 不思議に思いまじまじと見つめていると、何かは動いた。 もしかすると、火のゆらめきと見間違えたのかもしれない。 私は目を擦り、もう一度それを見た。
「────っ…………」
見間違いなんかじゃなかった。 小さな火の海にのまれて苦しんでいる。……私と同じような、小さな虫けらが。 きっともう助からない……。 とても小さな炎だった。 それでも、彼女が死んでしまうには十分なのだろう。 灰に成りゆく命を前に、私にできることは何も無かった。 火中のムシが脚やハネを必死に動かす姿をただ見つめる。
パチッ
小さな破裂音と共に、黒焦げのお腹が爆ぜた。 それでもまだ動いている。 六本の足が、ピクリ、ぴくりと。 そのさまをぼーっと見届けていると、先程の眠気がまた込み上げてくる。 ふわーっとあくびをして目を細める。 目をこすり、もう一度火の中を見た。
ぴくり……。
もう少しだけもがいたあと、やがてそれは動かなくなった。 私は何故か手に持っていたコップの水を、未だ燻っている亡骸にぶちまける。
(可哀想に……。自分から火に飛び込むなんて。 きっと本能には抗えなかったんだね。)
そんなことを思った。
『何をしているんですか』
「───ッ!」
だんだんと怪文書じみてきたので、一度ちゃんと文章の作り方を勉強するべきかもしれない
突然、後ろから誰かに声をかけられた。 私はビクッと飛び上がり、恐る恐る振り返る。 今度は本能も止めなかった。
後ろに立っていた少女と半分だけ目が合う。 彼女は私の欠落したもうひとつのことなんて気にもとめず、もう一度同じ質問を繰り返した。 今度はさっきよりも強い口調だったけど、全然怖くない。 私はもう既にこれが夢だと気づいているし、そもそもそんな優しい顔で怒られても迫力なんて全くといっていいほど無い。
(これで何回目だろう。)
赤く汚れてしまった借り物の繭の中で、本来の持ち主に出会った。 何度か繰り返された出会い。 これは数回目の再邂逅。
『答えてください』
(─────え?)
先程とは違う険しい表情で私を問い詰める少女に違和感を覚える。 彼女とは夢の中で何度も会ってきた。 でもこんな風に厳しい表情を見せたことはこれまでに一度たりともなかった。 彼女はあくまで写しなのだ。 だからこの責めるような目も、やけに丁寧な口調も、私には違和感でしかない。 ずっとあの子とは別人だと割り切ってきた。 夢子とかいう安直な名で呼び、差別化を図っていた。 でもこんなにもはっきりとした差を持っているのは絶対に変だ。 これはどういうことだろうかと考え込んでいると、ふと脳裏にあるものがよぎった。 思い出したのは真新しい記憶。 新しい友達(?)のササコが私に見せた敵意に満ちたあの目だった。 そういえば、ササコの口調もこんな風に丁寧な感じだった気がする。
(所詮は夢、かぁ……)
姿だけこれまで通りなのは、私がまだササコのことをちゃんと記憶できてないということだろうか。 もしそうでないとしたら、それは間違いなく未練なのだろう。 いつまでも現実を受け入れられない子供な私が、夢に希望を見出そうとしている。 もし本当にそうだとすれば、それはまあ馬鹿みたいな話。 ……でも、こんなふうに考えていられるのもきっと今だけだ。 いつかはこの声や目の輝きも変わってしまうのだろう。 そう思うとなんだか急に寂しくなった。 だけど、どれだけ感傷的になろうとしても結局は夢。 だからわずかな悲しみも生まれない。 寂しいどまりだ。
『聞こえてますよね』
このまま全てが順調に進んであの子の写しと二度と会えなくなった時、私はようやく役目を終えることが出来る。 そんな気がする。
(もう十分……。早く目を覚まさなきゃ─────)
私は今度こそと、目覚めるために意識を集中させた。 薄れゆく赤色。 徐々に体の感覚が失われていく。 今度はちゃんと起きられる。 そう思った時。
『あなたが殺したんですよね』
夢子が腕を掴んできた。 このまま逃してはくれないようだ。 さて、どうしたものか……。 試しに少し微笑んで首を傾げてみる。 すると、『しらばっくれないでください』と余計に気分を害したようだった。 しらばっくれるなと言われても、なんのことだか分からない。 そのまま彼女と見つめあっていると、だんだんと不機嫌そうな表情になってくる。 その目が不機嫌を通り越してゴミを見るような目になった時、ようやく腕を離してくれた。 もう触れていたくないということだろう。
『本当に分からないんですか…?』
『さっきからあなたが頑なに見ようとしない、彼女のことですよ』
そう言うと視線が少し横に逸れる。 それは私の肩を抜け、その先を見ていた。 私は首だけ動かして後ろを見た。 そこには小さな火溜りが落ちていた。 パチパチと耳障りな音を立てて揺らいでいる。
(えっと……ああ、あれのことか)
火は消したと思ったんだけど、なんでまだ燃えているのだろう。 そんなことを考えるのは馬鹿げているかもしれない。
『なんですか……その表情は───っ!』
ササコモドキがまた何か言っている。 今度はなんだろう。 私の目つきが悪いとか言い出すのだろうか。 ……もし本当にそう言われたらどうしよう。
(うーん……別にどうするもなにもないか。)
ここで再び目つきの悪さを指摘されたところで、私が意外と気にしいだったということが発覚するだけだ。 でもまあさすがの私も夢にまで見る程根に持ってはいないはず……。
『────ああ、そうですよね。"そんな目じゃ"、ちゃんと見えないですよね』
そう言って何か一人で納得すると、急に押し倒してくる。 私の心臓は高鳴ったりはしなかった。 その代わりかどうかは分からないけど、火が燃える音がとても近くに感じた。
(───……というか、本当に目の事だったんだ。しかもそんな目って……)
反抗的な目と見つめ合うこと二、三秒くらい。 先に動いたのは夢子の方だった。 片手で私の首を掴むと馬乗りになる。 私に触れたくないのではなかったのか。 彼女の目を見るとなんだか冷めた感じ。 首でも締められるのかと思ったけど、そうではないようだ。 私はまた見つめ合うのかとため息をついた。 その直後だった。
「……っ!?」
私の穴に何かが触れた。 ベタつく液体が縁の部分に垂れている。
(気持ち悪い……)
そこに視線を向けて何をしているのか確認しようとするも、ちょうど視界の外で起きている事態を把握することは不可能だった。 今は首を掴まれていて頭を傾けることすら出来ないのだ。 こうなってしまったらもう為す術がない。 私は右だか左だかの眼の空洞に押し当てられた物体を受け入れるしか無かった。
「……っ」
何かはゆっくりと押し込まれた。 それは音もなくはまると、ズキズキとした痛みを訴え出す。 目が、開けられない……。 痛い。……何も見たくない。 目の奥の方から溢れてくる血か涙かを必死に押し止める。 これが今の私に出来る精一杯の抵抗だった。 それなのに。
『目を開けてください』
それはお願いなんて生易しいものじゃなかった。 これは脅迫だ。 今すぐに目を開けないと恐ろしい目に遭わす。 彼女はそう言っているのだ。 このまま彼女の要求を無視し続ければ、残りの四肢を食いちぎられたりするかもしれない。 でも私は屈しない。 どうせこれは夢なんだ。 夢の中なら何があってもとりあえず死ぬことは無い。 それなら肉体よりも精神を健全に保つことの方が大切だと言える。 だから私は何をされようと絶対にこの目は開かない。 そう固く決意する。 それは勇ましさなんて欠片ほどもない、臆病者の決意だったけど……。
『そうですか……。もう、しょうがない人ですね』
目を固くつむっていると、呆れたような声で誰かが囁いた。 それは優しい声のようにも聞こえて……。 私はその声に不思議と安心感を覚えた。 首に添えられていた手にはもう少しの力も込められてはいない。 それはするりと離れると、そのままどこかへと消えてしまった。
「………………」
それから少しの時間が経って、火が燃える音がすっかり聞こえなくなった頃、私は再び目を開いた。 不自然に広く感じる視界。 目の痛みはとうに消えていた。 頭痛の種である彼女の姿も、…一緒にどこかへと消えてしまった。 ……これはきっと私にとって好都合なはず。 それなのに今は、広くなった視界に誰も居ないことがどうしようもないくらい不安で……。 独りでいることは、こんなにも怖いものだっただろうか。
(……起きよう。)
もう目覚めを邪魔する者はいない。 今度こそここから出られる。 一刻も早く起きて忘れるんだ。
(心残りは……ないことも無いけど。)
私は名前も知らない虫だったものを一瞥し─────。
私はそれを見て動きを止めた。 これはなんだろう。 たった今鮮明に目に焼き付いたはずのものが、上手く認識できない。 それは燃えていた。 ごうごうと音を立てて真っ赤に揺れている。 下から上へ、川みたいに流れている。 その流れの中で、白かったはずのものが、赤く燃えている。
"あなたが殺したんですよね"
頭の中に響くのはそんな言葉。 責め立てるような声で、反響する。
……うるさい。
『あなたが』
やめて。
わかってるから、もう黙ってよ……。
浅く息を吸うと肺の中が熱い空気で満たされた。 熱に浮かされた本能が、もう認めるしかないのだと私に告げる。
「………………。」
……全部思い出した。 私は責任から逃げるために、彼女に背を向けたんだ。 燃え盛る炎を見て見ぬふりした。 助けられたかもしれないのに何もしなかった。 挙句罪の記憶ごと熱源へと放り込む。 それだけの事をした。 なのに、どうして……? 記憶回路の八割近くを焼き切ってやったのに、どうして今さら思い出したんだ。 これでは知らないフリもできない。
(う……ああ……わたしは……ッ!)
水底のように冷たい心が燃え上がる。 細胞の一つ一つを焦がしながら叫ぶ。 どれだけ本能を欺いたとしても、私はきっとこの中に飛び込むことなんてできない。 だから叫ぶ。 千切れた舌のひどく歪な音で叫ぶ。 これが夢で、全部自分の頭の中での出来事だから大丈夫だってことは知ってる。 でも私は、刻一刻と面影を失って行く彼女を前にして冷静さを保つことなんてできなかった。 一瞬誰の名を呼ぶか迷った後。
「アメちゃん────ッ!」
「ちーがい!ますー! わたしは、はれですっ!」
夢の中での記憶や認識の多くは出鱈目なものなので、あまり気にしても仕方ないです
サブタイトルが付いてなかった話にちゃんとつけ直しました その過程で話数が1話分ズレてます
気がつくと目が覚めていた。 重たく閉じられた瞼を持ち上げるためにだいぶ苦労したはずなのに、目覚めの瞬間は随分と呆気ない。 もしかしたらまだ夢の中なのかもしれないと疑うも、この開放的かつ閉塞的な空は間違いなく現実のものだった。 灰色の空。 それは僅かな赤みも帯びない、私の見慣れた不純な色だった。
(視界は正常、か。)
それに、目覚めの気分も存外悪くない。 あんな夢を見た後だというのに、心もなんだか冷めていて。 もしかすると、昨夜寝る前に虹草を多めに食べたのが効いたのかもしれない。
(……それなら、これからは眠る前に少し多めに草を食べることにしようかな。)
今の私はきっと苦い顔をしているんだろうなと思う。 少し余計に不味い思いをするだけで今後の目覚めが爽やかなものになるのなら、絶対にその方がいいに決まってるのに、私はそれがなんだか良くないことのように思えてならない。 これは別にあるかも分からない防衛本能を理由にして不味いのを回避しようとしているとかそういうわけじゃない。 さすがの私もそこまで子供ではないはず……。 そもそもだ、冷静に考えると虹色に光る草とか絶対に食べちゃダメなやつなんじゃないか。 草じゃなくてもそう。 あんなにおどろおどろしく発光するなんて、明らかに有害な何かを含んでいるとしか思えない。 そんなものを最初に食べようと思った時の私は一体何を考えていたのだろう。 少しの間追想にふけるも、結局何かを思い出すことは出来なかった。
「ふわぁ……」
短いあくびがこのまま起きるか、それともまだ寝るのかと、選択を迫ってくる。 せっかく目を覚ませたのに、このままではまた夢の世界に引き戻されてしまうだろう。
「あふ……」
もうこれ以上無駄なことを考えるのはよそう。 虹草の正体が何であろうと、今更食べるのをやめたりは出来ない。 食べなきゃ健全な心を保つことも出来なくなってしまうから。 私はこれからも、おそらく有害であろう物質を体内に取り込み続けるしかないのだ。
(あれ……? そういえば……)
これから先のあまり健康的とは言えない食生活についての算段を立てていると、ふと、起床直後に誰かの声を聞いていたことを思い出した。 えっと、たしか……晴れがどうとか言っていた気がする。 まあどうせこれも夢か幻聴の類だろう。 早々に考えを切りあげた。 私は目をこすり、大きく伸びをする。 これは朝の日課というやつだ。 目の前の彼女も同じ様に手を組み腕を伸ばしている。
(……え……?!)
目が合った。 それを見た途端、身体が硬直してしまう。 真っ赤な少女がこちらを見ていた。 それもすぐ目の前に座って。 どうして? いつから? あなたは……誰? 当然のような顔でそこにいる少女に対する疑問達が、私の脳を一瞬で支配する。 支配していた……はずなのに。 彼女の左目に宿る異質な光に気づいた瞬間、それらの疑問は全て融けて消えてしまった。 その虹色の輝きは私のよく知るものとよく似ていて、不気味さを感じずにはいられない。
「ぅ……はっ…!……はあ…………はっ……」
毒々しい視線にまっすぐ射抜かれていると、だんだんと呼吸が苦しくなってくる。 息を吸っても、吸っても、変わらず苦しいまま。 きっとこの少女の目から放たれた光線が、私の胸の奥に穴を開けてしまったんだ。 ……逃げないと。 私はここにいてはいけない。 いや、もしかするとそれは私の方じゃなくて……。 どちらにせよ、いつまでもこのまま寝起きの顔を知らない子に晒しているつもりは無い。
「お姉さまはあめがきらいです。お姉さまがだい好きなはれも、あめがすきじゃないようです」
私が声を絞り出すよりも早く、少女が言った。 その幼げな声質は起床直後に聞いたものと同じだったけど、声の調子はだいぶ違うような気がする 。 今の彼女からは落ち着いた雰囲気を感じる。 その話し方は落ち着いていて、口調も理性的。 それなのに、何を言っているのか全く分からない。 こちらが言葉の意味を理解しかねているのを察したのか、少女はさらに続けた。
「はれはけっしてあめちゃんなどというおなまえではありません。しんがいのきわみです」
なるほど、少しわかってきた気がする。 どうやらこの子は私に名前を呼ばれたと思ったらしい。 そしてその名前が間違いだったので、こうして文句を言っていると……。
「はれははれです。お姉さまがくれたたいせつなおなまえです」
頬を膨らませて怒るハレ(?)に「しゃざいをよーきゅうします」と謝罪を要求された。 それで彼女がどこかへ行ってくれるなら土下座でもなんでもするけど、ちょっと納得いかない。
「……ごめんなさ───」
「おはよーございます」
私が仕方なくハレの要求に応じようすると、それに被せるように彼女が言った。
「……何?」
「おー、はー、よー、おー! ございます」
「え? …あ、おおはよう?」
どうして急に挨拶をするのか、彼女の意図がわからない。 欲しかった謝罪の言葉を遮ってまでしなきゃいけないことだったのだろうか……?
「うおー……」
とりあえず同じように返したけど、その行いに意味なんてなかったのだろう。 私に朝のあいさつを強要した少女はそっぽを向いていて、その視線の先には一輪の花が咲いている。 ハレはそのありふれた花を興味深そうに見つめていた。 どうやら、彼女はこちらの言動にはとことん無関心なようだった。
「なんですか?! これっ」
「わー! なーんなーんでーすかー!? これぇっ!」
他人の言葉には無関心。 そのくせ無視されたらこうしてしつこく粘る。
(まるでここ最近の私みたい……。)
そんな風なことを思ってしまった。 私は周りからはこんな、わがままな子供みたいに見えていたのだろうか? それは違うと思いたい……。 私は他人の言葉に関心が無い訳ではないし、聞くだけ聞いてはいる。 ただ、都合が悪かったから無視していただけで……。 なおさらタチが悪いと思った。
「タンポポよ」
私が極めて大人的な態度で質問に答えると、ハレは目を丸くした。 何故か無言で詰め寄ってくる。 そんな目で、見ないでほしい……。
「じぃー……」
「な、何……? 私に、なにか用なの……?」
「お姉さま」
「おおおーお姉さまっ! お姉さまですよね?! やっとみつかりましたぁ」
「何を言ってるの? …私はあなたの……んむっ?!」
私のことを突然お姉さまと呼び、有無を言わさないといった様子のハレ。 彼女の決めつけるような言葉を否定しようとしたけど、今度は物理的に言葉を遮られた。 片手を頬に添え、そのまま親指を口の中に滑り込ませてくる。 一瞬で果物を何百倍にも甘くしたような味が口の中に広がった。
「うう……うぇっ……」
あまりの甘さに吐きそうになる。 嘔吐いても止めてくれない。 舌で押し出そうにも、指に触れること自体を拒絶するかのように、奥の方へと後ずさってしまう。 そのせいで、甘くなった唾液が奥まで運ばれてまた吐きそうになる。 このままでは間違いなく嘔吐してしまうだろう。 今この体勢で吐いたら悲惨なことになるのは目に見えている。 犠牲者は二人。私と、たった今加害者になろうとしている彼女とだ。 きっとそんなことを理解していないであろう少女が目を輝かせる。
「ふふふー、お姉さま〜っ♪」
(かくなる上は……!)
吐き気の原因を取り除くべく、両手でハレの手首を掴んだ。 そしてそのまま彼女の指を引っ張りだそうと力を込める。 力を込める……! 全力で引っ張る……!! ……しかしビクともしない。 彼女は恐ろしい怪力の持ち主だった。 あるいは、私があまりにも非力なのか……。 どちらにしても、もう為す術なんか無い。 私にはもうハレが満足するまで必死で嘔吐感を抑えるしかないのだ。
(甘くない、甘くない、甘くない……)
おそらく気休め程度にもならないであろう自己暗示をかけてみる。 甘くない、甘くない。
ハレの親指が、形を確認するかのように一本一本の歯をなぞる。
甘くない……甘いくない。
その途中、一際尖った歯を見つけると、より一層目を輝かせる。
甘いくないいや甘い。
楽しげに八重歯の先をちょんちょんやっている。
甘い甘い甘いあまい……。
ちょんちょん、ちょんちょん……。 鼻歌交じりにずっとちょんちょん。 どんどん唾液が滲み出してくる。 そうして嘔吐感がもう限界を迎えようとした時────。 私はようやく解放された。 甘々しい水音と共に指が引き抜かれると、私は口内に残った甘ったるい唾液をすぐさま吐き出した。
「うぇぇ……ぺっ、ぺっ」
「だいじょーぶですか?」
口を押えて首を横に振る。 と、今度は右の頬に生暖かい感触が……。 それが何なのか理解した瞬間、私は飛び退いていた。
「いいきなり……な、なにをするの……?!」
次から次へと、何なんだこの子は。 突然人の顔を舐めるなんて絶対におかしい。 咄嗟に距離を取ったからよかったけど、もう少し反応が遅かったら噛みつかれていたかもしれない。 奇抜な行動原理のもと動いていそうな彼女のことだ、そういうことを平然とやってのけるだろう。
「う? ちょっと違う……? んー??」
閉じた口からだらんと舌を垂らして首を傾げるハレはなんだか訝しげな表情をしていた。 この場合、私と彼女のどちらが不審者なのだろうか……。 お互いに過去の行いには目を瞑って、とりあえずこの状況だけを見た場合、変なのは向こうのはず…? なんかだんだんと自信がなくなってくる。 私の方がずっと不審に思っていたはずなのに、「はっ! もしやあなたはお姉さまじゃありませんね!?」なんて指さして突きつけられると、もうこちらが全部悪いような気さえしてくる。
「私はあなたのお姉さんじゃないわ」
「そうでしたかぁ……」
私がきっぱりと言うと、ハレはがっくりと両肩を落とした。 今度はちゃんと分かってくれたみたい。 誤解が解けてよかったけど、この子にはなんだか悪いことをしたような気がする。
「ときにおねーさん、はれはお姉さまをさがしてます。みましたか?」
「だから私は……いえ、誰を探してるの?」
私への呼称がお姉さまからお姉さんに変わっていた。 一瞬その微妙な変化に気づけなくて、間違いでもないのに訂正してしまいそうになった。
「お姉さまです。せなかにはからーふるなはねてきなものがつきでています。なまえはー……ご、ごー……ごくどう…?」
「えっと、……カラフルな翅…が、生えてるのね?」
「なるほど、たぶんそげなかんじです?」
「……? ごめんなさい。見てないわ」
「そうですかぁーあっ!そうですっ」
「ふっふっふー。おねーさんも、だれかをさがしてるとみうけたですっ!」
「別に私は誰も……っ!」
言いかけて気付いた。 私の傍にいるはずの少女がどこにも見当たらないことに。 今の今まで忘れていたなんて、私はなんて薄情なやつなんだろう。 ずっと一緒とまで言ったのに……。 自分の無責任さに呆れるばかりだ。 ササコがいない。 昨日寝る前まではちゃんといたはずなのに、どこかへ行ってしまった。 それならいつまでもこうしてはいられない。 すぐに探しに行かないと……!
「ごめんなさい、私用事を思い出したから!」
そう言ってハレに背を向けその場から立ち去ろうとしたが、袖を摘まれて引き止められる。 振り返って見ると、ハレは神妙な面持ちで静かにこちらを見据えていた。
「おねーさんの……さがしびとはだれですか」
「探し人……」
「ハレはきっと、あなたのおちからになれるはずですよ?」
「…………………。白い髪の子をどこかで見かけなかったかしら?」
「ああ、それなら……」
「あっ、えっとね……その子髪は白いのだけど、全体的に土っぽい色なの。土って分かるかしら?土はね、今あなたが……」
「お姉さん」
「な、何…?」
「むこうにいます」
彼女はあっさりとした口調で告げると、私が向かおうとしていた方とは逆を指さした。
「向こう…に、いるの……?」
「はい! そのおひとなら、みちすがらあっちでめぐりあいましたよ!? おねーさん!」
「そ、そう。……教えてくれてありが──」 「れーにはおよびおませんよっ!」
食い気味に言うと、こちらに背を向ける。
「それではまいりましょー!」
ハレは彼女自身が指さした方へと歩き出した。 わざわざ案内をしてくれる気なのだろうか。 それは助かるといえば助かるのだけど……。
「あなたはお姉さんを探しに行かなくていいの?」
「おぅあ! そーでした」
ハレは歩行速度の割に大袈裟なブレーキをかけて止まると、こちらに振り返った。
「おねーさん、ひじょーにもうしわけにくいのですが……!」
両目を細め眉を下げて、いかにも申し訳ないといった表情を見せる。 私はハレが全てを言い切る前に、言ってやることにした。 彼女が何度も私にそうしたように。
「私はひとりでも平気よ」
「お? ぉぉおお……! さすがはおねーさんですっ!」
何がさすがなのかは分からないけど、こちらの言葉がちゃんと伝わったのならそれでいい。 ハレは少しの間、ぴょんぴょんと地面を跳ねてはしゃいでいたが、やがてそれも収まり……。
「それではおねーさん、はれはそろそろおいとまするとします」
「……そう。お姉さん、見つかるといいわね」
「うぉはい!おねーさんもっ!」
そんなお互いちょっと足りないような言葉を交わして、私達はお別れした。 ハレがたたっと駆け出し、途中で何かを思い出したように足を止める。 そして少しだけ振り返ると、目を細めて笑った。
「またねーっ! おねーさん」
ハレちゃん不思議可愛いけどたしかに虹色の目は不気味… 甘ったるい果実を押し込んできたってことはそういう物が主食の子なんでしょうか?
ヘキサノイックさん、おひささです! ハレちゃんは見ての通りの元気っ子ですが、ミステリアスな一面もあります(主に容姿) ちなみに、指が甘いのは食生活のせいというのは大体あってたりします
実はこの子はSSに登場する予定が無かったのですが、色々と考えた結果、ちょい役として出すことになりました なのでこれ以降出番はありません でも物語に関わってくる重要人物ではあるので、いつか彼女にスポットを当てたお話を番外編として出すかもしれません
(いくら寝起きだからといっても、イシちゃん色々とスルーし過ぎでは……?)
こちらにもぺたり 雨宿りをする二人です
我儘でいいんだ。
ハレが教えてくれた通りの方向へ向かうと、そこに私の探し人がいた。
「ねぇ……?」
「……ぁ」
ササコが振り返り、目が合うと同時に固まる。 彼女は一瞬だけ引きつった不自然な笑顔を作ると、俯いて黙り込んでしまった。 なぜ目をそらすのかも、一度黙ると声が二度と聞けなくなってしまうのも、理由は全部分かっている。 でもだからこそ、こんな時になんて声をかけていいか分からない。 私がササコと同じ目線だったならいくらでも慰めの言葉が浮かぶのに。 現実は違う。
「心配したのよ?」
私はまた何も知らないふりをする。 彼女の本音を引き出してしまうと一緒にいるのが少しだけ辛くなるから。
「おはよう」
「…………おはようございます」
ササコは俯いたままだけど、一応返事をしてくれた。 とりあえず、「あなたとは二度と口をききません」は免れたみたいだ。
「うんうん、おはよう」
しばらくぶりの朝の挨拶なのにこれといった感動を抱くことはなかった。 そのことに一瞬違和感を感じたけど、すぐにそれが当然の事だったと気がつく。
(ああ、そういえば……)
今日初めての「おはよう」はもう済ませてしまってたんだった。 ……後ろめたさを感じた。 寝起きの数分間を知らない子と過ごしていて、その間一度もササコのことを思い出さなかった。 その数分間が私に罪悪感を抱かせ、先程のササコ同様に口を閉ざしてしまいそうになる。
「……帰るわよ」
私は未だ俯いたままの少女の手を取った。
────────────────────
翌日、ササコはまた逃げ出した。 その次も、さらにその次の日も。 彼女は決まって私が眠っている時にいなくなる。 その度に私が、どこかへ行ってしまったササコを探して寝床まで連れ戻す。 そんな日が何日か続いたある日のこと。 目を覚ますとまたササコが逃げていた。 私はいつものように彼女を探して、そして見つけだした。 いつも通りの展開だった。
「……まだ…ちょっと眠そうね?」
「ええ、まあ……」
「何でまたこんなとこにいるのかは気になるけど……まあいいわ。早く戻りましょう? 今日は特別に二度寝を許してあげる」
そうまくし立てると、私は一方的にササコの手を取り引っ張った。 今日が昨日までと同じなら、これで大人しく着いてきてくれるはず。 しかしササコはその場から動こうとしない。
「……? どうしたの……? …もしかして歩けないの?」
「もう、しょうがない子ね……おんぶとだっこどっちがいい? 私としてはおんぶを選んでくれた方が助かるのだけど……」
ササコを捕まえていた手が突然振り払われた。 彼女の体温を見失った私の手の中にあからさまな拒絶の意思だけが残る。
「……私から逃げたいの……?」
「それとも、また鬼ごっこがしたい?」
「……そんなの、────」
「じゃあ今度はあなたが鬼をする? 私が逃げて、あなたが捕まえる」
自分でも何を言っているのかよく分からなかった。 強く拒絶された私は、あくまで平静を装うために僅かに残されたコミュニケーション能力すら投げ棄ててしまったのだろうか。 今ササコに喋らせてはいけない。 そんな身勝手な危機感から、私は自分も含めて誰も望まないような提案をした。
「するの? しないの?」
一言嫌だと言ってくれればいい。 そうすれば、今朝のことは全部忘れて、何事もなく今日を始められる。
(ほら、早く答えないとまた私の自分勝手な決め付けであなたの気持ちをねじ曲げちゃうよ……?)
