仏教のお話

Rの会:方便品第二(前半) / 5

41 コメント
views
0 フォロー
5
ダルマ太郎 2024/04/21 (日) 19:50:16 修正

:
開三顕一(かいさんけんいち)
:
:
声聞(しょうもん)とは
:
太郎論:声聞とは、シュラーヴァカ śrāvaka の意訳です。「声を聞く者」のことで、初期仏教では、釈尊の声を聞く者という意味であり、仏弟子という意味でした。つまり、出家と在家、男性と女性という区別はなく、仏弟子であれば、みんなが等しく声聞と呼ばれていました。大乗仏教になると、声聞とは、出家者のことをいうようになり、自分だけの解脱(げだつ)を求める者として大乗仏教徒から攻撃されました。
:
:
辟支仏(びゃくしぶつ)とは
:
辟支仏とは、プラティエーカ・ブッダ pratyeka-buddha の音写です。「独りで覚った者」という意味で、独覚・縁覚などとも訳されます。縁覚とは、縁起を覚った者という意味です。日本では、縁覚という表現が好まれているようですので、私も縁覚と表すことにします。出家者は、家を捨て、家族を捨て、財産・土地・身分を捨てて、仏教教団に入り、僧伽(さんが)の中で修行します。ある程度修行が進むと僧伽からも離れて、山奥に入り、独りで修行する者がいました。それが縁覚です。仙人のようなイメージです。縁覚は、覚りを得ても他者に教えを布施しませんでしたので、声聞と同じく自分だけの解脱を求める者として、大乗仏教徒から攻撃されました。
:
:
三乗
:
声聞・縁覚は、個人の救われしか求めないので、大乗仏教徒から「劣った乗り物」という意味で、ヒナヤーナ Hīnayāna と呼ばれました。中国では、「小乗」と訳しています。大乗仏教徒は、自分たちのことを菩薩と呼び、大乗だといいました。大乗とは、マハーヤーナ Mahāyāna の訳で、「大いなる乗り物」の意味です。
:
声聞・縁覚を二乗ともいいます。釈尊は、誰もが仏に成れると説いていたのに、二乗の仏教徒たちは、自分たちが成仏できるはずがないとして、阿羅漢(あらかん)の位・辟支仏の位を目指しました。辟支仏は、覚ってはいても、最高の覚りを得たわけではありません。成仏という目的を捨てているので、大乗仏教徒は、二乗は成仏不可だといいました。大乗仏教徒は、自らを菩薩と呼び、成仏を目指す者だと宣言しています。仏道のプロが、新興仏教の大乗に馬鹿にされたため、二乗の仏教徒は、大乗を伝統のない、でっちあげの仏教だといって攻撃しています。こうして、声聞・縁覚と菩薩は対立していました。
:
法華経では、この声聞・縁覚・菩薩を三乗だと呼んでいます。そして、三乗とは方便であって、仏は一仏乗を説くのだとおっしゃっています。一仏乗の修行者のことも菩薩というのでややこしいのですが、三乗の菩薩が二乗を差別したのに対し、一仏乗は差別をしません。
:
:
開三顕一(かいさんけんいち)
:
方便品では、三乗は一仏乗に導くための方便だと説いています。聞解を好む者には声聞乗を説き、思惟を好む者には縁覚乗を説き、修習を好む者には菩薩乗を説いてきたけれど、それらの教えは、ただ一仏乗へと導くための方便だというのです。これを天台宗は、開三顕一といっています。開とは「開除」、顕とは「顕示」のことです。とらわれの心を開除し、真実を顕示するので開顕といいます。開三顕一とは、三乗への執着を開除し、一仏乗を顕示することです。
:
法華経では、その当時の修行者のタイプから声聞・縁覚・菩薩という区別をしていますが、これは、「無量の方便を説いて妙法に導く」ということの譬喩です。よって、現代においては、宗派や教団に当てはめるのがいいと思います。日蓮系・禅系・浄土系の宗派があるけれど、それは方便であって、すべての教えは仏道だということです。
:
:
開三顕一
:
:

通報 ...