仏教のお話

仏教随感 / 12

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ダルマ太郎 2024/05/23 (木) 21:55:51

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勉強会
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もう、ずいぶん前のことです。私の友人に、ある仏教系の新興宗教教団の青年部幹部がいて、その人に誘われ、私もよくその会の勉強会に参加しました。勧誘をしないという条件です。参加者は、平均して10名ほどで、半年ほど通いました。男女半々でした。その勉強会の中で、縁起・無我・無常・苦・涅槃・四諦・八正道・六波羅蜜などの教義を学びました。講師は、教務員という役目の人でした。

最初の勉強会のテーマは縁起でした。その会では、「縁起とは因縁果報」だと教えていました。すごい違和感を感じましたが、何にひっかかっているのかは、当時の私には分かりませんでした。「因は直接的原因。縁は間接的原因。因縁が和合して結果となり、そのことが他に影響を与える、それを報という」と説いていました。そういう解釈は聞いたことが無かったので、違和感を感じたのでしょう。

今だと分かるのですが、縁起とは、「縁って起こる」という意味です。なので、「因縁が和合して結果が生じる」というのは合っていますが報は入りません。報が入ると業報の思想になりますので、基本的な縁起とは異なります。報が入っているために、その会の会員は縁起の教えが分からなかったようです。これは問題ですよね。

その後の無我や無常なども、仏教用語辞典の内容とは違っていました。なぜ、違う解釈をするのでしょう? 不思議です。この会では、独自の解釈をするのが良いことだと思っているのでしょうか? 最も基本的な無我・無常・縁起の教義が異なれば、全体的な教義にも影響します。初期仏教を基本編、大乗仏教を応用編だとみれば、初期仏教の教義を独自の解釈で教えれば、大乗仏教の教義は理解できないと思います。理解できても、それは本来の意味とは違いますから、他の教団と話しても通じないでしょう。

仏教教団を名乗っているのなら、仏教用語については独自の解釈をせず、伝統的な意味で解釈したほうがいいです。独自の解釈の方が正しいと思っているのでしょうが、伝統的な意味の方が正しいと思います。人々の幸せを望むのであれば、勝手な解釈はつつしむべきでしょう。
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勉強会
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