……私はどこまでも卑劣だ。 ここ数日で何度目かの自己嫌悪をする。 でもそれで、…私が私を嫌いになるだけで望む結果を得られるのなら、もうなんだっていい。 なんだって…よかったのに……。
「そ、そうですね……。それいいですね。やりましょう……」
「ふーん……じゃあ、やっぱりダメ」
「……どうしてですか…?」
「だって私が逃げた後、あなたそのまま逃げるつもりでしょ? 臆病者の鬼さん。その二本の角は飾りかしら?」
私は挑発的に言い放っていた。 ササコはこちらを見ようともしない。 俯き口を固く閉ざした彼女は、もう二度と私と話してくれないかもしれない。 こんな風に言うつもりじゃなかったのに……。 それこそ、一言だけ「嫌だ」って言えばよかったのに。 提案しておいてやっぱり嫌だって言うのはおかしい? そんなことを気にして、あんな追い込むような言い方をしたの? どちらにせよ私がササコの言葉を無下にすることには変わりないのに? そもそもそれらしい理由さえあれば、傷つけてもいいの? そんなわけがない。
「ササコ……ごめんね……」
ササコがゆっくりと顔を上げる。 私の目をじっと、見張るように見つめる。 と、すぐに目を伏せて顔を逸らしてしまった。 逸らす直前に数瞬だけ細められた目は問い詰めているようで、「本当に悪いと思っているんですか」と私に言っているようにも見えた。
「あのね、私は本当に……」
「やりましょう」
「鬼ごっこ。今度は私が鬼をやります」
「何を言ってるの……?」
「たしか、十秒数えればいいんでしたよね?」
「……待って」
「では今から数え始めるので、逃げてください」
ササコは私の言葉に耳を傾けない。 こちらの返答を無視して話を続ける彼女は、なんだか怒っているみたいでちょっと怖かった。 ……でもそれだけじゃない。 こんな話し方をされると、まるで私の人格そのものを否定されているみたいで悲しい気持ちになってくる。 無視と決めつけがこんなにも相手の心を傷つけてしまう行為だったということを。 そして自分のこれまでのササコに対する無神経な振る舞いの数々を、今ようやく思い知った。
(私は彼女に、ずっと……こんなひどいことをしていたんだ)
同じことをされないと気づけないなんて、なんて馬鹿なんだろう。 自らの愚かさを恨むばかりだ。
「あなたが負けたら……」
ササコはかつて私がしたのと同じように、鬼ごっこの敗者がのまなければならない条件を提示しようとする。 たとえ彼女の言葉のその先がどのようなものであったとしても、私はそれに応じよう。 今はそうすることでしかこの罪を償えないから……。
「もう二度と、私に関わらないって約束してください」
(そうだよね。……これがあなたの本心なんだよね……)
ササコの望みは分かってた。 多分こうなるだろうって、大体の予想は着いていたのに……。 どうして期待しちゃうかな。 私が奪った彼女の自由は、この足一本程度じゃ償えないらしい。
「…………ええ、わかったわ……」
長い沈黙が終わった時、私はもうササコの顔を見れなくなっていた。 せめて最後くらいはちゃんと見たいのに。 夢でこっそり会えてしまうくらい、彼女のことを記憶に焼き付けたいのに……。 体が言うことを聞いてくれない。 一緒にいられるのはこれで最後なんだ。 だから、だから……。
(やっぱり見れないよ……)
私はササコに背を向けてしまった。 その瞬間から二人の時間は動き出し、十秒のカウントが始まる。 二人が独りに戻ってしまうまであと十秒ちょっと。 私はふらふらと近くの木陰まで歩いていくと、寄りかかるように腰を下ろした。 膝を抱えて、ササコの足元をぼんやりと見つめる。
ぽつりぽつりと雨の雫が地面に落ちては消えていく。 その様子を見ていると不意に視界が歪んだ。 私は目の中にピンポイントで落ちてきた水滴を拭おうとしたけど、やっぱりやめた。 これなら……このままだったら、ササコの顔をちゃんと見れる。 そう思ったから。 でもやっぱり、ぼやけてよく見えなかった。 鼻がつんとする。
(馬鹿だなあ、私)
自分自身への何気ない罵倒がトドメになって水滴が零れた。 頬に冷たいものが伝い、私は慌てて顔を伏せる。 こんな顔ササコに見せられるはずがない。 見せたら彼女の決意が揺らいでしまう。 だから隠さないとだめ。 もうササコに自分を追い込む選択はさせたくないから……。
(─────ああ、もう終わりなんだ)
気づけばもう誰の声も聞こえなかった。 十秒って、こんなにも短いものだったのか。 逃げる余裕なんて全然ない。
もう会えないのなら最後くらい笑顔でお別れをしたい。 そうすればきっと、全部いい思い出だったって思えるようになるから。 だから無理にでも笑うんだ。 負けちゃったかって言って、邪気のない笑みを浮かべて……。 前に練習した時と同じように、……楽しくもないのに笑って……。 そして私は………………また、。
(そんなの嫌だよ……)
臆病者は私の方だ。
「ねえササコ、やっぱり……」
やっぱりやめよう。 そう言おうとした。 顔を上げて、ササコの目をちゃんと見て。 でも、私の見ていたい琥珀色の瞳はどこにも見当たらない。
「ササコ……?」
再び顔を上げた時、私は本当に独りになっていた。
ここは一本の木の下。 広い森に無数に存在する木陰の内の一つ。
「やっと、見つけた……。こんな所で、…何をしてるの……?」
私は雨の中を探し回ってようやく見つけ出した鬼役の少女に向かって聞いた。
「えっと、…あ…雨が降ってきたので……雨宿りを……」
「雨……。そうね……もし私が風邪でもひいたら、あなたのせいよ……?」
「……すみません……あ、隣どうですか」
「え? ……うん…ええ、お邪魔するわ」
ササコが自分の真横に目を落とす。 私は不思議に思いつつも彼女の誘いに乗ることにした。 腰を下ろし、隣り合う少女の横顔をちらりと見る。 すると、視線に気がついたのかササコがこちらを見返してきた。 目が合いそうになって咄嗟に視線を逸らす。
なんだか気まずい。 さっきまで私たちは、多分ケンカのようなことをしていたのだと思う。 そしてそれは今も変わらない。 仲直りが出来ていないから。 しかしササコとの仲を修復しようとする行為は、これからも一緒にいたいと彼女に暗に言っているのと同じことなのではないだろうか? もしそんなこちらの意図を悟られればまた嫌われてしまうかもしれない。 二人で交わした約束を平気で破るようなこと、きっと許してくれないだろう。
「どうすれば勝ちなんでしたっけ」
私が悶々としていると横からササコが言った。 何のことを言っているのか分からなくて聞き返す。
「鬼ごっこです。捕まえるって、具体的にはどうすればいいんですか?」
「ああ、そういうことね。……相手の体のどこかに触れば、それで……捕まえたことになるのよ」
「そうですか……」
言うなら今しかない。 まだ勝負が着いていない今しか……。
「あの約束、やっぱりナシに……!」
「ゴイシシジミさん、逃げてもいいですよ」
「……え?」
「この状態から逃げ切れる自信があるのなら、どうぞ逃げてください」
ササコが目を細めて挑発的に言った。 手を伸ばせば届く距離。 こんな距離感では逃げようにも逃げられない。 もしかして彼女は最初からこうなるのを狙っていたのだろうか。 私が鬼を探し回って疲労状態なのも、その足でのこのこと彼女の前に現れたのも、全部ササコの思惑通りだったとしたら……。
「私の負けね……」
「いいんですか?」
「っ……よくない……」
あっさりと負けを認めてしまいそうになった。 あの約束を何とか取り消してもらうまでは、この遊びを終わらせる訳にはいかない。 ササコが納得してくれるような言い訳がないかと考えていると、不意に音が鳴った。 それは、布が擦れるような音。 音のした方へ目を落とすと……。
「あっ……」
ササコが私のスカートの裾を摘んでいた。
「これで私の勝ちですね」
「……そうね」
こうなってしまってはもう、負けを認めるしかない……。 私たちの仲はこれまで。 ……一度は覚悟した事なんだ。 だったら当初の予定通り、笑顔でお別れをしよう。 しないと………………。
「ま、負けちゃったかぁ……」
口角を少し上げて、目を細める。 こんな感じでどうだろう。上手く笑えているかな? ササコといた数日間の思い出が甦る。 そういえば、ササコが笑っている顔は一度も見たことがなかったな。 その事実が、二人で共に過ごした時間が彼女にとっては苦でしかなかったということを証明していて……。 悲しい気持ちになった。 本当ならここは罪悪感を覚えるべきところなのかもしれない。 でも、悲しい。 笑わなきゃいけないのに、できない。 鼻がつんとしてきた……。 このままではまた泣いてしまいそうだったから、さっきと同様に顔を伏せて凌ぐことにした。 目を瞑りじっと待つ。 こうしていればきっといつかは悲しくなくなる。 それまでずっと俯いたまま生活するのはどうだろう。 辛い現実を見なくて済む。 これはもしかすると、とてもいいアイデアなのでは……? 知らないうちにササコは離れていって、引き止めることもできず、私は独りになったことにすら気づかない。 それはとっても、……幸せなことのはず。 ……でも、それでもいつかは顔を上げて、この目で全部見なければならない時が来るだろう。 だっていつまでも俯いてたら首が痛くなっちゃうから。 ……………………。
(その頃には雨が止んでるといいな。ああ……でも、一人で見上げる青空は、きっとどんな現実よりも辛いんだろうな……。私にちゃんと受け入れられるかな……?)
────馬鹿みたい。 出来もしないことをつらつらと並べて、勝手に納得して……本当に馬鹿みたいだ。
「────これで、********……」
不意に声が聞こえた。 隣でササコが何かを呟いたのだ。 それは誰に向けたというわけではない、独り言のようだった。 どうせこれでようやく自由になれるとか、そんなところだろう。 何もわざわざ口に出すことないのに。
「あーあ、これで*********……」
ササコがもう一度、今度はさっきよりも大きめな声で同じ言葉を繰り返す。 まるで私に聞かせようとしているみたいに、わざとらしく呟く。 もうやめて。何も聞きたくない。 それはこれまでの仕返しのつもり? 謝ったら、赦してくれるの?
「ゴイシシジミさん」
「そんなに私のことが嫌いならもう一緒にいなくていいのよ。さっき、約束したでしょ……? 私はこのままここにいるから……」
抗えない別れを告げられるのが怖かった。 だから私は自分からササコを遠ざけるように言ったんだ。 それなのに……。
「じゃあ私もここにいます」
それなのに……
「……どうして」
どうしてあなたは……
「……だって、ほら……雨降ってますし……それに……」
「私はあなたに……まだ勝ってません。……負け越してるんです」
「何を言ってるの。……あなたは私に…勝ったでしょ」
「だから! ……これで、一勝六敗……なんです……」
「……どういうこと……?」
「私はあなたに、ゴイシシジミさんに5回も負け越してるんです。だからこのままでは終われません。……再戦を申し込みます」
ササコが言っていることは負けず嫌いな子供みたいだ。 でも彼女がやろうとしていることは、きっとその逆で。 気を使って言ってくれているんだと思った。 自意識過剰かもしれない。 でも、私は彼女の優しさを知っている。 それはいつか彼女自身を滅ぼしかねない、危うさを持った優しさだ。 私は本当にまだササコと一緒にいていいのだろうか。
「でも、あなたは私のこと嫌いでしょ?」
私は唐突で直前の会話の流れからは想像もできないような返しをした。 息を呑む音。言葉を飲み込む音。 なんとも形容しがたい無音だけを残して、ササコが口を閉ざしてしまう。 相手の本心を暴き出そうとするような言動を後悔した。 せっかく気を使ってくれているのに、私は彼女の優しさを無下にしてしまった。 これで彼女はどう思っただろう。 めんどくさいやつだと、愛想を尽かしてしまっただろうか。
「ごめんなさい……」
「…………私は、私のしたいようにします……。だから……あなたはあなたのしたいようにすればいいじゃないですか。ちなみに私のしたいことというのは、鬼ごっこの再戦です」
ササコがあくまで鬼ごっこの再戦がしたいと突き通す。 そんなことしたいはずがないのに、負けず嫌いな自分を決して崩さない。 それはどうして? それは、……きっと私のため。 こちらの我儘を肯定するためだけに、自らも我儘なフリをしているんだ。 大切な我が身を危険に晒してまで……。 どうしてあなたはそんなにも気にしてくれるの。 私には優しくされる資格なんてないのに。 おさまりかけていた涙がまた滲んでくる。 またササコの心を殺しつつある罪悪感と、この優しさにいつまでも浸かっていたいという我儘とが頭の中で交錯し、色んな感情を巻き込んで混濁していく。 もうどれが自分の本心なのか判別がつかなくて、泣きたくなくて……。 漏れそうになる嗚咽がバレてしまわないよう、私は声を殺した。
「再戦、もちろん受けて立ちますよね……?」
なおも言い続ける。 返事を促すようにやさしいトーンで。 ……本当にいいの? そんなことされたら本当に、私はあなたから離れられなくなっちゃうんだよ? それでも……いいの……? ………………。 もし、私の我儘が許されるのなら……
「鬼ごっこはもうしないわ……」
「あなたが嫌でも、私が勝手に逃げればやらざるを得ませんよね……。なんだったら今からやりますか?」
ああ、あなたは本当に……
「ぁ……」
私はササコを抱きしめた。 彼女の所在をちゃんと確認せずに伸ばした両手は、確かな体温を見失わなかった。 夢なんかじゃない。 彼女は今もずっと隣にいてくれた。 暖かくて、涙が溢れてくる。
「……気を……使わせ…ちゃった、ね」
「なんですかいきなり……私は別に……」
「ありがとう……ごめん…ね…?」
「だから私は……もう、暑いですよ……離れてください」
「逃げ…ない……?」
「逃げませんから……だから、離してください……」
困ったような声でやさしく拒まれた。 本当はあなたのお願いならなんでも聞いてあげたい。 だけどごめんね、ササコ。 私は我儘だから。 あなたにこんな顔を見せたくないんだ。 だからもう少しだけ待って。 止むまで─────。
十数分後
「もう逃げないでね……」
「それは、……約束はできませんけど」
「次また黙って逃げたりしたら……こ、怖いわよ……?」
「……どうするつもりですか?」
「今度逃げたら、……一生私の腕の中で生活してもらいます」
「それは…怖いですね……」
第5話序文の「鬼ごっこで負けた日」とは、ササコの5回の負け越しが確定して揺るがなくなったこの日のことです。
もうこういうつかず離れず(ついたり離れたり?)がお似合いの二人ですね 互いに全てを明かさなくていい、でもそこまで遠くないような関係がいい………
ありがとうございますー 私は見ててもどかしさを感じるくらいの距離感が好きでして…… でもこの二人の関係はちょっと拗らせすぎかなとも思っていたので、気に入って貰えたのならとても嬉しいです
私はとうに聞き慣れた雨音で目を覚ます。 無数の水の粒たちが木の枝葉を、地面を叩く音。 空を見上げると、そこにはいつも通りの灰色があった。 これで何日目だろうか……。 あの酷く落ち込んだ色をした雨雲は、連日降らせ続けて少しづつ地面を溶かしている。 ひょっとすると永遠にこの雨が止むことはないのかもしれない。 この島の土を全て溶かしきって、何もかもが水底に沈んでも、ずっと。 私は別にそれでも構わないと思っている。 いずれ来る最後の日まで毎日「おはよう」と「おやすみ」が言えたらそれでいい。 これはちょっと我儘が過ぎるかな?
「おふぁよぉ……!」
私は我慢ができなくて、あくびや伸びをするよりも早く「おはよう」を言おうとした。 それが失敗の原因。 気持ちが急いてしまったが故の失態。 朝の日課を怠ったせいで、私はなんとも間抜けな声を出してしまったのだ。 なんだか恥ずかしいくてちょっと後悔する。 世の中にはこんな幸せな後悔があるものなのかと思い、目を細めた。 でもやっぱり恥ずかしい……。 時間の経過と共に増幅されてゆく羞恥心が、とうとう眠気に勝ってしまう。 私は両手で顔を覆うといういかにもなポーズを取ってみた。 なんだこれ、余計に恥ずかしい……。 さらなる羞恥に顔が熱くなった。 笑われるだろうか。 それとも、引かれるだろうか。 今私は、いったいどんな目で見られているのだろう。 見守るような暖かな目? それか、どう反応すればいいのかという困惑の眼差しかな? 冷めた目でもいいかもしれない。 この後のササコの返しがどんなものであっても対応できるようにと私は身構える。 しかし、先程からの一連の行動を通して見ていた少女に笑われる、なんてことはなかった。 指の隙間から外界を覗く。 すると、ずっとそこにいるであろうと思っていたササコの姿が無かった。 両手を下ろして、ほっと息をつくと、幸い顔の熱は直ぐに冷めた。 冷静になった頭で考える。 つまり私は、数分にわたってずっとひとり芝居をしていたということか。 気づいてしまったら一気に気が抜けた。 そこにやり場のない感情だけが残っている。 ササコに見られなかったことを喜ぶべきか、無人の舞台でひとり踊った間抜けな自分を嗤うべきかを悩む。 仮にどちらを選んだとしても、私の顔には笑みが浮かべられているだろう。 多分その意味合いはだいぶ違うと思うけど。 私は今、とても満ち足りている。
「ふわぁ……くぅ」
改めてあくびと伸びを済ませる。 3日前までの私だったら、きっとこんな心境で朝を過ごせはしなかっただろう。 どんなにひどい夢を見たって、もう全然気にならない。 孤独に怯えることも無くなった。 私が精神的に変われたのは、全部ササコのおかげだ。 彼女が帰ってきたらお礼を言おう。 「ありがとう」って。 これだけを聞いたササコは、私がなんのことを言っているのかわからないだろう。 きっと、不思議そうな顔をすると思う。 その直後には当然の質問も飛んでくるはず。 でも私はそれには答えない。 少しでも長くササコの困った顔を見ていたいから。 意地悪だとは思う。 我儘だとも思うけど、それはあの日ササコが許してくれた。 そしてなにより、ササコが悩んでいる間は、きっといつもより私のことをたくさん見てくれるはずだから。 私はこれ以上の何を望もうというのか。 ……とりあえず、今回は「おはよう」を言い損ねた分くらいで妥協することにしよう。 計画と言っていいのか分からないくらいに残念な考えと期待を胸に、私はササコの帰り待つことにした。
「……おはよう」
なんとなく寂しくて、空に向かって小声で呟いてみると、今度はちゃんと発音出来た。 どれだけ完璧なものであっても、一人で口にするあいさつに意味なんて無いけど。
「まだかなぁ……」
──────────────────────
あれからどれだけの時間が経ったのだろう。 数分か、数十分か。 もしかすると一時間くらいは待ったかもしれない。 空を見上げて太陽の位置を確認しようにもあいにくの雨空。 これではどのくらい時間が経過したのかを確認出来ない。
「……遅い」
しばらくの間、ササコの帰りを大人しく待っていたが、一向に帰ってこない。 昨日、一昨日と、目が覚めて一番にササコの姿を見ることが出来ていただけに、今日になって一度も彼女に会えていないという事実に不安になってくる。 今すぐササコを探しに行くべきだろうか……? もしかしたら、どこかで怪我をして動けなくなっているかもしれない。 そうでなくても、セルリアンに追いかけられたりして帰るに帰れなくなっている可能性もある。 最悪の場合は……
「──っ!」
気がつけば走り出していた。 戻ってきたササコとすれ違いになるかもしれない。 彼女がセルリアンと会敵していたとして、私が行ったところで何かが出来るというわけじゃないことも分かっている。 でも、いつまでもあそこでああして待っていることは出来なかった。 もし今からさらに一時間待っても帰ってこなかったら……? その時のことを考えると、怖くてたまらなかった。 無駄な心配ならそれでいい。 とにかく今は一秒でも早くササコを見つけないといけない! 私は一層足に力を込めた。
「こんなところにい、たの……ね」
ようやくササコを見つけられたという安心感は、眼前の光景を見た瞬間、その衝撃にすぐにかき消された。 ササコは無事で、今こうして私の目の前に立っている。 だけど私の最悪な想像は少しだけ当たっていて……。 頭の中がたちまちに真っ白になり、すぐにまた別の色に染め上げられる。 次の瞬間、私は一つの感情に全身を支配されていた。
「なに…してるの……それ、なに……?」
声が掠れて上手く形にならない。 私はこれ以上ないほどまでに恐怖していた。 ササコが、セルリアンと対峙している。 こちらに背を向け、恐ろしい存在と私とを隔てているのだ。 まさか、と思った。 ササコがあれと戦うつもりなのではないだろうかという馬鹿げた考えが頭に浮かぶ。 そんなのは本当に馬鹿げた考えだ。 幸いを最悪に変えてしまいかねない選択を、ササコがするはずがない。 だって、ササコは臆病で…………
"ここで足を失うくらいなら、私は全生命をかけてでも抵抗します"
ふと、いつかササコが言った勇ましい言葉と、彼女と初めて出会った時の全身傷だらけの姿を思い出した。 私の知るササコは臆病な所もあったけど、決して弱くはなかった。 少なくとも私よりずっと勇敢なんだと思う。 彼女はその身を滅ぼすような選択を平気でするから。 だから私は、より臆病者にならざるを得ないのだ。 大切なものが傷つくのが怖い。 二度と会えなくなってしまうのが怖い。 ひとり残されるのが怖い。 罪を背負うのが怖い。 痛いのも怖い。 これで最後になってしまうかもしれないというのに、私の頭の中は自分のことばかりだった。 私が恐れる未来。 そこにはササコと死別した自分がいて、当たり前のように生きている。 何も出来なかったことを後悔して、絶望しつつも、何もしない。 痛みを知ってしまった私は、もう二度と自分の胸を貫いたりはできないだろう。 ずっと一緒にいたいと思った。 それなのに、死んでまで寄り添えはしないというのか。 私は本当に、どこまでも自分勝手だ。
"あなたはあなたのしたいようにすればいいじゃないですか"
自分の命を危険にさらしてまでセルリアンに挑む。 それがササコのしたいことなのだろうか。 ……そんなわけない。 もし、仮にそうだとしても、そんな危ないことを黙って見過ごすわけにはいかない。 私はササコを危険な目には遭わせたくない。 今すぐ彼女の背に駆け寄って、あの手を取って逃げるんだ。 そうすればきっと二人とも助かる。 これがササコの願いに反した行いだったとしても、無理やり連れていく。 それが私のしたいことだから。
「……!」
身長がササコの倍近くあるセルリアンを見上げると、全身におぞましいものが駆け抜けた。 嫉妬の目、憎悪の目、殺意の目。 そのいずれにも当てはまる、恐ろしい眼差し。 そいつが私を見ていた。 あまりの恐怖に体がすくんでしまう。
「こ…こわく…なんか……な…ぃ」
もはや声は意味をなさず、強がることも出来なかった。 ササコの方を見るが、彼女はその場に立ち尽くして動こうとしない。 何か動けない理由があるのだろうか? あの時みたいに、怖くて動けなくなったのかもしれない。 やっぱり、私がササコの元まで歩いていって、直接連れ出すしかなさそうだ。 迷っている時間はない。 不規則になった呼吸を整えるまもなく、私は一歩を踏み出した。 セルリアンの目を見ないように、ササコだけを視界にとらえて前に進む。 前へ、前へ、一歩、また一歩と慎重に歩を進める。 一定の間隔で聞こえる自分の足音と、少しずつズレていく呼吸音。 その二つだけが、私がいる世界の音の全てだった。 雨の音なんて聞こえない。 心臓の音も、意外な程に聞こえなかった。 もしかすると、私の心臓はあまりの怖さに耐えきれずに活動を止めてしまったのかもしれない。 それは困る。 生きるのをあきらめるにはまだ早い。 ここで生きるのをあきらめるということは、これからのササコとの時間を、場合によってはササコの命までもをあきらめてしまうということだ。 そんなこと、絶対にしてはだめ。 せめてササコを安全なところまで連れて行くまでは。 彼女の手を握って、一人じゃないのだと安心させるまでは。 あの指先に触れて、私の存在に気づいてもらうまでは、諦めるわけにはいかない。 徐々に下げられるハードル。 だんだんと弱気になってしまう。 だって、こんなにも怖いから。 視界が、息が酷く乱れるから。 寒くもないのに身体が震えて仕方がないから……。 それでも、どんなに怖くたって足を止めることは許されない。 ここで止まれば二度と踏み出せないと、本能的に分かってしまった。 だから前へ、前へと、立ち止まることなく進むのだ。 ふと、不安になってセルリアンに視線を移すと、そいつは最初に見た位置、姿のままで微動だにしていない。 相も変わらず、こちらに憎々しげな視線を送ってくる。 だけど逆に言えばそれ以上のことはしてこない。 私がこんなに気が気でないというのに、セルリアンの方は随分と悠長な様子だった。 このまま私が近づくのを待ち伏せるつもりか。 もし本当にそうだとしたら好都合。 ササコに危害が及ぶ前にここから連れ出せる確率が上がる。 ササコ、どこも怪我してないよね……? 無事に彼女の顔を見るまでは安心できない。 私はいざという時に失敗しないように、一度心を落ち着けようとセルリアンからササコへと視線を戻そうとした。 その時だった。
「──?!」
ヒュンッという短い音が聞こえた。 間違いなく足音ではないそれは、呼吸の音とも違った。 それでいて風が吹く音とも微妙に違う。 例えるならそれは空気を切り裂く音だ。 突然の怪音に足が止まりそうになりながらも、無理やり一歩前へ押し出す。 その際、ササコを捉えることに失敗した視線は、自然とセルリアンの方へと戻って行った。
……待って、何、それ?
私の視界には、さっきの音の正体であろう物体が映っていた。 それは、見方によってはナイフのようにも見えた。 ナイフ……? ナイフってなんだっけ。 ナイフは武器。殺害のための道具だ。 いつだったか、私がそう言った。 違う、言ったのは私じゃない。 記憶が、意識が? 混乱している。 私は酷く動揺しているようだった。 それはどうして? ナイフなんてみんな持ってる。 ササコだって持っていた。 だから、セルリアンが持っていても別におかしくなんかない。 ナイフの柄に当たる部分が長い蔦みたいになってたって、それを自在に操れたって、今この瞬間にそれを振り上げていたって、何もおかしくなんかない。
ねえ、それをどうするつもりなの?
声なんかもう出ない。 だから目で訴える。 でも、とうにセルリアンは私を見てはいなくて。 その視線の先には────
「──ッ!」
息が止まってしまえばいいと思った。 間に合わないのなら、大切なものも守れないのなら、そのまま肺を潰して死んでしまえ。 それが嫌なら……
──もう呼吸なんてする必要は無い。
ばっしゃん!!
大きな水音と共に視界が揺らいだ。 それと同時に、足のつま先にビリビリとした痛みが走る。 右の足か、左の足かも分からない。どっちだっていい。 全速力なんかじゃ足りないから。 もっと速く、速く、 息を吸うのを忘れてしまうくらいに速く! ナイフなんかよりも鋭く風を切って走るんだ。 かかとを地面に叩きつける度、ササコとの距離がどんどん縮まっていく。 そして、次の瞬間にはもう、ササコはすぐ目の前だ。
あと少しで届く……!
ガッ
「──ッ!?」
その時、不意に視界が傾いた。 全身が不思議な浮遊感に包まれるが、そんなことは意識の外だ。 次の一歩を踏み出すと同時に手を伸ばせば届く距離にササコはいる。 私は最後の一歩を地面につけようとした。 でも出来なかった。 空中に放り出された両足は、着地予定の地点から大きく後ろにズレてしまっている。 私は、また躓いてしまったのだ。 このまま行けば、間違いなく転けるだろう……。
──そんなのだめ!
