仏教のお話

般若心経 / 8

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ダルマ太郎 2024/05/18 (土) 17:38:19

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色即是空・空即是色について
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色とは、ルーパ rūpa の訳です。「物質・形・色」の意味です。初期仏教では、肉体の意味で使われていましたが、部派仏教時代に物質的現象の意味で使われるようになりました。大乗仏教でも、物質的現象の意味で用いられます。

空とは、シューニャター śūnyatā の訳です。「欠如」という意味です。空瓶といえば、中身の入っていない瓶のこと、空席とは、誰も坐っていない席というように、あるべきものが欠如している状態を空といいます。大乗仏教になると、欠如しているのは、自性だとされました。自性とは、個の原理であり、主体であり、実体のことです。

色即是空は、「物質的現象、それは空である」と訳されます。つまり、すべての物質的現象には実体が無いという意味です。空をエネルギーのこと、霊界のこと、眼に見えないこと、などと解釈する人がいますが、いずれも空の意味から外れています。知恵袋などのネットでは、確信を持ってそのように説く人がいますが、それは空の意味ではありません。

物質的現象は、因縁和合によって生じます。決して、それだけの力で生じるのではなく、他の力だけで生じるのではありません。多くの因縁が和合することによって有るのですから、個々の物事には実体は無く、因縁の結果として生じている物事にも実体は有りません。もし、個々に実体が有るのなら、木は木のままですので、それを加工することはできません。実体が無いので、椅子や机や台などに加工できますが、ずっと木のままなら、それを加工できません。実体が有るのなら、種は種のままですから、発芽しないし、花が咲くこともありません。赤ちゃんは、いつまでも赤ちゃんのままです。実体が有れば、自然現象は、何の変化もなくなってしまいます。

色とは、五蘊の一つです。五蘊とは、世界を構成する五つの要素のことです。それは、色受想行識であり、物質的現象・感受作用・想起作用・意志作用・認識作用のことです。たとえば、そこにリンゴが有り、それを見て、リンゴだと想起し、食べたいと思えば、それをリンゴだと認識します。色が認識の対象であり、受想行識は心の働きです。世界を構成する五つのうち、四つが心だというのは仏教らしいですね。これは、仏教では、世界というのは、認識されてはじめて存在すると見るからです。たとえ、リンゴがそこに有っても、見なければ認識されませんので、無いのと同じです。

五蘊が縁起することで、私たちは世界を認識します。物質的現象を感受し、想起し、意志を持つことで認識作用が起こります。五蘊が縁起しなければ認識できません。因縁によるもの、それは空であり、仮であり、中だと龍樹は論じました。五蘊は縁起ですので、それぞれの要素は空です。よって、物質的現象は空であり、感受作用・想起作用・意志作用・認識作用は空です。このことからも、色即是空だといえます。また、受想行識即是空だといえます。

ところで、私たちは、はたして外部のものをあるがままに感受しているのでしょうか? 答えは否です。あるがままに感受できる機能を持っていないので、外部をあるがままに感受することはできません。眼は、光を感受し、それを信号にして脳に送り、脳で仮設しています。そして、その仮設した世界を私たちは事実だと思い、それを感受し、想起し、意志を持ち、認識しています。つまり、私たちが認識しているのは、仮の世界であって事実ではありません。よって、色即是仮だといえます。また、受想行識即是仮だといえます。このように、五蘊のすべては、心によって構成されています。

仏教では、あるがままの世界を真実だと言います。五感によっては真実を見ることはできません。真実を見ることができるのは、智慧のはたらきによります。智慧は、煩悩によって塞がっているために、まずは、煩悩を滅することが必要です。そのために八正道や六波羅蜜という行が重視されます。大乗仏教では、六波羅蜜の行が特に勧められます。六波羅蜜の六番目にある智慧を完成させること、つまり般若波羅蜜によって真実を観察できるからです。

色即是空を理解するためには、智慧が必要です。世界が仮であり、空であると知るには、一般的な知識や思考では無理です。瞑想に入り、深く思惟しなければ分かりません。一般人がいきなり瞑想をしても、雑念ばかりが沸き起こり、精神統一ができません。よって、瞑想に入る準備として、善行を為し(布施)、悪行を為さず(持戒)、心を浄化させます(忍辱)。つまり、六波羅蜜の実践が大事です。

色即是空は、比較的分かりやすいけれど、空即是色は難解です。意味は、「空、それは物質的現象である」と言われてもピンときません。どういう意味なのでしょう? このことは、般若心経だけを読んでも分かりません。二万五千頌般若経などの般若経を勉強する必要があります。八千頌般若経・金剛般若経でもいいです。

般若経には、「菩薩は菩薩ではない。よって菩薩という」というような意味不明な文がよく出てきます。これは、「菩薩には菩薩という固定した名は無い。よって、菩薩という名を仮につけることができる」ということです。名称のすべては、人類が仮に名付けたのですから、もともと事象には名称はありません。しかし、人は名があるために、そこに実体を見てしまい、執着します。すべては空なのですから、名は無く、字は無いので、執着の対象はありません。

空即是色というのは、一切が空だから、因縁和合が可能であって、仮に物質的現象をつくることが可能だということです。つまり、空即是色は、空の作用について述べています。
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色即是空・空即是色について
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