仏教のお話

Rの会:方便品第二(前半) / 1

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ダルマ太郎 2024/04/20 (土) 16:32:47 修正

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方便品の要点
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R論:この《方便品第二》は、《如来寿量品第十六》とともに、《法華経》の中心と言われています。なぜでしょうか。
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【第一の要点】は、釈尊は「人間は誰でも仏になれるのだ」という大宣言をなさったことです。すなわち〈一切の人間は一人のこらず仏性をそなえている〉ということを教えられたのです。そして〈仏の目的は、すべての人びとに、自分自身がそなえている仏性を自覚させることにほかならない〉ことをはじめて明かされたのです。
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【第二の要点】は、これまで様々な方法で人々を導いてきた教えは、すべて真実だったのです。教えを聞く人びとの機根の程度にふさわしい教えを説いて~ その人と環境と時代にふさわしい正しい手段をとることを〈方便〉というのですが~ 方便のようにみえても、それは真実の道なのです。「方便が方便だった」と明らかにされたとき、はじめてそれがとりもなおさず「真実の道」だということがハッキリしてくるわけです。その〈方便すなわち真実〉ということを言葉を尽くしてお説きになります。
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太郎論:「人間は誰でも仏になれるのだ」という説は、理解できますが、「一切の人間は一人のこらず仏性をそなえている」という説は違和感があります。仏性というものを私たちが持っているという意味に取られるかも知れません。そうなると、まるで仏性という実体が有るという感じになり、仏性に執着する結果になってしまうでしょう。実際にRの会の人と話すと、私たちは、仏性という仏と同じ心を持っている、と言います。釈尊は、無我を説き、無常を説いて、一切の執着から離れさせようとしたのですから、仏性を実体として観ることは仏教に反します。仏性とは、「成仏の可能性」という意味でとらえたほうがいいのではないでしょうか。「人間は誰でも仏になれるのだ」という説の方が執着をつくりません。
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「その人と環境と時代にふさわしい正しい手段をとることを方便というのです」というのは、方便の意味が違うように思えます。方便とは、真理へと導く方法です。最高の真理(妙法)は言葉では表せませんが、言葉でしか導くことができないので、方便を用いたのです。
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方便品の要点
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