ここで転けるわけにはいかない。 私は咄嗟に後悔しそうになるのを押しとどめ、右だか左だかの足を思いっきり前へと蹴り上げた。 一瞬後に地面に触れたのは、ぎりぎり靴の底。 ほとんどつま先だった。 それでもなんとか着地には成功した。 ここまでくれば、あとは手を伸ばすだけだ。 取るべき手を確認するために、私はつんのめったままの低い目線から再び前方を見た。 しかし、そこで見えたものは、ササコではなく、既にすぐ目と鼻の先にまで迫ったナイフだった。 ササコがいたのは左斜め前方。 躓いた拍子に進行方向が僅かにズレてしまったのか。 ナイフの軌道は変わらず、ササコへ向かっている。
今更手を引いたってもう間に合わない。
「ク───ッ!」
私は右足を思い切り地面に叩きつけた。 靴底の内側の角を地面に擦りながらブレーキをかけつつ、やや左へと軌道を修正する。 そして、あと一歩
「あああぁッ!!」
私は思い切り腕を突き出した。
今回長くなりそうなので一旦区切ることにしました 後半部分はまだ書けてないので完成し次第投稿します (勢いのある文章を書くの難しい……)
私がササコを突き飛ばした一瞬後、目の前をセルリアンのナイフが横切った。 間一髪だった。 すぐそこまで迫っていた風切り音に気がついて咄嗟に身を引き、しりもちをつくことでなんとか致命傷は避けられた。 この攻撃で受けた被害といえば、右手の袖が犠牲になったくらいだ。 ササコは……大丈夫、ちゃんと生きてる。 突き飛ばした時に強く頭を打ったりしてないといいけど。 今はそんな心配をしている余裕はない。 早く二人でここから逃げなければならない。 左手を地面につき、立ち上がる。 その時、妙に右手が重い感じがした。 私は気にせずにササコに駆け寄ろうとしたが、動こうとすればするほど重力が強くなってしまう。 そこには、確かに真下に引っ張られるような強力な重力があった。 そして、それはいつしか体全体に広がっていって。 私はとうとう膝を折ってしまった。 こんなことをしている場合じゃないのに……! 突然の重力の発生源と思われる右手の辺りに目をやる。 そこには、別段変わったものは無かった。 あるのはさっきセルリアンに切り裂かれた服の袖だけだ。 首の皮一枚でなんとか繋がっている袖口だけ。 真っ赤に染まる袖口。それだけしかない。 あれ?
「なん…で……?」
本当ならそこにあるはずのものが、無いことに気づいてしまった。 なんで? いつから? 私の右手がどこにも見当たらない。
「あ……あ……」
まるでいつか見た悪夢のような出来事に、非現実感を覚える。 これが夢なら、このまま覚めるだけ。 夢じゃなかったら……? ササコ……。ササコをたすけないといけない。 今すぐ立ち上がって、私がササコの手を引いて逃げるんだ。 これはきっと夢なんかじゃないから。 だから、早く立たないと。 もう一度左手を地面について、自立を試みる。
「ふっ……、ん、ぐぅぅ……!!」
でも、どれだけ頑張っても、力なんか入らない。 早く、まだ動けるうちに足を立てないと。 じゃないと、すぐに間に合わなくなる。 私は気づいてしまったから。 これは、酷い怪我。 下手したら今度こそ死んじゃうかもしれない。 それくらいの大怪我だ。 怪我にはその度合いに見合った、当然の痛みが伴うはず。 痛いのがどれだけ痛いのか、私は知っている。 これからだんだんと痛くなっていって、きっとすぐに動けなくなるだろう。 だからその前に……。 私がもう一度左手を地面に這わせた時、目に映ったものを見て、一気に血の気が引いた。
ああ……だめだ。
そこら一体に拡がった、赤色、紅色。 私の内側をひたすらに彩る、本物の赤。 その色はとめどなく拡がっていた。 一度引いてしまった血の気は、二度と戻ってはこないのだろう。 一気に冷めてしまった断面の熱が、次第に痛みを訴え始める。 私はこれ以上熱が逃げてしまわないように、左手で傷口の上あたりを押さえつけた。 でも、上手く力が入らない。 こうしているうちにも、痛みは強くなっていく。 泣きたいくらいに、強くなっていく。 呼吸も、段々と荒くなってくる。
そろそろ……このくらいで、止まったりしないかな……?
私のそんな諦め半分の期待は、すぐに裏切られた。 まだ、もっと痛くなる。 一回脈動する度に、断面に激痛が走り、無いはずの右手が疼いた。 身体中が痛い。 両目から冷たいものが零れ落ちた。 泣いたって、許してなんかくれない。
私はもうどうしようもなくなって、地面にうずくまってしまった。 これは、きっと痛みに耐える体勢。 少しでも早く体勢を立て直して、ササコを連れて逃げる。 そのための体勢なんだ。 そうやって、無力な自分に言い訳をする。 本当は怖かっただけなのに……。 他の誰かが傷つくのを見るのが怖かった。 他でもないササコが、目の前で二目と見れない姿になるのが怖かった。 大切な友達の最期を看取るのが嫌だった。 だから目を背けた。 私は本当に、私は……。
ふいに、声が聞こえた。 それは喉が捻れて裏返ったような、酷く耳障りな音だった。 呻くような声は、歪すぎて何を言っているのか全然分からない。 これが私のものなんだと気づいた時、それとは別の声が頭に響いてきた。
『立って 』
声は言った。一言、私に立てと。 優しい声で、無理難題を押し付けてくる。 こんなにたくさん血を流したら、もう立ち上がるどころじゃないなんてことは、私にだって分かる。 誰だか知らないけど、いい加減な事を言わないでほしい。 私は痛みを理由に、攻撃的な感情をぶつける。 声はそんなのお構い無しに続けた。
『顔を上げて、ちゃんと見て』
見るって、何? 私に何を見せようっていうの? 私はとうとう一人で会話を始めてしまった。 これも現実逃避の手段のひとつだったのかもしれない。
『ササコちゃん。……今も一人で、戦ってる』
ササコが……? 戦ってるって、無事なの……?
『今はね。でも、このままじゃ危ないの』
自分に嘘を吐いてまで逃避させるつもりなら、どうしてここで現実を見せようとするのかが分からない。 でも、だからといって、この声が本当のことを言っているということにもならない。なるはずがない。 だからこれは、きっと私の願望なんだと思う。 僅かに残された可能性に縋り、希望を見出そうとしている。 私はこんな状況に陥ってもまだ、諦めきれていないようだった。
『大丈夫だから、わたしを信じて』
信じるよ。あなたを信じる。 裏切られた時のことなんか絶対に考えたくないから。 私は歯を食いしばり、軋む首を持ち上げた。 目を開き焦点を合わせる。
「─────っ!」
揺らぐ視界の中で、一番に見えたものは、たった一人で強大な敵に立ち向かうフレンズの姿だった。 ササコはまだ生きてる……! 未だ五体満足な彼女の姿を認めた瞬間、私の脈は加速した。 より効率的に、全身に痛覚が伝達されていくのを感じる。 甚大な痛みと焦燥に駆られて、今すぐにでも擦り殺されてしまいそう。 そんな時、私の頭にまた声が響いた。 彼女は落ち着いた口調で問いかける。
『あの子を助けたいんでしょ?』
答えるまでもなかった。 ササコを無事にここから逃がせるのなら、この身がどうなったって構わない。 だけど、そのために自分に何が出来るのだろうか? 一人で立つことすらままならない、今の私に……。
『わたしはあなたを助けたい。だからそのために、あの子を助ける手伝いをするのよ』
次に響いたのは突拍子のない言葉。 声が何を言っているのか、よくわからなかった。 彼女が何者なのかも分からない。 それを私の一部分とするならば、きっと誰でもないのだろう。 ぼんやりと、私の中にいる何か。 それが『自分を犠牲にするようなことは絶対に許さないからね』と一言付け加えた時、私は何となくその正体がわかった気がした。 それは、本能だった。 極限まで追い詰められた主を守るために、外側まで這い出てきたのだ。 彼女が私の本能の一端を担うような存在であるのなら、自分の命を蔑ろにするようなことを許すはずがない。 でもそれなら、どうしてササコを助ける手伝いをしてくれるのだろう。 私みたいな臆病者の本能なんか、きっと自分本位に決まってるのに。
『あの子と一緒にいる時のあなたが好きだから』
本能(?)はそう言った。 どうやら思ったことは口に出さなくても(そもそも今は言葉を話せる余裕はない)伝わるらしい。 にもかかわらず、否定を一切しないところを見ると、彼女は本当に私の本能なのだろう。
『それでね、わたしにひとつ作戦があるの。あなたにはちょっと頑張ってもらうことになるけど、できる?』
本能が言う。 作戦とは、ササコを助けるための作戦だろうか。 自分の中の本能に『できるか?』とか訊かれるなんて、だいぶおかしい気がするけど、私はササコのためならなんだってするつもりだ。
『そっか…じゃあ話すわね。あなた、"わたしのナイフ"はまだ持ってるよね?』
……? そんなものは持ってない。 自分の持っていたナイフは、とうの昔に何処かに落っことしてしまった。
『無いの…?! ええと、じゃあ……あそこに刺さってる看板でいいか。あれを引っこ抜いて、セルリアンの後ろにこっそり回るの』
看板……さっき転びかけた時に、そんな感じのものがちらっと見えた気がする。 あれのことだろうか。
『そう、それよ。それで、後ろに回ったら看板を叩きつけて、やつの頭をかち割るっ!』
あまりにシンプルな作戦。 看板で頭を……? そんなこと、本当にできるの?
『ねえ……あいつの頭、けっこう脆そうじゃない? ヒビまで入っちゃって、まるでガラスみたいね』
確かに言われた通り、セルリアンの頭(?)には何本にも枝分かれした大きなヒビが入っている。 そんなこと、言われるまで全然気が付かなかった。
『どう? できそう?』
……できない。 さっきから何度も立ち上がろうとしてるけど、体が全然言うことを聞かない。
『まだ痛いの? それも、立てないくらいに』
痛、い……? ……ああ、そうだ、痛いんだ。身体中が痛くてたまらない。 だからずっと、私はこんなにも耳障りな声で唸っていたのか。 いつの間にか忘れてしまっていたみたい。 そして、忘れたままならなお良かった。 だけどもう遅い……。
『今から私の言う通りにして。そうすれば、少しは楽になるはずよ』
もう、思考をする余裕も無い。 呻き声で返事をする。
『よし! じゃあまず、声を抑えて。できる?』
首を横に振る。
『いいえ、やるのよ。それくらいできてもらわないと、……ササコちゃんを助けたいんでしょ?』
「グゥ……ぅ……」
『そう、その調子。……大丈夫? まだできるかしら』
今度は、縦に……
『いい子ね。次は、ゆっくり息を吸って、吐く。深く深呼吸をするの。ほら、吸って……吐く』
「ゔぅ……ッ……え゙ぇ……」
『辛いわよね……。けど頑張って、ほらもう一度、吸って……』
「ふッ……うぉえぇ…! ゲホッ!」
むせかえるような血の匂いに、吐きそうになりながらも呼吸を続ける。 促されるまま、一回、もう一回と繰り返す。 そうしている内に、最初は呻き混じりだった呼吸は段々と安定していった。 声だったものは熱になって蒸発していき……。
『どう? もう痛くないんじゃない?』
少し良くなったけど……でも、まだ痛い。
『ちょっと血を流しすぎたのかもね。今はもう止まっているけど……動けそう?』
本当に、本当に少しだけ全身の痛みが引いていた。 その差は微々たるものだったけど、今ではかろうじて思考ができる程度にまで落ち着いている。 これなら何とかなるかもしれない。 左の膝を立てる。続いて、右足も。 これだけではまだ足りない。 私は左の手のひらを、ちょうど足と足の真ん中辺りで地に付ける。 そこまでしたところで、今の自分の体勢がどこかおかしいことに気がついた。 これでは足に上手く力が入らない。 いつもはどのようにして立っていたのだろう。 意識すればするほど、正しい体勢がわからなくなる。 少し考えて、私は左足だけを崩すことにした。 そして、左手は足の間ではなく、左手やや前方に置く。 私は各部位が定位置に着いたことを確認し、足と腕に一斉に力を入れた! 視界が少し高くなり、その直後に急降下。 私は右足を前に出して、前に倒れ込みそうになるのを何とか踏みとどまった。
立てた……!
両の足がぷるぷると震えるけれど、私はなんとか自立することに成功した。
『生まれたてのフレンズって感じね……』
それまで黙って私の一挙一動を見守っていた本能が、突然口を挟んできた。 何やらよく分からない喩えをされたが、今はそんなことはどうでもいい。 私は看板が突き刺さっている方を見た。 ほんの数メートルが、とても遠く感じられた。
「くッ……!」
立っているだけで体のあちこちが軋む。痛い。 こんなにも足が重たいのに、体幹は安定せずに視界がふらつく。すごく気持ちが悪い。 戦う前から満身創痍だ。 それでも私はやらなくてはいけない。 人生における数え切れないほどの内の一歩を、今ここで成し遂げるのだ。 私は大岩のように重たい足を、その意思ひとつで持ち上げた。 下へ、強く引っ張られる。 それを一歩分前へ運び、落とす。すると、ガクンと。 耳には聞こえないけど、そんな音がした。 それと同時に全身から力が一気に抜けていく。 一度視界が大きくぶれて、そのまま地面に激突した。
『ちょっと、大丈夫!? どうしたの?!』
──お腹がすいた。
『お腹がって……こんな時に何言ってるの……?』
歩けない。立っていられない。 本当に、辛いの。
『……』
冗談とかじゃなくて、もう、本当に……
『そう……そうよね……』
何かを悟った気がした。 無意識に、心の奥深くに刻まれてしまった定型文を指でなぞっていた。 これでずっと、一緒に……。
「おねが…い、……ササコ……わたし、を──」
『待ってッ!!』
本能が叫び、我に返った。 私は今、一体何を……。
『お腹がすいたんだよね?』
本能が私の思考を遮るように訊いてきた。 そんなこと、今更答えなきゃいけないの? 空腹のせいかまた攻撃的になってしまう。
『ササコちゃんを助けたいんだよね?』
更に問い続ける。 次から次へと何? いちいち声に出さなきゃ分からないの? あなたは私の一部なのに。 これらは全部、自分に向けた言葉、自虐のつもりだった。 それなのに罪悪感を感じてしまうのはどうしてだろう。
『だったら──』
本能はそこで一度言葉を区切り、少しの沈黙の後、短く言った。
『それを食べて』
──え……?
「食べる、って……」
目の前に差し出されたそれは、とても見慣れたもので。 私は無意識のうちにそれを握りしめていた。 指を絡めて、手を繋いでいた。 自らの欠損した断片と。
そんな、どうして…… なに、これ……!? 私は左手を振り回した。 力いっぱいに、かつての自分自身を拒絶する。 だけど離れてくれない。 手に指に力が入ってしまって離れないのだ。 それを理解していながら、私にはどうすることも出来なかった。 固く結ばれた手は、必要以上にグロテスクに見えてしまったから。 怖い。気持ち悪い。 冷たい手の感触が、消えてくれない。
『……ごめんね』
諦めたような、悲しいような声だった。 その声を聴いた瞬間から、急速に肩の力が抜けて行った。 そして、繋がれていた手が、今再び解かれる。 冷たいものが指の間をするりと抜けると、そのまま地面に落ちて、ぴしゃんと音を立てた。
『そんなこと、……できるわけ、ないわよね……』
そう言ったきり本能は口を閉ざしてしまったけれど、まだ彼女の息づかいだけは聴こえているような気がした。 苦しそうなのに安らかな、聞いていると泣きたくなるような弱々しい息吹を、私は心で感じていた。
なんだか彼女の"お願い"を聞いてあげなきゃいけないような気がして。 私はすっかり赤くなってしまったそれを、もう一度、今度は意識的に拾い上げていた。 やっとの思いで手放せたのにな……。 震える手を口元まで持っていくと、胸が締め付けられるような感じがした。 これを食べれば、ひとまず空腹はおさまるだろう。 でも、もしそれをしたとして、私はササコとこれまで通りに過ごすことが出来るのだろうか。 不安だった。 なにか大切なものを失ってしまうような気がして、食べるのを躊躇ってしまう。 私は、たった今も無謀な戦いに身を投じているフレンズを見上げた。
──ここで大切なあなたを失うくらいなら、私は……。
まだ迷いは消えない。 だけど独りになるのはやっぱり怖いから。 私は目を瞑り、息を飲み込んだ。
指先達が唇に触れる。 今からこれを、噛み砕くんだ……。 固い口を何とかこじ開けて、何れかの一本を押し込む。 口内に入ってきたそれに恐る恐る舌を這わせると、想像通りの血の味がした。 その味や異質な舌触りに一瞬吐き気を感じたが、何とか我慢する。 吐いてはだめ、食べなくてはいけないのだから。
「ゔぅ……」
私は一旦、指を口から引き抜いた。 悠長になんかしていられない。 だけど、これが自分の一部分だったものであるという認識を、どうにか改めないことには、噛み砕くこともままならない気がした。 それならと、すぐさま解決策を考え始める。 ……もし、自分のがダメなら、別の誰かだったら。 例えばこれは、ササコの右手首。 そう思い込んでみるのはどうだろう。
『ねえ……』
私はササコのだったら、きっと拒むことなく受け入れられるから。 口に含んだら最後、歯に少しの抵抗も感じさせないまま、噛みちぎれて、そのまま舌の上で溶けていくだろう。 そうなれば咀嚼する手間も省ける。
『何を考えてるの……?』
しかし、一見合理的に思えなくもないこの案には、ひとつの問題点がある。 これら全てが妄想上のことであると前提したとして、その妄想の中では私がササコを食べているのだ。 脅しなんかじゃなく、本当に。 それは彼女を殺すということに他ならない。 死ねば形を完全に失うから。 誰かを食べようとするなら、その時とどめを刺すのは他でもない私ということになる。 ………… ……だけどこれは、あくまで気持ちの問題。 別に、実際にするわけじゃない。 想像上の出来事なんて、夢の中で起きる事と大して変わらない。 だから大丈夫。 私は今からササコの血でこの手を汚すことになるけど、本当のササコは絶対に助けるから。 だからどうか許して欲しい。 私は一方的に捲し立てると、物言わぬ幻影を手にかけようとした。 その時だった。
『イシちゃん……』
「──……え?」
殺意を持った手が止まる。 不意に聞こえたそれは、どこか聞き覚えのある響きだった。 知ってるような、本当は知らないような、掠れていて思い出せない記憶の底。 あれ……? どうして…… だって私は、あなたが……あなた、に……。 大切だったはずなのに。 今だって、まだ大切に思ってるはずなのに、彼女のことが思い出せない。 あなたは……誰? 本当の名前すらも分からない。 私は、思っていたよりもずっとたくさんのことが思い出せなくなっていた。 不意に視界がぼやける。 泣いているのだろうか? それももう分からない。 鼻がつんとする感じも、まつげに水滴が乗る感覚も、何も無い。 ただ、驚くほど頭が軽くて。 身体も、軽くて。 なんだか意識が朦朧としているなあ、と思った。
『わた……が……違ってたみたい……。やっ……り、あな……には……が重かった』
「な…に……?」
部分的には聴こえていたはずだ。 だけどもう、途切れた断片の声を繋げるだけの気力も残されていない。
『あとは、わたしにまかせてね』
遠のく意識の中で、唯一完成された文字列。 その言葉の意味を理解する間もなく、私は深い眠りに落ちた。
まだ続きます
──side A────────────
おやすみ。 イシちゃんが目を閉じてから、わたしはそう言ったけど、多分彼女には聞こえてなかったと思う。 だって彼女はもう眠ってしまったから。 深いかもしれない。浅いかもしれない。 そんな曖昧な眠りの中で彼女が夢見るのは、きっとあの子のことばかりだ。
いいな……。
ちょっとだけ嫉妬してしまいそうになる。 ……と、いけないいけない。 彼女は頑張り屋さんだから、きっと直ぐに起きてきちゃう。 だからその前に、全部終わらせてしまわないと。 わたしは目を覚ますべく、そっとまぶたを持ち上げた。
「……っ……!」
強い刺激を目の奥に感じて、咄嗟に光を遮断する。 すごく眩しかった。 視界に入るもの全ての、色かたちともに判別がつかないほどに。 きっと、生まれて初めて目を開けた時も、わたしはこんな痛みを味わったのだろう。 突き刺すような眩しさに、今にもこの目を潰されてしまいそうだけど、こんな程度のことで立ち止まってはいられない。 わたしは覚悟を決めて両目を開いた。
「んー…………」
再び映し出された煌びやかに渦巻く色々。 瞬きを何度か繰り返していると、乱れていた光彩が次第に安定の色を見せ始める。
「よし!」
言った瞬間、そのあまりの声量にちょっとびっくりした。 でもすぐに気を取り直す。 この自分の声がやたらと大きく聞こえてしまう問題も、きっとすぐに解決する。 少し待てば正常になるだろうけど、そんなことより今はすべきことがある。 今のわたしは、イシちゃんの替わりなのだ。 いや彼女そのものなのだ。 ぐへへ……じゃなくて、えっと……。 わたしは地面に視線を這わせる。 そして。
「──あった」
見つけたそれを拾い上げた。 イシちゃん曰く、これはササコちゃんの右手首……。 さっき、彼女がそう認識しようとし始めた時、その心の中はひどく混沌としていて、見るに堪えないものだった。 まさかわたしの一言で彼女をあんな風に追い詰めちゃうなんて、思ってもみなくて。 でも本当はすぐに気づくべきだったんだ。 自分の体の一部を食べろだなんて、そんな猟奇的な提案を受け入れること、"わたしたちに"出来るはずがないのに。 特にイシちゃんは血が濃くなってるはずだから尚更、自傷的なことは許されなかっただろう。 その結果として、わたしはもう少しで彼女の心を殺してしまうところだった。
イシちゃんはたくさん傷ついて、ようやくここまで戻って来た。 きっと何度も痛い思いをしてきたはず。 でもこれを食べれば、また少しだけ濃くなってしまう。 また、彼女を苦しませてしまう。 そして、また……鬱々とした日々に帰してしまうかもしれない。 やっと大切なものを見つけられたのに。
わたしはなんとか立ち上がれないものかと、地面に左手を着いてみた。でもだめだった。 お腹がすいて力が入らない……というより、そこに何も無い感じがした。 体の密度があまりに低くて、空腹すらも感じないのだ。 ふと、さっきイシちゃんが言いかけていた言葉を思い出す。
"「おねが…い、……ササコ……わたし、を──」"
この先に続く言葉がどのようなものなのか、わたしは知っていた。 だから咄嗟に引き止めた。 だけどやっぱり、今のイシちゃんは一人分にも満たないんだ。 このままじゃ彼女は、きっと……。 死にゆく友達をを前にしたわたしにできることは、もう二つしか残されていなかった。 これからするのは、とても重い決断だ。 わたしは心を決めるために、一度座り直した。
体勢を変えた際に、左の太ももの辺りに違和感を感じたが、その正体に気づいて口元が緩んだ。
「なんだ、持ってるじゃない」
もう、迷いは消えていた。
さっきイシちゃんがしたのと同じように、右の人差し指を咥えると、もう血の味はしなかった。 これは愛しい友達の味だ。
「ふふ……」
このままでいれば、あなたはあらゆる苦しみから解放される。 でもわたしは、今から自分の都合であなたをもっと苦しめるよ。
『ササコちゃん。……イシちゃんを、お願いね』
わたしは思いっきり、顎に力を入れた。 関節部がミシミシと音を立てると、皮が破けて、口いっぱいにイシちゃんの味が拡がる。 そして──
次々と染み出してくるのは、どす黒い感情。 舌をつたって、喉を通って、お腹の底へと落ちていく。 それはまさしく、純度の高い悪意だった。 "わたしたち"が決して抱くことの出来ないくらいの、許容量を遥かに超えた悪意。 少し気を抜くだけで黒い感情に呑まれてしまいそうになるのを、必死に耐える。 こんなものに耳を傾けてはいけない。 自分にそう言い聞かせて、また飲み下す。 何度も何度も、噛んで、飲み込んで。 この単純な作業を繰り返しているうちに、だんだんと身体に震えを感じ始めた。 怖いから震える。これもまた単純な理由だった。 これはわたしの心の中にある怯えなのだろうか。 もしそうじゃないのなら、どうか怖がらないで。 このぐちゃぐちゃしたものは全部、全部わたしが引き受けるから。 わたしのせいで今まであなたをたくさん苦しめたよね。 だからこれはせめてもの償い。 あなたはこれから、ササコちゃんやみんなと幸せに生きるの。
「アンタは黙ってろッ!! 」
やけつくように熱い喉にビリビリとしたものが走る。
絶対に誰にも邪魔なんかさせない。 イシちゃんを繋ぎ止めて、ササコちゃんも助けるんだ!
わたしはもう、何がなんだかわからないくらいに頭に血が上ってしまっていた。 先程まではヤツの悪意に負けじと慎重になっていたが、もう知らない。 わたしは手に持っていたそれを、めちゃくちゃに噛み砕いて、飲み込んだ。 また何やら声が聞こえてきたが、もうそんな戯言に耳を貸すつもりは無い。 もう少しで全部食べ終わる。 そう思った時。
「あの、えっと……」
突然、戸惑うような声が聞こえた。 それは冷たくて腹立たしいあの声とは違っていて。 気になってそちらを見てしまった。
わたしの目に映った光景はなんというか、なんだろう。 状況がうまく理解できない。 ササコちゃんが目の前に立っていて、イシちゃんを見下ろしていて、わたしの手には、手には……。 これはなんだ? もはや原型をとどめないこれは、確か──。
全てを理解した瞬間、急速に熱が冷めていくのを感じた。 冷めきってなお、冷える。 わたしは、とんでもないことをしでかしてしまった。 彼女に一番見せてはいけないところを見られるなんて。 どうしてこんなことになってしまったのだろう……。 ササコちゃんの顔がまともに見れない。 目が潤んできて、今にも溢れだそうとしていた。 この涙はきっとわたしのじゃない。
わたしは俯き、目を閉じた。 ごめんね、イシちゃん。 泣かないで。 わたしが絶対に何とかするから。 言い聞かせるように、心の中で呟く。 だけどこの言葉はもう彼女には届かないかもしれない。 わたしの心は既に形を変え始めていたから。 イシちゃんにはわたしだけいればいいとか思ってしまう。 死ななくてよかったわね、じゃあどこかへ行って。 そんな言葉、この口からだけは絶対に言えない。
「ご、ごめんね。……こわがらせ、ちゃった…わよね」
無意識に発せられるのは心にもない言葉。 その涙混じりの声は、まるで遠くで誰かが喋っているみたいに客観的で、耳も遠い。
だめだよ、イシちゃん。まだ寝てないと。じゃないと、あなたはきっと傷ついちゃうよ。
『わたしがいるから。ずっといっしょにいてあげるから……』
もう目を開けることも出来なかった。 意識がだんだんと重くなっていく。 どす黒い液体を吸って、深く深くへと沈んでいくようだ。 この声はもう誰にも届かないのだと悟った時、あの冷たい声の主の気持ちが、ほんの少しだけ分かった気がした。
私は我を忘れて、一心不乱に自分の一部だったものに齧り付いていた。 こうしてササコに声をかけられるまで、ずっと。 最初はササコと一緒に逃げるためだったのに、そのササコのことを忘れるほどに血肉を欲していたことが、怖くてたまらない。 だけどそれ以上に怖いのは……。
「ゴイシシジミさん……、」
「そ、そんなことより! ……あなた意外と強いのね。びっくりしちゃった」
本当に、ササコはすごい。 あんなに大きなセルリアンを一人でやっつけて。 未だ……私の前に、立っている。 こんな血まみれの口元を見ても、まだ。 ……もしかして、また昨日までみたいに、過ごせるのかな? まだ、ササコと一緒にいられるのかな……? もし彼女が何事もなく接してくれたなら、私は元に戻れる? 右手はなくなっちゃったけど、また、いつもみたいに……。
「あの、腕……」
「…………私は……あなたと同じフレンズよ」
私が声に出したのは、心にもない言葉だった。 今まで意識しないようにしてきた。 でも、押し込めて隠そうとするほど、それは深く根を張った。 私はきっとササコ達とは違う。
切り落とされたはずの私の右手が新しく生えていた。 首の皮一枚だった袖も綺麗にくっついていた。 だけど、セルリアンと戦ったササコだけが……傷ついている。 服なんかもう、初めて会った時からずっとボロボロのままで、治る気配もない。 そして今日、ササコはまた……。 俯きながらもかろうじて見える彼女の傷跡。 それは小さな傷だったけど、やっぱり赤い血が流れていて、きっと痛いのだと思う。 私はその赤いのがどうしようもなく見ていられなくて、更に視線を落とした。 そんなことをしたのは、たぶん目を逸らしたかったからだ。 脳裏に焼き付いた真っ赤な両手と、自分と彼女の違いから。 逃げたって何も変わらないのに。それでも直視はできなくて。 すっかり落ち込んでしまった視線の先には、左右で大きく質感の違う履物があった。 ササコの左の足には、ほとんどが砕けてヒビだらけの、鎧っぽいものが。 そして右足には私のとよく似た靴を履いていた。 元々はこっちの方も鎧に覆われていたのかもしれない。 そう思ったら、急に心臓が抉られるような感じがして泣きたくなった。 もう痛くなんかないのに、痛いのはササコなのに。 なのに、なのに…。 背けようのない事実が重くのしかかって、軋む。
私はこんななのに、どうしてこんなにも無力なんだ。
未だ私の前に居続ける少女は、もう何も言わなかった。 ただそこにいて、きっと私を見つめていた。 怖いはずなのに。 今すぐに逃げ出したいはずなのに、彼女はまた自分を殺そうと言うのか。 こんなに優しくて、自身の危険を顧みない。 そんなササコに私は何を言えばいい? 逃げてもいいなんてことはもう言えない。 言いたくないんだ。 ……だったら、何か弁解するのはどうだろう。 ササコが今夜も安心して眠れるように、私が、この……血塗れの口で……? 信じてもらえるとは思えない。 じゃあやっぱり、こっちの血塗れを後ろ手に隠して、何も無かったって言い張ってみる? そうしたら……見逃してくれるかな? それでもダメなら今ここで、ササコの目の前で、この手が生えなくなるまで切り落とせば……。 いや、そんなのは絶対にダメだ。 もしそんなことをすれば、彼女を余計に怖がらせるか、悲しませてしまう。 悲しんで、くれるのかな……。
ろくな考えが浮かばなかった。 足りない頭でいくら考えたって、思いつくのは普通とは程遠い愚案ばかり。 諦めきれない。 でも、ササコの気持ちは無視できない。 いつまで経っても弁解の言葉なんか浮かばないから。 私は彼女に、ササコにこの場の全て委ねることにした。 ずるいかもしれないけど、今の私からはきっと、取り繕うための嘘や誤魔化ししか出てこないから。 目を瞑り、一度浅く深呼吸をしてから、顔を上げる。 すごくドキドキした。 私は鼓動が少し穏やかになるのを待ってから、目を開いた。
「ぅ……」
一瞬ぼやけて鮮明になる。 そうして一番最初に目に入ったのは、ササコだった。 目の前に、ササコがいた。 そんなこと、ずっと分かっていたのに。 でも、どうしようもなく嬉しくて。目頭が熱くなった。 ササコがここにいてくれる。 もう一度、生きて再会することができた。 彼女は俯いていて、どんな顔をしているか分からないけど、今ここにいるのは間違いなくササコだった。
夢じゃないんだよね……?
