仏教のお話

般若心経 / 9

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ダルマ太郎 2024/05/18 (土) 22:16:42 修正

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摩訶般若波羅蜜経奉鉢品第二の解釈
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舎利弗が釈尊に、「菩薩摩訶薩は、どのようにして智慧の完成の行を行じるのですか?」と質問をします。菩薩とは、菩提(覚り)を求める人のこと、摩訶薩は、大いなる人ということです。大乗の菩薩のことです。

その質問に対し、釈尊が答えました。
「菩薩摩訶薩が智慧の完成の行を行じる時、菩薩を見てはいけません。また、菩薩という字を見てはいけません。智慧の完成を見てはいけません。また、私は智慧の完成の行を行じていると見てはいけません。また、私は智慧の完成の行を行じていないと見てはいけません。なぜならば、菩薩・菩薩という字の性は、空だからです」

このように、釈尊は、菩薩が智慧の完成の修行をするのなら、菩薩を見ず、菩薩という字を見ず、智慧の完成を見ず、智慧の完成のための修行をしていると見ず、智慧の完成のための修行をしていないと、見てはいけないといいます。なぜなら、それらは、すべて空だからです。すべては空なのですが、人々は名があると、それには実体が有ると思ってしまいます。リンゴという名があれば、リンゴというものが有ると思ってしまいます。しかし、リンゴというのは、人がそのように名付けただけですから、それにはリンゴという名はありません。名が有ることで、実体が有ると思い込むことを釈尊は指摘しているわけです。言葉への不信は、仏教での大きなテーマの一つです。

「空においては、事物現象は無く、感受作用・想起作用・意志作用・認識作用はありません。事物現象を離れて空は無く、感受作用・想起作用・意志作用・認識作用を離れて空はありません」。普通の人は、空を通してものを見ませんが、ここでは、空を通して観察した場合を説いています。空を通して観れば、物質現象はありません。因縁によって仮に有る世界は、鏡に映った像のようなものですから、実体を見ることはできません。脳に仮設された世界は、テレビに映った世界のようなものですから、実体は無いのです。カメラが追う世界は実像ですが、それを私たちは感受できません。私たちは、鏡に映った世界、テレビに映った世界を見ていますので、そこに事物現象はありません。感受作用・想起作用・意志作用・認識作用も同様です。また、事物現象を観察することで空を知ることができますから、事物現象と空は離れていません。現象は空によって有り、空は現象によって有ります。
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「事物現象、それは空であり、空、それは事物現象です。感受作用・想起作用・意志作用・認識作用は、即ち空であり、空は、即ち認識作用です。なぜならば、舎利弗よ。ただ名と字が有るから、菩提というのです。ただ名と字が有るから菩薩というのです。ただ名と字が有るから空というのです」。

事物現象だと思って見ているものは、実は自分の脳で仮設された世界ですので空です。実体は有りません。実体がないものが、私たちにとっての事物現象です。感受作用・想起作用・意志作用・認識作用も同様です。実体の無いものが認識作用です。なぜなら、実体が無くても、名称と字が有るから、菩提というのであり、菩薩というのであり、空と言います。
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「そのことが、何故言えるのかというと、諸々の真実の性は、生じることが無く、滅することが無く、垢が無く、浄くはありません。そのことから、菩薩摩訶薩は、このように行じて、生を見ず、滅を見ず、垢を見ず、浄を見ません。なぜならば、名と字は因縁が和合することによって作られるからです」。

事物現象の真実の本性は、生じず、滅せず、垢が無く、浄くはありません。あらゆる特徴はありません。特徴とは、他との比較によってあるのですから、そのものだけでは、特徴は無いのです。特徴が無いので、菩薩は、生を見ず、滅を見ず、垢を見ず、浄を見ません。名称と字は、因縁和合によって作られるのですから、実体は有りません。実体が無いものが、生滅することはありえません。
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「ただ、分けてみて、推測して想像することによって、仮に名を用いて説きます。これによって、菩薩摩訶薩は、智慧の完成の行を行じる時は、一切の名と字を見ず、見ないことによって執着しません」。

人が名称を付ける時、まわりとそれを分けます。ここに幾つかの果物が有る場合、それぞれの形や大きさ、色や香りで分類し、同じ種類のものに、リンゴ・バナナ・ミカンというように名をつけます。そして、まわりの人たちとの合意によって、広く使うことになります。このように名称は仮なのですから、菩薩が智慧の完成の修行をする時は、一切の名称と字を見ず、見ないことによって執着しないようにします。
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摩訶般若波羅蜜経奉鉢品第二の解釈
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