仏教のお話

般若心経 / 11

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ダルマ太郎 2024/05/19 (日) 16:28:20 修正

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摩訶般若波羅蜜経習応品第三の解釈
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摩訶般若波羅蜜経で、「色即是空。空即是色」という言葉は、五回出てきます。一回目は、奉鉢品第二で、二回目は、習応品第三です。今回は、習応品第三の解釈をします。
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「舎利弗よ。空においては、物質的現象はありません。感受作用・想起作用・意志作用・認識作用もまた、空においては、ありません」。

空という思想を土台にして観れば、物質的現象は否定されます。実体が無いのですから、それをそれとして観ることができません。つまり、物質的現象は無いということになります。空なる世界とは、仮設世界のことです。私たちが感受しているのは、実際の世界ではなく、脳内に仮設された世界です。仮設された世界には、実体は有りません。よって空なる世界です。言い方を変えれば、それは概念の世界です。言葉だけがあり、実体の無い世界です。感受作用・想起作用・意志作用・認識作用についても、空においては実体が有りません。
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「舎利弗よ。物質的現象は、空なので、傷つけることはありません。感受作用は空なので、感受することはありません。想起作用は、空なので、知ることがありません。意志作用は、空なので、作ることはありません。認識作用は、空なので、覚ることはありません」。

仮設された世界において、物質的現象には実体が無いために、実際に人を傷つけることはありません。何かの役に立ったり、邪魔をすることはありません。そういう働きは、脳内で作り出しています。感受作用は感受しないし、想起作用は想起せず、意志作用は意志はなく、認識作用は認識しません。空においては、色受想行識はありません。
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「なぜならば、舎利弗よ。物質的現象は空と異ならないし、空は物質的現象と異ならないからです。物質的現象は、即ち空であり、空は、即ち物質的現象だからです。感受作用・想起作用・意志作用・認識作用についても同様です」。

物質的現象は、仮設世界と異ならないし、仮設世界は、物質的現象と異なりません。物質的現象は、即ち仮設世界だし、私たちにとっては仮設世界は、即ち物質的現象です。感受作用・想起作用・意志作用・認識作用についても同じです。
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「舎利弗よ。このように諸法は空であり、無相なので、生じることは無く、滅することは無く、垢は無く、浄いことは無く、増えることはなく、減ることはありません」。

私たちにとっての世界は仮設世界です。なので、そこは空であり、無相です。無相とは、特徴が無いことです。概念の世界には、実体は無いし、特徴はありません。よって、生滅・垢浄・増減ということはありません。そのような認識があるだけです。
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「この空においては、過去は否定され、未来は否定され、現在は否定されます」。

時間もまた概念です。過去は、過ぎ去っていますから実在しないし、未来は、未だ来ていませんから実在しません。現在は、現に在ると書きますが、今という瞬間をとらえることはできません。とらえたと思っても、思った瞬間に過去になるからです。空間もまた概念です。時空には実体は有りません。
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「このことから、空においては、物質的現象は無く、感受作用・想起作用・意志作用・認識作用はありません。眼・耳・鼻・舌・身・意という六根は無く、色・音・香・味・触・現象という六根の対象は無く、眼界・耳界・鼻界・舌界・身界・意識界はありません」。

五蘊・十二処・十八界とは、部派仏教の説一切有部における一切法のことです。つまり、説一切有部の教義です。人は、名称があると実体視しますが、それが教義だと、さらにその傾向は強くなります。説一切有部は、法有を説いていますので、法を実体視することを否定していません。大乗経典の般若経典では、これを否定しています。実体視すれば、執着につながりますから否定するのです。

この文は、般若心経にも出てきます。これを読んで、大乗は説一切有部を否定している、という方がいます。確かにその通りですが、単にそれだけではなく、言葉による実体視を指摘しています。
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「また、無明は無いし、無明を滅尽することもありません。また、老死は無いし、老死を滅尽することもありません。四諦の法門で説かれるところの、苦諦・集諦・滅諦・道諦は無いし、また智は無いし、また智を得ることもありません」。

ここでは、十二因縁と四諦の法門を否定しています。初期仏教の重要な教義ですが、空においては、それらも言葉だけが有るのであって実体は無いといいます。智慧も無いし、智慧を得ることもありません。
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「また、須陀洹はおらず、須陀洹という果はありません。斯陀含はおらず、斯陀含という果はありません。阿那含はおらず、阿那含という果はありません。阿羅漢はおらず、阿羅漢という果はありません。縁覚はおらず、辟支仏の道というものはありません。仏はおらず、仏道はありません」。

須陀洹・斯陀含・阿那含・阿羅漢とは、声聞における覚りの階位のことです。辟支仏・仏陀というのは、覚者の位です。空においては、そのような位もありません。
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「舎利弗よ。菩薩は、このように習応します。これを智慧の完成と相応すると名付けます」。

習応とは、繰り返し学び、応答することです。菩薩は、一切法は空なので、名称にとらわれず、言葉・概念にとらわれません。このことが、智慧の完成と心が一致します。
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摩訶般若波羅蜜経習応品第三の解釈
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