自分の頬をつねることもせず、私の両手は、自然とササコの方へと伸びていた。 確かめたい。 その手に、髪に、頬に触れて、ササコがここにいることをちゃんと認めたい。 この手で、ササコの体をぎゅっと抱き締めて、確かな体温を感じたい。 もしそんなことをしたら、今度は本当に泣いてしまうかもしれないけど。 だけど止められなかった。 真っ直ぐと伸びていく。 気持ちがはやって、また鼓動が加速する。 もう少しで、届く。 それなのに。
やっぱり、だめだ……。
伸ばしたそれは赤く汚れきっていて、触れるのをためらわれた。 言葉でササコを安心させることも、彼女に触れることも叶わない。 今の私は無力を通り越して無だった。 何も無い、何も出来ない。 ササコはこんなにも、拳を握りしめるほど必死に言葉を探してくれているのに。 地面を睨みつけて、拳をぎりぎりと締めて、その手のひらにはきっと爪の跡がついているのだろう。 そんな彼女の様子を見ていると、自然と笑みがこぼれた。 笑える要素なんかひとつも無い。 だけど私は微笑んでいた。 それは何も出来ない私の……諦めだったのだろう。
20話終了
時間置いちゃうとすぐに文章の作り方が分からなくなるます……
ぼんやりとする。 ずっと、ぼんやりとしていた。 押しては引いていく波打ち際。 私はそこにいて、彼女がそれを見ていた。
「あなたは、夢子……?」
「なぁに、それ」
全体的に白っぽい服を着た少女は、その髪の毛の一本一本も白い。 私やササコと同じ、そしてあの子とも。 眉を下げてどうやら悲しんでいる様子の彼女に、私は何をしてあげられたのだろう。 少女は顔を伏せて、やがて覚悟が決まったのかその名前を口にした。
「わたしは、──────よ」
きっと彼女は否定したかったのだと思う。 目が覚めれば消えてしまう、自分はそんな不確かな存在ではないと、必死になって抗っている。 そんな彼女の声を、私は聞いてあげなきゃいけない。 それなのに、なんだか声が遠いような気がして、上手く聞き取れなかった。 彼女の震えるような寂しい気持ちは、波にさらわれて見えなくなってしまったのだと、そんな風なことを思った。
「わたしの名前、忘れちゃったみたいね……」
「ごめんなさい」
きっと、謝ったって赦されることじゃない。 だけど、それでも……
この言葉は彼女に届いているだろうか。 波にさらわれてはいないだろうか。 不安だった。
「ごめんなさ──」
「しょうがないから、赦してあげる」
「そんなに謝られたら、あなたにこんなに想われたなら、きっとなんだって赦しちゃうわ」
「…………そんなの、」
「それに、別にあなたは何も悪くないもの」
「……違う、私は……」
「──違う」
「違う」
「……私が全部、悪かったの」
「私があなたを……私さえいなければ……!」
「違うの。わたしの言葉、ちゃんと聴いて」
顔を上げた少女と目が合う。 淡く輝く金色の瞳は、決して逸らさせない。 強い意志を宿して、私を真っ直ぐと射抜く。 それは内に眠る悪夢を取り払うように。
「悪い夢にどんなにひどく言われたって、あなたは決して悪くない」
ずっと欲しかったはずの言葉。 なのに、私は。
「……もうあなたの言葉なんて、信じられないわ」
止められない。これ以上傷つけたくないのに、止まってくれない。
「痛かったじゃない! あんなに痛かったのに、どうして……」
「その話し方」
「……誤魔化さないで」
彼女は私から目を逸らして、何かを考え込む。 やがて何かを思いついたのだろう。ゆっくりと口を開いた。
「嘘をついちゃったのは……きっと、幸せだったから。わたしはあなたとの時間を、できるだけ沢山の笑顔で埋めておきたかったの。あなたは知らないこと……あなたの笑った顔はね、実はすっごく素敵なのよ。真っ暗に曇ってしまった心も、一気に晴らしてくれるくらいに……」
「だからね、わたしはあなたに笑っていてほしい」
「そんなことで……」
「そんなことじゃないわ。わたしはあなたを恨んだりしない。でも、あなたの笑顔を曇らせてしまうようなやつは許せないの。……たとえそれが、わたし自身であっても」
「ずっと、聴こえてたよ。わたしみたいになりたい、ならなきゃって。 あなたの気持ち、嬉しかったけど、すごく悲しかった」
謝ることしか出来なかった。 今は亡き彼女のために泣くことも、もう私には出来そうにない。 そんな資格はとうにないのだ。 自分のしたことを認めておきながら、せめて夢の中でなんて。 彼女の口から赦しを得ようとするだなんて。 本当に救えない。 救われるべきじゃ……ない。
「……ごめんなさい」
「やっぱり、あなたは未だ……夢を見てるのね」
金色の光が揺らぎ、瞬く。 そして再び私の視線をとらえると、網膜を強く焼け焦がす。 鋭くなって、一番深くに刻み込むように。 彼女はその目で言った。
「もう雨には濡れちゃだめよ。また怖い夢を見ちゃうからね。」
「夢……」
「そう、夢。起きても覚めない恐ろしい幻夢。こんなふうに」
彼女はそう言うと、波音の聞こえる方へと視線を流す。 私はその後を追った。 まだ眩しくて、目に光が張り付いているようだった。 金色じゃない、赤い光が視界を覆い尽くすほどに広がっている。
「赤いわね。あれ、なんだと思う?」
それを見るように促した少女が、軽い声色で聞いてくる。 彼女の口元は柔らかく微笑んでいたけど、目は全然笑ってなかった。
「……海」
私が言うと、彼女は曖昧な顔をした。 そして。
「わたしのことは忘れて」
突き放すような言葉。 突然の事で、一瞬その意味を理解できなかった。 じゃあ、一瞬後の今ならどうだろう。 ……そんなの、分かるはずがない。
「なん…で、そんなこと、言うの…?」
「言ったでしょ、……許せないって。わたしは太陽なんかじゃないし、あなたの行く先を明るく照らすかがり火でもないの」
彼女はそう言って、こちらへと両手を伸ばしてくる。 ひんやりとした手が頬に触れる。
「ほら、やっぱりわたしはいない方がいい」
「ぇ……?」
頬を伝う水滴の感触。ぼやける視界。気づくと私は泣いていた。
「なんで……」
彼女の言葉が悲しかった。 私が忘れてしまったせいで、彼女のことを、「彼女」としか呼べなくなってしまった。 そのことが悲しくて、申し訳がなくて。でも赦されるはずがなくて。 また涙が流れた。 泣く資格がないとか言っていたのは、誰だっただろう。 何とか押しとどめようと目を瞑ったけど、さっき彼女が言ったばかりの言葉を思い出してしまって、できそうにない。 彼女の悲しい考えを覆せるだけの言葉も、私は持ち合わせていなかった。 それが堪らなく悔しい。 悲しい涙に、悔しい涙。 涙はとめどなく溢れてくるけど、私の顔が水浸しになることは無かった。 こぼれた滴が頬を伝い、途中で途切れる。 その繰り返し。 冷たいものが、添えられた両手に落ちては熱を失っていく。 今まで冷たいと思っていたそれは、彼女の手の冷たさに比べればまだ温かかった。 その対比にまで泣かされそうになる。 ふいに、ぼやけ切った視界の中で彼女が柔らかく微笑んだ気がした。 こんな安心させるような顔を私は知っている。懐かしささえ覚えた。 彼女は一度私のことを泣き虫だと罵ると、指で涙を拭おうとする。 ……だけど私はその手を拒んだ。 涙と一緒に、大切なものを取られてしまう気がしたからだ。
「忘れたくない」
「忘れたりなんか、できないわ……」
彼女は今、どんな顔をしているのだろう。 目を開けても、瞑っても、映るのは歪んだ悪夢だけだ。 とうにぼやけ切っているのに、視界はまだまだぼやけていく。 とめどなく涙が溢れてくる。 もういっそ、この涙で 溺れてしまいたかった。
最近何だかおかしい。私は今現在、ひとつの悩みを抱えていた。 ここのところ、気づけばササコのことを目で追っている。 それは以前と変わらないようにも思うけど、今はどういう訳か彼女のことが愛おしくてたまらないのだ。 もちろんササコのことは前から好きだった。 でも今はこれまでの比にならないくらいに好きすぎてしまう。 ……彼女のことを考えていると、どこか言語能力が怪しくなる。 どうして急にこんな感情を抱くようになったのかは分からない。 だけど、彼女のどこが好きかと聞かれて安直な返答をしてしまうくらいには、ササコが好きだ。 そんな具体性の無い答えではこの気持ちが伝わらないというのなら、私が思う彼女の好きな所をひとつずつ列挙してもいい。 私は目を閉じ、大好きな友人に思いを馳せる。
……優しいところが好き。私みたいな子にも優しく接してしまうような迂闊さも含めて好ましく思う。見かけによらず力強いところも好き。まさかあんなに強そうなセルリアンを、たった一人で倒せてしまうなんて。急に彼女にかっこよさを感じるようになってしまった。強くてかっこいい。……好き。だけど彼女の強いところはそれだけじゃなくって。肉体を凌駕する心の強さ。恐怖を感じながらも恐ろしい存在に立ち向かうことは、きっと誰にでもできる訳じゃない。自分が持っていないものを持っていると言うだけでも、惹かれてしまうものなのだと思う、と一人で納得する。やっぱりササコはかっこいい。こんなにもかっこいいのに、かわいさも兼ね備えているなんて……。まるっこい目元は変につり上がってたりしないし、瞳の色は透き通った琥珀色で宝石みたい。それに、繊細そうな唇の奥には尖った牙も見えない。さらには、真っ白な髪はさらさらのもふもふふわふわで、世界に二つとない髪質に違いないと思えるくらい綺麗だ。ちゃんとした服さえ着せれば、きっとどこかのお姫様と間違えてしまうに違いない。
「好き……大好きぃ……」
「……あの、大丈夫ですか……?」
「わひゃぁっ! ……な、なに?」
突然声をかけられて、飛び上がってしまう。 顔を上げるとササコがいた。 今の私に声をかけるのは彼女くらいのものだけど。 だけど、今は、このタイミングで話しかけられるなんて考えもしなかった。 彼女の顔を見た瞬間、そして私に話しかけたのがササコだと認識した時、私の心臓が二度大きく跳ねた。
「す、すみません。なんだかぼーっとしていたみたいだったので。あと顔もいつもより少し赤いような……熱でもあるのではないですか?」
ササコが心配そうに言った。 私は何とか心を落ち着けて、思考を巡らせる。 出来ることなら、愛しい声が紡ぐ言の葉のひとつひとつを。そしてその裏にある彼女の心の全てを理解したい。 だけど私に出来るのは、彼女の思いを乗せた言葉を正面から受け止めることくらいだ。 叶わない願いは早々に諦め、改めてササコの言葉に向き合う。
"「なんだかぼーっとしていたみたいだったので」"
ぼーっとして見えたのは、きっとササコのことを考えていたから。 意識の一番深いところで、脇目も振らず、危機管理をも怠って。 彼女のことだけを考えてた。
"「あと顔もいつもより少し赤いような……熱でもあるのではないですか?」"
言われてみれば、なんだか顔が熱い気がする。 あるのかな、熱。熱……あるのかもしれない。 そう曖昧に考えていると、ふとあることに気づいた。 ササコは私の顔を見て、いつもより赤いと言った。 それを聞いた時、私は焦りながらも喜びを感じていたのだ。 ササコが見ていてくれるのが嬉しい。 些細な(?)変化に気づいてくれるのが幸せだと思った。 ……というか、ササコの頭の中には 顔が赤くない平常時の私がいるのか。 こちらにも気がついてしまい、そんなに顔を見られていたのかと思うと、急に言い知れない気恥ずかしさのようなものが押し寄せてきた。 これまでササコが見てきた私は、どんな顔をしていただろう。 彼女の目にはどう映っていた? 変な顔をしてはいないだろうか……? そんな不安が浮かんでくる。 不安の種を吐き出すためにと、これまでを振り返ったのは間違いだったかもしれない。 今までの私のササコに対するあらゆる言動はどう考えてもまともじゃなかった。 だからきっとそれに伴う表情の方も、普通じゃなかったに違いないのだ。 既に芽吹いてしまった不安事の種は、根を張り茎を伸ばし続ける。 私はその根茎がこの熱を吸い上げてくれることを願わずにはいられない。 もうこれ以上、ササコに変な顔を見せたくはないから。
「ゴイシシジミさん……?」
ふいに、意識の外から声が聴こえた。 今度もササコだった。 私はそれっきり思考を打ち切って、無難な返事をすることにした。
「大丈夫よ。…ありがとう」
ササコに不要な心配をかけたくなかった。 極めて平静を装ったつもりだったけど、たった一言を導き出すまでに一体どれだけの時間が流れたのだろう。そしてその無言だった時間で、ササコとどれだけの言葉が交わせたのだろう。 深く考え出したらまた同じことが繰り返される気がしたので、やめておくことにした。
じー……
視線を感じた。疑うような視線を。
「本当に……?」
それは疑わしげな声で、やっぱり疑っているみたいだ。 正直に言うと、私は全然大丈夫じゃない。 こうしてササコに見られているだけで、身体がどんどん熱くなって、溶けてしまいそうになる。 何度も思考に靄がかかりそうになるし、眠くもないのに目が潤んでくる。 熱に浮かされたような気分だった。 これは重症かもしれない……。
「ん……?」
今の私は、よっぽど嘘つきの顔をしていたのだろう。 ササコが目を細めて、じっと瞳を覗き込んでくる。 彼女の瞳に写った自分の顔がよく見えて、なるほどこれは熱っぽいなと納得できるくらいに、顔を近づけてきて……。 熱があるかもと疑っておいて、その急接近はどうかと思う。 もし本当に風邪でも引いていたら、これで移ってしまうかもしれないではないか。 それに、こんなにまじまじと顔を凝視されるのは落ち着かない。 見てもらえる事が嬉しいとは言っても、さすがに限度があった。 私は顔を逸らして、ササコの肩に手を置く。 そしてゆっくりと遠ざけた。
「ほんとうに大丈夫だから……ね」
念を押すように言う。 目だけを動かして表情を確認すると……ササコはまだ疑わしげな顔をしていた。
少しの間、刺すような視線を無言でかわし続けていると、向こうの方が根負けしたようだった。 「あなたがそう言うなら……」と、渋々ながら見逃して貰えた。 ほっと息をつく。
「それで、…何が好きなんです?」
「……ぇん?!」
安心したところで不意打ちを食らい、変な声が出てしまった。 みるみるうちに顔が熱くなる。 さっきの"アレ"を聴かれていたのだ。 まさか声に出ていたなんて、と今更になって思う。 それも言葉として認識できて、しっかりと意味が伝わるくらいに、大きい声だったとは……。 愛の囁き(?)が本人に聞かれて、その詳細を問いただされるなんて、……なん…て……。 顔の温度はもうこれ以上上がらないらしい。 今度は頭が熱くなってきた。 今私の額辺りからは湯気が出ている。絶対出てる。自分では見えないけど……。
聞かれてしまった。
……聞かれてしまった……。
熱暴走を起こして止まりかけた思考回路を無理やりに動かすと、事実の確認をするみたいに同じ言葉が何度も繰り返された。
……声に出してしまった。
次に浮かんできたものは、さっきと微妙に形が違ったけど、結局のところは同じ事実に基づいていて、その二つには大きな意味の違いはなかったはず。 だけど私は"声に"の部分を認識した瞬間、ハッとした。 私は声に出していたのだ。そしてそれをササコに聞かれてしまった。 そんなことは確認するまでも無く、分かりきったことだ。 でも、それは一体どこから……どこまでだっただろう……? もし最初から最後まで全部声に出ていて、その一言一句を逃すことなく聞かれていたとしたら……。 ……ササコは、"何が好きなのか"と訊ねてきた。 わざわざ訊いてくるということは、私の思うような恥ずかしすぎる出来事は起こらなかったと考えるべきだ。 でももし、ササコが全てを知っていてとぼけているとしたら……。 彼女ならそういうこともするような気がする。 少し前までは、彼女に対してそんな風な考えを持つことは無かった。 ササコはどこまでも素直で、言葉をそのままの意味で受け取ってしまう。 出会ってすぐはそんな風に思っていた。 でもそれは違った。 彼女は意外と強かなのだ。 人の言葉を疑いもするし、時には嘘もつく。たまに意地悪を言うことだってある。 それに……。
つい先日のことを思い出す。 前をササコが歩いていて。私はその後ろを歩く。 私の右手を問答無用でひったくったササコが言う。
"「でも良かったです。……こうして捕まえることが出来て。 ……また、あなたの手を握ることが出来る」"
あの時は気を使ってくれたんだと、今になって思う。 ササコは気を使うのも上手だった。 だから今回も、わざと聞いていないふりをしてくれているのかもしれない。 もし本当にそうだとしたら、改めて訊かないでほしいけど。 滅多に出ない彼女の意地悪な部分が、ここぞとばかりに出てきてしまったのだろうか……。
返答はまだかとばかりに、ササコが私の名前を呼ぶ。 やっぱり、ほんの少しだけ意地悪かもしれない。
「えっと……」
言い淀んでしまう。 このまま淀み切ってしまえば、次に口を開く頃には、好きの気持ちごと見失ってしまう気がした。
「あの、ね」
勇気なんか出さなくたっていい。 訊かれたことに答えるだけだ。 ササコが望んだから、それを今から言うんだ。 それだけなのに、鼓動が早くなる。喉が渇いてきて、頭が真っ白になってしまう。 だけど、それでも。 どんなに緊張したって、何も考えられなくなったって、いまさら言うのを止めることは出来なかった。 どんな風に声に出すかは、既に決まっていたから。
「私、は──────」
朝、目が覚めて一番にササコの寝顔を見る。 そして自分が正常であることを再確認した。
「……うん」
ササコの顔をずっと見ていても、激しい動悸や頭が茹だるような熱を感じない。 だから今の私はきっと、"いつもの"私だ。 彼女のよく知る「ゴイシシジミさん」だ。 そう思うと少しほっとした。
今なら分かる。 昨日の私は、本当に風邪をひいていて、熱も動悸も全部その風邪のせいだった。 目を閉じれば蘇る記憶も、薄く蕩けて判然としないものばかりで。 自分がいつ眠りについたのかすら鮮明に思い出せない。 だけど昨日何があって、その後どうなったのかはちゃんと覚えている。 その記憶の所々はぼんやりとしていて、夢でも見ていたのではないかと勘違いしそうになるけれど。 でもあれは間違いなく自分で考えて決めて、この口から発せられた言葉だと言える。 ……私は、ササコに「好き」を伝えなかった。 彼女に何が好きなのかと訊かれて、「なんでもない」と答えたのだ。 今思えば、少し素っ気なかったかもしれない。 「あなた」でも、「ササコ」でも、どちらでも言えばそれで良かった。 でも私は口を噤んだ。 その時はそうするべきだと思ったから。 茹だり切った頭で唯一冷静に考えられたのは、今の自分がいつもササコが見ている私じゃないということ。 それだけ解っていれば、もうどうするべきかは考えるまでもなかった。 ……でもそれも、熱の冷めた今だから言えることで。 本当のところは、ただ怖気付いただけかもしれない。
このままササコの目が覚めるのを待って、いつも通りのおはようを言おう。 そうすればきっと何も変わらない。 二人で朝の挨拶をして、これまで通りの日常を過ごすんだ。
……別に、何も名残惜しくなんかない。 私にとって一番大切なのは今、隣にササコかいることだから。 いつか来る、二人で一緒にいられる最後の日まで。 私はずっと彼女の隣に居続ける。 今ここで、改めてそう心に誓った。 誓いの口付けは必要ない。 私は彼女の騎士じゃないから。
「……私は、あなたの友達になれたのかな?」
投稿頻度が開くことによって発生する問題に、ただいま直面しております 長期間のブランクによる文章の書き方の忘却とそれに伴う文体の変化 より具体的に述べますと、登場人物(主に主人公)のキャラ崩壊が主な問題です 一人称視点で書いているので、地の文の書き方の変化がそのままキャラ崩壊に繋がる恐れがあるわけです(これはもう若干手遅れかも) そこで、これからは毎日こつこつと進めていく方針に転向しようかなと考えています 最初はこのような方針で進めていましたが、段々と書かない日が続くようになり、今に至ります このままではいかんですと思い、この度気合いを入れ直すことにしました 今後は、この夏で完走するくらいの心意気を持って進めていきたいと思っています 目標は週一ペースでの更新です
私は今日も夢を見る。
いつものように、また、悪夢を見ている。
それを自覚しているのに、目を覚ますことが出来ない。
起きようと意識を集中させても、舌を噛み切ってみても、目の前の景色が変わることはなかった。
「……」
私は途方に暮れて辺りを見回した。
…………。
……仄暗くてよく見えないけど、ここが閉鎖空間ということだけはなんとなく分かる。
「…………」
真っ暗ではないということは、どこかから光が入り込んでいるのかもしれない。
私は光の源を探して見ることにした。
ぽふ
「……?」
一歩足を踏み出してみると、足が地面に沈みこんだ。
妙な感覚だった。
靴越しにふわふわとした感触が伝わってくる。
なんだろう、と思った。
こんな寝心地の良さそうな地面には心当たりがない。
それなのに、ここがどこなのかは今の一歩で理解出来てしまった。
ここは……繭の中なんだ。
誰かがヒトリで眠りにつく為の、特別な空間。
とても私がいていい場所なんかじゃない。
それなら一刻も早くここから出なければいけない……はず…?、。
なんだかぼんやりとした焦燥感を胸に、私はさらに歩を進めていく。
もふ、もふ……
もふもふもふもふ、
もふ…………もふ……
…………もふ。
私の足取りは足元から伝わるこの感触ほど軽くはなかった。
ただでさえ眠くて体が重いのに、一歩進む度に耐え難いほどに眠気が増幅されていくのだ。
もふもふに足を数もふcm沈めるだけで、意識が融けてしまいそうになる。
この眠たくて仕方ないのを何とかするべく、頬をつねってみる……。
が、あんまり痛くない。
こんなので眠気をどうこうしようなんて言うのは夢のまた夢だ。
仕方ないので、私は自分の舌を噛み切ることにした。
口を開けてめいっぱい舌を伸ばす。
目を瞑り、喉を鳴らす。
そうしてようやく覚悟が決まったら、一気に歯を食いしばる。
一気に!
「──ッ!………………?」
……痛みを感じない。
頬を指で摘んだ程度の痛みすらないのだ。
私は舌を思い切り噛めば、重く鋭い痛みがすぐにやって来るだろうと予想していた。
でも実際には違った。
重たいどころか私の舌はとても軽かった。
それも少しの質量も感じさせないほどに。
これはどういうことかと不思議に思った私は、客観的に自分を見て確認することにした。
私は妙になれた手つきで左の目玉を取り出す。
そして、少しべたつくそれを親指といずれかの指とでころがし、自分の方へと視線を合わせた。
私の左目に上下逆さまの自分が映る。
恐る恐る口を開けて中を覗き込む……。
────ない。
咄嗟にしまった、と思った。
さっき一度舌を噛んだ時に、勢い余って噛みちぎってしまったのを忘れていた。
これでは目を覚ませない。
「……」
(……とりあえず、眼は元の位置に戻しておこうかな……)
私は手に持っていたそれを右の窪みに押し込み、ぱちぱちと瞬きをした。
「……?」
なんだか視点が微妙に…右にズレている気がする。
私はそのズレを修正するべく、左目へと手を伸ばした。
………………。
しかし、指先が触れたものは、さっきまで私の手の中にあったものとは違った感触をしていた。
眼よりもずっと柔らかい何か。
私はそれを引っ張り出してみた。
(これは……石?)
所々角張ったそれは、……石のようだった。
それを理解した瞬間、
「……っ!」
空を切りながら薄闇に溶けて行く石ころ。
私は、何食わぬ顔で自分の体に紛れ込んでいたそいつにひどく腹が立った。
だから思い切り遠くへと投げ捨ててやったのだ。
「…………」
なんとも言えない、喪失感のようなものが私の心を満たしている。
そうだ、そういえば舌を無くしたんだった。
とても残念……。
噛み切るための舌をどこかへやってしまった。
(……あれ?)
そもそも、舌はどうして必要なんだっけ。
なんで無くなったら『残念』なんだろう。
別になくてもそんなに困らない気がする。
むしろ、味覚を感じなくて済むなら、無い方がいいに決まってる。
それなのに私は、そんなものにいつまでも執着している……。
どうしてだろう?
噛み切るための舌。
噛み切って、……痛みに身を縮こませるための────。
そうだ、思い出した。
今の私に必要なのは不味い味を感じさせる舌でも、つらい現実を映し出す目玉でもない。
目を覚ますための痛みが必要なんだ。
ここは夢だから。
私が大嫌いな痛みを許容しているのも、自らのおぞましい行動に目を瞑っているのも、全部、ここが夢の中であるからこそだ。
(これだけ理解できてれば、……十分だよ。)
右腕を顔の前まで持ってくる。
そして、彼女が逃げられないように、残されたもう一本の手で拘束した。
これでもう逃げられない。
肘の内側辺りに歯を突き立てると、そのまま右腕を力任せに引きちぎった。
断面に耐え難い痛みを感じる。
……いや、実際には耐えられる程度の痛みしか感じてはいないのだろう。
まともに思考できているのがその証拠だ。
この程度、私があの子に与えたものには遠く及ばない……。
私はいつの間にか手段が目的に成り代わっているのに気づいた。
元々は眠気に耐えるための行いだったはずだ。
なら、本来の目的は達成出来ただろうか?
その答えは考えずとも分かる。
痛みによる意識の鮮明化はあまり効果が無かった。
でも、私は間違いなく目的を果たせたのだと実感している。
今は血の気が引いて、眠いどころではない。
取り返しのつかない事をしてしまったと青ざめているのだ。
断面から溢れ出す血なまぐさい液体は、繭の色を真っ赤に染め上げてしまった。
最初のうちは私の足元だけに留まっていた色は、今では全体に広がってしまっている。
もう取り返しがつかない。
「っ!?、っ?!っ──……………?」
半ばパニック状態になりながら、何とか流れる血を止めようとする中で、ふと、私は不思議なことに気づいた。
あんなに暗かったのに、血の赤色だけはやけにはっきりと目に映るのだ。
私は少し考えて、そして理解した。
この身体に流れる液体、私の血液は発光していたのだ。
なるほど、道理で気分が落ち込むはずだ。
私は悪態をつきたくなるのをぐっとこらえた。
血が光るからと言って、悪いことばかりではないはずだ。
目がチカチカして安眠出来ないかもしれない。
偶然誰かに見られて不気味がられるかもしれない。
でも、今はどうだろう。
ここには私しかいないし、ここでぐっすり眠るつもりもない。
それに、ほら─────。
俯いた視線を遠くへと向ける。
さっきまでは暗くてほとんど何も見えなかったのに、今では空間全体が赤く照らし出されていて、遠くまで見渡せた。
思いの外広かった繭の内側には、目印になるものが何も無く、ひどく殺風景だ。
何も見えなかったのはそういう事か、と納得する。
(えっと、出口は…………あそこかな?)
周囲を注意深く見渡していると、遠くの方に一際強い光を見つけた。
しかし、そこは私が向かっていたのとは逆方向だった。
…………。
数歩分の徒労で済んだだけ良かったのかもしれない。
もし、あと五、六歩くらい離れてしまっていたら、もう光は永遠に見えなくなっていたかもしれないのだから。
(よし────っ!)
私は気を取り直して、光ある方へと足を向けた。
もふ、もふ、もす、ぽふ
ぱふ、ばす、がす、ばち
めき、めき、ぼき、ぶち
がつ、ざく、ざく、ぴしゃん
地面に足を埋める度、不気味な音が辺りに木霊する。
そのどれもが不吉で、痛みや別れを想起させるものばかりだ。
でも、不思議と恐怖を感じることはなかった。
きっと、自分でもわかっていたんだと思う。
私にとっての痛みと別れは、これから始まるのだと……。
私は躊躇しつつも前へと進む。
背後には小さな気配がひとつ、いつの間にか着いてきていた。
振り返ってはいけない、歩みを止めてはいけない。
この身には不釣り合いなほど優秀すぎた本能が告げる。
それならと、私は前へ前へと進んだ。
つき動かされるように。
本能は決して裏切らないから。
彼女はいつだって、私がより苦しむ選択を導き出す。
だから盲目的にでも信じられるのだ。
…………………………。
そうして歩いていると、次第に、正体不明の不快音が聞こえなくなってくる。
その代わりなのだろうか。
今、ようやく静かになったはずの頭の中で、パチパチという音が鳴っている。
燻るように、小さな音で。
不安に思いつつも立ち止まることは出来ない。
なにかに取りつかれたように足を前へと、前へと。
近づけば近づくほど視界が鮮明になっていく。
……音の正体と光の正体。
その両方が、残された片方だけの目に痛く鮮明に焼き付いた時、私はようやく足を止めることが出来た。
さすがにこれだけ近づけばこれが何かはわかる。
周囲を照らしていたもの。
それは火だった。
直径十センチほどの、炎にも満たない小さな灯り。
私はその小さな灯りに誘い出されたのだ。
(なんだ、出口じゃなかったんだ。)
その場でしゃがみこんでぼんやりと火を眺める。
手をかざすとほんのりと熱を感じた。
(あったかいな……)
無駄足だったのかもしれない。
でもこうしていると、悪態のひとつをつきたくなる感情がみるみるうちに溶けていく。
とっても、心が安らぐ……。
バサバサっ。
ふと、火の中に何かが飛び込んだ。
なんだろう。
不思議に思いまじまじと見つめていると、何かは動いた。
もしかすると、火のゆらめきと見間違えたのかもしれない。
私は目を擦り、もう一度それを見た。
「────っ…………」
見間違いなんかじゃなかった。
小さな火の海にのまれて苦しんでいる。……私と同じような、小さな虫けらが。
きっともう助からない……。
とても小さな炎だった。
それでも、彼女が死んでしまうには十分なのだろう。
灰に成りゆく命を前に、私にできることは何も無かった。
火中のムシが脚やハネを必死に動かす姿をただ見つめる。
パチッ
小さな破裂音と共に、黒焦げのお腹が爆ぜた。
それでもまだ動いている。
六本の足が、ピクリ、ぴくりと。
そのさまをぼーっと見届けていると、先程の眠気がまた込み上げてくる。
ふわーっとあくびをして目を細める。
目をこすり、もう一度火の中を見た。
ぴくり……。
もう少しだけもがいたあと、やがてそれは動かなくなった。
私は何故か手に持っていたコップの水を、未だ燻っている亡骸にぶちまける。
(可哀想に……。自分から火に飛び込むなんて。
きっと本能には抗えなかったんだね。)
そんなことを思った。
『何をしているんですか』
「───ッ!」
だんだんと怪文書じみてきたので、一度ちゃんと文章の作り方を勉強するべきかもしれない
突然、後ろから誰かに声をかけられた。
私はビクッと飛び上がり、恐る恐る振り返る。
今度は本能も止めなかった。
「……」
後ろに立っていた少女と半分だけ目が合う。
彼女は私の欠落したもうひとつのことなんて気にもとめず、もう一度同じ質問を繰り返した。
今度はさっきよりも強い口調だったけど、全然怖くない。
私はもう既にこれが夢だと気づいているし、そもそもそんな優しい顔で怒られても迫力なんて全くといっていいほど無い。
(これで何回目だろう。)
赤く汚れてしまった借り物の繭の中で、本来の持ち主に出会った。
何度か繰り返された出会い。
これは数回目の再邂逅。
『答えてください』
(─────え?)
先程とは違う険しい表情で私を問い詰める少女に違和感を覚える。
彼女とは夢の中で何度も会ってきた。
でもこんな風に厳しい表情を見せたことはこれまでに一度たりともなかった。
彼女はあくまで写しなのだ。
だからこの責めるような目も、やけに丁寧な口調も、私には違和感でしかない。
ずっとあの子とは別人だと割り切ってきた。
夢子とかいう安直な名で呼び、差別化を図っていた。
でもこんなにもはっきりとした差を持っているのは絶対に変だ。
これはどういうことだろうかと考え込んでいると、ふと脳裏にあるものがよぎった。
思い出したのは真新しい記憶。
新しい友達(?)のササコが私に見せた敵意に満ちたあの目だった。
そういえば、ササコの口調もこんな風に丁寧な感じだった気がする。
(所詮は夢、かぁ……)
姿だけこれまで通りなのは、私がまだササコのことをちゃんと記憶できてないということだろうか。
もしそうでないとしたら、それは間違いなく未練なのだろう。
いつまでも現実を受け入れられない子供な私が、夢に希望を見出そうとしている。
もし本当にそうだとすれば、それはまあ馬鹿みたいな話。
……でも、こんなふうに考えていられるのもきっと今だけだ。
いつかはこの声や目の輝きも変わってしまうのだろう。
そう思うとなんだか急に寂しくなった。
だけど、どれだけ感傷的になろうとしても結局は夢。
だからわずかな悲しみも生まれない。
寂しいどまりだ。
『聞こえてますよね』
「……」
このまま全てが順調に進んであの子の写しと二度と会えなくなった時、私はようやく役目を終えることが出来る。
そんな気がする。
(もう十分……。早く目を覚まさなきゃ─────)
私は今度こそと、目覚めるために意識を集中させた。
薄れゆく赤色。
徐々に体の感覚が失われていく。
今度はちゃんと起きられる。
そう思った時。
『あなたが殺したんですよね』
「…………」
夢子が腕を掴んできた。
このまま逃してはくれないようだ。
さて、どうしたものか……。
試しに少し微笑んで首を傾げてみる。
すると、『しらばっくれないでください』と余計に気分を害したようだった。
しらばっくれるなと言われても、なんのことだか分からない。
そのまま彼女と見つめあっていると、だんだんと不機嫌そうな表情になってくる。
その目が不機嫌を通り越してゴミを見るような目になった時、ようやく腕を離してくれた。
もう触れていたくないということだろう。
『本当に分からないんですか…?』
「……?」
『さっきからあなたが頑なに見ようとしない、彼女のことですよ』
そう言うと視線が少し横に逸れる。
それは私の肩を抜け、その先を見ていた。
私は首だけ動かして後ろを見た。
そこには小さな火溜りが落ちていた。
パチパチと耳障りな音を立てて揺らいでいる。
(えっと……ああ、あれのことか)
火は消したと思ったんだけど、なんでまだ燃えているのだろう。
そんなことを考えるのは馬鹿げているかもしれない。
『なんですか……その表情は───っ!』
ササコモドキがまた何か言っている。
今度はなんだろう。
私の目つきが悪いとか言い出すのだろうか。
……もし本当にそう言われたらどうしよう。
(うーん……別にどうするもなにもないか。)
ここで再び目つきの悪さを指摘されたところで、私が意外と気にしいだったということが発覚するだけだ。
でもまあさすがの私も夢にまで見る程根に持ってはいないはず……。
『────ああ、そうですよね。"そんな目じゃ"、ちゃんと見えないですよね』
そう言って何か一人で納得すると、急に押し倒してくる。
私の心臓は高鳴ったりはしなかった。
その代わりかどうかは分からないけど、火が燃える音がとても近くに感じた。
(───……というか、本当に目の事だったんだ。しかもそんな目って……)
反抗的な目と見つめ合うこと二、三秒くらい。
先に動いたのは夢子の方だった。
片手で私の首を掴むと馬乗りになる。
私に触れたくないのではなかったのか。
彼女の目を見るとなんだか冷めた感じ。
首でも締められるのかと思ったけど、そうではないようだ。
私はまた見つめ合うのかとため息をついた。
その直後だった。
「……っ!?」
私の穴に何かが触れた。
ベタつく液体が縁の部分に垂れている。
(気持ち悪い……)
そこに視線を向けて何をしているのか確認しようとするも、ちょうど視界の外で起きている事態を把握することは不可能だった。
今は首を掴まれていて頭を傾けることすら出来ないのだ。
こうなってしまったらもう為す術がない。
私は右だか左だかの眼の空洞に押し当てられた物体を受け入れるしか無かった。
「……っ」
何かはゆっくりと押し込まれた。
それは音もなくはまると、ズキズキとした痛みを訴え出す。
目が、開けられない……。
痛い。……何も見たくない。
目の奥の方から溢れてくる血か涙かを必死に押し止める。
これが今の私に出来る精一杯の抵抗だった。
それなのに。
『目を開けてください』
それはお願いなんて生易しいものじゃなかった。
これは脅迫だ。
今すぐに目を開けないと恐ろしい目に遭わす。
彼女はそう言っているのだ。
このまま彼女の要求を無視し続ければ、残りの四肢を食いちぎられたりするかもしれない。
でも私は屈しない。
どうせこれは夢なんだ。
夢の中なら何があってもとりあえず死ぬことは無い。
それなら肉体よりも精神を健全に保つことの方が大切だと言える。
だから私は何をされようと絶対にこの目は開かない。
そう固く決意する。
それは勇ましさなんて欠片ほどもない、臆病者の決意だったけど……。
『そうですか……。もう、しょうがない人ですね』
目を固くつむっていると、呆れたような声で誰かが囁いた。
それは優しい声のようにも聞こえて……。
私はその声に不思議と安心感を覚えた。
首に添えられていた手にはもう少しの力も込められてはいない。
それはするりと離れると、そのままどこかへと消えてしまった。
「………………」
それから少しの時間が経って、火が燃える音がすっかり聞こえなくなった頃、私は再び目を開いた。
不自然に広く感じる視界。
目の痛みはとうに消えていた。
頭痛の種である彼女の姿も、…一緒にどこかへと消えてしまった。
……これはきっと私にとって好都合なはず。
それなのに今は、広くなった視界に誰も居ないことがどうしようもないくらい不安で……。
独りでいることは、こんなにも怖いものだっただろうか。
(……起きよう。)
もう目覚めを邪魔する者はいない。
今度こそここから出られる。
一刻も早く起きて忘れるんだ。
(心残りは……ないことも無いけど。)
私は名前も知らない虫だったものを一瞥し─────。
「────っ…………」
私はそれを見て動きを止めた。
これはなんだろう。
たった今鮮明に目に焼き付いたはずのものが、上手く認識できない。
それは燃えていた。
ごうごうと音を立てて真っ赤に揺れている。
下から上へ、川みたいに流れている。
その流れの中で、白かったはずのものが、赤く燃えている。
"あなたが殺したんですよね"
頭の中に響くのはそんな言葉。
責め立てるような声で、反響する。
……うるさい。
『あなたが』
やめて。
『あなたが』
わかってるから、もう黙ってよ……。
「…………」
浅く息を吸うと肺の中が熱い空気で満たされた。
熱に浮かされた本能が、もう認めるしかないのだと私に告げる。
「………………。」
……全部思い出した。
私は責任から逃げるために、彼女に背を向けたんだ。
燃え盛る炎を見て見ぬふりした。
助けられたかもしれないのに何もしなかった。
挙句罪の記憶ごと熱源へと放り込む。
それだけの事をした。
なのに、どうして……?
記憶回路の八割近くを焼き切ってやったのに、どうして今さら思い出したんだ。
これでは知らないフリもできない。
(う……ああ……わたしは……ッ!)
水底のように冷たい心が燃え上がる。
細胞の一つ一つを焦がしながら叫ぶ。
どれだけ本能を欺いたとしても、私はきっとこの中に飛び込むことなんてできない。
だから叫ぶ。
千切れた舌のひどく歪な音で叫ぶ。
これが夢で、全部自分の頭の中での出来事だから大丈夫だってことは知ってる。
でも私は、刻一刻と面影を失って行く彼女を前にして冷静さを保つことなんてできなかった。
一瞬誰の名を呼ぶか迷った後。
「アメちゃん────ッ!」
「ちーがい!ますー! わたしは、はれですっ!」
夢の中での記憶や認識の多くは出鱈目なものなので、あまり気にしても仕方ないです
サブタイトルが付いてなかった話にちゃんとつけ直しました
その過程で話数が1話分ズレてます
気がつくと目が覚めていた。
重たく閉じられた瞼を持ち上げるためにだいぶ苦労したはずなのに、目覚めの瞬間は随分と呆気ない。
もしかしたらまだ夢の中なのかもしれないと疑うも、この開放的かつ閉塞的な空は間違いなく現実のものだった。
灰色の空。
それは僅かな赤みも帯びない、私の見慣れた不純な色だった。
(視界は正常、か。)
それに、目覚めの気分も存外悪くない。
あんな夢を見た後だというのに、心もなんだか冷めていて。
もしかすると、昨夜寝る前に虹草を多めに食べたのが効いたのかもしれない。
(……それなら、これからは眠る前に少し多めに草を食べることにしようかな。)
「…………」
今の私はきっと苦い顔をしているんだろうなと思う。
少し余計に不味い思いをするだけで今後の目覚めが爽やかなものになるのなら、絶対にその方がいいに決まってるのに、私はそれがなんだか良くないことのように思えてならない。
これは別にあるかも分からない防衛本能を理由にして不味いのを回避しようとしているとかそういうわけじゃない。
さすがの私もそこまで子供ではないはず……。
そもそもだ、冷静に考えると虹色に光る草とか絶対に食べちゃダメなやつなんじゃないか。
草じゃなくてもそう。
あんなにおどろおどろしく発光するなんて、明らかに有害な何かを含んでいるとしか思えない。
そんなものを最初に食べようと思った時の私は一体何を考えていたのだろう。
少しの間追想にふけるも、結局何かを思い出すことは出来なかった。
「ふわぁ……」
短いあくびがこのまま起きるか、それともまだ寝るのかと、選択を迫ってくる。
せっかく目を覚ませたのに、このままではまた夢の世界に引き戻されてしまうだろう。
「あふ……」
もうこれ以上無駄なことを考えるのはよそう。
虹草の正体が何であろうと、今更食べるのをやめたりは出来ない。
食べなきゃ健全な心を保つことも出来なくなってしまうから。
私はこれからも、おそらく有害であろう物質を体内に取り込み続けるしかないのだ。
(あれ……? そういえば……)
これから先のあまり健康的とは言えない食生活についての算段を立てていると、ふと、起床直後に誰かの声を聞いていたことを思い出した。
えっと、たしか……晴れがどうとか言っていた気がする。
まあどうせこれも夢か幻聴の類だろう。
早々に考えを切りあげた。
私は目をこすり、大きく伸びをする。
これは朝の日課というやつだ。
目の前の彼女も同じ様に手を組み腕を伸ばしている。
(……え……?!)
目が合った。
それを見た途端、身体が硬直してしまう。
真っ赤な少女がこちらを見ていた。
それもすぐ目の前に座って。
どうして? いつから? あなたは……誰?
当然のような顔でそこにいる少女に対する疑問達が、私の脳を一瞬で支配する。
支配していた……はずなのに。
彼女の左目に宿る異質な光に気づいた瞬間、それらの疑問は全て融けて消えてしまった。
その虹色の輝きは私のよく知るものとよく似ていて、不気味さを感じずにはいられない。
「ぅ……はっ…!……はあ…………はっ……」
毒々しい視線にまっすぐ射抜かれていると、だんだんと呼吸が苦しくなってくる。
息を吸っても、吸っても、変わらず苦しいまま。
きっとこの少女の目から放たれた光線が、私の胸の奥に穴を開けてしまったんだ。
……逃げないと。
私はここにいてはいけない。
いや、もしかするとそれは私の方じゃなくて……。
どちらにせよ、いつまでもこのまま寝起きの顔を知らない子に晒しているつもりは無い。
「お姉さまはあめがきらいです。お姉さまがだい好きなはれも、あめがすきじゃないようです」
私が声を絞り出すよりも早く、少女が言った。
その幼げな声質は起床直後に聞いたものと同じだったけど、声の調子はだいぶ違うような気がする
。
今の彼女からは落ち着いた雰囲気を感じる。
その話し方は落ち着いていて、口調も理性的。
それなのに、何を言っているのか全く分からない。
こちらが言葉の意味を理解しかねているのを察したのか、少女はさらに続けた。
「はれはけっしてあめちゃんなどというおなまえではありません。しんがいのきわみです」
なるほど、少しわかってきた気がする。
どうやらこの子は私に名前を呼ばれたと思ったらしい。
そしてその名前が間違いだったので、こうして文句を言っていると……。
「はれははれです。お姉さまがくれたたいせつなおなまえです」
頬を膨らませて怒るハレ(?)に「しゃざいをよーきゅうします」と謝罪を要求された。
それで彼女がどこかへ行ってくれるなら土下座でもなんでもするけど、ちょっと納得いかない。
「……ごめんなさ───」
「おはよーございます」
私が仕方なくハレの要求に応じようすると、それに被せるように彼女が言った。
「……何?」
「おー、はー、よー、おー! ございます」
「え? …あ、おおはよう?」
どうして急に挨拶をするのか、彼女の意図がわからない。
欲しかった謝罪の言葉を遮ってまでしなきゃいけないことだったのだろうか……?
「うおー……」
とりあえず同じように返したけど、その行いに意味なんてなかったのだろう。
私に朝のあいさつを強要した少女はそっぽを向いていて、その視線の先には一輪の花が咲いている。
ハレはそのありふれた花を興味深そうに見つめていた。
どうやら、彼女はこちらの言動にはとことん無関心なようだった。
「なんですか?! これっ」
「…………」
「わー! なーんなーんでーすかー!? これぇっ!」
他人の言葉には無関心。
そのくせ無視されたらこうしてしつこく粘る。
(まるでここ最近の私みたい……。)
そんな風なことを思ってしまった。
私は周りからはこんな、わがままな子供みたいに見えていたのだろうか?
それは違うと思いたい……。
私は他人の言葉に関心が無い訳ではないし、聞くだけ聞いてはいる。
ただ、都合が悪かったから無視していただけで……。
なおさらタチが悪いと思った。
「タンポポよ」
私が極めて大人的な態度で質問に答えると、ハレは目を丸くした。
何故か無言で詰め寄ってくる。
そんな目で、見ないでほしい……。
「じぃー……」
「な、何……? 私に、なにか用なの……?」
「お姉さま」
「……?」
「おおおーお姉さまっ! お姉さまですよね?! やっとみつかりましたぁ」
「何を言ってるの? …私はあなたの……んむっ?!」
私のことを突然お姉さまと呼び、有無を言わさないといった様子のハレ。
彼女の決めつけるような言葉を否定しようとしたけど、今度は物理的に言葉を遮られた。
片手を頬に添え、そのまま親指を口の中に滑り込ませてくる。
一瞬で果物を何百倍にも甘くしたような味が口の中に広がった。
「うう……うぇっ……」
あまりの甘さに吐きそうになる。
嘔吐いても止めてくれない。
舌で押し出そうにも、指に触れること自体を拒絶するかのように、奥の方へと後ずさってしまう。
そのせいで、甘くなった唾液が奥まで運ばれてまた吐きそうになる。
このままでは間違いなく嘔吐してしまうだろう。
今この体勢で吐いたら悲惨なことになるのは目に見えている。
犠牲者は二人。私と、たった今加害者になろうとしている彼女とだ。
きっとそんなことを理解していないであろう少女が目を輝かせる。
「ふふふー、お姉さま〜っ♪」
(かくなる上は……!)
吐き気の原因を取り除くべく、両手でハレの手首を掴んだ。
そしてそのまま彼女の指を引っ張りだそうと力を込める。
力を込める……!
全力で引っ張る……!!
……しかしビクともしない。
彼女は恐ろしい怪力の持ち主だった。
あるいは、私があまりにも非力なのか……。
どちらにしても、もう為す術なんか無い。
私にはもうハレが満足するまで必死で嘔吐感を抑えるしかないのだ。
(甘くない、甘くない、甘くない……)
おそらく気休め程度にもならないであろう自己暗示をかけてみる。
甘くない、甘くない。
ハレの親指が、形を確認するかのように一本一本の歯をなぞる。
甘くない……甘いくない。
その途中、一際尖った歯を見つけると、より一層目を輝かせる。
甘いくないいや甘い。
楽しげに八重歯の先をちょんちょんやっている。
甘い甘い甘いあまい……。
ちょんちょん、ちょんちょん……。
鼻歌交じりにずっとちょんちょん。
どんどん唾液が滲み出してくる。
そうして嘔吐感がもう限界を迎えようとした時────。
私はようやく解放された。
甘々しい水音と共に指が引き抜かれると、私は口内に残った甘ったるい唾液をすぐさま吐き出した。
「うぇぇ……ぺっ、ぺっ」
「だいじょーぶですか?」
「……」
口を押えて首を横に振る。
と、今度は右の頬に生暖かい感触が……。
それが何なのか理解した瞬間、私は飛び退いていた。
「いいきなり……な、なにをするの……?!」
次から次へと、何なんだこの子は。
突然人の顔を舐めるなんて絶対におかしい。
咄嗟に距離を取ったからよかったけど、もう少し反応が遅かったら噛みつかれていたかもしれない。
奇抜な行動原理のもと動いていそうな彼女のことだ、そういうことを平然とやってのけるだろう。
「う? ちょっと違う……? んー??」
閉じた口からだらんと舌を垂らして首を傾げるハレはなんだか訝しげな表情をしていた。
この場合、私と彼女のどちらが不審者なのだろうか……。
お互いに過去の行いには目を瞑って、とりあえずこの状況だけを見た場合、変なのは向こうのはず…?
なんかだんだんと自信がなくなってくる。
私の方がずっと不審に思っていたはずなのに、「はっ! もしやあなたはお姉さまじゃありませんね!?」なんて指さして突きつけられると、もうこちらが全部悪いような気さえしてくる。
「私はあなたのお姉さんじゃないわ」
「そうでしたかぁ……」
私がきっぱりと言うと、ハレはがっくりと両肩を落とした。
今度はちゃんと分かってくれたみたい。
誤解が解けてよかったけど、この子にはなんだか悪いことをしたような気がする。
「ときにおねーさん、はれはお姉さまをさがしてます。みましたか?」
「だから私は……いえ、誰を探してるの?」
私への呼称がお姉さまからお姉さんに変わっていた。
一瞬その微妙な変化に気づけなくて、間違いでもないのに訂正してしまいそうになった。
「お姉さまです。せなかにはからーふるなはねてきなものがつきでています。なまえはー……ご、ごー……ごくどう…?」
「えっと、……カラフルな翅…が、生えてるのね?」
「なるほど、たぶんそげなかんじです?」
「……? ごめんなさい。見てないわ」
「そうですかぁーあっ!そうですっ」
「……?」
「ふっふっふー。おねーさんも、だれかをさがしてるとみうけたですっ!」
「別に私は誰も……っ!」
言いかけて気付いた。
私の傍にいるはずの少女がどこにも見当たらないことに。
今の今まで忘れていたなんて、私はなんて薄情なやつなんだろう。
ずっと一緒とまで言ったのに……。
自分の無責任さに呆れるばかりだ。
ササコがいない。
昨日寝る前まではちゃんといたはずなのに、どこかへ行ってしまった。
それならいつまでもこうしてはいられない。
すぐに探しに行かないと……!
「ごめんなさい、私用事を思い出したから!」
そう言ってハレに背を向けその場から立ち去ろうとしたが、袖を摘まれて引き止められる。
振り返って見ると、ハレは神妙な面持ちで静かにこちらを見据えていた。
「おねーさんの……さがしびとはだれですか」
「探し人……」
「ハレはきっと、あなたのおちからになれるはずですよ?」
「…………………。白い髪の子をどこかで見かけなかったかしら?」
「ああ、それなら……」
「あっ、えっとね……その子髪は白いのだけど、全体的に土っぽい色なの。土って分かるかしら?土はね、今あなたが……」
「お姉さん」
「な、何…?」
「むこうにいます」
彼女はあっさりとした口調で告げると、私が向かおうとしていた方とは逆を指さした。
「向こう…に、いるの……?」
「はい! そのおひとなら、みちすがらあっちでめぐりあいましたよ!? おねーさん!」
「そ、そう。……教えてくれてありが──」
「れーにはおよびおませんよっ!」
食い気味に言うと、こちらに背を向ける。
「それではまいりましょー!」
ハレは彼女自身が指さした方へと歩き出した。
わざわざ案内をしてくれる気なのだろうか。
それは助かるといえば助かるのだけど……。
「あなたはお姉さんを探しに行かなくていいの?」
「おぅあ! そーでした」
ハレは歩行速度の割に大袈裟なブレーキをかけて止まると、こちらに振り返った。
「おねーさん、ひじょーにもうしわけにくいのですが……!」
両目を細め眉を下げて、いかにも申し訳ないといった表情を見せる。
私はハレが全てを言い切る前に、言ってやることにした。
彼女が何度も私にそうしたように。
「私はひとりでも平気よ」
「お? ぉぉおお……! さすがはおねーさんですっ!」
何がさすがなのかは分からないけど、こちらの言葉がちゃんと伝わったのならそれでいい。
ハレは少しの間、ぴょんぴょんと地面を跳ねてはしゃいでいたが、やがてそれも収まり……。
「それではおねーさん、はれはそろそろおいとまするとします」
「……そう。お姉さん、見つかるといいわね」
「うぉはい!おねーさんもっ!」
そんなお互いちょっと足りないような言葉を交わして、私達はお別れした。
ハレがたたっと駆け出し、途中で何かを思い出したように足を止める。
そして少しだけ振り返ると、目を細めて笑った。
「またねーっ! おねーさん」
ハレちゃん不思議可愛いけどたしかに虹色の目は不気味…
甘ったるい果実を押し込んできたってことはそういう物が主食の子なんでしょうか?
ヘキサノイックさん、おひささです!
ハレちゃんは見ての通りの元気っ子ですが、ミステリアスな一面もあります(主に容姿)
ちなみに、指が甘いのは食生活のせいというのは大体あってたりします
実はこの子はSSに登場する予定が無かったのですが、色々と考えた結果、ちょい役として出すことになりました
なのでこれ以降出番はありません
でも物語に関わってくる重要人物ではあるので、いつか彼女にスポットを当てたお話を番外編として出すかもしれません
(いくら寝起きだからといっても、イシちゃん色々とスルーし過ぎでは……?)
こちらにもぺたり

雨宿りをする二人です
我儘でいいんだ。
ハレが教えてくれた通りの方向へ向かうと、そこに私の探し人がいた。
「ねぇ……?」
「……ぁ」
ササコが振り返り、目が合うと同時に固まる。
彼女は一瞬だけ引きつった不自然な笑顔を作ると、俯いて黙り込んでしまった。
なぜ目をそらすのかも、一度黙ると声が二度と聞けなくなってしまうのも、理由は全部分かっている。
でもだからこそ、こんな時になんて声をかけていいか分からない。
私がササコと同じ目線だったならいくらでも慰めの言葉が浮かぶのに。
現実は違う。
「心配したのよ?」
「…………」
私はまた何も知らないふりをする。
彼女の本音を引き出してしまうと一緒にいるのが少しだけ辛くなるから。
「おはよう」
「…………おはようございます」
ササコは俯いたままだけど、一応返事をしてくれた。
とりあえず、「あなたとは二度と口をききません」は免れたみたいだ。
「うんうん、おはよう」
しばらくぶりの朝の挨拶なのにこれといった感動を抱くことはなかった。
そのことに一瞬違和感を感じたけど、すぐにそれが当然の事だったと気がつく。
(ああ、そういえば……)
今日初めての「おはよう」はもう済ませてしまってたんだった。
……後ろめたさを感じた。
寝起きの数分間を知らない子と過ごしていて、その間一度もササコのことを思い出さなかった。
その数分間が私に罪悪感を抱かせ、先程のササコ同様に口を閉ざしてしまいそうになる。
「……帰るわよ」
私は未だ俯いたままの少女の手を取った。
────────────────────
翌日、ササコはまた逃げ出した。
その次も、さらにその次の日も。
彼女は決まって私が眠っている時にいなくなる。
その度に私が、どこかへ行ってしまったササコを探して寝床まで連れ戻す。
そんな日が何日か続いたある日のこと。
目を覚ますとまたササコが逃げていた。
私はいつものように彼女を探して、そして見つけだした。
いつも通りの展開だった。
「……まだ…ちょっと眠そうね?」
「ええ、まあ……」
「何でまたこんなとこにいるのかは気になるけど……まあいいわ。早く戻りましょう? 今日は特別に二度寝を許してあげる」
そうまくし立てると、私は一方的にササコの手を取り引っ張った。
今日が昨日までと同じなら、これで大人しく着いてきてくれるはず。
しかしササコはその場から動こうとしない。
「……? どうしたの……? …もしかして歩けないの?」
「…………」
「もう、しょうがない子ね……おんぶとだっこどっちがいい? 私としてはおんぶを選んでくれた方が助かるのだけど……」
「……っ!」
「………………」
ササコを捕まえていた手が突然振り払われた。
彼女の体温を見失った私の手の中にあからさまな拒絶の意思だけが残る。
「……私から逃げたいの……?」
「…………」
「それとも、また鬼ごっこがしたい?」
「……そんなの、────」
「じゃあ今度はあなたが鬼をする? 私が逃げて、あなたが捕まえる」
自分でも何を言っているのかよく分からなかった。
強く拒絶された私は、あくまで平静を装うために僅かに残されたコミュニケーション能力すら投げ棄ててしまったのだろうか。
今ササコに喋らせてはいけない。
そんな身勝手な危機感から、私は自分も含めて誰も望まないような提案をした。
「するの? しないの?」
一言嫌だと言ってくれればいい。
そうすれば、今朝のことは全部忘れて、何事もなく今日を始められる。
「……」
(ほら、早く答えないとまた私の自分勝手な決め付けであなたの気持ちをねじ曲げちゃうよ……?)
……私はどこまでも卑劣だ。
ここ数日で何度目かの自己嫌悪をする。
でもそれで、…私が私を嫌いになるだけで望む結果を得られるのなら、もうなんだっていい。
なんだって…よかったのに……。
「そ、そうですね……。それいいですね。やりましょう……」
「ふーん……じゃあ、やっぱりダメ」
「……どうしてですか…?」
「だって私が逃げた後、あなたそのまま逃げるつもりでしょ? 臆病者の鬼さん。その二本の角は飾りかしら?」
私は挑発的に言い放っていた。
ササコはこちらを見ようともしない。
俯き口を固く閉ざした彼女は、もう二度と私と話してくれないかもしれない。
こんな風に言うつもりじゃなかったのに……。
それこそ、一言だけ「嫌だ」って言えばよかったのに。
提案しておいてやっぱり嫌だって言うのはおかしい? そんなことを気にして、あんな追い込むような言い方をしたの? どちらにせよ私がササコの言葉を無下にすることには変わりないのに? そもそもそれらしい理由さえあれば、傷つけてもいいの?
そんなわけがない。
「ササコ……ごめんね……」
「……」
ササコがゆっくりと顔を上げる。
私の目をじっと、見張るように見つめる。
と、すぐに目を伏せて顔を逸らしてしまった。
逸らす直前に数瞬だけ細められた目は問い詰めているようで、「本当に悪いと思っているんですか」と私に言っているようにも見えた。
「あのね、私は本当に……」
「やりましょう」
「……?」
「鬼ごっこ。今度は私が鬼をやります」
「何を言ってるの……?」
「たしか、十秒数えればいいんでしたよね?」
「……待って」
「では今から数え始めるので、逃げてください」
ササコは私の言葉に耳を傾けない。
こちらの返答を無視して話を続ける彼女は、なんだか怒っているみたいでちょっと怖かった。
……でもそれだけじゃない。
こんな話し方をされると、まるで私の人格そのものを否定されているみたいで悲しい気持ちになってくる。
無視と決めつけがこんなにも相手の心を傷つけてしまう行為だったということを。
そして自分のこれまでのササコに対する無神経な振る舞いの数々を、今ようやく思い知った。
(私は彼女に、ずっと……こんなひどいことをしていたんだ)
同じことをされないと気づけないなんて、なんて馬鹿なんだろう。
自らの愚かさを恨むばかりだ。
「あなたが負けたら……」
ササコはかつて私がしたのと同じように、鬼ごっこの敗者がのまなければならない条件を提示しようとする。
たとえ彼女の言葉のその先がどのようなものであったとしても、私はそれに応じよう。
今はそうすることでしかこの罪を償えないから……。
「もう二度と、私に関わらないって約束してください」
「……」
(そうだよね。……これがあなたの本心なんだよね……)
ササコの望みは分かってた。
多分こうなるだろうって、大体の予想は着いていたのに……。
どうして期待しちゃうかな。
私が奪った彼女の自由は、この足一本程度じゃ償えないらしい。
「…………ええ、わかったわ……」
長い沈黙が終わった時、私はもうササコの顔を見れなくなっていた。
せめて最後くらいはちゃんと見たいのに。
夢でこっそり会えてしまうくらい、彼女のことを記憶に焼き付けたいのに……。
体が言うことを聞いてくれない。
一緒にいられるのはこれで最後なんだ。
だから、だから……。
(やっぱり見れないよ……)
私はササコに背を向けてしまった。
その瞬間から二人の時間は動き出し、十秒のカウントが始まる。
二人が独りに戻ってしまうまであと十秒ちょっと。
私はふらふらと近くの木陰まで歩いていくと、寄りかかるように腰を下ろした。
膝を抱えて、ササコの足元をぼんやりと見つめる。
「……」
ぽつりぽつりと雨の雫が地面に落ちては消えていく。
その様子を見ていると不意に視界が歪んだ。
私は目の中にピンポイントで落ちてきた水滴を拭おうとしたけど、やっぱりやめた。
これなら……このままだったら、ササコの顔をちゃんと見れる。
そう思ったから。
でもやっぱり、ぼやけてよく見えなかった。
鼻がつんとする。
(馬鹿だなあ、私)
自分自身への何気ない罵倒がトドメになって水滴が零れた。
頬に冷たいものが伝い、私は慌てて顔を伏せる。
こんな顔ササコに見せられるはずがない。
見せたら彼女の決意が揺らいでしまう。
だから隠さないとだめ。
もうササコに自分を追い込む選択はさせたくないから……。
(─────ああ、もう終わりなんだ)
気づけばもう誰の声も聞こえなかった。
十秒って、こんなにも短いものだったのか。
逃げる余裕なんて全然ない。
「…………」
もう会えないのなら最後くらい笑顔でお別れをしたい。
そうすればきっと、全部いい思い出だったって思えるようになるから。
だから無理にでも笑うんだ。
負けちゃったかって言って、邪気のない笑みを浮かべて……。
前に練習した時と同じように、……楽しくもないのに笑って……。
そして私は………………また、。
(そんなの嫌だよ……)
臆病者は私の方だ。
「ねえササコ、やっぱり……」
やっぱりやめよう。
そう言おうとした。
顔を上げて、ササコの目をちゃんと見て。
でも、私の見ていたい琥珀色の瞳はどこにも見当たらない。
「ササコ……?」
再び顔を上げた時、私は本当に独りになっていた。
────────────────────
ここは一本の木の下。
広い森に無数に存在する木陰の内の一つ。
「やっと、見つけた……。こんな所で、…何をしてるの……?」
私は雨の中を探し回ってようやく見つけ出した鬼役の少女に向かって聞いた。
「えっと、…あ…雨が降ってきたので……雨宿りを……」
「雨……。そうね……もし私が風邪でもひいたら、あなたのせいよ……?」
「……すみません……あ、隣どうですか」
「え? ……うん…ええ、お邪魔するわ」
ササコが自分の真横に目を落とす。
私は不思議に思いつつも彼女の誘いに乗ることにした。
腰を下ろし、隣り合う少女の横顔をちらりと見る。
すると、視線に気がついたのかササコがこちらを見返してきた。
目が合いそうになって咄嗟に視線を逸らす。
「…………」
なんだか気まずい。
さっきまで私たちは、多分ケンカのようなことをしていたのだと思う。
そしてそれは今も変わらない。
仲直りが出来ていないから。
しかしササコとの仲を修復しようとする行為は、これからも一緒にいたいと彼女に暗に言っているのと同じことなのではないだろうか?
もしそんなこちらの意図を悟られればまた嫌われてしまうかもしれない。
二人で交わした約束を平気で破るようなこと、きっと許してくれないだろう。
「どうすれば勝ちなんでしたっけ」
私が悶々としていると横からササコが言った。
何のことを言っているのか分からなくて聞き返す。
「鬼ごっこです。捕まえるって、具体的にはどうすればいいんですか?」
「ああ、そういうことね。……相手の体のどこかに触れば、それで……捕まえたことになるのよ」
「そうですか……」
言うなら今しかない。
まだ勝負が着いていない今しか……。
「あの約束、やっぱりナシに……!」
「ゴイシシジミさん、逃げてもいいですよ」
「……え?」
「この状態から逃げ切れる自信があるのなら、どうぞ逃げてください」
ササコが目を細めて挑発的に言った。
手を伸ばせば届く距離。
こんな距離感では逃げようにも逃げられない。
もしかして彼女は最初からこうなるのを狙っていたのだろうか。
私が鬼を探し回って疲労状態なのも、その足でのこのこと彼女の前に現れたのも、全部ササコの思惑通りだったとしたら……。
「私の負けね……」
「いいんですか?」
「っ……よくない……」
あっさりと負けを認めてしまいそうになった。
あの約束を何とか取り消してもらうまでは、この遊びを終わらせる訳にはいかない。
ササコが納得してくれるような言い訳がないかと考えていると、不意に音が鳴った。
それは、布が擦れるような音。
音のした方へ目を落とすと……。
「あっ……」
ササコが私のスカートの裾を摘んでいた。
「これで私の勝ちですね」
「……そうね」
こうなってしまってはもう、負けを認めるしかない……。
私たちの仲はこれまで。
……一度は覚悟した事なんだ。
だったら当初の予定通り、笑顔でお別れをしよう。
しないと………………。
「ま、負けちゃったかぁ……」
口角を少し上げて、目を細める。
こんな感じでどうだろう。上手く笑えているかな?
ササコといた数日間の思い出が甦る。
そういえば、ササコが笑っている顔は一度も見たことがなかったな。
その事実が、二人で共に過ごした時間が彼女にとっては苦でしかなかったということを証明していて……。
悲しい気持ちになった。
本当ならここは罪悪感を覚えるべきところなのかもしれない。
でも、悲しい。
笑わなきゃいけないのに、できない。
鼻がつんとしてきた……。
このままではまた泣いてしまいそうだったから、さっきと同様に顔を伏せて凌ぐことにした。
目を瞑りじっと待つ。
こうしていればきっといつかは悲しくなくなる。
それまでずっと俯いたまま生活するのはどうだろう。
辛い現実を見なくて済む。
これはもしかすると、とてもいいアイデアなのでは……?
知らないうちにササコは離れていって、引き止めることもできず、私は独りになったことにすら気づかない。
それはとっても、……幸せなことのはず。
……でも、それでもいつかは顔を上げて、この目で全部見なければならない時が来るだろう。
だっていつまでも俯いてたら首が痛くなっちゃうから。
……………………。
(その頃には雨が止んでるといいな。ああ……でも、一人で見上げる青空は、きっとどんな現実よりも辛いんだろうな……。私にちゃんと受け入れられるかな……?)
────馬鹿みたい。
出来もしないことをつらつらと並べて、勝手に納得して……本当に馬鹿みたいだ。
「────これで、********……」
「……?」
不意に声が聞こえた。
隣でササコが何かを呟いたのだ。
それは誰に向けたというわけではない、独り言のようだった。
どうせこれでようやく自由になれるとか、そんなところだろう。
何もわざわざ口に出すことないのに。
「あーあ、これで*********……」
ササコがもう一度、今度はさっきよりも大きめな声で同じ言葉を繰り返す。
まるで私に聞かせようとしているみたいに、わざとらしく呟く。
もうやめて。何も聞きたくない。
それはこれまでの仕返しのつもり?
謝ったら、赦してくれるの?
「ゴイシシジミさん」
「そんなに私のことが嫌いならもう一緒にいなくていいのよ。さっき、約束したでしょ……? 私はこのままここにいるから……」
抗えない別れを告げられるのが怖かった。
だから私は自分からササコを遠ざけるように言ったんだ。
それなのに……。
「じゃあ私もここにいます」
それなのに……
「……どうして」
どうしてあなたは……
「……だって、ほら……雨降ってますし……それに……」
「……」
「私はあなたに……まだ勝ってません。……負け越してるんです」
「何を言ってるの。……あなたは私に…勝ったでしょ」
「だから! ……これで、一勝六敗……なんです……」
「……どういうこと……?」
「私はあなたに、ゴイシシジミさんに5回も負け越してるんです。だからこのままでは終われません。……再戦を申し込みます」
ササコが言っていることは負けず嫌いな子供みたいだ。
でも彼女がやろうとしていることは、きっとその逆で。
気を使って言ってくれているんだと思った。
自意識過剰かもしれない。
でも、私は彼女の優しさを知っている。
それはいつか彼女自身を滅ぼしかねない、危うさを持った優しさだ。
私は本当にまだササコと一緒にいていいのだろうか。
「でも、あなたは私のこと嫌いでしょ?」
私は唐突で直前の会話の流れからは想像もできないような返しをした。
息を呑む音。言葉を飲み込む音。
なんとも形容しがたい無音だけを残して、ササコが口を閉ざしてしまう。
相手の本心を暴き出そうとするような言動を後悔した。
せっかく気を使ってくれているのに、私は彼女の優しさを無下にしてしまった。
これで彼女はどう思っただろう。
めんどくさいやつだと、愛想を尽かしてしまっただろうか。
「ごめんなさい……」
「…………私は、私のしたいようにします……。だから……あなたはあなたのしたいようにすればいいじゃないですか。ちなみに私のしたいことというのは、鬼ごっこの再戦です」
ササコがあくまで鬼ごっこの再戦がしたいと突き通す。
そんなことしたいはずがないのに、負けず嫌いな自分を決して崩さない。
それはどうして?
それは、……きっと私のため。
こちらの我儘を肯定するためだけに、自らも我儘なフリをしているんだ。
大切な我が身を危険に晒してまで……。
どうしてあなたはそんなにも気にしてくれるの。
私には優しくされる資格なんてないのに。
おさまりかけていた涙がまた滲んでくる。
またササコの心を殺しつつある罪悪感と、この優しさにいつまでも浸かっていたいという我儘とが頭の中で交錯し、色んな感情を巻き込んで混濁していく。
もうどれが自分の本心なのか判別がつかなくて、泣きたくなくて……。
漏れそうになる嗚咽がバレてしまわないよう、私は声を殺した。
「再戦、もちろん受けて立ちますよね……?」
なおも言い続ける。
返事を促すようにやさしいトーンで。
……本当にいいの?
そんなことされたら本当に、私はあなたから離れられなくなっちゃうんだよ?
それでも……いいの……?
………………。
もし、私の我儘が許されるのなら……
「鬼ごっこはもうしないわ……」
「あなたが嫌でも、私が勝手に逃げればやらざるを得ませんよね……。なんだったら今からやりますか?」
ああ、あなたは本当に……
「ぁ……」
私はササコを抱きしめた。
彼女の所在をちゃんと確認せずに伸ばした両手は、確かな体温を見失わなかった。
夢なんかじゃない。
彼女は今もずっと隣にいてくれた。
暖かくて、涙が溢れてくる。
「……気を……使わせ…ちゃった、ね」
「なんですかいきなり……私は別に……」
「ありがとう……ごめん…ね…?」
「だから私は……もう、暑いですよ……離れてください」
「逃げ…ない……?」
「逃げませんから……だから、離してください……」
困ったような声でやさしく拒まれた。
本当はあなたのお願いならなんでも聞いてあげたい。
だけどごめんね、ササコ。
私は我儘だから。
あなたにこんな顔を見せたくないんだ。
だからもう少しだけ待って。
止むまで─────。
────────────────────
十数分後
「もう逃げないでね……」
「それは、……約束はできませんけど」
「次また黙って逃げたりしたら……こ、怖いわよ……?」
「……どうするつもりですか?」
「今度逃げたら、……一生私の腕の中で生活してもらいます」
「それは…怖いですね……」
第5話序文の「鬼ごっこで負けた日」とは、ササコの5回の負け越しが確定して揺るがなくなったこの日のことです。
もうこういうつかず離れず(ついたり離れたり?)がお似合いの二人ですね
互いに全てを明かさなくていい、でもそこまで遠くないような関係がいい………
ありがとうございますー
私は見ててもどかしさを感じるくらいの距離感が好きでして……
でもこの二人の関係はちょっと拗らせすぎかなとも思っていたので、気に入って貰えたのならとても嬉しいです
私はとうに聞き慣れた雨音で目を覚ます。
無数の水の粒たちが木の枝葉を、地面を叩く音。
空を見上げると、そこにはいつも通りの灰色があった。
これで何日目だろうか……。
あの酷く落ち込んだ色をした雨雲は、連日降らせ続けて少しづつ地面を溶かしている。
ひょっとすると永遠にこの雨が止むことはないのかもしれない。
この島の土を全て溶かしきって、何もかもが水底に沈んでも、ずっと。
私は別にそれでも構わないと思っている。
いずれ来る最後の日まで毎日「おはよう」と「おやすみ」が言えたらそれでいい。
これはちょっと我儘が過ぎるかな?
「おふぁよぉ……!」
私は我慢ができなくて、あくびや伸びをするよりも早く「おはよう」を言おうとした。
それが失敗の原因。
気持ちが急いてしまったが故の失態。
朝の日課を怠ったせいで、私はなんとも間抜けな声を出してしまったのだ。
なんだか恥ずかしいくてちょっと後悔する。
世の中にはこんな幸せな後悔があるものなのかと思い、目を細めた。
でもやっぱり恥ずかしい……。
時間の経過と共に増幅されてゆく羞恥心が、とうとう眠気に勝ってしまう。
私は両手で顔を覆うといういかにもなポーズを取ってみた。
なんだこれ、余計に恥ずかしい……。
さらなる羞恥に顔が熱くなった。
笑われるだろうか。
それとも、引かれるだろうか。
今私は、いったいどんな目で見られているのだろう。
見守るような暖かな目?
それか、どう反応すればいいのかという困惑の眼差しかな?
冷めた目でもいいかもしれない。
この後のササコの返しがどんなものであっても対応できるようにと私は身構える。
しかし、先程からの一連の行動を通して見ていた少女に笑われる、なんてことはなかった。
指の隙間から外界を覗く。
すると、ずっとそこにいるであろうと思っていたササコの姿が無かった。
両手を下ろして、ほっと息をつくと、幸い顔の熱は直ぐに冷めた。
冷静になった頭で考える。
つまり私は、数分にわたってずっとひとり芝居をしていたということか。
気づいてしまったら一気に気が抜けた。
そこにやり場のない感情だけが残っている。
ササコに見られなかったことを喜ぶべきか、無人の舞台でひとり踊った間抜けな自分を嗤うべきかを悩む。
仮にどちらを選んだとしても、私の顔には笑みが浮かべられているだろう。
多分その意味合いはだいぶ違うと思うけど。
私は今、とても満ち足りている。
「ふわぁ……くぅ」
改めてあくびと伸びを済ませる。
3日前までの私だったら、きっとこんな心境で朝を過ごせはしなかっただろう。
どんなにひどい夢を見たって、もう全然気にならない。
孤独に怯えることも無くなった。
私が精神的に変われたのは、全部ササコのおかげだ。
彼女が帰ってきたらお礼を言おう。
「ありがとう」って。
これだけを聞いたササコは、私がなんのことを言っているのかわからないだろう。
きっと、不思議そうな顔をすると思う。
その直後には当然の質問も飛んでくるはず。
でも私はそれには答えない。
少しでも長くササコの困った顔を見ていたいから。
意地悪だとは思う。
我儘だとも思うけど、それはあの日ササコが許してくれた。
そしてなにより、ササコが悩んでいる間は、きっといつもより私のことをたくさん見てくれるはずだから。
私はこれ以上の何を望もうというのか。
……とりあえず、今回は「おはよう」を言い損ねた分くらいで妥協することにしよう。
計画と言っていいのか分からないくらいに残念な考えと期待を胸に、私はササコの帰り待つことにした。
「……おはよう」
なんとなく寂しくて、空に向かって小声で呟いてみると、今度はちゃんと発音出来た。
どれだけ完璧なものであっても、一人で口にするあいさつに意味なんて無いけど。
「まだかなぁ……」
──────────────────────
あれからどれだけの時間が経ったのだろう。
数分か、数十分か。
もしかすると一時間くらいは待ったかもしれない。
空を見上げて太陽の位置を確認しようにもあいにくの雨空。
これではどのくらい時間が経過したのかを確認出来ない。
「……遅い」
しばらくの間、ササコの帰りを大人しく待っていたが、一向に帰ってこない。
昨日、一昨日と、目が覚めて一番にササコの姿を見ることが出来ていただけに、今日になって一度も彼女に会えていないという事実に不安になってくる。
今すぐササコを探しに行くべきだろうか……?
もしかしたら、どこかで怪我をして動けなくなっているかもしれない。
そうでなくても、セルリアンに追いかけられたりして帰るに帰れなくなっている可能性もある。
最悪の場合は……
「──っ!」
気がつけば走り出していた。
戻ってきたササコとすれ違いになるかもしれない。
彼女がセルリアンと会敵していたとして、私が行ったところで何かが出来るというわけじゃないことも分かっている。
でも、いつまでもあそこでああして待っていることは出来なかった。
もし今からさらに一時間待っても帰ってこなかったら……?
その時のことを考えると、怖くてたまらなかった。
無駄な心配ならそれでいい。
とにかく今は一秒でも早くササコを見つけないといけない!
私は一層足に力を込めた。
──────────────────────
「こんなところにい、たの……ね」
ようやくササコを見つけられたという安心感は、眼前の光景を見た瞬間、その衝撃にすぐにかき消された。
ササコは無事で、今こうして私の目の前に立っている。
だけど私の最悪な想像は少しだけ当たっていて……。
頭の中がたちまちに真っ白になり、すぐにまた別の色に染め上げられる。
次の瞬間、私は一つの感情に全身を支配されていた。
「なに…してるの……それ、なに……?」
声が掠れて上手く形にならない。
私はこれ以上ないほどまでに恐怖していた。
ササコが、セルリアンと対峙している。
こちらに背を向け、恐ろしい存在と私とを隔てているのだ。
まさか、と思った。
ササコがあれと戦うつもりなのではないだろうかという馬鹿げた考えが頭に浮かぶ。
そんなのは本当に馬鹿げた考えだ。
幸いを最悪に変えてしまいかねない選択を、ササコがするはずがない。
だって、ササコは臆病で…………
"ここで足を失うくらいなら、私は全生命をかけてでも抵抗します"
ふと、いつかササコが言った勇ましい言葉と、彼女と初めて出会った時の全身傷だらけの姿を思い出した。
私の知るササコは臆病な所もあったけど、決して弱くはなかった。
少なくとも私よりずっと勇敢なんだと思う。
彼女はその身を滅ぼすような選択を平気でするから。
だから私は、より臆病者にならざるを得ないのだ。
大切なものが傷つくのが怖い。
二度と会えなくなってしまうのが怖い。
ひとり残されるのが怖い。
罪を背負うのが怖い。
痛いのも怖い。
これで最後になってしまうかもしれないというのに、私の頭の中は自分のことばかりだった。
私が恐れる未来。
そこにはササコと死別した自分がいて、当たり前のように生きている。
何も出来なかったことを後悔して、絶望しつつも、何もしない。
痛みを知ってしまった私は、もう二度と自分の胸を貫いたりはできないだろう。
ずっと一緒にいたいと思った。
それなのに、死んでまで寄り添えはしないというのか。
私は本当に、どこまでも自分勝手だ。
"あなたはあなたのしたいようにすればいいじゃないですか"
「……」
自分の命を危険にさらしてまでセルリアンに挑む。
それがササコのしたいことなのだろうか。
……そんなわけない。
もし、仮にそうだとしても、そんな危ないことを黙って見過ごすわけにはいかない。
私はササコを危険な目には遭わせたくない。
今すぐ彼女の背に駆け寄って、あの手を取って逃げるんだ。
そうすればきっと二人とも助かる。
これがササコの願いに反した行いだったとしても、無理やり連れていく。
それが私のしたいことだから。
「……!」
身長がササコの倍近くあるセルリアンを見上げると、全身におぞましいものが駆け抜けた。
嫉妬の目、憎悪の目、殺意の目。
そのいずれにも当てはまる、恐ろしい眼差し。
そいつが私を見ていた。
あまりの恐怖に体がすくんでしまう。
「こ…こわく…なんか……な…ぃ」
もはや声は意味をなさず、強がることも出来なかった。
ササコの方を見るが、彼女はその場に立ち尽くして動こうとしない。
何か動けない理由があるのだろうか?
あの時みたいに、怖くて動けなくなったのかもしれない。
やっぱり、私がササコの元まで歩いていって、直接連れ出すしかなさそうだ。
迷っている時間はない。
不規則になった呼吸を整えるまもなく、私は一歩を踏み出した。
セルリアンの目を見ないように、ササコだけを視界にとらえて前に進む。
前へ、前へ、一歩、また一歩と慎重に歩を進める。
一定の間隔で聞こえる自分の足音と、少しずつズレていく呼吸音。
その二つだけが、私がいる世界の音の全てだった。
雨の音なんて聞こえない。
心臓の音も、意外な程に聞こえなかった。
もしかすると、私の心臓はあまりの怖さに耐えきれずに活動を止めてしまったのかもしれない。
それは困る。
生きるのをあきらめるにはまだ早い。
ここで生きるのをあきらめるということは、これからのササコとの時間を、場合によってはササコの命までもをあきらめてしまうということだ。
そんなこと、絶対にしてはだめ。
せめてササコを安全なところまで連れて行くまでは。
彼女の手を握って、一人じゃないのだと安心させるまでは。
あの指先に触れて、私の存在に気づいてもらうまでは、諦めるわけにはいかない。
徐々に下げられるハードル。
だんだんと弱気になってしまう。
だって、こんなにも怖いから。
視界が、息が酷く乱れるから。
寒くもないのに身体が震えて仕方がないから……。
それでも、どんなに怖くたって足を止めることは許されない。
ここで止まれば二度と踏み出せないと、本能的に分かってしまった。
だから前へ、前へと、立ち止まることなく進むのだ。
ふと、不安になってセルリアンに視線を移すと、そいつは最初に見た位置、姿のままで微動だにしていない。
相も変わらず、こちらに憎々しげな視線を送ってくる。
だけど逆に言えばそれ以上のことはしてこない。
私がこんなに気が気でないというのに、セルリアンの方は随分と悠長な様子だった。
このまま私が近づくのを待ち伏せるつもりか。
もし本当にそうだとしたら好都合。
ササコに危害が及ぶ前にここから連れ出せる確率が上がる。
ササコ、どこも怪我してないよね……?
無事に彼女の顔を見るまでは安心できない。
私はいざという時に失敗しないように、一度心を落ち着けようとセルリアンからササコへと視線を戻そうとした。
その時だった。
「──?!」
ヒュンッという短い音が聞こえた。
間違いなく足音ではないそれは、呼吸の音とも違った。
それでいて風が吹く音とも微妙に違う。
例えるならそれは空気を切り裂く音だ。
突然の怪音に足が止まりそうになりながらも、無理やり一歩前へ押し出す。
その際、ササコを捉えることに失敗した視線は、自然とセルリアンの方へと戻って行った。
……待って、何、それ?
私の視界には、さっきの音の正体であろう物体が映っていた。
それは、見方によってはナイフのようにも見えた。
ナイフ……? ナイフってなんだっけ。
ナイフは武器。殺害のための道具だ。
いつだったか、私がそう言った。
違う、言ったのは私じゃない。
記憶が、意識が? 混乱している。
私は酷く動揺しているようだった。
それはどうして?
ナイフなんてみんな持ってる。
ササコだって持っていた。
だから、セルリアンが持っていても別におかしくなんかない。
ナイフの柄に当たる部分が長い蔦みたいになってたって、それを自在に操れたって、今この瞬間にそれを振り上げていたって、何もおかしくなんかない。
ねえ、それをどうするつもりなの?
声なんかもう出ない。
だから目で訴える。
でも、とうにセルリアンは私を見てはいなくて。
その視線の先には────
「──ッ!」
息が止まってしまえばいいと思った。
間に合わないのなら、大切なものも守れないのなら、そのまま肺を潰して死んでしまえ。
それが嫌なら……
──もう呼吸なんてする必要は無い。
ばっしゃん!!
大きな水音と共に視界が揺らいだ。
それと同時に、足のつま先にビリビリとした痛みが走る。
右の足か、左の足かも分からない。どっちだっていい。
全速力なんかじゃ足りないから。
もっと速く、速く、
息を吸うのを忘れてしまうくらいに速く!
ナイフなんかよりも鋭く風を切って走るんだ。
かかとを地面に叩きつける度、ササコとの距離がどんどん縮まっていく。
そして、次の瞬間にはもう、ササコはすぐ目の前だ。
あと少しで届く……!
ガッ
「──ッ!?」
その時、不意に視界が傾いた。
全身が不思議な浮遊感に包まれるが、そんなことは意識の外だ。
次の一歩を踏み出すと同時に手を伸ばせば届く距離にササコはいる。
私は最後の一歩を地面につけようとした。
でも出来なかった。
空中に放り出された両足は、着地予定の地点から大きく後ろにズレてしまっている。
私は、また躓いてしまったのだ。
このまま行けば、間違いなく転けるだろう……。
──そんなのだめ!
ここで転けるわけにはいかない。
私は咄嗟に後悔しそうになるのを押しとどめ、右だか左だかの足を思いっきり前へと蹴り上げた。
一瞬後に地面に触れたのは、ぎりぎり靴の底。
ほとんどつま先だった。
それでもなんとか着地には成功した。
ここまでくれば、あとは手を伸ばすだけだ。
取るべき手を確認するために、私はつんのめったままの低い目線から再び前方を見た。
しかし、そこで見えたものは、ササコではなく、既にすぐ目と鼻の先にまで迫ったナイフだった。
ササコがいたのは左斜め前方。
躓いた拍子に進行方向が僅かにズレてしまったのか。
ナイフの軌道は変わらず、ササコへ向かっている。
今更手を引いたってもう間に合わない。
「ク───ッ!」
私は右足を思い切り地面に叩きつけた。
靴底の内側の角を地面に擦りながらブレーキをかけつつ、やや左へと軌道を修正する。
そして、あと一歩
「あああぁッ!!」
私は思い切り腕を突き出した。
──────────────────────
今回長くなりそうなので一旦区切ることにしました
後半部分はまだ書けてないので完成し次第投稿します
(勢いのある文章を書くの難しい……)
私がササコを突き飛ばした一瞬後、目の前をセルリアンのナイフが横切った。
間一髪だった。
すぐそこまで迫っていた風切り音に気がついて咄嗟に身を引き、しりもちをつくことでなんとか致命傷は避けられた。
この攻撃で受けた被害といえば、右手の袖が犠牲になったくらいだ。
ササコは……大丈夫、ちゃんと生きてる。
突き飛ばした時に強く頭を打ったりしてないといいけど。
今はそんな心配をしている余裕はない。
早く二人でここから逃げなければならない。
左手を地面につき、立ち上がる。
その時、妙に右手が重い感じがした。
私は気にせずにササコに駆け寄ろうとしたが、動こうとすればするほど重力が強くなってしまう。
そこには、確かに真下に引っ張られるような強力な重力があった。
そして、それはいつしか体全体に広がっていって。
私はとうとう膝を折ってしまった。
こんなことをしている場合じゃないのに……!
突然の重力の発生源と思われる右手の辺りに目をやる。
そこには、別段変わったものは無かった。
あるのはさっきセルリアンに切り裂かれた服の袖だけだ。
首の皮一枚でなんとか繋がっている袖口だけ。
真っ赤に染まる袖口。それだけしかない。
あれ?
「なん…で……?」
本当ならそこにあるはずのものが、無いことに気づいてしまった。
なんで? いつから?
私の右手がどこにも見当たらない。
「あ……あ……」
まるでいつか見た悪夢のような出来事に、非現実感を覚える。
これが夢なら、このまま覚めるだけ。
夢じゃなかったら……?
ササコ……。ササコをたすけないといけない。
今すぐ立ち上がって、私がササコの手を引いて逃げるんだ。
これはきっと夢なんかじゃないから。
だから、早く立たないと。
もう一度左手を地面について、自立を試みる。
「ふっ……、ん、ぐぅぅ……!!」
でも、どれだけ頑張っても、力なんか入らない。
早く、まだ動けるうちに足を立てないと。
じゃないと、すぐに間に合わなくなる。
私は気づいてしまったから。
これは、酷い怪我。
下手したら今度こそ死んじゃうかもしれない。
それくらいの大怪我だ。
怪我にはその度合いに見合った、当然の痛みが伴うはず。
痛いのがどれだけ痛いのか、私は知っている。
これからだんだんと痛くなっていって、きっとすぐに動けなくなるだろう。
だからその前に……。
私がもう一度左手を地面に這わせた時、目に映ったものを見て、一気に血の気が引いた。
ああ……だめだ。
そこら一体に拡がった、赤色、紅色。
私の内側をひたすらに彩る、本物の赤。
その色はとめどなく拡がっていた。
一度引いてしまった血の気は、二度と戻ってはこないのだろう。
一気に冷めてしまった断面の熱が、次第に痛みを訴え始める。
私はこれ以上熱が逃げてしまわないように、左手で傷口の上あたりを押さえつけた。
でも、上手く力が入らない。
こうしているうちにも、痛みは強くなっていく。
泣きたいくらいに、強くなっていく。
呼吸も、段々と荒くなってくる。
そろそろ……このくらいで、止まったりしないかな……?
私のそんな諦め半分の期待は、すぐに裏切られた。
まだ、もっと痛くなる。
一回脈動する度に、断面に激痛が走り、無いはずの右手が疼いた。
身体中が痛い。
両目から冷たいものが零れ落ちた。
泣いたって、許してなんかくれない。
私はもうどうしようもなくなって、地面にうずくまってしまった。
これは、きっと痛みに耐える体勢。
少しでも早く体勢を立て直して、ササコを連れて逃げる。
そのための体勢なんだ。
そうやって、無力な自分に言い訳をする。
本当は怖かっただけなのに……。
他の誰かが傷つくのを見るのが怖かった。
他でもないササコが、目の前で二目と見れない姿になるのが怖かった。
大切な友達の最期を看取るのが嫌だった。
だから目を背けた。
私は本当に、私は……。
ふいに、声が聞こえた。
それは喉が捻れて裏返ったような、酷く耳障りな音だった。
呻くような声は、歪すぎて何を言っているのか全然分からない。
これが私のものなんだと気づいた時、それとは別の声が頭に響いてきた。
『立って 』
声は言った。一言、私に立てと。
優しい声で、無理難題を押し付けてくる。
こんなにたくさん血を流したら、もう立ち上がるどころじゃないなんてことは、私にだって分かる。
誰だか知らないけど、いい加減な事を言わないでほしい。
私は痛みを理由に、攻撃的な感情をぶつける。
声はそんなのお構い無しに続けた。
『顔を上げて、ちゃんと見て』
見るって、何?
私に何を見せようっていうの?
私はとうとう一人で会話を始めてしまった。
これも現実逃避の手段のひとつだったのかもしれない。
『ササコちゃん。……今も一人で、戦ってる』
ササコが……?
戦ってるって、無事なの……?
『今はね。でも、このままじゃ危ないの』
自分に嘘を吐いてまで逃避させるつもりなら、どうしてここで現実を見せようとするのかが分からない。
でも、だからといって、この声が本当のことを言っているということにもならない。なるはずがない。
だからこれは、きっと私の願望なんだと思う。
僅かに残された可能性に縋り、希望を見出そうとしている。
私はこんな状況に陥ってもまだ、諦めきれていないようだった。
『大丈夫だから、わたしを信じて』
信じるよ。あなたを信じる。
裏切られた時のことなんか絶対に考えたくないから。
私は歯を食いしばり、軋む首を持ち上げた。
目を開き焦点を合わせる。
「─────っ!」
揺らぐ視界の中で、一番に見えたものは、たった一人で強大な敵に立ち向かうフレンズの姿だった。
ササコはまだ生きてる……!
未だ五体満足な彼女の姿を認めた瞬間、私の脈は加速した。
より効率的に、全身に痛覚が伝達されていくのを感じる。
甚大な痛みと焦燥に駆られて、今すぐにでも擦り殺されてしまいそう。
そんな時、私の頭にまた声が響いた。
彼女は落ち着いた口調で問いかける。
『あの子を助けたいんでしょ?』
答えるまでもなかった。
ササコを無事にここから逃がせるのなら、この身がどうなったって構わない。
だけど、そのために自分に何が出来るのだろうか?
一人で立つことすらままならない、今の私に……。
『わたしはあなたを助けたい。だからそのために、あの子を助ける手伝いをするのよ』
次に響いたのは突拍子のない言葉。
声が何を言っているのか、よくわからなかった。
彼女が何者なのかも分からない。
それを私の一部分とするならば、きっと誰でもないのだろう。
ぼんやりと、私の中にいる何か。
それが『自分を犠牲にするようなことは絶対に許さないからね』と一言付け加えた時、私は何となくその正体がわかった気がした。
それは、本能だった。
極限まで追い詰められた主を守るために、外側まで這い出てきたのだ。
彼女が私の本能の一端を担うような存在であるのなら、自分の命を蔑ろにするようなことを許すはずがない。
でもそれなら、どうしてササコを助ける手伝いをしてくれるのだろう。
私みたいな臆病者の本能なんか、きっと自分本位に決まってるのに。
『あの子と一緒にいる時のあなたが好きだから』
本能(?)はそう言った。
どうやら思ったことは口に出さなくても(そもそも今は言葉を話せる余裕はない)伝わるらしい。
にもかかわらず、否定を一切しないところを見ると、彼女は本当に私の本能なのだろう。
『それでね、わたしにひとつ作戦があるの。あなたにはちょっと頑張ってもらうことになるけど、できる?』
本能が言う。
作戦とは、ササコを助けるための作戦だろうか。
自分の中の本能に『できるか?』とか訊かれるなんて、だいぶおかしい気がするけど、私はササコのためならなんだってするつもりだ。
『そっか…じゃあ話すわね。あなた、"わたしのナイフ"はまだ持ってるよね?』
……?
そんなものは持ってない。
自分の持っていたナイフは、とうの昔に何処かに落っことしてしまった。
『無いの…?! ええと、じゃあ……あそこに刺さってる看板でいいか。あれを引っこ抜いて、セルリアンの後ろにこっそり回るの』
看板……さっき転びかけた時に、そんな感じのものがちらっと見えた気がする。
あれのことだろうか。
『そう、それよ。それで、後ろに回ったら看板を叩きつけて、やつの頭をかち割るっ!』
あまりにシンプルな作戦。
看板で頭を……?
そんなこと、本当にできるの?
『ねえ……あいつの頭、けっこう脆そうじゃない? ヒビまで入っちゃって、まるでガラスみたいね』
確かに言われた通り、セルリアンの頭(?)には何本にも枝分かれした大きなヒビが入っている。
そんなこと、言われるまで全然気が付かなかった。
『どう? できそう?』
……できない。
さっきから何度も立ち上がろうとしてるけど、体が全然言うことを聞かない。
『まだ痛いの? それも、立てないくらいに』
痛、い……?
……ああ、そうだ、痛いんだ。身体中が痛くてたまらない。
だからずっと、私はこんなにも耳障りな声で唸っていたのか。
いつの間にか忘れてしまっていたみたい。
そして、忘れたままならなお良かった。
だけどもう遅い……。
『今から私の言う通りにして。そうすれば、少しは楽になるはずよ』
もう、思考をする余裕も無い。
呻き声で返事をする。
『よし! じゃあまず、声を抑えて。できる?』
首を横に振る。
『いいえ、やるのよ。それくらいできてもらわないと、……ササコちゃんを助けたいんでしょ?』
「グゥ……ぅ……」
『そう、その調子。……大丈夫? まだできるかしら』
今度は、縦に……
『いい子ね。次は、ゆっくり息を吸って、吐く。深く深呼吸をするの。ほら、吸って……吐く』
「ゔぅ……ッ……え゙ぇ……」
『辛いわよね……。けど頑張って、ほらもう一度、吸って……』
「ふッ……うぉえぇ…! ゲホッ!」
むせかえるような血の匂いに、吐きそうになりながらも呼吸を続ける。
促されるまま、一回、もう一回と繰り返す。
そうしている内に、最初は呻き混じりだった呼吸は段々と安定していった。
声だったものは熱になって蒸発していき……。
『どう? もう痛くないんじゃない?』
少し良くなったけど……でも、まだ痛い。
『ちょっと血を流しすぎたのかもね。今はもう止まっているけど……動けそう?』
本当に、本当に少しだけ全身の痛みが引いていた。
その差は微々たるものだったけど、今ではかろうじて思考ができる程度にまで落ち着いている。
これなら何とかなるかもしれない。
左の膝を立てる。続いて、右足も。
これだけではまだ足りない。
私は左の手のひらを、ちょうど足と足の真ん中辺りで地に付ける。
そこまでしたところで、今の自分の体勢がどこかおかしいことに気がついた。
これでは足に上手く力が入らない。
いつもはどのようにして立っていたのだろう。
意識すればするほど、正しい体勢がわからなくなる。
少し考えて、私は左足だけを崩すことにした。
そして、左手は足の間ではなく、左手やや前方に置く。
私は各部位が定位置に着いたことを確認し、足と腕に一斉に力を入れた!
視界が少し高くなり、その直後に急降下。
私は右足を前に出して、前に倒れ込みそうになるのを何とか踏みとどまった。
立てた……!
両の足がぷるぷると震えるけれど、私はなんとか自立することに成功した。
『生まれたてのフレンズって感じね……』
それまで黙って私の一挙一動を見守っていた本能が、突然口を挟んできた。
何やらよく分からない喩えをされたが、今はそんなことはどうでもいい。
私は看板が突き刺さっている方を見た。
ほんの数メートルが、とても遠く感じられた。
「くッ……!」
立っているだけで体のあちこちが軋む。痛い。
こんなにも足が重たいのに、体幹は安定せずに視界がふらつく。すごく気持ちが悪い。
戦う前から満身創痍だ。
それでも私はやらなくてはいけない。
人生における数え切れないほどの内の一歩を、今ここで成し遂げるのだ。
私は大岩のように重たい足を、その意思ひとつで持ち上げた。
下へ、強く引っ張られる。
それを一歩分前へ運び、落とす。すると、ガクンと。
耳には聞こえないけど、そんな音がした。
それと同時に全身から力が一気に抜けていく。
一度視界が大きくぶれて、そのまま地面に激突した。
『ちょっと、大丈夫!? どうしたの?!』
──お腹がすいた。
『お腹がって……こんな時に何言ってるの……?』
歩けない。立っていられない。
本当に、辛いの。
『……』
冗談とかじゃなくて、もう、本当に……
『そう……そうよね……』
何かを悟った気がした。
無意識に、心の奥深くに刻まれてしまった定型文を指でなぞっていた。
これでずっと、一緒に……。
「おねが…い、……ササコ……わたし、を──」
『待ってッ!!』
「──っ!」
本能が叫び、我に返った。
私は今、一体何を……。
『お腹がすいたんだよね?』
本能が私の思考を遮るように訊いてきた。
そんなこと、今更答えなきゃいけないの?
空腹のせいかまた攻撃的になってしまう。
『ササコちゃんを助けたいんだよね?』
更に問い続ける。
次から次へと何?
いちいち声に出さなきゃ分からないの? あなたは私の一部なのに。
これらは全部、自分に向けた言葉、自虐のつもりだった。
それなのに罪悪感を感じてしまうのはどうしてだろう。
『だったら──』
本能はそこで一度言葉を区切り、少しの沈黙の後、短く言った。
『それを食べて』
──え……?
「食べる、って……」
目の前に差し出されたそれは、とても見慣れたもので。
私は無意識のうちにそれを握りしめていた。
指を絡めて、手を繋いでいた。
自らの欠損した断片と。
「──ッ!」
そんな、どうして…… なに、これ……!?
私は左手を振り回した。
力いっぱいに、かつての自分自身を拒絶する。
だけど離れてくれない。
手に指に力が入ってしまって離れないのだ。
それを理解していながら、私にはどうすることも出来なかった。
固く結ばれた手は、必要以上にグロテスクに見えてしまったから。
怖い。気持ち悪い。
冷たい手の感触が、消えてくれない。
『……ごめんね』
諦めたような、悲しいような声だった。
その声を聴いた瞬間から、急速に肩の力が抜けて行った。
そして、繋がれていた手が、今再び解かれる。
冷たいものが指の間をするりと抜けると、そのまま地面に落ちて、ぴしゃんと音を立てた。
『そんなこと、……できるわけ、ないわよね……』
そう言ったきり本能は口を閉ざしてしまったけれど、まだ彼女の息づかいだけは聴こえているような気がした。
苦しそうなのに安らかな、聞いていると泣きたくなるような弱々しい息吹を、私は心で感じていた。
「…………」
なんだか彼女の"お願い"を聞いてあげなきゃいけないような気がして。
私はすっかり赤くなってしまったそれを、もう一度、今度は意識的に拾い上げていた。
やっとの思いで手放せたのにな……。
震える手を口元まで持っていくと、胸が締め付けられるような感じがした。
これを食べれば、ひとまず空腹はおさまるだろう。
でも、もしそれをしたとして、私はササコとこれまで通りに過ごすことが出来るのだろうか。
不安だった。
なにか大切なものを失ってしまうような気がして、食べるのを躊躇ってしまう。
私は、たった今も無謀な戦いに身を投じているフレンズを見上げた。
「……」
──ここで大切なあなたを失うくらいなら、私は……。
まだ迷いは消えない。
だけど独りになるのはやっぱり怖いから。
私は目を瞑り、息を飲み込んだ。
指先達が唇に触れる。
今からこれを、噛み砕くんだ……。
固い口を何とかこじ開けて、何れかの一本を押し込む。
口内に入ってきたそれに恐る恐る舌を這わせると、想像通りの血の味がした。
その味や異質な舌触りに一瞬吐き気を感じたが、何とか我慢する。
吐いてはだめ、食べなくてはいけないのだから。
「ゔぅ……」
私は一旦、指を口から引き抜いた。
悠長になんかしていられない。
だけど、これが自分の一部分だったものであるという認識を、どうにか改めないことには、噛み砕くこともままならない気がした。
それならと、すぐさま解決策を考え始める。
……もし、自分のがダメなら、別の誰かだったら。
例えばこれは、ササコの右手首。
そう思い込んでみるのはどうだろう。
『ねえ……』
私はササコのだったら、きっと拒むことなく受け入れられるから。
口に含んだら最後、歯に少しの抵抗も感じさせないまま、噛みちぎれて、そのまま舌の上で溶けていくだろう。
そうなれば咀嚼する手間も省ける。
『何を考えてるの……?』
しかし、一見合理的に思えなくもないこの案には、ひとつの問題点がある。
これら全てが妄想上のことであると前提したとして、その妄想の中では私がササコを食べているのだ。
脅しなんかじゃなく、本当に。
それは彼女を殺すということに他ならない。
死ねば形を完全に失うから。
誰かを食べようとするなら、その時とどめを刺すのは他でもない私ということになる。
…………
……だけどこれは、あくまで気持ちの問題。
別に、実際にするわけじゃない。
想像上の出来事なんて、夢の中で起きる事と大して変わらない。
だから大丈夫。
私は今からササコの血でこの手を汚すことになるけど、本当のササコは絶対に助けるから。
だからどうか許して欲しい。
私は一方的に捲し立てると、物言わぬ幻影を手にかけようとした。
その時だった。
『イシちゃん……』
「──……え?」
殺意を持った手が止まる。
不意に聞こえたそれは、どこか聞き覚えのある響きだった。
知ってるような、本当は知らないような、掠れていて思い出せない記憶の底。
あれ……? どうして……
だって私は、あなたが……あなた、に……。
大切だったはずなのに。
今だって、まだ大切に思ってるはずなのに、彼女のことが思い出せない。
あなたは……誰?
本当の名前すらも分からない。
私は、思っていたよりもずっとたくさんのことが思い出せなくなっていた。
不意に視界がぼやける。
泣いているのだろうか?
それももう分からない。
鼻がつんとする感じも、まつげに水滴が乗る感覚も、何も無い。
ただ、驚くほど頭が軽くて。
身体も、軽くて。
なんだか意識が朦朧としているなあ、と思った。
『わた……が……違ってたみたい……。やっ……り、あな……には……が重かった』
「な…に……?」
部分的には聴こえていたはずだ。
だけどもう、途切れた断片の声を繋げるだけの気力も残されていない。
『あとは、わたしにまかせてね』
遠のく意識の中で、唯一完成された文字列。
その言葉の意味を理解する間もなく、私は深い眠りに落ちた。
まだ続きます
──side A────────────
おやすみ。
イシちゃんが目を閉じてから、わたしはそう言ったけど、多分彼女には聞こえてなかったと思う。
だって彼女はもう眠ってしまったから。
深いかもしれない。浅いかもしれない。
そんな曖昧な眠りの中で彼女が夢見るのは、きっとあの子のことばかりだ。
いいな……。
ちょっとだけ嫉妬してしまいそうになる。
……と、いけないいけない。
彼女は頑張り屋さんだから、きっと直ぐに起きてきちゃう。
だからその前に、全部終わらせてしまわないと。
わたしは目を覚ますべく、そっとまぶたを持ち上げた。
「……っ……!」
強い刺激を目の奥に感じて、咄嗟に光を遮断する。
すごく眩しかった。
視界に入るもの全ての、色かたちともに判別がつかないほどに。
きっと、生まれて初めて目を開けた時も、わたしはこんな痛みを味わったのだろう。
突き刺すような眩しさに、今にもこの目を潰されてしまいそうだけど、こんな程度のことで立ち止まってはいられない。
わたしは覚悟を決めて両目を開いた。
「んー…………」
再び映し出された煌びやかに渦巻く色々。
瞬きを何度か繰り返していると、乱れていた光彩が次第に安定の色を見せ始める。
「よし!」
言った瞬間、そのあまりの声量にちょっとびっくりした。
でもすぐに気を取り直す。
この自分の声がやたらと大きく聞こえてしまう問題も、きっとすぐに解決する。
少し待てば正常になるだろうけど、そんなことより今はすべきことがある。
今のわたしは、イシちゃんの替わりなのだ。
いや彼女そのものなのだ。
ぐへへ……じゃなくて、えっと……。
わたしは地面に視線を這わせる。
そして。
「──あった」
見つけたそれを拾い上げた。
イシちゃん曰く、これはササコちゃんの右手首……。
さっき、彼女がそう認識しようとし始めた時、その心の中はひどく混沌としていて、見るに堪えないものだった。
まさかわたしの一言で彼女をあんな風に追い詰めちゃうなんて、思ってもみなくて。
でも本当はすぐに気づくべきだったんだ。
自分の体の一部を食べろだなんて、そんな猟奇的な提案を受け入れること、"わたしたちに"出来るはずがないのに。
特にイシちゃんは血が濃くなってるはずだから尚更、自傷的なことは許されなかっただろう。
その結果として、わたしはもう少しで彼女の心を殺してしまうところだった。
「……」
イシちゃんはたくさん傷ついて、ようやくここまで戻って来た。
きっと何度も痛い思いをしてきたはず。
でもこれを食べれば、また少しだけ濃くなってしまう。
また、彼女を苦しませてしまう。
そして、また……鬱々とした日々に帰してしまうかもしれない。
やっと大切なものを見つけられたのに。
「…………」
わたしはなんとか立ち上がれないものかと、地面に左手を着いてみた。でもだめだった。
お腹がすいて力が入らない……というより、そこに何も無い感じがした。
体の密度があまりに低くて、空腹すらも感じないのだ。
ふと、さっきイシちゃんが言いかけていた言葉を思い出す。
"「おねが…い、……ササコ……わたし、を──」"
この先に続く言葉がどのようなものなのか、わたしは知っていた。
だから咄嗟に引き止めた。
だけどやっぱり、今のイシちゃんは一人分にも満たないんだ。
このままじゃ彼女は、きっと……。
死にゆく友達をを前にしたわたしにできることは、もう二つしか残されていなかった。
これからするのは、とても重い決断だ。
わたしは心を決めるために、一度座り直した。
「……?」
体勢を変えた際に、左の太ももの辺りに違和感を感じたが、その正体に気づいて口元が緩んだ。
「なんだ、持ってるじゃない」
もう、迷いは消えていた。
さっきイシちゃんがしたのと同じように、右の人差し指を咥えると、もう血の味はしなかった。
これは愛しい友達の味だ。
「ふふ……」
このままでいれば、あなたはあらゆる苦しみから解放される。
でもわたしは、今から自分の都合であなたをもっと苦しめるよ。
「…………」
『ササコちゃん。……イシちゃんを、お願いね』
わたしは思いっきり、顎に力を入れた。

関節部がミシミシと音を立てると、皮が破けて、口いっぱいにイシちゃんの味が拡がる。
そして──
次々と染み出してくるのは、どす黒い感情。

舌をつたって、喉を通って、お腹の底へと落ちていく。
それはまさしく、純度の高い悪意だった。
"わたしたち"が決して抱くことの出来ないくらいの、許容量を遥かに超えた悪意。
少し気を抜くだけで黒い感情に呑まれてしまいそうになるのを、必死に耐える。
こんなものに耳を傾けてはいけない。
自分にそう言い聞かせて、また飲み下す。
何度も何度も、噛んで、飲み込んで。
この単純な作業を繰り返しているうちに、だんだんと身体に震えを感じ始めた。
怖いから震える。これもまた単純な理由だった。
これはわたしの心の中にある怯えなのだろうか。
もしそうじゃないのなら、どうか怖がらないで。
このぐちゃぐちゃしたものは全部、全部わたしが引き受けるから。
わたしのせいで今まであなたをたくさん苦しめたよね。
だからこれはせめてもの償い。
あなたはこれから、ササコちゃんやみんなと幸せに生きるの。
「アンタは黙ってろッ!! 」
やけつくように熱い喉にビリビリとしたものが走る。
絶対に誰にも邪魔なんかさせない。
イシちゃんを繋ぎ止めて、ササコちゃんも助けるんだ!
わたしはもう、何がなんだかわからないくらいに頭に血が上ってしまっていた。
先程まではヤツの悪意に負けじと慎重になっていたが、もう知らない。
わたしは手に持っていたそれを、めちゃくちゃに噛み砕いて、飲み込んだ。
また何やら声が聞こえてきたが、もうそんな戯言に耳を貸すつもりは無い。
もう少しで全部食べ終わる。
そう思った時。
「あの、えっと……」
突然、戸惑うような声が聞こえた。
それは冷たくて腹立たしいあの声とは違っていて。
気になってそちらを見てしまった。
「……?」
わたしの目に映った光景はなんというか、なんだろう。
状況がうまく理解できない。
ササコちゃんが目の前に立っていて、イシちゃんを見下ろしていて、わたしの手には、手には……。
これはなんだ?
もはや原型をとどめないこれは、確か──。
「ぁ……」
全てを理解した瞬間、急速に熱が冷めていくのを感じた。
冷めきってなお、冷える。
わたしは、とんでもないことをしでかしてしまった。
彼女に一番見せてはいけないところを見られるなんて。
どうしてこんなことになってしまったのだろう……。
ササコちゃんの顔がまともに見れない。
目が潤んできて、今にも溢れだそうとしていた。
この涙はきっとわたしのじゃない。
わたしは俯き、目を閉じた。
ごめんね、イシちゃん。
泣かないで。
わたしが絶対に何とかするから。
言い聞かせるように、心の中で呟く。
だけどこの言葉はもう彼女には届かないかもしれない。
わたしの心は既に形を変え始めていたから。
イシちゃんにはわたしだけいればいいとか思ってしまう。
死ななくてよかったわね、じゃあどこかへ行って。
そんな言葉、この口からだけは絶対に言えない。
「ご、ごめんね。……こわがらせ、ちゃった…わよね」
無意識に発せられるのは心にもない言葉。
その涙混じりの声は、まるで遠くで誰かが喋っているみたいに客観的で、耳も遠い。
だめだよ、イシちゃん。まだ寝てないと。じゃないと、あなたはきっと傷ついちゃうよ。
『わたしがいるから。ずっといっしょにいてあげるから……』
もう目を開けることも出来なかった。
意識がだんだんと重くなっていく。
どす黒い液体を吸って、深く深くへと沈んでいくようだ。
この声はもう誰にも届かないのだと悟った時、あの冷たい声の主の気持ちが、ほんの少しだけ分かった気がした。
────────────────────
「ご、ごめんね。……こわがらせ、ちゃった…わよね」
私は我を忘れて、一心不乱に自分の一部だったものに齧り付いていた。
こうしてササコに声をかけられるまで、ずっと。
最初はササコと一緒に逃げるためだったのに、そのササコのことを忘れるほどに血肉を欲していたことが、怖くてたまらない。
だけどそれ以上に怖いのは……。
「ゴイシシジミさん……、」
「そ、そんなことより! ……あなた意外と強いのね。びっくりしちゃった」
本当に、ササコはすごい。
あんなに大きなセルリアンを一人でやっつけて。
未だ……私の前に、立っている。
こんな血まみれの口元を見ても、まだ。
……もしかして、また昨日までみたいに、過ごせるのかな?
まだ、ササコと一緒にいられるのかな……?
もし彼女が何事もなく接してくれたなら、私は元に戻れる?
右手はなくなっちゃったけど、また、いつもみたいに……。
「……!」
「あの、腕……」
「…………私は……あなたと同じフレンズよ」
私が声に出したのは、心にもない言葉だった。
今まで意識しないようにしてきた。
でも、押し込めて隠そうとするほど、それは深く根を張った。
私はきっとササコ達とは違う。
「……」
切り落とされたはずの私の右手が新しく生えていた。
首の皮一枚だった袖も綺麗にくっついていた。
だけど、セルリアンと戦ったササコだけが……傷ついている。
服なんかもう、初めて会った時からずっとボロボロのままで、治る気配もない。
そして今日、ササコはまた……。
俯きながらもかろうじて見える彼女の傷跡。
それは小さな傷だったけど、やっぱり赤い血が流れていて、きっと痛いのだと思う。
私はその赤いのがどうしようもなく見ていられなくて、更に視線を落とした。
そんなことをしたのは、たぶん目を逸らしたかったからだ。
脳裏に焼き付いた真っ赤な両手と、自分と彼女の違いから。
逃げたって何も変わらないのに。それでも直視はできなくて。
すっかり落ち込んでしまった視線の先には、左右で大きく質感の違う履物があった。
ササコの左の足には、ほとんどが砕けてヒビだらけの、鎧っぽいものが。
そして右足には私のとよく似た靴を履いていた。
元々はこっちの方も鎧に覆われていたのかもしれない。
そう思ったら、急に心臓が抉られるような感じがして泣きたくなった。
もう痛くなんかないのに、痛いのはササコなのに。
なのに、なのに…。
背けようのない事実が重くのしかかって、軋む。
私はこんななのに、どうしてこんなにも無力なんだ。
「…………」
未だ私の前に居続ける少女は、もう何も言わなかった。
ただそこにいて、きっと私を見つめていた。
怖いはずなのに。
今すぐに逃げ出したいはずなのに、彼女はまた自分を殺そうと言うのか。
こんなに優しくて、自身の危険を顧みない。
そんなササコに私は何を言えばいい?
逃げてもいいなんてことはもう言えない。
言いたくないんだ。
……だったら、何か弁解するのはどうだろう。
ササコが今夜も安心して眠れるように、私が、この……血塗れの口で……?
信じてもらえるとは思えない。
じゃあやっぱり、こっちの血塗れを後ろ手に隠して、何も無かったって言い張ってみる?
そうしたら……見逃してくれるかな?
それでもダメなら今ここで、ササコの目の前で、この手が生えなくなるまで切り落とせば……。
いや、そんなのは絶対にダメだ。
もしそんなことをすれば、彼女を余計に怖がらせるか、悲しませてしまう。
悲しんで、くれるのかな……。
ろくな考えが浮かばなかった。
足りない頭でいくら考えたって、思いつくのは普通とは程遠い愚案ばかり。
諦めきれない。
でも、ササコの気持ちは無視できない。
いつまで経っても弁解の言葉なんか浮かばないから。
私は彼女に、ササコにこの場の全て委ねることにした。
ずるいかもしれないけど、今の私からはきっと、取り繕うための嘘や誤魔化ししか出てこないから。
目を瞑り、一度浅く深呼吸をしてから、顔を上げる。
すごくドキドキした。
私は鼓動が少し穏やかになるのを待ってから、目を開いた。
「ぅ……」
一瞬ぼやけて鮮明になる。
そうして一番最初に目に入ったのは、ササコだった。
目の前に、ササコがいた。
そんなこと、ずっと分かっていたのに。
でも、どうしようもなく嬉しくて。目頭が熱くなった。
ササコがここにいてくれる。
もう一度、生きて再会することができた。
彼女は俯いていて、どんな顔をしているか分からないけど、今ここにいるのは間違いなくササコだった。
夢じゃないんだよね……?
自分の頬をつねることもせず、私の両手は、自然とササコの方へと伸びていた。
確かめたい。
その手に、髪に、頬に触れて、ササコがここにいることをちゃんと認めたい。
この手で、ササコの体をぎゅっと抱き締めて、確かな体温を感じたい。
もしそんなことをしたら、今度は本当に泣いてしまうかもしれないけど。
だけど止められなかった。
真っ直ぐと伸びていく。
気持ちがはやって、また鼓動が加速する。
もう少しで、届く。
それなのに。
やっぱり、だめだ……。
伸ばしたそれは赤く汚れきっていて、触れるのをためらわれた。
言葉でササコを安心させることも、彼女に触れることも叶わない。
今の私は無力を通り越して無だった。
何も無い、何も出来ない。
ササコはこんなにも、拳を握りしめるほど必死に言葉を探してくれているのに。
地面を睨みつけて、拳をぎりぎりと締めて、その手のひらにはきっと爪の跡がついているのだろう。
そんな彼女の様子を見ていると、自然と笑みがこぼれた。
笑える要素なんかひとつも無い。
だけど私は微笑んでいた。
それは何も出来ない私の……諦めだったのだろう。
20話終了
時間置いちゃうとすぐに文章の作り方が分からなくなるます……
ぼんやりとする。
ずっと、ぼんやりとしていた。
押しては引いていく波打ち際。
私はそこにいて、彼女がそれを見ていた。
「あなたは、夢子……?」
「なぁに、それ」
全体的に白っぽい服を着た少女は、その髪の毛の一本一本も白い。
私やササコと同じ、そしてあの子とも。
眉を下げてどうやら悲しんでいる様子の彼女に、私は何をしてあげられたのだろう。
少女は顔を伏せて、やがて覚悟が決まったのかその名前を口にした。
「わたしは、──────よ」
きっと彼女は否定したかったのだと思う。
目が覚めれば消えてしまう、自分はそんな不確かな存在ではないと、必死になって抗っている。
そんな彼女の声を、私は聞いてあげなきゃいけない。
それなのに、なんだか声が遠いような気がして、上手く聞き取れなかった。
彼女の震えるような寂しい気持ちは、波にさらわれて見えなくなってしまったのだと、そんな風なことを思った。
「わたしの名前、忘れちゃったみたいね……」
「ごめんなさい」
きっと、謝ったって赦されることじゃない。
だけど、それでも……
「ごめんなさい……」
この言葉は彼女に届いているだろうか。
波にさらわれてはいないだろうか。
不安だった。
「ごめんなさ──」
「しょうがないから、赦してあげる」
「……」
「そんなに謝られたら、あなたにこんなに想われたなら、きっとなんだって赦しちゃうわ」
「…………そんなの、」
「それに、別にあなたは何も悪くないもの」
「……違う、私は……」
「──違う」
「…………」
「違う」
「……私が全部、悪かったの」
「違う」
「私があなたを……私さえいなければ……!」
「違うの。わたしの言葉、ちゃんと聴いて」
顔を上げた少女と目が合う。
淡く輝く金色の瞳は、決して逸らさせない。
強い意志を宿して、私を真っ直ぐと射抜く。
それは内に眠る悪夢を取り払うように。
「悪い夢にどんなにひどく言われたって、あなたは決して悪くない」
ずっと欲しかったはずの言葉。
なのに、私は。
「……もうあなたの言葉なんて、信じられないわ」
止められない。これ以上傷つけたくないのに、止まってくれない。
「痛かったじゃない! あんなに痛かったのに、どうして……」
「その話し方」
「……誤魔化さないで」
「………………」
彼女は私から目を逸らして、何かを考え込む。
やがて何かを思いついたのだろう。ゆっくりと口を開いた。
「嘘をついちゃったのは……きっと、幸せだったから。わたしはあなたとの時間を、できるだけ沢山の笑顔で埋めておきたかったの。あなたは知らないこと……あなたの笑った顔はね、実はすっごく素敵なのよ。真っ暗に曇ってしまった心も、一気に晴らしてくれるくらいに……」
「………………」
「だからね、わたしはあなたに笑っていてほしい」
「そんなことで……」
「そんなことじゃないわ。わたしはあなたを恨んだりしない。でも、あなたの笑顔を曇らせてしまうようなやつは許せないの。……たとえそれが、わたし自身であっても」
「……」
「ずっと、聴こえてたよ。わたしみたいになりたい、ならなきゃって。
あなたの気持ち、嬉しかったけど、すごく悲しかった」
「ごめんなさい」
謝ることしか出来なかった。
今は亡き彼女のために泣くことも、もう私には出来そうにない。
そんな資格はとうにないのだ。
自分のしたことを認めておきながら、せめて夢の中でなんて。
彼女の口から赦しを得ようとするだなんて。
本当に救えない。
救われるべきじゃ……ない。
「……ごめんなさい」
「やっぱり、あなたは未だ……夢を見てるのね」
金色の光が揺らぎ、瞬く。
そして再び私の視線をとらえると、網膜を強く焼け焦がす。
鋭くなって、一番深くに刻み込むように。
彼女はその目で言った。
「もう雨には濡れちゃだめよ。また怖い夢を見ちゃうからね。」
「夢……」
「そう、夢。起きても覚めない恐ろしい幻夢。こんなふうに」
彼女はそう言うと、波音の聞こえる方へと視線を流す。
私はその後を追った。
まだ眩しくて、目に光が張り付いているようだった。
金色じゃない、赤い光が視界を覆い尽くすほどに広がっている。
「赤いわね。あれ、なんだと思う?」
それを見るように促した少女が、軽い声色で聞いてくる。
彼女の口元は柔らかく微笑んでいたけど、目は全然笑ってなかった。
「……海」
私が言うと、彼女は曖昧な顔をした。
そして。
「わたしのことは忘れて」
「……え?」
突き放すような言葉。
突然の事で、一瞬その意味を理解できなかった。
じゃあ、一瞬後の今ならどうだろう。
……そんなの、分かるはずがない。
「なん…で、そんなこと、言うの…?」
「言ったでしょ、……許せないって。わたしは太陽なんかじゃないし、あなたの行く先を明るく照らすかがり火でもないの」
彼女はそう言って、こちらへと両手を伸ばしてくる。
ひんやりとした手が頬に触れる。
「ほら、やっぱりわたしはいない方がいい」
「ぇ……?」
頬を伝う水滴の感触。ぼやける視界。気づくと私は泣いていた。
「なんで……」
彼女の言葉が悲しかった。
私が忘れてしまったせいで、彼女のことを、「彼女」としか呼べなくなってしまった。
そのことが悲しくて、申し訳がなくて。でも赦されるはずがなくて。
また涙が流れた。
泣く資格がないとか言っていたのは、誰だっただろう。
何とか押しとどめようと目を瞑ったけど、さっき彼女が言ったばかりの言葉を思い出してしまって、できそうにない。
彼女の悲しい考えを覆せるだけの言葉も、私は持ち合わせていなかった。
それが堪らなく悔しい。
悲しい涙に、悔しい涙。
涙はとめどなく溢れてくるけど、私の顔が水浸しになることは無かった。
こぼれた滴が頬を伝い、途中で途切れる。
その繰り返し。
冷たいものが、添えられた両手に落ちては熱を失っていく。
今まで冷たいと思っていたそれは、彼女の手の冷たさに比べればまだ温かかった。
その対比にまで泣かされそうになる。
ふいに、ぼやけ切った視界の中で彼女が柔らかく微笑んだ気がした。
こんな安心させるような顔を私は知っている。懐かしささえ覚えた。
彼女は一度私のことを泣き虫だと罵ると、指で涙を拭おうとする。
……だけど私はその手を拒んだ。
涙と一緒に、大切なものを取られてしまう気がしたからだ。
「忘れたくない」
「…………」
「忘れたりなんか、できないわ……」
彼女は今、どんな顔をしているのだろう。
目を開けても、瞑っても、映るのは歪んだ悪夢だけだ。
とうにぼやけ切っているのに、視界はまだまだぼやけていく。
とめどなく涙が溢れてくる。
もういっそ、この涙で
溺れてしまいたかった。
最近何だかおかしい。私は今現在、ひとつの悩みを抱えていた。
ここのところ、気づけばササコのことを目で追っている。
それは以前と変わらないようにも思うけど、今はどういう訳か彼女のことが愛おしくてたまらないのだ。
もちろんササコのことは前から好きだった。
でも今はこれまでの比にならないくらいに好きすぎてしまう。
……彼女のことを考えていると、どこか言語能力が怪しくなる。
どうして急にこんな感情を抱くようになったのかは分からない。
だけど、彼女のどこが好きかと聞かれて安直な返答をしてしまうくらいには、ササコが好きだ。
そんな具体性の無い答えではこの気持ちが伝わらないというのなら、私が思う彼女の好きな所をひとつずつ列挙してもいい。
私は目を閉じ、大好きな友人に思いを馳せる。
「…………」
……優しいところが好き。私みたいな子にも優しく接してしまうような迂闊さも含めて好ましく思う。見かけによらず力強いところも好き。まさかあんなに強そうなセルリアンを、たった一人で倒せてしまうなんて。急に彼女にかっこよさを感じるようになってしまった。強くてかっこいい。……好き。だけど彼女の強いところはそれだけじゃなくって。肉体を凌駕する心の強さ。恐怖を感じながらも恐ろしい存在に立ち向かうことは、きっと誰にでもできる訳じゃない。自分が持っていないものを持っていると言うだけでも、惹かれてしまうものなのだと思う、と一人で納得する。やっぱりササコはかっこいい。こんなにもかっこいいのに、かわいさも兼ね備えているなんて……。まるっこい目元は変につり上がってたりしないし、瞳の色は透き通った琥珀色で宝石みたい。それに、繊細そうな唇の奥には尖った牙も見えない。さらには、真っ白な髪はさらさらのもふもふふわふわで、世界に二つとない髪質に違いないと思えるくらい綺麗だ。ちゃんとした服さえ着せれば、きっとどこかのお姫様と間違えてしまうに違いない。
「好き……大好きぃ……」
「……あの、大丈夫ですか……?」
「わひゃぁっ! ……な、なに?」
突然声をかけられて、飛び上がってしまう。
顔を上げるとササコがいた。
今の私に声をかけるのは彼女くらいのものだけど。
だけど、今は、このタイミングで話しかけられるなんて考えもしなかった。
彼女の顔を見た瞬間、そして私に話しかけたのがササコだと認識した時、私の心臓が二度大きく跳ねた。
「す、すみません。なんだかぼーっとしていたみたいだったので。あと顔もいつもより少し赤いような……熱でもあるのではないですか?」
ササコが心配そうに言った。
私は何とか心を落ち着けて、思考を巡らせる。
出来ることなら、愛しい声が紡ぐ言の葉のひとつひとつを。そしてその裏にある彼女の心の全てを理解したい。
だけど私に出来るのは、彼女の思いを乗せた言葉を正面から受け止めることくらいだ。
叶わない願いは早々に諦め、改めてササコの言葉に向き合う。
"「なんだかぼーっとしていたみたいだったので」"
ぼーっとして見えたのは、きっとササコのことを考えていたから。
意識の一番深いところで、脇目も振らず、危機管理をも怠って。
彼女のことだけを考えてた。
"「あと顔もいつもより少し赤いような……熱でもあるのではないですか?」"
言われてみれば、なんだか顔が熱い気がする。
あるのかな、熱。熱……あるのかもしれない。
そう曖昧に考えていると、ふとあることに気づいた。
ササコは私の顔を見て、いつもより赤いと言った。
それを聞いた時、私は焦りながらも喜びを感じていたのだ。
ササコが見ていてくれるのが嬉しい。
些細な(?)変化に気づいてくれるのが幸せだと思った。
……というか、ササコの頭の中には
顔が赤くない平常時の私がいるのか。
こちらにも気がついてしまい、そんなに顔を見られていたのかと思うと、急に言い知れない気恥ずかしさのようなものが押し寄せてきた。
これまでササコが見てきた私は、どんな顔をしていただろう。
彼女の目にはどう映っていた?
変な顔をしてはいないだろうか……?
そんな不安が浮かんでくる。
不安の種を吐き出すためにと、これまでを振り返ったのは間違いだったかもしれない。
今までの私のササコに対するあらゆる言動はどう考えてもまともじゃなかった。
だからきっとそれに伴う表情の方も、普通じゃなかったに違いないのだ。
既に芽吹いてしまった不安事の種は、根を張り茎を伸ばし続ける。
私はその根茎がこの熱を吸い上げてくれることを願わずにはいられない。
もうこれ以上、ササコに変な顔を見せたくはないから。
「ゴイシシジミさん……?」
「…………」
ふいに、意識の外から声が聴こえた。
今度もササコだった。
私はそれっきり思考を打ち切って、無難な返事をすることにした。
「大丈夫よ。…ありがとう」
ササコに不要な心配をかけたくなかった。
極めて平静を装ったつもりだったけど、たった一言を導き出すまでに一体どれだけの時間が流れたのだろう。そしてその無言だった時間で、ササコとどれだけの言葉が交わせたのだろう。
深く考え出したらまた同じことが繰り返される気がしたので、やめておくことにした。
じー……
視線を感じた。疑うような視線を。
「本当に……?」
それは疑わしげな声で、やっぱり疑っているみたいだ。
正直に言うと、私は全然大丈夫じゃない。
こうしてササコに見られているだけで、身体がどんどん熱くなって、溶けてしまいそうになる。
何度も思考に靄がかかりそうになるし、眠くもないのに目が潤んでくる。
熱に浮かされたような気分だった。
これは重症かもしれない……。
「ん……?」
「…………」
今の私は、よっぽど嘘つきの顔をしていたのだろう。
ササコが目を細めて、じっと瞳を覗き込んでくる。
彼女の瞳に写った自分の顔がよく見えて、なるほどこれは熱っぽいなと納得できるくらいに、顔を近づけてきて……。
熱があるかもと疑っておいて、その急接近はどうかと思う。
もし本当に風邪でも引いていたら、これで移ってしまうかもしれないではないか。
それに、こんなにまじまじと顔を凝視されるのは落ち着かない。
見てもらえる事が嬉しいとは言っても、さすがに限度があった。
私は顔を逸らして、ササコの肩に手を置く。
そしてゆっくりと遠ざけた。
「ほんとうに大丈夫だから……ね」
念を押すように言う。
目だけを動かして表情を確認すると……ササコはまだ疑わしげな顔をしていた。
…………………………。
少しの間、刺すような視線を無言でかわし続けていると、向こうの方が根負けしたようだった。
「あなたがそう言うなら……」と、渋々ながら見逃して貰えた。
ほっと息をつく。
「それで、…何が好きなんです?」
「……ぇん?!」
安心したところで不意打ちを食らい、変な声が出てしまった。
みるみるうちに顔が熱くなる。
さっきの"アレ"を聴かれていたのだ。
まさか声に出ていたなんて、と今更になって思う。
それも言葉として認識できて、しっかりと意味が伝わるくらいに、大きい声だったとは……。
愛の囁き(?)が本人に聞かれて、その詳細を問いただされるなんて、……なん…て……。
顔の温度はもうこれ以上上がらないらしい。
今度は頭が熱くなってきた。
今私の額辺りからは湯気が出ている。絶対出てる。自分では見えないけど……。
聞かれてしまった。
……聞かれてしまった……。
熱暴走を起こして止まりかけた思考回路を無理やりに動かすと、事実の確認をするみたいに同じ言葉が何度も繰り返された。
聞かれてしまった。
……声に出してしまった。
次に浮かんできたものは、さっきと微妙に形が違ったけど、結局のところは同じ事実に基づいていて、その二つには大きな意味の違いはなかったはず。
だけど私は"声に"の部分を認識した瞬間、ハッとした。
私は声に出していたのだ。そしてそれをササコに聞かれてしまった。
そんなことは確認するまでも無く、分かりきったことだ。
でも、それは一体どこから……どこまでだっただろう……?
もし最初から最後まで全部声に出ていて、その一言一句を逃すことなく聞かれていたとしたら……。
……ササコは、"何が好きなのか"と訊ねてきた。
わざわざ訊いてくるということは、私の思うような恥ずかしすぎる出来事は起こらなかったと考えるべきだ。
でももし、ササコが全てを知っていてとぼけているとしたら……。
彼女ならそういうこともするような気がする。
少し前までは、彼女に対してそんな風な考えを持つことは無かった。
ササコはどこまでも素直で、言葉をそのままの意味で受け取ってしまう。
出会ってすぐはそんな風に思っていた。
でもそれは違った。
彼女は意外と強かなのだ。
人の言葉を疑いもするし、時には嘘もつく。たまに意地悪を言うことだってある。
それに……。
つい先日のことを思い出す。
前をササコが歩いていて。私はその後ろを歩く。
私の右手を問答無用でひったくったササコが言う。
"「でも良かったです。……こうして捕まえることが出来て。
……また、あなたの手を握ることが出来る」"
あの時は気を使ってくれたんだと、今になって思う。
ササコは気を使うのも上手だった。
だから今回も、わざと聞いていないふりをしてくれているのかもしれない。
もし本当にそうだとしたら、改めて訊かないでほしいけど。
滅多に出ない彼女の意地悪な部分が、ここぞとばかりに出てきてしまったのだろうか……。
「ゴイシシジミさん」
返答はまだかとばかりに、ササコが私の名前を呼ぶ。
やっぱり、ほんの少しだけ意地悪かもしれない。
「えっと……」
言い淀んでしまう。
このまま淀み切ってしまえば、次に口を開く頃には、好きの気持ちごと見失ってしまう気がした。
「あの、ね」
勇気なんか出さなくたっていい。
訊かれたことに答えるだけだ。
ササコが望んだから、それを今から言うんだ。
それだけなのに、鼓動が早くなる。喉が渇いてきて、頭が真っ白になってしまう。
だけど、それでも。
どんなに緊張したって、何も考えられなくなったって、いまさら言うのを止めることは出来なかった。
どんな風に声に出すかは、既に決まっていたから。
「私、は──────」
朝、目が覚めて一番にササコの寝顔を見る。
そして自分が正常であることを再確認した。
「……うん」
ササコの顔をずっと見ていても、激しい動悸や頭が茹だるような熱を感じない。
だから今の私はきっと、"いつもの"私だ。
彼女のよく知る「ゴイシシジミさん」だ。
そう思うと少しほっとした。
今なら分かる。
昨日の私は、本当に風邪をひいていて、熱も動悸も全部その風邪のせいだった。
目を閉じれば蘇る記憶も、薄く蕩けて判然としないものばかりで。
自分がいつ眠りについたのかすら鮮明に思い出せない。
だけど昨日何があって、その後どうなったのかはちゃんと覚えている。
その記憶の所々はぼんやりとしていて、夢でも見ていたのではないかと勘違いしそうになるけれど。
でもあれは間違いなく自分で考えて決めて、この口から発せられた言葉だと言える。
……私は、ササコに「好き」を伝えなかった。
彼女に何が好きなのかと訊かれて、「なんでもない」と答えたのだ。
今思えば、少し素っ気なかったかもしれない。
「あなた」でも、「ササコ」でも、どちらでも言えばそれで良かった。
でも私は口を噤んだ。
その時はそうするべきだと思ったから。
茹だり切った頭で唯一冷静に考えられたのは、今の自分がいつもササコが見ている私じゃないということ。
それだけ解っていれば、もうどうするべきかは考えるまでもなかった。
……でもそれも、熱の冷めた今だから言えることで。
本当のところは、ただ怖気付いただけかもしれない。
「…………」
このままササコの目が覚めるのを待って、いつも通りのおはようを言おう。
そうすればきっと何も変わらない。
二人で朝の挨拶をして、これまで通りの日常を過ごすんだ。
……別に、何も名残惜しくなんかない。
私にとって一番大切なのは今、隣にササコかいることだから。
いつか来る、二人で一緒にいられる最後の日まで。
私はずっと彼女の隣に居続ける。
今ここで、改めてそう心に誓った。
誓いの口付けは必要ない。
私は彼女の騎士じゃないから。
「……私は、あなたの友達になれたのかな?」
投稿頻度が開くことによって発生する問題に、ただいま直面しております
長期間のブランクによる文章の書き方の忘却とそれに伴う文体の変化
より具体的に述べますと、登場人物(主に主人公)のキャラ崩壊が主な問題です
一人称視点で書いているので、地の文の書き方の変化がそのままキャラ崩壊に繋がる恐れがあるわけです(これはもう若干手遅れかも)
そこで、これからは毎日こつこつと進めていく方針に転向しようかなと考えています
最初はこのような方針で進めていましたが、段々と書かない日が続くようになり、今に至ります
このままではいかんですと思い、この度気合いを入れ直すことにしました
今後は、この夏で完走するくらいの心意気を持って進めていきたいと思っています
目標は週一ペースでの更新です